【七】白く、淡く/真皓と淡音


   一

 結局、眠ることは出来ずに朝を迎えた。
 この先に待っている僕自身の結末を考えると、どうしても寝る気にはなれなかった。
 ベッドから起きて時計の時刻を確認する。針は四時前を指し示している。日はまだ出てはいない。窓の先の景色は、僕が見ている世界は未だ黒い陰で覆われていた。
 僕はベッドから出て、向かいの窓に掛けられた制服を手に取る。糊のきいた白シャツと黒いズボン、一箇所だけ穴の歪んだベルトに靴下。
 僕は無言でシャツに袖を通し、教科書の詰まった鞄を肩に提げ、充電の終わった携帯電話をポケットに滑りこませて部屋を出た。まだ誰も起きていない。あと一時間もすれば母さんが朝食の準備に起き出すに違いない。
 できることなら、家族に会う前に家を出たかった。正直なところ、一睡も出来ずに朝を迎えたことは、ある意味では都合がとても良かった。
 一階に降りてリビングに足を踏み入れ、キッチン奥に置かれた冷蔵庫を開ける。吐出された冷気が僕の肌を一瞬撫でて消えた。残ったのは微弱な振動が生み出す低音だけだった。僕は牛乳を取り出して、グラスに注ぎ入れた。
 キッチンからリビング奥のソファに移り、ローテーブルに置かれたリモコンを拾って向かいのテレビの電源ボタンを押した。
 ニュース番組は今日も相変わらず際限なく続く事件のうちのひと掬いだけを紹介していた。化粧で顔色を整えた女性キャスターが、淡々とした口調で出来事を次から次へと並べている。
 痴情の縺れによる殺人事件。
 深夜のコンビニ強盗。
 いじめを苦に校舎から飛び降りた女子高生。
 幸せな報道なんて、一つも無かった。
 誰かが結婚したとか、百歳を迎えたとか、どんなことでもいい。明るくて気持ちの良いニュースを報道して欲しかった。
 ソファに腰をどっかりと落とし、牛乳を一息に飲み込むと、行こう、と僕は小さな声で呟く。
 出発しよう。彼女が待っている。
 その時、リビングの扉が開いた。
 驚いて視線をそちらに向けると、まだ寝ぼけ眼の姉、朱色がこちらを覗いていた。
 僕は簡単に挨拶を済ませると、テレビに目を向ける。寝間着姿の姉は冷蔵庫を開けている。行くべきだと思って、ソファから立ち上がろうとしたが、朱色はテーブルにコップをもう一つ置いた。隣に座った彼女は既にコップを一つ持っている。オレンジジュースの入ったコップを。
「何かあったの?」
 姉はテレビに目を向けたまま淡々とした口調で僕に問い掛ける。何故か、と聞くと彼女は目が赤いからと答えた。
 暫くどう答えようか考えて、でも何も出てこなくて僕は黙ったままテレビに目を向ける。本当に何もないのか、と繰り返す彼女にも無言を貫いていると、姉は問い掛けるのを辞めた。
 姉にならもう話して良いのかもしれない。そう思った僕を止めたのは、僕が愛した彼女の笑顔だった。
 誰かの視線が苦手で、でも必死に自分を作って強がっていた人。僕と関係を作っても出来る限り誰にも見られたくないと強く願っていて、僕はそれを了承し、隠れて愛し合った。
 孤独を望みながら、孤独に怯え、それ故に逃げ場を失い彷徨う彼女は美しくて、そしてそんな儚い美しさを守りたいと思ったのだ。
 僕は姉の横顔をちらりと見る。オレンジジュースを片手にまだ眠そうな目を開いてテレビを見つめている。
 恋人とは違う強くて凛とした美しさのある人だと僕は思っていた。
 僕ら姉弟は容姿が、特に目元がよく似ていると言われていた。じっと見つめたり、目を細めるだけで不機嫌そうに見られる所まで似ている。
 でも、それでも姉の方がずっと綺麗で、容量が良い。時々姉になりたいと思ったことだってあった。
 ふと、先日の真崎葵さんの奥さんの葬式を思い出す。何故こんな時に思い出したのかよく分からなかったけれど、なんだか今ならあの喪失感を共有できる気がした。僕のこの決断が先延ばしできたなら、真崎葵さんに直接色々聞きたかった。
 例えば、涙を流すことがちゃんとできたのか、とか。
 僕はもう一度横目に彼女の顔を見る。
 姉といる時間は息苦しく無いし、自然に振舞っていられる。この姉弟という丁度いい距離感が僕にとって居心地が良いのかもしれない。
 そんな信頼出来る家族の傍にいるせいだろうか、僕は今、決意を揺らがせていた。本当にこのままの終わり方が良いのだろうか。他にもっと、何かあるのではないか。そう思えてならない。
 僕は首を大きく振って、それから沈黙を自ら破る。
「真崎葵さんだっけ、あの人は全然泣いてなかったよね。あれはどうしてなんだろう」
 朱色は変わらずテレビの方を見続けながら、飲み終わったコップをテーブルに置いた。
「そんなの、私に分かるわけないじゃない」
 多分、そう答えるだろうと思っていた。だから、僕は続けて彼女に問い掛ける。
「もしも自分が同じ状況に立ったら、自分の親しい人間が死んだら、姉ちゃんは泣ける?」
「突然どうしたの」
 姉の視線が、僕に向いた。突然何を言い出すのだと、きついつり目がそう言っていた。僕はその目に怯まず、一呼吸置いてから、姉に向かって笑いかける。
「俺が死んだら、姉ちゃんは泣いてくれる?」


