【二】咲村朱色の泡沫


   一

 私と弟は仲が良かったと思う。
 思春期特有の反抗とかそういったことも無かったし、週末に暇な時間が出来ると適当に二人で買い物にだって行ったりもした。テスト勉強も机を合わせてやっていた。ゲームだってしょっちゅう二人でああでもないこうでもないと肩を並べて遊んでいたし、喧嘩もほとんどしなかった。
 だから、その日の喧嘩は本当に珍しい出来事だった。
 姉弟同士の喧嘩なんてくだらないものが多いし、暫くすると怒りも風化してしまい、気づいたら喧嘩していたことすら忘れて会話しているなんて事もある。そうでなくとも幾らでも顔を合わせる機会があるから、謝罪だっていつでもしようと思えばできる。

――その「機会」がちゃんとあれば、という話だけれども。

 雪浪高校の教師、真崎葵に対して失礼極まりない電話をしてしまってからもう一週間近くが過ぎていた。
 余りにも軽率な行動だった。電話の切られ方からしてもそれは明確で、彼は確実に機嫌を損ねていた、と思う。いや、少なくとも好意的な感情を抱くことは無いだろう。
 何故あんな電話をかけてしまったのだろう。かけ終えて我に返った私は本当に頭を抱え、それから学校で彼と顔を合わせるのが怖くて仕方が無かった。幸い私の授業を彼は受け持っていないが、それでも遭遇する可能性は幾らでもある。
 そんな風に気を揉んでいる内に、気づけばもう四日。
 彼は未だに体調不良で学校を休んでいる。学校側も流石に安否が気になり始めているようだったが、電話には必ず出るし、精神的な不調とここ最近の慌ただしさによるものだろうと判断したようで、無理に出勤をさせるつもりは無いようだった。
 なんにせよ、私は彼と顔を合わせずに済んでいる。流石に一週間もすれば向こうもそんな電話もあったかな、と言った具合に忘れてくれるのではないかと、そんな都合の良い展開は無いだろうか。

 玄関で靴を履いて、膝より少し上くらいの短いスカートを軽く撫で付けてから鞄を手に取り、立ち上がると後方を見た。手前から洗面所へ続く扉、階段、右奥に客間、最奥にリビングへと続く扉。それらが全て閉じているのを確認した後、私は「いってきます」と大きな声で口にした。
「……」
 返事は、無い。
 何時もなら母がリビングから顔を出して微笑んでくれる。でもそれも今は無い。私は嘆息して、目の前の取手をぎゅっと握り締めると、深く息を吐き出しながらそっと押し開けた。
 眩いほどのフラッシュが焚かれた。
 普段なら歯切れが良くて悪くないと思うシャッター音も、これだけ多いとただ不快でしかない。私は手で眩い光を遮りながら唇を噛み締めると、下を向く。
『お姉さんですよね、弟君と仲は良かったですか?』
『お母さんやお父さんは今どうしています?』
『弟君とは普段どんなことを?』
『弟君、学校ではどんな人物だったんです?』
 聞き飽きた言葉の羅列を受け流しつつ、記者達の間を掻き分けてて進む。餌を求めて群がる獣達は私に絡みつき、片っ端から肉にありつこうと牙を向け涎を垂らしている。
 彼らに被害者を宥める気は無い。そんなことは毎朝のニュースを液晶越しに眺めてとっくに分かりきっている事だ。だが実際に「当事者」になるとその鬱陶しさは想像以上のものだった。正直に答えれば悲劇的な捉え方をされ、無言を貫けば勝手な予測と妄想を報じられる。「家庭に問題があった」とか「教育面で彼を圧迫した結果だ」とか、どこぞの肩書きも知れないコメンテーターが口々に批判して私達を金に変えている。
「朱色、おいで」
 鞄でも振り回してやろうかと思っていると、私の肩に手が置かれた。大きくて暖かい、ごつごつしたそれは父の手だった。
 父は私の手を取ると記者の群れを掻き分け、側の駐車場に止められていた車の鍵を開けて私を助手席に押しこんだ。その間も記者達はカメラとレコーダーを手に詰め寄ってくるが、たった一枚隔たりを持つだけで私の心はとても落ち着いた。
 運転席側から父が乗り込もうとした際、一人の記者が「情報を正しく伝えなくてはならない」と熱を込めて語っていた。だが父は何も言わずに扉を閉めると、エンジンを吹かし、左右に退いた記者を横目に走りだした。
 景色が次々と流れていくのを窓越しに眺めていると、「もうしばらく車だな」と父は口にした。
 普段からあまり喋らない寡黙な父親だが、何か問題が起こるとすぐに動いてくれる人だった。何を話せばいいのか分からなくてコミュニケーションもそこそこで、端から見たら仲が悪そうに見えるかもしれないが、私は父のことを尊敬していた。
「真皓、どこに行ったんだろうね」
 窓の外に目をやりながら、私は呟いた。
「どうだろうなあ」
 父はぶっきらぼうに答えた。きっちり法定速度で、後方から煽りがあっても決してブレない父の運転。私はその中でシートに身体を預けて目を閉じる。
「あの日ね、真皓と喧嘩したの」
「珍しいな」
 私の言葉に、父は堅い口調で返事を返してくれた。
「うん、多分一年ぶりくらいかも」
「理由はなんだったんだ?」
「確か、うちの真崎先生の奥さんが亡くなった事についてかな。泣かずに俯いたままの先生見て、本当に悲しい時って泣けないのかなって話をしてたら、真皓が突然言ったのよ」
 私は、真皓の顔を瞼の裏に思い浮かべる。短髪で、私と同じつり目が特徴的だった。物怖じしない性格で付き合いも良くて、よく私に紹介をせがむ女子がやって来たものだ。そのうち面倒になってきた真皓から「全部断れ」と言われ、結果恨まれてひどい目に遭った。
 私と真皓は何気ない会話の中で真崎先生の奥さんの葬式を話題に出した。それは一日の出来事を整理するような感覚でよく行われていたし、そこに大した意味合いも存在しなかった。
 だがその時だけ、真皓は珍しく不安そうな顔をして、それから私にこう言ったのだ。
『俺が死んだら、姉ちゃんは泣いてくれる?』
 あの時の真皓の、怯えるような、恐れるような表情は滅多に見たことが無かった。それからの失踪もあってか、あの顔はどうにも忘れることができないでいる。
「それで、お前はなんて答えたんだ?」
「ビンタしちゃった」
「……それはどうして?」
 父の声が、少しだけ柔らかくなったのを感じる。窓越しにバス停が見えて、通学途中の生徒や会社員の姿が見える。その中には私と親しい子の姿も見えた。手を振ってみようかとも考えたが、あと数十分もすれば教室で会うから、と再びシートに身体を預ける。
「どうしてだろう、真皓がどういう意図で言ったのかが分からなかったから……。あの子が死ぬ可能性なんて全く考えられなかったし、そんな事考えたくも無かったから、かな」
「まあ、現実的ではないな」
「だから、なんて言えばいいのかどうしても分からなくて」
「それで、殴ったのか」
 父の言葉に、なんだか私は居た堪れなくなって、俯いてしまう。
「私、間違ってたよね」
 父はちらりと見た後、右手をステアリングから離して私の頭に置いた。押すでもなく、撫でるでもなく、ただ置くだけ。
「さて、それが間違いかどうかは俺にも分からないな」
 それから一呼吸置いて、父は再び口を開いた。
「だが、真皓は怒ったんだろう? 少なくとも、真皓にとってその答えは間違いだったわけだ」
 父の言葉に、私は頷いた。父は頭に置いていた右手をステアリングに戻し、アクセルを踏み込む。
「真皓が帰ってきたら、ちゃんと謝りなさい」
 父の言葉を聞いて、私はうん、と小さく頷いた。