 途端に、目の前が真っ白になった。ぴしゃりと音がして、目の前がチャンネルでも変えるみたいになって、それから遅れて頬が滲みるように熱くなった。
 多分、その一発が決意になったのだと思う。僕を衝動的に叩いて、自分でも驚く姉を見て、次に打たれた頬に手を当てて目を閉じると、心の中でよし、と呟いた。
 それから鞄を手に取って玄関へと向かう。呆然とする姉の横を通り過ぎた時、少しだけ胸が傷んだけれど、決意はもう揺らぐことはなかった。
「馬鹿なこと、言わないで」
 その一言に、僕は思わず振り返ってしまった。出て行くべきだと、これ以上いるわけにはいかないと、そう思っていたのに、姉の思いもよらない言葉に当惑し、足を止めてしまった。
 姉はリビングから身を乗り出した状態で、寂しげな表情のまま僕をじっと見つめていた。引き止められない、けれど引き止めたい。そんな感情を掬い取ることが出来たのは、彼女の弟として僕が生きてきた結果なのだろうか。
「死ぬなんて、冗談でも言うな」
 今、僕が戻って手を伸ばせば、また別の道があるのかもしれない。それは僕が生きている道なのかもしれない。
 でも僕はその選択をしなかった。
 姉の口にした言葉を背中に受けながら、扉を開けた。青白い光と早朝の涼しい風を受けながら、僕は息を思い切り吸い込むと、ただ一言、後ろに恐らくまだいる一人の女性に向けて口にした。
「いってきます」
「……うん」
 扉を閉めて、今度こそ僕は戻る道がもう無くなってしまった事を自覚する。帰ったら姉に謝るべきと思いながら、その機会はもう無いことが少し悲しかった。
 僕は前を向いて、彼女の姿を脳裏に浮かべる。
 寂しがりで、怖がりで、人と繋がり合う事に怯える小さな少女、籘紅淡音の姿を。

   ○

 彼女は、誰かと繋がることに酷く怯えを抱いていた。
 家族を亡くし、親戚を転々とした末に落ち着いたのが一人暮らしという彼女の生活は、僕の目から見ても随分なものに映った。
 だからだろうか、僕は彼女が纏う非日常感、一人であるが故に強く在ろうとする彼女の立ち振舞に、憧れたのかもしれない。
 それが告げると、隣に座る藤紅はふふと笑う。
「それで、思わず私に声をかけたの?」
「それだけじゃないよ、とても綺麗だったのもある。僕だって男だから、下心がないわけではないし」
 ふうん、と藤紅はどこか嬉そうに微笑むと、駅前の喫茶店で買った珈琲を口にする。小さな両手でカップを覆うようにして、ゆっくり、ゆっくりと飲み進めていく。その姿を眺めていると、彼女が視線に気付いて僕を見た。僕が慌てて目を逸らすと、彼女はまた笑った。
 僕達は公園の隅に置かれたみすぼらしいベンチに腰掛けていた。ビル街の奥に位置する誰のために造られたのか分からない小さな公園だ。時々通る男性も忙しそうに額をハンカチで拭いながら横切っていくだけで、公園に誰がいるかなんて見やしない。きっと余計なことが考えられないくらい忙しいのだろう。
 ここは二人の高校―彼女と僕はそれぞれ別の高校だ―から何駅も離れた場所で、遊び場も何もない。あるのは昼間は寂れている商店街とビルだけで、学生なんて寄り付きもしない。
 だからこそ、僕らにとっては好都合だった。
「珈琲とか、そういった飲み物は苦手?」
「甘いものが好きなんだ」
 そう言ってそばの自販機で買ったサイダーのボトルを揺らすと、彼女は一口、と言って僕の手から奪い取った。。
「甘ったるい」
 一口飲んで彼女はそう言った。
「ジュースだからね」
「でも、こっちの方が好きだわ」
「じゃあ、どうしてわざわざ珈琲を飲むのさ」
 そう問いかけると、藤紅は暫く視線を宙に浮かべ、一度肩をすくめると僕の方に目を向けた。
「さあ、大人ぶりたいのかも」淡音はふふ、とからかうように笑う。
「珈琲を飲めると大人なの?」
「苦くて嫌なものが飲み込めるって思うと、大人になったような気がしちゃうの」
「無理して大人になる必要があったってこと?」
 そう尋ねると、藤紅は暫く困ったような顔をしてから、僕の肩に頭を乗せる。あまりにも突然で緊張する僕を横目に彼女は悪戯に笑うと、力を抜いて、と語りかけるように言った。
「家族がいないのは、話したよね?」
「聞いたね」僕は頷く。
「親戚の家でも居場所がなかったことも」
「聞いたよ」
「高校に入るか入らないかくらいの頃に、今の家を紹介されたの。それ以来、朝起きてから夜眠るまで、誰も傍にいない生活」