 雪浪高校前に到着し、校門前で降ろしてもらってから、父に手を振る。彼は表情を変えなかったが、一度だけクラクションを鳴らすと目を細め、それから車道に戻っていった。多分父なりの返事だったのだろう。離れていく小型車の背中を暫く眺め、踵を返すと校舎に目を向けた。
 登校する生徒達が私に視線を向けているのが分かる。最近はどうも視線に敏感になりすぎているらしく、些細なものでも反応してしまい、終いには人の視線で酔う事も珍しくなくなった。流石にあの目が悪くなりそうなフラッシュに比べたら幾分かマシではあるが、それでも苦痛であることに変わりはない。
「咲村、おはよう」
 校門前に腕を組んで立っている男性教師が声を掛けてくる。向かいに立つ教師も私が目を向けると笑みを浮かべた。
「おはようございます。今日もなんだかすみません」
「良いんだ。何より一番辛いのは君なんだから」
 苦笑しながら二人にお辞儀をしてその場を後にした。一番、という言葉に関してはもっと当てはまる人物がいるのだが、別にそれを否定する必要も無いし、結局私は口にはしないことにする。それを言っても教師達は気分を害するだけだし、私もスッキリするわけではない。何の解決もしないなら、いたずらに手を出さないのが良いに決っている。
 左手に広がるグラウンドでは、早朝練習をしていた運動部の面々が片付けを行なっているようだった。土に塗れたユニフォーム姿で金属バットや硬球を片付けていく野球部。少し離れて設置されたゴール横には、サッカー部の集団が群れていて、水を頭に掛けて気持ちよさそうに頭を振ったり女子マネージャーと軽快に会話を交わしている。
 右手のテニスコートでは黄色い籠一杯にテニスボールを詰めた女子達が丁度出口の鍵を閉めているところで、その奥、校門から見て右隣の体育館からはバレー部と思しき背の高い集団が練習を終えて出てきている。
 正面の校舎からは金管楽器の音やドラムの音が騒々しく響き、玄関上には垂れ幕でどこかの部活の大会進出を大きく祝している。
 文化的な活動に対して非常に協力的なのがこの高校の良い点だ。精力的な活動をする部活動にはその為の機会を与え、研究を目的とした部活にはその為の費用をなるべく多めに捻出しようとする。学業に対しても熱心で、文武両道に熱を出す進学校としてこの雪浪高校は市内でも大分有名で、雪浪と言うだけでそれなりにいい顔をして貰える。
 そんな高校に、私は通っていた。部活も幽霊だし、成績も中の上程度のレベルを維持しながら日々を消化するだけだが、何故かここにいる。
 ヤマが当たって、運と偶然とが重なって合格しただけで、実力とかでは全く無かった。もっと勉強した人はいたと思うし、そういう人にしたら今ここでこうしている私を知ったら憎らしく思うんじゃないだろうか。
 反対に、真皓は雪浪高校を落とした。体調不良によるところが多かったのだが、私よりも成績が良く人柄も良い彼が落ちて私がここにいるとは、全く世界は不合理にできているものだと思う。
 真皓は、それでも文句一つ言わず、腐らずにただ笑っていた。しょうがない、そういうものだと言った。できれば姉ちゃんと一緒に通いたかったなと悔しそうな顔をしていた。
「おはよう」
 明るくて透き通るような声が聞こえて振り返ると、若干色の抜けた髪をハーフアップにまとめて、化粧をした顔があった。
「おはよう、絵美」
 そう言うと、ハーフアップの彼女、幾月絵美(いくつき えみ)は目を細め、手を後ろで組むと、肩を竦め口角を上げた。彼女のそんな仕草は、同性ながらどきりとした。二重の奥の潤んだ瞳が私の姿を映している。真っ黒な髪で、弟とよく似たつり目が特徴的な、しかし化粧気の無い私の見窄らしい姿がそこにはあった。
「今日も綺麗ね」
「ほとんどが化粧の力だよ。最近の化粧品ってすごいのよ。ちょっと乗せただけで魔法みたいに綺麗になるんだから」
「私はあんまり興味ないからなあ……」
「何言ってるのよ、もう高校二年生でしょう? ちょっとくらい色気付かないでどうするの」
 絵美の熱意のある言葉に頷きながら、しかし私の心に興味の芽が出る気配は微塵もなかった。
「決めた。今日の放課後にメイクしてあげる。どうも全く興味が湧かないって顔してるし、実際になってみないと理解してくれないようだし」
「それは、いいよ」
「良くない。どうせ放課後暇なんでしょう? 美術部にも滅多に顔を出さないし……。別に取って食おうってわけじゃないんだから」
 ぴしゃりと言われて、私は何も言えなくなってしまう。
 美術部に入ろうと誘ったのは私の方だった。元々水彩画がとても好きだったし、白いカンバスを埋める作業は嫌いでは無かった。
 だが、私はどうも「やらされている感覚」を覚えてしまうと途端に駄目になってしまうみたいで、デッサンや顧問の指導に耐え切れずに気付けば幽霊部員になっていた。初めは然程乗り気で無かった絵美の方が今では部に入り浸っており、上達もしている。化粧を始めたのも、美術部に入って暫くしてからだ。絵に対する興味から発展して、外見を整えることに繋がったのかもしれない。
「そうだ、朱色。今日の事知ってる?」
「今日? 何か行事でもあった?」
 絵美は首を横に振った。
「ほら、この間から体調不良で休んでる真崎先生。今日は出てくるらしいよ」
 私は、思わず目を見開いた。
「今日から復帰?」
「そう。私のクラス、真崎先生の授業あるから連絡が来たの。自習もなんだからって別の人が教鞭握ってたけど、やっぱり真崎先生の方が分かりやすかったなーって思ってたから、本当に良かったよ」
「それは、良かったね」
 あの時の電話を、彼は覚えているだろうか。
 覚えているとしたら、私の事を、咲村朱色の事を、どう思っているだろう。
 多分私は、彼の触れられたくない部分に触れてしまっている。もしかしたら今一番痛い部分だったかもしれない。不自然な来客で切られてしまったところからそれはちゃんと理解しているつもりだった。
 彼は、私のことを探すだろうか。会おうと思っているだろうか。
 玄関口に到着して、私は絵美と別れる。入学当初同じクラスだった彼女だが、今では文理選択によって離れた教室だ。それでも昼食は変わらず一緒に取っているし、交友関係は未だに続いている。
 彼女と別れた瞬間、多少なりとも紛れていた不安感が再び湧き上がる。気持ちが悪くて仕方がない。
 這々の体でどうにか三階の教室まで到着すると、挨拶もそこそこに私は机に突っ伏し、目を閉じた。頭がくらくらする。ぐるぐると目が回る。クラスの誰かが私に声を掛けてくれているようだが、どうにも口が開かなかった。
 記者達のフラッシュを焚く音がする。眩い光が目を晦ませる。衝動から行なってしまった真崎葵への電話が重苦しく乗っかる。彼の四日間の不調を作ったのは私のような気がして、その責任が苦しく思えた。
 身の回りで何か良くないことが起こっている気がする。
 決して私を中心にしているわけではないが、それでも確実に私もその良くないことの原因の一人として存在しているような、そんな……。
 流石に喉元までせり上がって来た緊張に耐え切れず、私は口を押さえ、よろめく身体でどうにか歩きながらトイレへと向かった。途中クラスメイト達の助力もあってどうにか廊下で失態を犯す羽目にはならずに済んだが、トイレに着くとそれまでの緊張が全て形となって、便器に吸い込まれていった。
 喉の灼けるような感触で涙が滲む。呼吸がうまく出来なくて肺がのたうち回っている。髪の先端に嘔吐物がかかって、更に泣きたくなった。
 そのうち何も出てこなくなって落ち着くと、私は男子に抱えられ、保健室へと連れて行かれた。その間も、真っ直ぐ歩けているかどうかも定かではなくて、リノリウムの床を上履きが擦る音を聞き、隣の男子生徒の声掛けにどうにか応じながらも、会話の内容は全く頭に入らず、適当な相槌しかできなかった。
 どうにか保健室に担ぎ込まれると、担当の指示の下にベッドの上に横になり、軽く汗を滲ませた男子は微笑みながら私に気遣いの言葉を口にして行ってしまった。
「何時もは自分でここまで来るのにねえ。珍しい」
 ベッドの上で荒い呼吸を続ける私に布団を被せると、白衣の女性茅野茜(かやの あかね)は赤縁の眼鏡を中指で上げ、ポケットから棒付きの飴玉を出して咥えた。
「多分、ストレス性のものでしょう。目つきからして強気なイメージがあるのに、案外打たれ弱いわよね、貴方」
 まあ、流石にここ最近を考えると仕方ないかあ、と彼女は肩を竦める。
「すみません……」
「いいのよ、怪我してくる子に比べたら処置が楽だから」
 茅野先生は咥えている棒を左右に動かしながら言った。
「今はゆっくり寝なさい。家じゃ碌に眠れてないみたいだし」
 茅野先生の柔らかい口調に安心したのか、やがて睡魔がやってくる。
 彼女の穏やかな顔を最後に、私の意識は暗闇に沈んでいった。


   ニ

 夢を見た。
 壁際に置かれた液晶のディスプレイが朝のニュースを映していて、向かいのソファで制服姿の真皓が座っている。朝起きるのが苦手な彼が珍しく早い時間に起きていたので、私は不思議だなと思いながらおはようと声をかけた。
 夢なのに、なんだか現実味のある夢だった。そして同時に、記憶に鮮明に残っている場面に私は立っていた。
 『あの日』とまるで同じだ。
 テレビのニュース記事とか、ソファに座っている真皓は、どれも全く同じ状況にセッティングされていた。
 真皓との最後の会話をした場所で、一体何をしろと言うのだ。
『姉ちゃん』
 真皓の声がして、私はテレビを見つめる彼の隣に座り、「何?」と返事を返す。
 真皓は顔をこちらに向ける。
 私とそっくりなつり目。でも顔のパーツがとても綺麗に整っていて、私とは違って武器になる目だった。
『姉ちゃんとこの先生、奥さん亡くなったんだって?』
 私は暫く黙り込んで、それから一度だけ頷く。あの日はさして興味も抱かなかったその言葉は、今の私にとっては非常に重たくて苦しいものだった。
『誰かを失うって、辛いでしょうね』
 あの時と同じ言葉を口にする。決して他人事では無くなったその言葉を。
 真皓は漸くその力強い視線を私から逸らすと肩を竦め、それから一呼吸置くと再び口を開く。
 やっときた、と私は痛む胸に手を添え、彼の次の言葉を待った。
 あの時聞いた言葉を。

『俺が死んだら、姉ちゃんは泣いてくれる?』

 真皓があの日の言葉を口にすると同時に、彼の口からぶくりと小さな気泡が漏れた。シャボン玉のように膨らんだそれは、まるで水中から逃げ出す気泡の如く急速に上昇し、天井にたどり着くと小刻みに震えて張り付き、最後にはぱちんと跡形もなく消えてしまった。
 泡が弾けると、真皓は何かを諦めたように目を閉じた。私が天井からソファに視線を移すと、既に彼はそこには居らず、リビングの前まで移動していた。
 この言葉の後に、私は確か喧嘩をしたはずだ。おもいっきり叩いたら、真皓も応戦してきた。私もなんだかムキになって不毛なやり合いを暫く続けた。
 でも、それが無い。
 不機嫌そうな顔をした真皓はちらりとこちらを見た後、ドアノブに手を掛ける。
 夢が断片的なものになり始めている。
 まるで擦り切れたテープみたいに、夢は加速を始めた。自然とその不可思議な現象に対して結論は出た。
 結末が近づいている。
 真皓の動きは更に悪くなって、コマ送りのような状態で扉を開き玄関へ進み、靴を履き、靴箱にかかった鏡で制服と髪型をチェックし、振り返ると少しバツが悪そうな笑みを浮かべた後、ぶっきらぼうに最後の言葉を口にした。

『いってきます』

 あの日ちゃんと返せた言葉を、私は口に出来なかった。だってこの先は別れなのだ。もう二度とこの笑みも、姉として自慢であり嫉妬でもあった綺麗な顔も、肉付きの良い身体も、実際に目にすることが出来ないのだから。
 弟はきっと死んだ。もうこの世には居なくて、次会う時はきっと冷たい姿なのだろう。
 根拠のない確信が、私の心にじわりと広がる。
 玄関の扉を開けた広い背中を眺めながら、私は唇を噛み締め、静かに手を振った。