「寂しかった?」
「寂しかったわ。でもそれをはっきりと自覚したら潰れてしまうと思って必死に否定し続けてきたの。子供なりに一人で孤独に耐えるにはどうしたらいいのかを必死で考えた末に、出てきたのは『大人になる。強くならなくちゃ』ってことだった。単純よね」
 彼女はくすりと笑う。
「だからね、未だに私は貴方とどう接していいか正直分かっていないの」
 添えられた彼女の手をそっと握り締める。だが、彼女の手からほんの少しだけ拒絶のような硬さを感じて、思わず手を緩めてしまう。
「貴方は、ずっと私の傍にいてくれるかしら?」
 答えるべき言葉は決まっていた筈なのに、僕はその時決めていた返答を彼女に返すことが出来なかった。
 彼女がもがいた末に行き着いた場所に、正直僕自身が、当たり前の日常で過ごし続けてきた一人の男子生徒が踏み込んでいいものだろうか。そんな不安が頭を過ぎって、臆病風に吹かれたんだと思う。
 言葉をどこかに置いてきてしまったみたいに黙りこむ僕を見て、藤紅は日陰で咲く花みたいに儚い笑顔を作ってみせた。
「今、君を裏切ったのかな」
 藤紅を見つめたままそう問いかけると、彼女は静かに首を横に振り、手を僕の膝に置いた。
「でも、まだ好きでいてくれているのでしょう?」
 そう言って微笑む彼女の瞳は、何よりも素敵で、水の底から光を見つめるみたいに輝いて見えた。
 僕達は何かを急ぎ過ぎている気がした。
 何度もデートをして、会話をして、受け入れる準備が整ってから互いを許し合う。それが普通の出会いなのだとしたら、恐らくこれは普通ではない。出会って少ししか経っていない中で、僕達は互いに結びつき合うことを選んだのだから。
 でも、きっと僕と藤紅にそんな普通は通用しない。いや、正確に言えば藤紅には。
 彼女の肩に手を回して抱き寄せる。手を握った時みたいな拒絶はまるで無かった。藤紅は黙って僕のことをじっと見つめている。きっと僕が何をするつもりなのかも、お見通しなのだろう。
「いいかな」
 答えは聞かずに、残った手で彼女の顎をそっと引くと唇を重ねる。グロスの塗られた薄くて、けれど柔らかな唇の感触を味わいながら、僕はそっと目を閉じた。奥から漏れ出る吐息を感じる。とても落ち着いていて、けれど少しだけ熱を持った吐息に、酷く安心している自分がいた。
 たった数秒、けれど随分と遠くまで来てしまったみたいに感じられた口付けを終えて、僕は彼女から離れる。ほんのりと頬を染めた藤紅は薄目を開けていて、乱れた髪を掻き上げると後ろに流す。じんわりと赤みのさす首筋が黒髪の先から見えて、鼓動が早くなるのを感じた。
「俺は、君の傍にいたいよ」
 口付けが、僕と彼女との距離を更に明確にした事を感じた。
 藤紅は目を細めたまま僕の頬を撫でると、もう一度だけ唇を重ねる。
 たった一瞬の切なくて、けれど甘美なキスだった。
「私を、掬い上げてくれるの?」
「掬い上げる?」
「そう、掬い上げるの」
 藤紅は立ち上がると目の前でくるりと一回転してみせた。雪浪高校指定のスカートがふわりと浮き上がって独楽みたいに流れる。
「私はね、ずっと溺れている状態だから。いつかきっと息も吸い尽くして、苦しみながら死んでしまうと思うの」
 彼女の瞳の奥に見た光は、きっとこれだ。
「だから、早く私を引き上げて、私に酸素を頂戴」
 そう言って笑う彼女を、ビル陰が覆う。まるで光に拒絶されているみたいに、憧れるだけで触れることは許されないみたいに、彼女は日陰に落ちて、僕だけが陽光を浴びていた。
 彼女はもっと深く沈んでいくのだろう。酸素が無くなるまで、呼吸の仕方を忘れるくらい潜って、その先で眠ろうとしている。孤独さえ忘れてしまうほど真っ暗な奥底の海底で。
 立ち上がって、彼女の待つ日陰に一歩、足を踏み入れる。二歩、三歩と進む毎に不思議と足は軽くなった。日向に背を向けたまま彼女に歩み寄ると、後ろ手に組んだまま笑っている彼女を僕は抱き寄せる。
「分かった」
 そう耳元で囁くと、良かったと藤紅は僕の胸に顔を埋め、それから上目がちに僕を見上げると、またキスをした。驚く僕を見て彼女は更に嬉そうに笑うともう更に一度キスをする。
 まるで呼吸でもするみたいなそのやり取りの中で、僕はこの人を守りたいと思った。どれだけ莫大な時間が掛かったとしても、彼女をこの腕に抱き続けたかった。