   ―――――

 目を覚まし、勢い良く起き上がるとベッドの上から周囲を見回す。左右正面全てが白いカーテンで覆われている。蛍光灯の眩い白色光が天井から降り注いでいる。
 布団を捲るとプリーツのよれたスカートが顔を出す。よく見るとブラウスも皺まみれで、髪の毛もあちらこちらに跳ねて酷いものだった。あまり長くないからだからまだ此の程度で済んでいるが、もし長かったら酷い事になっていただろう。
 手櫛で軽く髪を整え、側に置いてあった二つ折りの手鏡を取り出して覗きこむ。黒髪と、そこから覗く二つのつり目が不機嫌そうに目を細めてこちらを見つめていた。
 作り笑いでもすればこの顔も愛想が良くなるのだろうか。人差し指で両頬をぐいと上げてみるが、あまりにも笑みがぎこちなくなったので嘆息と共に肩を落とす。
「あら、起きたのね」
 茅野先生がカーテンの外から顔を覗かせた。赤縁の眼鏡を中指で押し上げ整えると、入ってきて私の傍に腰掛ける。棒付きの飴を取り出して私の手に握らせると、自分の分もポケットから取り出して咥えた。
「随分ぐっすりと眠っていたじゃない」
「今、何時ですか……?」
「そうねえ、欠伸しながら授業を受けていた生徒が、目を輝かせて部活動に励んでいる時間ね」
「そんなに寝ていたんですか、私」
 気分を悪くしたのは登校して間もなくだったから、相当ぐっすりと眠り込んでいた事になる。
「途中で声かけたのよ? でも全然起きなくて、ご家族に連絡したら『家でよく寝られていないから』なんて言われて、そのままにしてあげてほしいとか言われちゃうし。心配で来たお友達もあまりの寝入りっぷりに苦笑しながら戻っていっちゃった」
「本当にご迷惑をお掛けしました」
「いいのよ、まともに使われてベッドもむしろ本望でしょうよ。思春期の男女がこっそりイチャついたり仮病した生徒が暇そうに携帯弄ってるよりかは大分良い使われ方よ」
 茅野先生はそう言って微笑むと立ち上がり、再びカーテンの外に消えた。
「ココアと珈琲だったらどちらがいい?」
「あ、珈琲で」
 カーテンの奥からへえ、と意外そうな声が聞こえてくる。
「あまり甘いの得意じゃないんです。苦いほうが色々ハッキリしてる気がして」
「ふうん……。じゃあ砂糖もミルクも入れなくて良さそうね」
 向こう側で電気ポットのスイッチが入る音がした。私は再びベッドに横になって、両足を大きく広げてソックスを脱ぎ、スクールバッグのあるテーブルに投げた。
 大きく広げた両足を再びベッドに下ろす。シーツのきめ細かさと、人肌くらいに暖められた感触が直に足に伝わって心地が良かった。ソックスの拘束感から開放されて随分と気が楽になった。
「茅野先生」
「何かしら」
 ポットの中の水が跳ねる音がする。彼女の声は、そのふつふつとした音の中で柔らく響いた。
「弟の夢を見たんです」
「家出中の?」
「家出、だと思いますか?」
「だってそうじゃない。思春期によくあるものよ? 大した理由でも無いのに反発したくなって家出。男の子なんてそんなものよ。大きいか小さいかじゃなくて、突っぱねることがカッコイイと思ってるから」
「そんなものですかね」
「そんなものよ」
 色々な場所で色々な生徒が見たい。そんな考えから非常勤として働く茅野茜の意見はとてもスマートだった。
 けれど、と私は天井の灯りに手を翳しながら、真皓の顔を思い出す。
「私、もう真皓は帰って来ないと思っているんです」
「それはまた、どうして?」
 起き上がり、足の指の間に自分の指先を絡ませながら、私は前後に小さく揺れる。
 ポットがぼこぼこと泡を立て始めると、珈琲豆を削る音が聞こえ始める。がりりと砕かれていく豆の音が心地良い。
「さっきの夢で、思い出した事があるんです。先生は、多分信じてくれないと思うけど」
「言ってみなさい」
「喧嘩をした朝、真皓の口から泡が出るのを見たんです」
「泡?」
 私は頷く。カーテン越しだから茅野先生には見えないけど。
「水中じゃなくて、ただのリビングでの出来事だし、本来ならそんなもの見えるはずが無い。でも、本当に水中で息を吐いた時みたいな気泡が真皓の口から出て、真上に浮上して消えたんです」
「それで、その泡が口から出た事と、弟が帰ってこないという確信とはどんな関連性があるのかしら」
「私も、そこまでは」
 でも、と私は途切れた言葉を繋いだ。
「単なる勘です。でも、恐らく真皓と生きて会える気はとてもじゃないけどしないんです」
 珈琲の薫りと共に、お湯が注がれる音がする。
 それから再びカーテンが開いて、茅野先生は湯気の沸き立つマグカップを二つ持ってやってくると、ベッドの端に腰掛けた。それから身体を丸めたままの私に一つを差し出す。キャラクターのプリントの入ったマグカップを手に取ると、香りが私の鼻を擽った。取手以外はとても熱くて触れられそうも無い。私は傍の台から鞄を床に降ろしてそこにカップを置いた。
 白い陶器の中に収まった黒は、しかし香りと色合いでその存在を強調している。ぼんやりとカップの中で小さく波打つそれを眺めていると、茅野先生は私の肩に手を置いた。
「会いたいんでしょう?」
「え?」
 茅野先生は悪戯な笑みを零すと珈琲を口にする。私ではとても飲めない熱さの珈琲を、彼女はいとも容易く飲み込んでいく。白く滑らかな喉がニ、三度こくりと動き、それから彼女は満足気に頷いた。
「今日は結構上手くいったみたい。貴方も熱い内に飲みなさい。珈琲は一番熱い時が良いのよ」
「でも、私熱いの苦手で」
「あら、猫舌?」
「ちょっとでも熱いとすぐに火傷しちゃって……」
「大丈夫よ、暫く痛いけど、舌って案外すぐに治るものだから。私が折角淹れたのよ? 熱くて一番美味しい時に飲んでもらわないと」
 さあ、と催促されるままに私はカップを手に取る。取手まで熱くなりつつある。こんなもの、絶対に火傷するに決まってる。
「さあ、飲んでみて」
 私はそっと、恐る恐る口を付け、目を硬く瞑り、カップを傾けた。
 珈琲はやっぱりとても熱くて、口の中がじんと痛む。
 でも、飲めた。驚くほどするりと珈琲は私の喉を通って行った。食道を通って行くのを感じながら、私は驚いてカップを改めて覗きこむ。
 暖かさと、苦味と、鼻孔をくすぐる薫りが身体中を包んでいく。体内に熱が染み込み、心が落ち着いた。珈琲が私の中に巣食う不安を抱きしめて、するりと溶かしていってくれる。
「素敵な味でしょう?」
 茅野先生の手から体温が伝わってくる。
「辛い事とか、気持ちが落ち着かない時は熱いまま飲むの。口の中は火傷で辛いかもしれないけど、不思議と身体はリラックスするし、頭の中を整理する余裕が出てくるから」
「先生火傷を?」
「正直言うとね、私も熱いの苦手なのよ」
 茅野先生は肩を竦める。
「でも、さっきよりも大分楽になったんじゃない? 顔色も良くなったわ」
「ほんとに、すごく落ち着きました。なんだろう、ホッとしたっていうのかな」
 私の返答を聞いて嬉しかったのか、彼女はカップを持ったまま立ち上がると鼻歌混じりにカーテンの外へと出て行ってしまう。暫く珈琲を飲みながらいると、さあ、とローラーの滑る音がして、四方を囲んでいた真っ白いカーテンが一斉に取り払われた。
 いつもの保健室だ。正面には薬剤や治療道具の仕舞われたスチール製の棚と、隣に作業用のテーブル。私の隣のベッドは皺の無いシーツの張られたベッドがあった。今日一日使われずに終わったのだろう。人のいた痕跡は感じられない。
 カップを置いて、床にきちんと揃えておかれていた上履きを素足のまま履くと、窓の方に歩いて行く。まだ少しふらふらするけど、登校時のような気分の悪さは感じられない。
 外は陽がすっかり沈んで薄暗くなりつつあった。校庭では整備する泥だらけのユニフォーム姿や、用具を片手に校庭奥の小さな部室棟へと向かう運動部員の姿が見えた。
「弟君、探してみましょうよ」
 窓の外を見つめる私に、茅野先生は言った。彼女の目は真剣そのもので、茶化す気はまるで無いようだ。
「本来なら危険な事しちゃ駄目と言うべきなのかもしれないけど、貴方が弟君に対して納得いかない事があるなら、それを消化するべきだと思うの」
 茅野先生は珈琲を飲み干し、テーブルに置いた。乱雑に詰み重ねられた書類が少しだけ動くのが見えた。
「その思いを風化させるのも手かもしれない。でも、それじゃ満足できないって顔してる」
 私は黙り続ける。
「言えなかった言葉って、いつまでも残るものなのよ。例え忘れたとしてもふとした瞬間に思い出して苦しくなっちゃう。もしもその言葉を口にできる可能性が、小さくてもあるなら、やってみるのも悪くないかもしれない」
「もし結果が、最悪の形で終わったら?」
「その時はその時よ。でも、ちゃんと伝えようと必死に行動しただけ、私はマシだと思う。後悔は続くのかもしれないけどね」
「それが、正解だと思います?」
 茅野先生は首を横に振った。
「だって私は貴方じゃないもの。私は私なりの気持ちを口にしてるだけで、貴方はそれを聞いているだけ。決断するのは貴方だから」
「無責任過ぎませんか」
「どれだけの生徒の相談聞いてると思ってるの? そんな全部に責任持って答えてたら私、今頃ノイローゼよ」
 ひどいなあ、と私が口にすると、茅野先生はふふ、と笑った。大人っぽい色気のある笑みで、私はそれを羨ましく感じた。
「そうですね、やってみましょうか」
「探してみるの?」
 私は頷く。
「手がかりなんて一つもないけど、やってみます」
「手がかり、ねえ」
「何かあります?」
「例えば、貴方の見た泡って、なんだったのかしら」
 彼女は腕組みをして唸った。
「私は実際に見ていないし、貴方もその夢の光景を見て思い出したように感じているだけなのかもしれないけれど、貴方はそれが見えたから『咲村真皓は帰ってこない』事に納得したのでしょう?」
「そう、ですけど」
「なら、そこから何かに繋がる可能性は、十分にあり得るんじゃないかしら。それが現実に起こったことなら、だけど」
「でも、その出来事をどうやって絡めていけば……」
「それが問題よね」
 茅野先生は目を閉じる。だが明確な答えは出てこないようだ。
 彼女は再び瞼を上げて、時計を見る。
「なんにせよ、今日は帰りなさい。もうこんな時間。親御さんも心配していたから」
「はい」
 私がとても残念そうな顔を見せたからなのかはわからないけれど、茅野先生は微笑むと私の額にキスをしてみせた。突然の柔らかな感触に驚いて額に手を遣る。その反応を見て、彼女はとても楽しそうに目を細めた。
「全国の失踪届の中に同じようなパターンのものが無いか、探してみるから。……といっても、保健室の茅野先生程度で調べられる範囲なんてたかが知れてるけれども」
「そんなことないです、とっても有難いです」
 彼女は微笑み、私の隣に座り込み、靴下脱いだままでしょと、私の太腿に手を滑らせてきた。その生温い感触に思わず飛び上がると、また彼女は意地悪そうに笑った。



   三


 雪浪高校から自宅まで然程遠いわけではない。スクール・ゾーンとして指定された道を通って大通りに出て、バスに乗って五つほど先を行けば自宅だ。朝方は父に送ってもらえたお陰で随分と楽が出来た。保健室を出て電話をした際も迎えに行こうと提案されたが、私は断った。
 少しだけ、一人の時間が欲しかった。
 校門を出て、私は人通りの少なくなった道を歩く。等間隔に設置された街灯、すっかり錆が浮いて、いつだか誰かが起こした事故で根本の辺りがひん曲がってしまっているカーブ・ミラー、タイヤの跡がくっきり残る「止まれ」の道路表記。どれもが孤独さを掻き立て、じわりと心に不安を植え付けていく。
 何かが違う。
 まず、部活帰りの生徒たちは何処に行ったのだろう。窓から覗いた校庭にはそれなりの人数が残っていた筈だ。少なくとも私のような制服姿があってもいいはずなのに、今、この道を通っているのは気付けば私だけになっている。
 遠くの商店街も、普段よりもなんだか灯りが弱い気がしてならない。まだシャッターが閉まるには早い時間の筈だ。
 肩に掛けた鞄を背負い直すと、街灯の下を早足に歩いていく。別に通る必要は無いけれど、少しでも人気のある所に行きたいのもあって、商店街に入ろうと思った。灯りは小さくても誰かしらいる筈だ。
 父に迎えに来てもらうべきだったかもしれない。
 居心地の悪さと、不安で身体が震える。一刻も早くこの場から立ち去ってしまいたいのに、いくら走っても商店街に辿り着く気配がない。
 街灯の下を歩く。
 街灯の下を早足で歩く。
 街灯の下を駆け抜ける。
 まるで同じ所をぐるぐると回っているように、立ち止まれば私は街灯の下に立っていた。道の先に見える商店街はまだ遠くに見える。後ろを向くと、雪浪高校までの道を等間隔に置かれた街灯の灯りがぽつり、ぽつりと照らしていた。
 途中で曲がっても、住宅街に入ろうとしても、戻ろうとしても、最終的にはこの道に戻ってきてしまう。
 一体何が起きているのだろうか。
 不安と恐怖に押しつぶされそうになりながらグッと息を飲み込むと、携帯を再び取り出して父に発信した。
『只今、電波の繋がらない所にいるか、携帯の電源が切られている為、繋がりません』
 再度掛け直す。
『只今、電波の繋がらない所にいるか、携帯の電源が切られている為、繋がりません』
 もう一度掛け直す。
『只今、電波の繋がらない所にいるか、携帯の電源が切られている為、繋がりません』
 どれだけやっても、父の電話に繋がらない。
 そんなわけない。高校を出た時に確かに父と私は電話越しに会話をしたのだ。突然繋がらなくなるわけが無い。
 喉が乾く。生唾を飲み込む音が私の中で大きく響く。
「一体、どうなってるのよ」
 頭をがしがしと掻き毟りながら、震える足に手をやった。疲れていないのに呼吸が乱れていく。心臓が高鳴る。
 唇をぎゅうと噛み締め、繋がらない携帯電話を握ったままその場にしゃがみ込んだ。これは夢に違いない。まだ私は保健室に居て、ここまでの出来事も全て夢の中の出来事なのかもしれない。なら、目を覚ます事が出来るはずだ。私自身の意思で。
 不意に、喉元から何かがせり上がってくるのを感じた。嘔吐感は無く、苦しさも無いが、それはぐるると気道を登ってくると固く結ばれた私の口を無理矢理にこじ開けて、外へと飛び出してきた。

――泡だ。

 ぶくり、とそれは小さな気泡を引き連れて天高く昇っていく。水底で息を吐き出したみたいな、大きくて綺麗な空気の塊。
 それからずぶり、と音がして、私はバランスを崩して尻餅を着いた。恐る恐る地面に目を向け、目を疑った。
 足が、沈んでいる。
 硬いコンクリートの地面に大きな波紋を描きながら、私の身体が呑み込まれていく。
 たすけて、と言おうと口を開けると、気泡がまた口から吐き出されて、水中から大気へと出ようとするみたいに頭上を昇り消えていった。
 次第に息苦しさが増し、締め付けられるみたいに痛くなる。不安と恐怖で埋め尽くされた心が悲鳴を上げている。私は沈んでいく足を両手で必死に引っ張るのだが、ずぶずぶと沈んでいくばかりで抜け出せない。
 まるで底無し沼だ。
『俺が死んだら、姉ちゃんは泣いてくれる?』
 真皓の声が聞こえた気がした。
 喧嘩の原因になった一言だ。夢の中で聞いたよりもはっきりとしていて、まるで直ぐ側に彼がいるみたいに思えた。
 もしかして、真皓もこんな風に。
 私は沈んでいく身体を見ながら、そんなことを思う。吐き出された気泡、不可解な場所で姿を消した咲村真皓。そして今ここで溺れそうになる私の状況。
 それらは、全て同一のものかもしれない。
 だが、だからといってどうする。
 このまま沈んでしまえば私はきっともう戻ってこれなくなる。私もこのコンクリートの中で過ごすことになってしまう。
 身体が沈む度に頭の中がかき回されるみたいに痛くなる。耳鳴りが強くなっていく。思考が正常に働かない。辛うじて現状に対する多少の理解はできたが、ここまでだった。
――痛い。
 ノイズが激しくなって、視界が点滅する。受信先を失ったテレビみたいに砂嵐で視界が埋め尽くされていく。もう何も見えない。聞こえない。意識も崩されたパズルみたいに砕けて繋がらない。全てが終わりに向かっている。
 首から下が液体に浸っているような、張り付くような感覚で埋め尽くされていた。
――私は、誰と喧嘩したんだっけ。
――私は、誰とどうしたかったんだっけ。
――私は、明日から何をするつもりだったっけ。
――私は

『そこはどこまでも心地がよくて、優しくて、そっと眠れる場所。水面から漏れる光を眺めながら、死んだように眠り、そして生き続けることのできる悠久の湖底』

 右手を、誰かが掴む。
 ノイズまみれの感覚の中で、その温かで柔らかな手を握り返すと、ぐいっと引かれるのを感じた。
 目を開けると、歪む視界の中で私は頭上を仰ぐ。
 人影が見える。短髪で、細い輪郭をしたその人物はそっと私に微笑みかける。はっきりとしない視界の中で、しかしそれだけは確かに判別することができた。
 私の手を握る人物は、とても残念そうに微笑んだのだ。