   ○

 彼女の連絡が途絶えた。
 数日間まるで姿を現さなくなって、連絡も通じなくて、でも姉に彼女が高校に登校しているかどうかなんて聞けなくて不安になっていると、彼女の方から連絡が入った。ようやく連絡が取れたことに安心した。
 しばらくぶりの電話に呼ばれ、いつものビル街奥の公園に到着すると、夕闇の中で彼女は一人ブランコを漕いでいた。ぎい、ぎいと錆のこすれ合う音が響く中たった一人で。
「やっと来たね」
 そう声をかけられた時に感じたのは違和感だった。
 外見や言葉遣い、仕草から全て彼女と同じだったのだけれど、何故か僕の中で彼女のことを藤紅淡音と思うことが出来なかった。
「何か変わった」
 そう告げると、彼女は吐息を漏らすような笑みを零してから僕を「素敵な勘の持ち主だ」と言った。
「私が私でないことをちゃんと理解できるなんて、そうそう無いわ。つい最近一人、藤紅淡音の在り方に酷く共感した子がいたけど、結局彼女は私に違和感なんて感じていなかったし」
 藤紅ではないとは一体……。
 僕は目を細め、彼女の事を見つめる。
「君は、一体何なんだ?」
 彼女の瞳が妖しく光って、まるで獲物を一匹見つけたみたいに僕をじっと睨みつける。藤紅がしたことのない、惨忍で敵意に塗れた、酷く醜い表情だった。
「彼女は夢の中にいる」
「夢?」
「私はね、人の記憶が大好物なの。人間関係に怯え、コンプレックスに苛立ち、自分の思考と感情すらもバランスよく保てない不器用な人の記憶が、ね……」
 何を言っているのか理解できない。訝る僕を見て彼女は醜い表情で下品に笑った。
 気持ち悪い。
 藤紅淡音をそんな風に扱うなと言いたくて、けれど現在の状況に対する整理がどうにもいかなくて、結局僕はだんまりと決め込んだままそこに立ち尽くしていた。
 彼女―目の前の女性を藤紅淡音と認識したくない抵抗か、そう呼んでしまう―はそれから幾つもの非日常的な言葉を並べていった。自分は人の記憶を好物として生きる存在であること、普段は人前に姿を見せることはまず無いこと、記憶を食べれば食べるほどに人を知り、幸福を感じられること。
 そして、一度記憶を食べた人物を映し出せる事。
 即ち今目の前にいるのは、やり方はどうであれ彼女の記憶を全て喰い尽くしたが故に出来た藤紅淡音であって、実際の藤紅淡音はもう日常からは消え去ったと言うことだった。
 狙った理由は単純に親戚や周囲との関係も薄い事、そして何よりも、彼女達の好む「悲劇を宿した記憶」を持っていた事。
 そこまで説明されても、僕は一体どうすれば良いのか分からずにいた。
「もう、藤紅は戻っては来ないのか?」
 尋ねると、彼女は面倒くさそうに毛先をくるりと巻きながら頷く。
「藤紅淡音で居ることはできるけど、私も望まれた姿があるから」
「もう、彼女には会えない」
「そうなるわね」
 呆然と佇んだままの僕を見て、彼女は酷く嬉しそうな顔をして片足に体重を乗せたまま、パーカーのポケットに手を突っ込む。久しぶりに会えた動揺でよく見ていなかったけれど、グレーのパーカーにシャツとジャージという姿は、僕が今まで見たことのないようなラフな格好だった。
「どうして、最期の機会を俺に?」
 なによりも聞きたい事だ。目当ての人間を食えた―彼女のいう言葉を信じたとして―のならさっさと消えるべきだ。
 問いかけに対する答えは、至極単純なものだった。
「私の中で、藤紅淡音は眠っているの」
 自慢げに藤紅の名を口にする彼女が、気に食わない。
「お前の言葉通りだったら、もう藤紅は取り戻せないんだろう?」
「そう、その通り。食べた物をそのまま吐き戻すなんてそうそうできることじゃないし、私はこの記憶を酷く気に入っていて、手放したいとは思っていない」
 強く睨む僕を見て、彼女はどこか愉快そうに笑う。
「でも、貴方は藤紅淡音と一緒にいたいと思っている」
 彼女は一体僕に何を伝えようとしているのだろう。
 動揺を隠せずにいると、彼女はまた笑う。下品に顔を歪めながら。
「吐き出すことは出来ないけれど、入ることはできる」
「つまり?」
 彼女が言わんとしていることはなんとなく理解していた。
 だが、その方法を口に出す気にはなれなかった。
 言葉を止めた僕を見てもどかしそうに身を捩らせると、彼女は歩み寄り耳元でそっと囁いた。
「私の中に来ない?」
 それは、あまりにも身勝手な誘いだった。
 耳元で笑う彼女を突き飛ばすと、その上に馬乗りになり、パーカーの襟を掴んで引き寄せた。嘘が真かはともかく、僕が憧れた女性がこんな言葉を口にする筈が無い。ましてや誰かを簡単に受け入れようとする事なんてあり得ない。
 でなければ、あの時緊張で固まった手はなんだったのか。
 彼女は掬い上げて欲しいと言った筈だ。一緒に溺れて欲しいなんて言うはずが無い。
「君は、一体どうしたんだ」
 うまく思考が纏まらなくて、気の抜けた言葉しか口から出てこない。彼女はにやりと口元を歪ませた。
「だから、淡音はもう私の中に沈んでいるの。何もかもを放棄して、水底でずっと眠り続けていて、恐らく目を覚ますことは無いわ」
「水底って……」
 水面を揺らめきながら、穏やかな顔で眠る藤紅の姿を想像する。普段通りの表情で、境遇も孤独も繋がる恐怖も何もかもを忘れて、ただ好きなだけ眠っている。起きる必要も無いし、これ以上傷つくことも無いと安心しきって……。
 結局、僕は藤紅を掬い上げてやる事ができなかったのだろうか。どれだけ近づいた気になっても、結局彼女は絶望して、目の前の彼女の言う悲劇に溺れ続けることが苦しくなって、呼吸の仕方すら忘れて、やがて諦めて沈んでいったのだろうか。
「しばらく、考えさせて欲しい」
 咲村真皓という人間の至らなさが原因だったのか、藤紅淡音が既に限界を迎えていたのかは分からない。ただ、僕が彼女を救えなかったのは事実なのだろう。
「君の言っている事は理解の範疇を超えているし、君が藤紅淡音であって藤紅淡音では無いという状況もまだ飲み込みきれてないんだ。少しだけ、考える時間が欲しい」
 そう告げると、彼女は目を細め、僕の襟を掴むと強引にキスをした。暫く呆然としていたが、突然唇に走った痛みに思わず彼女を突き飛ばしてしまった。
 慌てて彼女から離れると口元に指を当ててみる。鈍い痛みと鉄の味がする。触れた指先が朱色に染まっている。
「待ってるわ」
 起き上がった彼女は後頭部を少しさすってから、なんでもない風に長い髪を手櫛で梳かすと、僕に向かってそう告げ、そして動揺を隠せない僕を見て愉快そうに笑うと、やがて姿を消してしまった。
 誰も居ない公園に一人立ち尽くし、突き付けられた事実を胸の内で何度も反芻する。
――もう、俺が憧れた藤紅淡音はどこにも居ない。

   ○

 ビンタは正直効いた。まだ感触の残る頬を擦りながら、すとん、と胸の内で何かが落ちていったのを感じる。
 藤紅の事を思い出している内に、僕は随分と歩いたみたいだ。
 見上げると水滴を垂らしたたように空が滲んで見えた。真っ青な空に波紋が広がって、薄暗くなっていく。恐らく、彼女が来たのだろう。僕が答えを出したことを嗅ぎ付けて、居てもたっても居られなくなったのだ。
 この際、不可思議な現象だとか、人の記憶を好むものだとか、そんなのは正直どうでも良かった。このまま深く沈んでいった先に、水底に本当に藤紅がいるのなら、それで十分だ。