『でも、君はまだ眠らせて貰えないみたいだ』

 ぐんと水中から引き上げられる感覚と同時に、私の意識はそこでぶつんと途切れた。

   ―――――

 私は飛び起きると周囲を見回す。商店街の通りから少し外れた細道に私はいた。雪浪高校の方に目を向けると、等間隔に街灯の並ぶあの道路が見えた。部活帰りの制服姿がちらほらと見えている。つい先刻味わった奇妙で孤独な道はどこにも見当たらない。商店街も普段通りの暖かな光が見える。
「気がついたようで良かった」
 その声に私は思わず悲鳴を上げてしまった。
 視線の先には青年が立っていた。
 耳が見える程短かい髪に、プリントの入った白いシャツ、その上に黒いジャケット、そしてモッズコートを羽織っていた。
 何より私が興味を惹いたのは、二重から覗くその瞳だった。
 液体みたいにとても潤んでいるのだ。ほんの少し身体を傾けただけで流れ落ちてしまいそうな綺麗な瞳をしている人だ。
 青年は私の前でしゃがみ込むとミネラルウォーターのボトルをポケットから取り出し私の手に握らせた。
「飲んで。ほんの少しだけど、気が楽になるだろうからね」
 彼に言われるままにミネラルウォーターを口にする。冷たい液体が身体に流れ込んでくるのが分かる。縺れたままの私の意識が、少しづつ解れていく。
 半分ほど飲んだところで、彼はにっこりと微笑むと私の頭に手を置く。節くれだった華奢で、そしてなにより冷たい手だ。その手が私の頭を撫でた。さっきの柔らかで温かな手とはまるで違っていて、私は戸惑う。
「慌てなくていいよ。深く呼吸をして、冷たい水を飲んで、それさえ繰り返せばパニックも収まる」
 彼の言葉に操り人形みたいに従っていく姿は、端から見れば多分滑稽に映ったかもしれない。高校生にもなって幼児のように男性の言葉に頷くだけ。
「とても特異な出来事だった。本来ならあそこまで引き込まれていたらもう【戻れ】なんてしないのに、君はちゃんと戻ってくることができた。手助けがあったのも確かだけど、どこかで君は安らぎを拒絶していたんだろうね」
 ミネラルウォーターを飲み、深呼吸を繰り返す私に、彼はそう言った。その顔はあの歪んだ視界の中で見えた、残念そうな笑みだった。水っぽい瞳が揺れている。
「喋ることはできる?」
「はい」
「それは良かった。君の名前は?」
 青年はまた頭を撫でてくれる。たったそれだけで安堵感を抱いてしまう自分の単純さに顔を顰めながら、私は口を開いた。
「咲村、朱色です」
「朱色。中々面白い名前だ」
「よく言われます」
「それくらい不思議な名前なら、僕も覚えることができそうだ」
 彼の言葉に私は首を傾げる。なんだろう、彼は受け答えや身のこなしがふわふわとしている。
「僕は最低限の事以外は忘れることにしているんだ」
「どうして?」
「必要な事しか覚えたくないし、思い出したくない。有用性の無い事だけはすぐに忘れるようにして、出来る限り『利益のある内容』だけをすぐに引き出せるように整理したいんだ。まあ、単なるイメージでしか無いのかもしれないけれど、これが不思議とハマってね。本当に大切な事がスッと思い出せるようになった」
 彼はモッズコートのポケットに両手を突っ込むと肩を竦め、目を細める。華奢な体つきからかその仕草はどこか女性的に見えた。
 この人は何故私を救ったのだろう。
 いや、そもそも先程までの不可解な出来事は本当に私の身に実際に起こったものなのか? 朝から続いていた不調の再発で、帰路に向かう途中で気を失い、たまたま通りかかった彼に助けてもらっただけでは無いのか。
「あの、私」
 聞かなくてはならない。
 そう思って開いた口に、彼はそっと人差し指を押し当てた。枯木みたいに細い指が唇に触れた。彼はまた残念そうに微笑むと、今度は自分の口の前に人差し指でバツを作った。
「今日起きたことは夢だ。君は体調が悪くて、気を失った。そしてタチの悪い夢を見た。それで納得してもらうことはできないだろうか」
 と彼は言う。口にするつもりだった言葉をそのまま奪われてしまって、私は眉を顰めた。
「あの、えと、その……」
 彼は沈黙を守った。
 