――とぷん。

 瞬きをした一瞬の内に、僕は水中に沈み込んでいた。
 冷たくも暖かくもなく、全身を液体が侵していく感覚も無い。ただ揺らめき、沈んでいくだけの世界だった。
 僕はふと思い立って水面の方を見た。
 スパンコールみたいに光が水面越しに飛び込んで、放射状に差し込んでいる。それはまるで藤紅の瞳みたいだと思った。
 鞄を手放し、揺らめくネクタイを強引に解いて僕は水底へと泳いでいく。
 口を開く毎にごぼり、と音を立てて泡が浮上していった。粉々に砕けて小さくなって上に消えていく泡を横目にひたすらに泳いでいくと、やがて人々の群れを見つける。
 水底にいながら、誰一人として苦悶の表情を浮かべている者はいない。皆穏やかに眠っているように見えた。僕は更に水を掻き分けながら人の群れを観察し、たったひとりの少女の姿を探し続ける。
 やがて、僕は彼女の姿を見つけた。
 更に潜って彼女の傍まで泳ぐと、隣に滑り込む。
 乱れていた黒髪を直してやりながら、しかし目を覚ます様子の無い彼女を見ていると、悔しさと、寂しさと、悲しさの入り混じった不思議な感情がふつふつと湧き上がる。
 もう彼女と言葉を交わすことは出来ない。
 できるとすれば、隣で一緒に眠ってやることくらいだ。
 ――ごめん、俺はとても非力だ。
 言葉は泡になって再び浮上していった。砕け散っていく泡を見上げ、それから藤紅の頬を撫でると、僕はその唇にキスをする。冷たくもなく、暖かくもなく、何も感じない寂しい唇だった。
 僕は彼女の手を握り締め、真上を見た。飛び込んできた光が水によって揺れて形を変えていくのが分かる。濃紺に塗りつぶされた水底から見上げる景色は、とても綺麗に思えた。
 暫くして、僕は目を閉じる。
 眠くて、だるくて、体中の輪郭が無くなっていく。
 僕は押し寄せてくる睡魔の中で、ただ藤紅の右手に意識だけを使った。例え僕が僕でなくなっても、この手だけは決して離さないでおきたい。
「××××」
 大きな気泡とともに口にした言葉は、とうとう音にならないまま泡と共に浮上して消えていった。
 やがて、僕は液体の中に溶けた。不思議とその感覚は悪いように思えなくて、ああ、こんな終わりも有りなのかな、と思う。

 まあいいや、君の傍にいられるのなら、それで――



   ニ

 まず、私は謝らなくてはいけない。
 私を受け止めようとしてくれていた彼に対して。
 私は多分、もう貴方の傍に居ることも、あの公園で会うこともきっと出来ない。
 水中で仰向けのまま揺られながら、私はぼんやりと光を眺めていた。さっきまであの水の先にいたのに、今はもう随分遠い。手の届かない先で輝くそれは、純粋で、瑞々しくて、凛としていて、それが、とても美しくて、身体を照らす度にくすぐったいような、暖かいような、そんな安堵感を感じた。
 やがて終わる感覚を、この暖かい光で最後にできるのなら、それも悪くない終わり方なのかもしれない。

   ●

 気がついたら、私は孤独だった。

 お父さんもお母さんも私の目の前で殺された。襲ったのは黒い覆面を被った人で、手にした金属バットを振り回しながら部屋中を血に染め、金品を物色し、最後にふと思い出したみたいに私の下にやってきて、死よりも最低な行為をして去っていった。
 それから半年程してその強盗は、別の家宅を襲ったところを逮捕されたと聞いた。けど別に私の失ったものが戻ってくるわけでもないし、特に何も思わなかった。その後彼がどんな刑を受けたのかも知らない。死刑じゃかったとしても正直どうでも良かった。
 暫くは親戚の家を転々として、最終的に落ち着いたのが一人暮らしだった。誰も私の面倒を見ようなんて事は考えなかったし、何より親族の不幸とはいえ、できるのは同情までだったようだ。
 最後の親戚の家で、塞ぎ込んだまま誰とも接しようとしない私に、おじさんとおばさんが言った言葉が一番効いた。何よりその方が良かったと思う自分がとても悲しく感じられた。

『むしろあの時一緒に』

 周囲に悲劇のヒロイン扱いされ、しかし誰も救ってはくれない。誰も私を藤紅淡音として見てはくれない。
 結局繋がることは出来ないのだと悟ったし、だからこそ誰かに認められたくて、そんな二つの矛盾が苦しくて堪らなかった。

 一人暮らしはこれまでの中で一番快適だった。誰かの目を気にすることも無いし、隣人も面倒さえ無ければ挨拶程度で済ませられる。食事だって自分で作って一人で食べて、家事も自分の範囲でやればいい。久しぶりに呼吸ができた気がして、酷く落ちつけたのを覚えている。
 次の転入先、雪浪高校も他とまるで変わらない。いつもどおりの息苦しさを感じ、孤独なまま息を止めて苦しんで、家に帰ってきて息継ぎしてまた明日潜る準備をする。
 苦行でしかなかった。
 一人になると私はやっぱり父親や母親と一緒に『行っておくべきだった』と考えてしまう。あの強盗は何故事が済んでから首を絞めてくれなかったのだろう。
 そうすれば、こんな息苦しい想いしなくて済んだのに。
「お嬢さん、元気無さそうだね」
 声をかけられて振り返ると、一人の老人が立っていた。
 夕食の買い出しをしようと思って、丁度商店街を見つけたから適当に買って食べようと思って、それから先が思い出せない。考え事をしている中でも足だけはちゃんと動いていたみたいだ。
「そう、見えますか?」
 そんな風に言われたのは初めてだった。
 親戚の家にいる時にできるだけ笑顔で居た方が相手にマイナスを与えないで済む事を知ってから、他人に対して心の内を見透かされないように尽力してきたから、驚いた反面、少し嬉しかった。
 声をかけてきた老人は、顔や風貌は穏やかなのに、服がとても奇抜な色の組み合わせで、どちらかというとそちらの方が印象的だった。
「辛そうな顔しているよ。何かあったのかい?」
「何か、と言われると、その……」
 どう言えば良いのか分からなくて俯いていると、彼は私の手をそっと取った。
「良かったら、うちに来ないかい? 色々聞くくらいなら老人にもできるからね」
 そう言って彼は私の手を引いていく。半ば強引だったけれど、これまで誰かにそんなことを言われたことがなかったからか、初めて自分の存在が認めてもらえた気がして嬉しかった。

 彼は自宅に私を招くと夕食までご馳走してくれた。誰かとご飯を食べる機会なんて無かったから、いつもより美味しくて、そして心が暖まった。
 彼、桃村さんは私の話に親身に耳を傾けて、時には言葉を返してくれた。今までこんなに自分を曝け出すことなんて出来なくて、その反動か、内に溜め込んでいたものは全て吐き出してしまった。
「君は随分と頑張っているようだね」
「頑張る、ですか?」
 話し終えた私に、桃村さんはそう告げた。
「誰かと繋がる事なんてそう出来ない。むしろ出来ていない人を数える方が早いくらいだろうさ。誰だって何かを隠して触れ合う事を『当たり前』に生きているからね。だから、そうしてちゃんと自分の奥底まで触れてくれる、触れることの出来る相手を必死に探している君は、きっと誰よりも頑張っているんだ」
 頑張っている……。
 そんな風に考えたことは無かった。でも、そうやって肯定的に捉えてくれる事がとても嬉しかった。
「なんで、私にこんな良くしてくれるんです?」
 そう尋ねると、桃村さんは暫く考えてから、「似ていたんだ」とぽつり漏らした。
「誰にです?」
「娘にね」
 彼は遠くを見つめながらそう言った。
 今この家には居ないみたいだけど、どうしたのだろう。嫁いで行ってしまったのかなと思いつつ、何か物思いに耽る彼には尋ねづらくて、結局口をつぐんだままだった。
「本当によく出来た娘で、私の自慢だった」
「素敵な方だったんですね」
「だからかな、そっくりな君が哀しそうな顔をしていて、声をかけたくなってしまった」
 桃村さんは申し訳なさそうに微笑んだ。私を見ていたわけではなくて、私に娘さんの影を見ていただけだったのか。そう思うと少しだけ寂しい気持ちになったけれど、それでも私の話を親身になって聞いてくれた事実は、変わらない。
「また、お邪魔してもいいですか?」
「ああ、おいで。雪浪生はこの通りを嫌うから、若い子なんてまるで来ない。お客さんは大歓迎だ」
 そう言って微笑む彼に、私はとても感謝した。
 潰れそうだった私にとっては、有難い存在だった。決して全てを理解したわけじゃないけれど、不思議と居心地は悪くなかったし、どちらにせよ孤立したままの私にできた老いた友人は、とても貴重に感じられたのだ。

 アクアショップ桃村の看板を一度眺め、踵を返すと帰路に着いた。越してきて間もなくこんな出会いがあるなんて……。一人で暮らすことを提案したのは、良かったのかもしれない。
 商店街を抜けた先に見える校舎を眺めてみる。八時過ぎの校舎に灯りはなくて、通り道に等間隔に設置された街灯の白い光による影響下薄気味悪く見える。
 あの場所は、この先私を受け入れてくれるだろうか。
 けれど、もしかしたら私でも受け入れてくれるような人が、この場所にはまだいるかもしれない。そんな期待を膨らませてしまうのは、恐らく桃村さんの例があったからなのだろう。
 ふと空を見上げてみると、不思議な光景が空に広がっていた。
「……水の中にでもいるみたい」
 思わず口にしてしまった言葉の通り、夜景はまるで水鏡に映ったようだった。波紋が広がって、月や雲、星たちが揺れている。
 大きく息を吸ってから深く吐き出すと、息は泡になって吐き出された。ごぼりと音を立てて現れたそれに驚いていると、泡は空高く浮き上がり、やがてぱちんと割れて消え、途端に空も元の至って変わらない夜空へと姿を戻す。
 私は、幻でも見ていたのだろうか。
 けれど、とても綺麗な世界だった。今まで見ていたどんな景色よりも美しくて、魅力的で、このまま孤独であり続けるのなら、今見た世界へ連れて行って欲しいとさえ思った。
「なんてね」
 呟いてから、結局戻ってきてしまったこの世界の明日を考え、それから朝食はどうしようか考えながら、私は帰宅することにする。
 機会があれば、もう一度覗いてみたいと思いながら。


 結局雪浪高校は私の望むような場所に変わる様子は無かった。結局皆同じような姿で、自分にとって都合のいい壁を作ろうと必死で。私はその為の良い材料になりそうだから、声をかけられて、上辺だけの言葉をかけられて、やがて私の反応が薄いと彼ら彼女らは遠ざかっていってしまった。
 変わらない。結局私の馴染めるような場所なんてあり得ないのだと、やっと理解出来た気がして、むしろすっきりした。これでもう私は諦めることが出来る。
――何に?
――人に。
 会話も無い、誰かに認識されることも無い生活は、平凡だった。これが日常だと受け止めてしまえば、悪くないものであるようにさえ思えた。
 帰り際に桃村さんの場所に寄れば会話はできたし、暖かいご飯だって食べることが出来た。彼はいつ来ても私のことを受け入れてくれたし、どんな会話でも聞いてくれた。
 友達が出来たらいいねと彼は言ってくれたが、私は何も言い返すことができず、出されたお菓子を口にして誤魔化した。
 桃村さんはもうこの家に帰ってくる人はいないのだと言っていた。二階には決して上がらせてもらえなかったけど、多分居なくなった娘さんとか奥さんを思い出す物でも残っていて、それを誰かに見せたくないのかな、なんて事を思って、それ以上は口にしないようにした。
「君が本当の娘だったらどんなに嬉しいだろう」
 桃村さんの漏らした言葉が、正直なところ嬉しくて堪らなかった。そうだったら良かったのに、と返すと彼はとても嬉しそうな、けれどどこか寂しそうな、曖昧な笑みを浮かべて私を見ていた。
 多分、私と桃村さんの間に引かれたラインは、それなのだと思う。私は彼をお父さんとは呼べないし、彼も私を娘とは呼べない。どれだけ親子みたいな会話を交わせたとしても、それは単なるごまかしでしか無い。