 不意に、彼は目線を上げる。
 彼を追いかけるようにして私も空を見上げて、それから酷く驚いた。
 月が、揺れていた。
 水面に映ったみたいに、夜空が、分厚い灰色の雲が波打ち揺らぎ、上弦の欠けた月もまたぐにゃぐにゃと波の動きに合わせて形を変えていた。
 水を注いだみたいな夜空は、私の心を奪うほど美しくて、しかしそのあまりの非現実的な光景に、恐ろしさも覚えた。
「朱色も見えているね」
 彼の言葉に、私は頷いた。
「夢にすることは出来るわけ無いか。まあ、覚えておくといいよ。そう何度も出来る体験ではないからね。この光景を見る前に喰われてしまう人間が大半だ。君は本当に運がいい」
「喰われる……?」
 彼は頷いた。
「大半はそうなる。もし君があのまま引きずり込まれていたら、その先に待っていたのはこの景色じゃない。ただの真っ暗で冷たい湖底だ。深い底に横たわり一生死ぬこともなく眠り続けることになる」
 引きずり込まれた時を思い出す。意識が強引に剥ぎ取られ、五感が切り落とされた。目の前はざあざあと電波の入らないテレビのようになったし、耳元で鳴り続けたノイズは脳がかき混ぜられているように苦しいものだった。
「ちょっと待ってください。あれは結局、なんだったんですか? 私は、何に狙われていたんですか」
「ああ、まずはそこから説明するべきだったか。何時も間に合う事なんて無いから、順序良く話をするのは苦手でね」
 彼はそう言うと見上げていた水面みたいな夜空―どう言葉にすべきか迷った末、そう呼ぶことにした―から目を降ろし、私にすっと手を差し伸べてきた。暫く躊躇していたが、やがて彼の手を恐る恐る握った。
 私が握るなり彼は嬉そうに笑みを浮かべ、私を引き上げると傍の段差に私を腰掛けさせ、隣に座った。
「朱色、君はそこに引きずり込まれた時、何を感じた?」
「何って?」
「その空間をどう把握したかってことさ」
「把握……。なんだろう、水の中、みたいでした。生温い液体のような……」
 適当な言葉を繋ぎ合わせながら答えると、彼はそれでいいと頷く。
「あれはそう、小さな湖みたいなものだ。『彼ら』にとって一番心地の良い特殊な環境。そこに巻き込まれた人は総じて『液体の中にいるようだった』と口にする。だから朱色の言葉はまさに模範的な答えだ」
「湖」
 彼の言葉を反芻する。
 確かに、湖みたいだった。けれど酷く深くて、水底にまで達してしまったら二度と戻れそうになかった。
「彼らは湖底で獲物を待ち、非常に美味そうな餌を見つけたら引きずり込むんだ」
「つまり、私が美味しそうに見えたってことですよね」
 彼は頷く。
「女の肉は柔らかいとかそんな理由ですか?」
 ちょっとした冗談のつもりで言ったみたのだが、彼は真面目な顔のまま首を横に振った。
「奴等が食べるのは、肉体じゃ無い」
「肉じゃ、ない?」
「そう、彼らが欲するのは記憶。一個の生物に仕舞われた情報を喰うことで腹を満たしている」
「記憶、ですか」
「もう一つ、彼らは味にもうるさいんだ」
「味?」
 記憶に味なんて存在するのだろうか。眉を顰めて考えていると、彼は私に顔を寄せ、耳元でそっと囁いた。
「……悲劇だ」
 胸がぎゅっと強く締め付けられるのを感じた。
「他人の不幸は蜜の味とはよく言ったものだね。彼らは悲劇的な記憶を特に好む。不幸な目に遭ったり、逆境で藻掻いていたり、絶望と希望の境目を行き来する人を奴等は美味そうに感じるらしい」
 ならば、私が狙われた理由は。
「君は、今の彼らからしたらご馳走みたいなものなんだ」
 彼の言葉の意図は理解できた。
 君が今演じているのは悲劇だと、そう断言されたのだ。
「貴方は、なんでこんな事を知っているんですか」
 私の問いに彼は微笑む。さっきから度々見せていたあの残念そうに眉を動かす仕草はしなかった。
「簡単に言えば、会いたい人を探すために必要なんだ」
「会いたい人?」
 彼は頷く。
「その人に会うためには、彼らを追う必要がある。今回も同じだ。僕はたった一人と再会するためにやってきた」
「こんな危険な目に遭わないと、会えないんですか?」
「そうだね、それだけははっきりしてる」
 彼はそう言うと立ち上がる。座り込んだままの私を置いたまま。
「ねむりひめには気をつけて」
「ねむりひめ?」
「君を引きずり込もうとした存在だよ。誰が名付けたのかは知らないけれど、いつの間にかねむりひめと呼ばれるようになっていた」
 湖底に潜む存在の名称は、ねむりひめ。
 地面を見つめながら、引きずり込まれかけた時の事を思い出す。あんな現象、どうして対処ができようか。
 何故ねむりひめであるのか問いかけたくて再び顔を上げると、彼の姿はもう無かった。まるで泡みたいに音もなく消えてしまった。
 水面に映されたような夜空も消えて無くなって、漸く私は、現実に戻ってこれたことを実感する。月も雲も、もう揺れることはない。地面もしっかり堅くて、足が飲み込まれることもない。商店街の方は灯りがある。
 あの節くれだった指も、ねむりひめなんて謎の多い存在も夢から覚めたみたいに溶けて無くなってしまった。
 夢から覚めた私は、ふとあの青年の名前を聞くことを忘れてしまった事に気づいた。
 彼が居なくなると、途端に静寂が苦しくなって、私は父に電話をかけた。
 受話器越しの父はどこか慌てた様子で朱色、と私の名を口にした。
 何処にいるのか、今まで何をしていたのか、母さんを心配させちゃいけないと、矢継ぎ早に言葉を吐き出す父の姿を想像して思わず笑みが零れた。普段はあんなに寡黙で、必要以上に口を開かない父が取り乱している。
 大切にしてもらえているんだ。私も真皓も。
「お父さん、やっぱり迎えに来てもらってもいいかな」
 そう言うと、父は暫く黙り込み、何処にいるのかと返事をした。商店街裏の細道と答えると、明るいところで待ってなさいと言って電話は切れた。
 今日は本当に色んなことがあった。
 細道を抜けて大通りに出ると、私はバス停に設置されたベンチに腰を落ち着けた。
 傍の寂れた商店街を覗くと、それぞれが閉店の準備を始めていた。シャッターを下ろす鮮魚店の男性、精肉店の男性は一度大きく伸びをしてから奥の方に引っ込んでしまう。欠伸をしながら暇そうにしていた玩具店の店主は、表の筐体を三台とも店内に入れ、シャッターを降ろし出す。
 やっと一日が終わる。
 家に張り付く記者も流石に消えているだろう。そう願いたかい。彼らの相手をしているような体力はもう無い。
 帰ったらお風呂に浸かって、寝間着に着替えてさっさと寝てしまおう。今日はなんだかぐっすり眠れる気がする。
 真皓の後ろ姿を思い出す。
『俺が死んだら、姉ちゃんは泣いてくれる?』
 あの言葉に対して、彼はなんて答えて欲しかったのだろう。同時にその答えは、恐らく彼が失踪しなければ気が付かなかった事かもしれない。そう思うと皮肉な話だと思う。
 ねえ真皓、もし帰ってきてくれたら泣いてあげる。泣きながら思いっきり抱きしめて、しょうもない事で喧嘩した事を謝りたいの。
 そうしたらきっと貴方も謝ってくれるでしょう? 俺も悪かった、とか目を逸らしながら恥ずかしそうに言ってさ。そして最後はお母さんのご飯を食べて一件落着。
 そうやっていつも私達はやってきたんだもの。
「ごめんねくらい、言わせてよ」
 多分帰ってこない弟に向けた言葉は、やって来たバスの音に溶けて消えると、それっきり聞こえなくなってしまった。