  ●

 暫くして、二つの出会いが私にあった。
 つまらない授業をこなして、昼食の場所―普段から誰の邪魔も入らなそうな場所を探して食べていた―を探している内に、一人の女子生徒と出会った。一人お弁当の包みを見つめながら憂鬱そうにため息を吐き出していて、その姿が興味深くて、でも声をかけるまでには踏み込めなくて、時々彼女の事を見るようになった。
 若苗萌黄という名前を知って、どのクラスかもすぐに分かった。
 彼女は誰とでも付き合うことの出来る子で、周囲からの評判も悪くないみたいだった。色んな人から声をかけてもらえて、誰に対しても平等であろうとする姿勢は。とてもじゃないけれど私には出来ない事だ。
 何より、そんな気配りばかりしていて疲れはしないのだろうか。羨むと同時に、なんだか私には自分で自分を殺しているようにしか見えなくて、そんな感情が更に彼女に対する興味を私に抱かせた。
 あの日一人憂鬱な顔を浮かべていた彼女が、笑いながら周囲に溶け込んで生活している。彼女のそんな表と裏を垣間見たが故の興味なのだろうか。
 声をかけたいけれど、そんな事を言って彼女がどんな反応するかは目に見えている。
 思考を巡らせている内に、目の前に一人の男子生徒が立っていることにやっと気がついた。慌ててニ、三歩後退して彼を見上げた。つり目が特徴的な、整った顔立ちをした短髪の男子だ。制服の造りからして雪浪生では無い。この学校に何か用なのだろうか。
「すみません」
 衝突しそうになったことを謝って横を抜けようと思った時、左腕を掴まれた。驚いて振り返ると、彼も自分の行動に驚いているみたいで、手を離すと早口に何かを言っているようだった。
 いや、その、あの……。自分の行動の理由がうまくまとまらないみたいで、彼は目を宙に泳がせながら両手を恥ずかしそうにこすりあわせていた。
「あの、そう、少し気になってしまって、その、うまく言えないけど、どんな人なのかって……」
 つなげる気の無い言葉の羅列を聞いている内に、なんだかおかしくなって笑ってしまった。私の反応に彼は更に真赤になって俯いて、それからニ、三歩私から離れるように歩くと軽くお辞儀して踵を返してしまう。
「待って」私は続ける「お話しませんか」
 返ってきた言葉が予想に反していたのか、彼は酷く驚いた顔で踏み変えると、大きく頷いた。
 咲村真皓と名乗った彼は、名前に似合わない真赤な顔で喜んでいた。

   ●

 咲村くんといる時間が当たり前になるにつれて、桃村さんの家に行く機会が減りつつあることに、正直なところ負い目のようなものは感じていた。寂しがっていた私に初めて手を差し伸べてくれた人を放っておくのはいけない。
 咲村くんと深い仲になっても良いと思えた時、一番最初に桃村さんに言いたいと思っていた。だから彼には緘口令を敷いて、絶対に私との関係を漏らさないで欲しいと伝えていた。
 咲村くんは、私を一人にしないようにしてくれた。
 雪浪高校にいるお姉さんに偶然届け物をした時にたった一人の私を見て、直感で一人にさせたくないと思ったという。理知的な顔をしながら、私の前では会話も下手で、行動もどこか直線的で抜けた人だった。
 だからだろうか。私の為に一生懸命になってくれる異性を初めて見た事で私はすっかり彼に惹かれてしまった。あれほど関わりあいを怖がっていたのに、全く単純な女だと自分でも呆れてしまう。
 でも、理由とか根拠では説明できないことだ。私は彼の隣にいて普段通りの落ち着いた私でいられるし、彼も私の隣に居ることを苦としていない。そんな丁度いい関係を作れたのが初めてで、今後きっと無いと思えた。
 私は、咲村真皓が好きだ。

「×××××××××××××××××××××××××!」

 怒鳴り声と、頬に感じた突然の痛みで私は何が何だか分からなくなった。じりじりと灼けるように傷む頬に手をやりながら戸惑いの目を彼に向ける。
「男を作った? そんなはしたない女に育てた覚えは無い! 一体どんな男だ、言ってみろ! ぶっ殺してやる!」
 暴言の数々を重ねながら暴れまわるその怪物が、桃村さんであることが受け入れられない。顔の形が変わりそうなくらい歪んだ表情に、深くお腹の底にまで響き渡りそうな怒声。
――桃村さんは、どっち?
 逃げなくちゃと思うのに、どうしても足が動かない。怯えか、戸惑いか、どちらにせよ、この場から逃げ出して場を改めるという選択が出来ない事だけは理解できていた。この場でどうにか彼を鎮めるしか無い。
 けど、どうやって鎮めると言うのだろう。
 彼は怒鳴り散らしながら部屋中を散らかし、娘さんの名前を叫びながら「男を選びやがって」とか「俺を一人にする気か」とか、怒りに満ち満ちた言葉を垂れ流しにしていた。
 その中に、私の名前は無かった。それがとても残念だった。
 彼は私を私と認識してはいなかった。藤紅淡音を自分の娘と重ねて扱っていたのだと思う。だから、私の好きな人ができたという言葉を聞いて、スイッチが入ってしまったのだろう。
 娘さんが姿を消した理由が、私には分かった気がした。
「言え! どこのどいつだ!」
 迫る彼の前で、声はどうしても出せなかった。出ても呻くような震え声だけで、まともに喋ることなんてとてもじゃないけれど無理だった。
 だから、肯定の時は頷いて、否定の時は首を横に振ることにした。言葉では彼に届きそうに無かったから。私を藤紅淡音として認識させて落ち着かせるなんて解決方法はとうに捨てていた。
 桃村さんは血が出そうな程音を立てて頭を掻き毟るとその場に崩れ落ち、唱えるみたいに幾つもの言葉を並べ立てて呻き、床を殴り、額を擦りつけて泣き喚いた。
 私は直ぐ側でその光景をぼんやりと眺め、そのまま涙を流した。悲しいとか、怖いとか、そういったものじゃない。多分同情が私に涙を流させた。
 もしかしたら、本当に相手を必要としていたのは、依存していたのは彼の方だったのかもしれない。孤独だったのは、彼の方だったのかもしれない。

 暫くして、桃村さんの呻き声がぴたりと止まった。叩きつけていた拳は赤く滲んでとても痛そうで、それを私が眺めていると、その手が私の襟に伸びた。
「娘のごはんの時間だ」
 壊れたんだと、私は思った。そしてこの先の予想がまるで着かない事が怖くて堪らなかった。
 咲村くんは来ない。この場所を教えてすらいないし、彼は学校だって違うのだ。気が付くわけが無い。
 そして、どうしてか若苗萌黄の姿も思い出した。あの寂しそうな横顔の理由を聞けなかったことが、今自分の中で未練として残っているようで、やっぱり声をかけてみるべきだったと後悔した。
 桃村さんは私を強引に引きずると、二階に向かう階段を覗きこむと、にっこりと笑みを浮かべた。
「おうい、ごはんのじかんだ」
 はあい、と。どこか艶のある返事が返ってきた。
 階段の上から女性の声が聞こえた事に、私は酷く驚いた。これまで何度もこの場所には来ているけれど、そんな気配一度たりとも感じたことは無かった。
 ずるり。
 ずるり。
 ずるり。
 ずるり。
 強引に引き摺られながら二階を上がっていくと、左の部屋に私は放り込まれた。どこまでも強引な彼の扱いに咳き込みながら、部屋の奥に目を遣る。
「とってもいい匂いがするわ」
 何もない部屋に、座椅子が一つだけ。灯りも無い薄暗い場所に白い着物に身を包んだ女性が上品に座っていた。よく手入れの届いた長い黒髪は床まで届いていて、その奥から覗く白い肌はこの暗闇でも輝いて見えた。切れ目を入れたみたいな鋭い目が私を見て嬉そうに細められ、紅の引かれた唇に長い舌をそっと這わせてみせた。
 美しいけど、とても怖い女性だった。
 確かに私に似通った点はあるけれど、私では無い。彼が娘と呼ぶこれは、一体なんなのだろうか。
 白装束の女は立ち上がると、放り込まれた私の前までやってきて、そっと頬に触れた。きめ細やかな真っ白い手が私を撫で回す。
 冷たい。心まで凍ってしまいそうな手だ。
「貴方の事はよく聞かせて貰っているの。大変な人生だったのねえ」
 女は目の前に座り込むと、私をそっと抱きしめる。
「お話を聞いていた時から、ずっと貴方に興味を持っていたのよ」
 私は、目を閉じた。
 咲村くんに再会する事も、若苗さんに声をかける機会も、もう二度と無いと思うと、とても寂しかった。

「やっぱり、とっても良い匂いがするわあ」

 その言葉と共に、私は深く深く沈んでいった。



   三

 淡音は目を覚ました。心地よいうたた寝の後のように体と意識は気だるくて、ぬるま湯の中に浮遊しているようだった。
 同時に、意識の奥底に残る眠気が、再び自分を昏睡の水底へと引きこもうとしていることも感じた。この覚醒がイレギュラーであり、そして藤紅淡音としての最後の時間だと、彼女はなんとなく理解していた。
 彼女は隣で眠る咲村真皓の姿に視線を向けると、そっと微笑んで、そして眠る彼にキスをした。ついて来てほしくなかったけれど、ついて来てくれて、嬉しい。
 キスをされた彼は眉根を寄せて、身体をもぞもぞと動かすとやがて目を薄く開け、そして隣で微笑む淡音を見て、目を見開いた。
 淡音は信じられないといった風の真皓にもう一度キスをして、次に水底から水面を見上げ、そして少し先で漂う私をじっと見つめた。
 彼女は口を開くと、ぱくぱくと何か言葉を吐き出していた。どうしてか音は聞こえなかった。なのに、不思議とその「声」は「言葉」となって、私の胸の中にふわりと泡立つ。
『あなたと、ずっと話してみかった』
 永遠に続くまどろみが解けてしまったのは、あの魚が原因なのだろうか、それとも私が入り込んできたからなのだろうか。
 なんにせよ、私は今、やっと藤紅淡音を見つけることができた。
『若苗萌黄さん』
 頷くと、私は彼女みたいに口を動かしてみせる。
「聞いて欲しいの」
 彼女は頷く。
 ここから二人を連れ出すことは出来ない。こんな信じられないことだらけの不可思議な状況下なのに、どうしてかそれだけは理解できた。きっと私には淡音も、真皓さんも掬いあげることは出来ない。それは誰であっても、だ。彼女たちは、もうねむりひめの一部となってしまっているのだから。
 だから、せめて受け取ろうと思った。
 私の役目は、それだと思った。
「ありがとう」
 暫く、淡音はじっと私の事を見ていたが、やがて微笑んだ。
 ゆっくり瞼が降りていく。眠くて堪らないんだと私は理解した。彼女の感情が、私の中に泡になって入り込んでくる。もう、眠り続けたいのだと、彼女の心は言っていた。
 咲村真皓は、再び眠りについた隣の彼女を優しく抱き寄せて、それから私に言った。
『聞いてくれ』
 彼が続けて口にした言葉に私が頷くと、彼は安心したようで、淡音に寄り添うようにして彼もまた、再び眠ってしまった。
 水面の方に目を向けると、あの魚が泳ぎ回っていた。赤くて長い尾ヒレをはためかせながら、みどりは力強く私目掛けて潜航する。
 私は水を強く蹴った。溺れた時はすごく重く感じたのに、水の感触がとても軽くなっていて、私の身体は勢い良く浮上していく。そんな私を魚は途中で咥えると、更に速度を上げて泳ぎ始める。
 二人が遠くなっていく。
 寂しさとか、同情は感じなかった。
 二人は自分達の居るべきところを見つけたから、あの場所にいる。
 淡音も、一人ではなくて、一緒に居てくれる人がやっと見つかったから、あの場所で再び眠ることを決めた。
 そう思うと、こうなってしまった二人が、少しだけ、羨ましく思えた。
 私も、ちゃんと私にならなくちゃいけない。
 そう思うと、途端に絵美に会いたくて仕方がなくなった。
 そうだ、明日学校で会った時は、もっと色んな話をしよう。休日に出かける約束をしたっていいかもしれない。彼女の部活にお邪魔して、絵を描いている姿も見てみたい。
 若苗萌黄を、ちゃんと知ってもらって、好きになって貰いたい。
 そう思っている内に、水面が近くなっていく。
 光が揺れる水面のその先に、私は精一杯手を伸ばした。


sage