   四

「失踪者なんて馬鹿みたいに多すぎてどうしようもなかったわ」
 開口一番茅野先生はそう口にすると、機嫌悪そうにカップに口を付けた。白い陶器から漏れる湯気と共に、紅茶の薫りがする。
「世の中って失踪者だらけですし、流石に難しいですよね」
 苦笑交じりにそう告げると、彼女は目を細め、意地悪そうに口角を上げると一枚の新聞記事を取り出した。
 私はそれを受け取ると、隅の小さな記事に目を落とす。
『失踪者の恋人が消えた』
 事件は今から二年前のもので、場所は私の通う雪浪駅から幾つもの電車を乗り継ぐか、若しくは飛行機での移動を考えなければならないような遥か遠くに位置する他県の高校だった。
「二重失踪?」
「有名でもなければ失踪事件なんて取り上げる記者はそう居ないみたいでね。私も諦めていたの。「口から泡が見えた」なんて言ったってオカルト関連の方に回されて勝手に盛り上げられて終わるだけだしね。それこそ貴方の弟みたいな消え方をしたらまだスクープにもなるんだけど」
 私は再び記事に目を落とす。
『三ヶ月前、黒鵜高校の卒業生が失踪した事件で、更に卒業生の一人が行方をくらました』
――弓月遥(ゆずき はるか)
――唄野彼方(うたの かなた)
 名前の記述はあったが写真までは貼られておらず、ありきたりな内容で終わっているところを見るにこれ以上展開させる情報も無かったのだろう。
「でも、どうしてこれを?」
「黒鵜高校って以前の勤務先の近くだったの。ふとうちでも失踪事件があったのを思い出して元勤務先に電話してみたら、隣の高校で昔あったこの事件を見つけたの」
「大分遠い場所ですね、ここ」
「これくらいが限界かな。もっとできるつもりでいたんだけどね」
 口をへの字に曲げて彼女は珈琲をもう一つマグカップに注ぎ入れると私にくれた。
「それとね、その二重失踪事件、男の子の方はどうやら彼女を探し続けてるうちに消えちゃったみたいなの」
 茅野先生はカップを置いてからベッドに腰掛けた。私は傍の丸椅子を持ってくると、先生の向かいに置いて腰掛けた。
「周囲が失踪と騒ぐ中、その子だけは誘拐だって言い張ってたらしいわ。随分と恋人探しに躍起になっていたみたい」
「誘拐、ですか」
「そう確信する理由は誰にも言わなかったみたいなんだけどね、そこにある一つのワードを当てはめるとなんだかしっくり来る気がしない?」
「……口から泡」
 彼女は頷いた。
「唄野彼方君の恋人だった弓月遥さんは、失踪する直前に彼と会っていた。その時彼女の口から泡が出るのを彼は目撃した。泡を見た次の日から彼女は音沙汰が無くなり、失踪した。そんな事があったら、あの時の泡に何かあると彼が思い、失踪の原因はそこにあると考えてもおかしくはないかもしれない。まあ周囲に口から泡が出るのが見えたと言っても信じてもらえはしないでしょうけど」
「だから、個人で彼女の失踪事件を解明しようとした」
「で、彼は恐らくその現象に対する事件の真相を暴いたか、それに近い状況に足を踏み入れてしまった。その結果、彼もまた失踪してしまった」
 確かに、そう考えるとなんとなく道筋は出来上がっているように思える。そう、まるで――。
「まるで貴方みたいよね、朱色ちゃん」
 私の考えを先読みするかの様に彼女は口にした。
「ほんの少しそういう事に興味を感じた人間がいたかどうかの違いで、この子と貴方は、大体一緒のような気がするの。まあ予想の範囲に過ぎない。でも、もしこれが関連していたとしたら」
 その先をあまり答えたくなかった。
 唄野彼方という少年と同じ道をたどっているとすれば、咲村朱色が弟を探しているうちに失踪なんて可能性もあり得なくはない。
 それに、私はつい先日そうなりかけたばかりだ。余計な心配をさせるべきではないと茅野先生に報告していないが、あの時、私は確かに死にかけた。
 もしあの青年の助けが無ければきっと今頃――
「ねえ、朱色ちゃん、ここらへんで手を引いておかない?」
「手を引く、ですか?」
 マグカップをじっと見つめたまま、茅野先生は頷いた。
「私はね、少しでも貴方の気が晴れるならと思ってた。どうせただの女子高生と保健室の担当じゃ大した事も分からないと思っていたしね」
 落ち着いた口調でそう述べる彼女を、私はただ見つめていた。
「怒らないでね。貴方が弟君を見つけたいって気持ちも泡の事も信じてるし、力になれたらって思ったのは本当だから」
 バツの悪そうな顔をする茅野先生に対して怒りとかそういった感情は沸かなかった。
 当たり前だ。生徒を守る存在が本気で事件に関わらせようとさせてはいけない。彼女もまさか似たような失踪事件を見つけてしまうなんて思いもしなかったのだろう。
 だとしたら、むしろ幸運なのかもしれない。
 私がもしあの時失踪していたら、彼女はきっと自分を強く責めた筈だ。気軽に弟探しの助力を口にしてしまった事に責任を感じ、もう戻ってこない私を思って絶望したかもしれない。
 もし私が食べられてしまっていたら、あのねむりひめとかいう存在に一番都合のいい展開になっていただろう。本来一つだったご馳走が二つになる可能性だってあった。
 だから、この展開はきっととても運がいい。
「気にしないでください。むしろそうやって心配してもらえて私は嬉しいです」
 にっこりと笑みを浮かべてそう言うと、茅野先生は少しだけ安心したようだった。肩に入っていた力を抜き、珈琲を口にする。
「大丈夫です。私程度に何かできるとは思ってません。それに私まで消えたらお母さんやお父さんがおかしくなっちゃうから」
 そう、父と母がまずもたない。ただでさえ真皓の一件で母は塞ぎこんでしまっているし、父も表には出さないが憔悴している。それはこの間の電話でよく分かった。
 遅く帰ってきた私を母は強く抱きしめて、それから大声を上げて泣きじゃくり、父は何も無くて良かったと何度も呟いていた。
 それ以降私は車で送り迎えを受けている。過保護と言われるかもしれないが、そうでもしないとあの二人は壊れてしまうだろう。
 だから、私は真皓を探す上で一つの条件を自分の中に決めていた。
 何があっても自分の命をまず優先事項とすること。例え弟にたどり着いたとしても、死んでしまったらどうしようもない。おまけに父と母もねむりひめの餌となる可能性だってある。
 連鎖すればするほど水底にいるそいつにとっては好都合なのだ。
 私は死んでやらない。
 何があっても、死んでやるものか。
「もう少しだけ、真皓を探させてください。私は、せめてはっきりさせたい。真皓がどうなったのかだけでも」
 私の言葉を聞いて、茅野先生は目を細め、それから深い溜息を吐き出すと、ベッドから腰を上げ、白衣に両手を突っ込むと壁に寄りかかった。身体を少し張った事であまり目立たない胸がシャツ越しに強調される。
「朱色ちゃんがそれほどまで言うなら、私も手伝うわ。放り出すのも気が引けるし、何より君は生徒で私は教師……ってわけではないけど、少なくとも子供を護る側の人間だから」
「我儘言って、本当にすみません」
「本当に反省してたら、もう探そうなんて思わないでしょう?」
 そう言って笑みを浮かべる彼女を見て、私もつられて笑った。
「それにしても、何から手をつけていいものか。弓月、唄野から探ったとして、もう二年も未解決のままだから私達でどうにかなるとは思えない」
 さて、それが問題だ。私もこの件に関して何かを深く知っているわけではない。ただ突然道の途中で姿を消した弟の家族というだけだ。おまけに行動も父によって制限されている。
 互いに言葉を交わさずただただ黙り込んでいると、扉をノックする音が響いた。どうぞ、と彼女が言うと扉が横にスライドして、一人の教師が入ってくる。
「咲村もいたか」
 私のクラスの担任、沢木宗平だった。
 白髪交じりの髪を掻きながら私と茅野先生の顔見て、少し困った顔をした。その表情からなんとなく事情を察した私は、茅野先生と彼に軽くお辞儀をすると部屋を出て扉を閉めた。
 何かあれば自然と私の方にも耳に入ってくるだろう。校内の噂の伝染力は強いし、何もなかったとして茅野先生がそれとなく教えてくれるかもしれない。
 落ちかけた夕陽が廊下の窓から差し込んで、リノリウムの床を橙と薄暗い陰で塗り潰す。私は夕陽を浴びながら廊下を歩く。
 玄関を出て 私は父に向けてメールを打つと、少し歩いて校門付近に設置されたベンチに座った。
 夕闇に染まっていく住宅地が見える。ランドセルを背負った小さな男の子と女の子が手を繋いで歩いて行く。手前の歩道を帰宅途中の主婦達が、ビニール袋やエコバック、布製の手提げをぱんぱんに張らせて歩いて行く。
 何一つ問題の無い、平凡な日常だ。いや、本来はきっとこうあるべきだ。私はスクールバッグから茅野先生に返し忘れた新聞の切り抜きを取り出すとぼんやりとそれを眺めてみる。
 唄野彼方と弓月遥。
 この二人は、その後どうなったのだろう。彼は、彼女に出会うことが出来ただろうか。もし彼女と共になれたとしたら、それはそれで幸せな結末になるのかもしれない。
 だが、見つけることができずにそれぞれがこの世から姿を消してしまったとしたら、それはどんなに残酷なことだろう。必死で彼女が生きている事に賭けたのに、彼の希望は報われずに終わってしまい、二人の物語が終わったとしたら。

 目の前を野球部員が列を成して走り去っていく。校門から玄関口まで駆けて行くと、折り返してグラウンドへと戻る。一人一人の掛け声を耳にしながら私はそっと目を閉じた。
 ラケットがボールを打ち出す音、サッカー部と野球部の気合の入った声、統一感のある金管楽器の音の中で、調子外れの音が一つ。
 ベンチの前を下校組が通って行く。
 帰りにカフェに寄って行こう。あの店のパフェがとても美味しい。今日は彼氏と一緒じゃないの。ゲーセンちょっと寄ろう。弦買いたいから楽器屋付き合って。
 様々な言葉を彼らは口にしている。それらを適当に聞き取りながら、そうそう、これでいい。と私は笑う。
 程なくして父の車が校門前に止まり、私はそれに乗って帰宅した。自宅前の記者の数も大分減り、咲村真皓の失踪に関するニュースもテレビは取り上げなくなってきた。新聞にも載らなくなった。
 進展がなく、旨味のない事件はこうやって人々の記憶から薄れていく。当事者たちはそうしてやっと安息を手にすることができる。散々騒いだ癖に、後片付けは誰もしない。
 こんなの酷い話だよね、とリビングで父に言ったら、父はでもこれで普通に戻れると一言だけ呟いた。
 普通ってなんだろう。私が聞くと、父は首を傾げた。普通は普通だよと答えて、それから私たちは黙り込む。

 それから少しして、真皓に関する情報が何も得られないでいる時、一つのニュースが雪浪町周辺を騒がせた。
 今度は雪浪高校の生徒が、姿を消したのだ。




sage