Neetel Inside 文芸新都
表紙

掌編道場
お題:牧場 作:和田 駄々

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 ミルクが白人の強さを作った。
 というのは、曽祖父の代から牧場を営むパパの格言で、書斎にはママが刺繍したその言葉が額縁に入れて飾ってある。曰く、ミルクの栄養素を効率的に分解出来るのは白人だけの特権であり、黒人やアジア人は、白人の真似をしてミルクを飲んでも、その恩恵を受けられないのだそうだ。アメリカ南部、未だ消えないレイシズムを隠し持ち、動物愛護団体に毎年5万ドルを寄付するパパらしい言葉だ。
 
アーカンソー、バイブルベルトのど真ん中に、私が生まれた牧場はある。
 何匹の牛がいて、一体全部でどれくらいの広さなのかは知りたくもないし聞いた事もないが、時々観光客が遭難しているのを見るにつけ、パパがそのパパから受け継いだ物は、暮らしていくには十分なお金を生むようだ。
従業員には、もう5年も勤めているのに1人娘である私の事を知らない者もいる。それもそのはず、従業員といえども牧場内にある私達の住む屋敷には絶対立ち入り禁止であり、未だかつて黒人がこの屋敷の玄関を跨いだ事はない。しかも絶望的な事に、パパはそれを誇りに思っているらしい。
 
そんなパパが、日本から留学生のホームステイを受け入れたという発表を食卓でした時は、タチの悪い冗談だと思った。任天堂を韓国の企業だと思っているパパが、日本人に自慢の屋敷の部屋を提供し、夕食を振る舞う? まるで想像もつかないし、馬鹿げている。

「お前は何か勘違いしているようだが、パパは決して憎むべき差別主義者じゃない。アメリカは移民の国だ。その門は常に野蛮人に向けて開かれている」
 
その発言が冗談なのか本気なのかはいまいち分からなかったが、数日後に聞いた話では、パパが懇意にしている議員が日本人女性と結婚したとかで、共通の話題が欲しかっただけだという事を知って納得した。それと並行して税理士と何やら相談をしているようだったので、損得とポリシーを天秤にかけて、わずかに前者が勝ったのだろうと納得出来た。
 
結局、私はそんな冷めた目線で日本からの来訪者を迎える事になったのだが、彼女、日本人「遠坂梓」は、私よりも更に冷ややかな目線で私達家族を見ていた。最初から最後まで、彼女には全てがお見通しだったのだ。





 父と母は揃って空港まで梓を迎えに行き、その帰りついでに大学の講義を終えた私を車で拾った。両親が運転席と助手席に並んで座っている所なんて久々に見たし、私と梓の前で必要以上にベタベタしているのを見ると、私は車酔いより酷く酔ってしまった。家族円満を最初に見せつけたいという下心が見え透いていて、少し呆れていた私とは違い、梓はにこにこと物静かに笑いながら、父と母の会話を聞いていた。

 梓の第一印象は、大人しい子供、といった所だった。背は低く、童顔で、私と同い年とは思えないほどに幼い。耳まで隠れた長くてさらさらの黒髪は、昔テレビで見た日本の伝統的な人形を彷彿とさせる。英語は少し聞き取りづらく、時々辞書を引いているが、それを恥じる様子もない。なんというか、常に落ち着いているのだ。イエローというにはやや色白で、サマーキャンプの時の私よりはホワイトに近い。
父や母が何を言っても、にこりと微笑んで丁寧な調子で答える梓の本性がとっとと見たくて、早速だが私は意地悪な質問をしてみる事にした。

「日本人はクジラを食べるそうだけれど、梓、あなたもそうなの? 美味しいの?」
 
正直に言えば、クジラの事なんて私はどうだって良かったし、日本人がこの文化を批判されて怒っているというのも、ネットで聞きかじっただけの浅はかな知識だった。私はシーシェパードやその信者ではないし、前に食卓で海に行った事すらないパパがこの問題について日本人に憤りを覚えていたのを知っていたからこそ、パパのいるこの場で尋ねてみたかった。梓の返答はこうだった。

「前に1度だけ食べた事がありますが、私はあまり好みではありませんでした。だけれど、他国の文化に口出しするような方と一緒に取るお食事よりは、美味しいかもしれませんね」
 
大人しそうな顔をして、はっきりと物を言う。聞いていた日本人のイメージとは違ったが確かに、私はそこに私達の文化にはないような物を感じた。これにはパパもママも引きつるしかなかった。
家につくと、パパは真っ先に玄関に飾ってあるガラスケースに入った突撃銃を梓に自慢した。この牧場を始めた曽祖父が戦争に行った際に使用した物で、今でも問題なく使えるというのがパパの自慢内容だったが、まさか日本人相手に第二次世界大戦の話を振るとは思わなかった。
この話はパパの常套手段で、初めての来賓に対して立場の上下をはっきりと取る時に使用される意思表示だ。
「いつでも俺はお前を撃ち殺せるんだぞ」
 とでも言いたいのだろう。実際、目上の人にはただのモデルガンだ、と説明する。梓はこのさりげない洗礼にも「こんな所に飾っていては、強盗に利用されてしまうのでは?」と冷静な返しをしていた。

 

梓の牧場における生活は、概ね順調だった。一つ同じ屋根の下にいながら、私は少し距離を置いていたので、初日のようなちょっとした衝突もなく、会えば挨拶を交わす程度の仲だった。
大学では、梓はいかにもな秀才。たまたま講義で一緒になった時は、一所懸命にノートを取り、終わってからも講師に質問をしに行っていた。それが何の講義だったかも覚えていない私とは大違いだ。
 
その頃の私は、高校の頃から2年付き合っている彼氏との関係が冷え始めていて、鬱になる時間が多くなっていた。特に生理前は酷い物で、医者は私をPMDDと診断し、ありったけのサプリメントを買わされる羽目になった。
そんな最悪な気分の時、私は健気に牧場の手伝いをする梓に、こんなちょっかいを出してみた。



「梓、もしも私があなたの事を嫌いだと言ったら、あなたはすぐにここを出て行く?」

「いいえ。交換留学の期間はまだ3ヶ月残っていますし、ホームステイの約束はあなたとではなくあなたのお父さんとしています」

「そんな弁護士に聞いたような答えはいらないわ。これは、あなたと私の気持ちの問題よ。そうでしょ?」

「そうですね」梓が腕を組む。態度だけを見ると、どっちがホストファミリーだか分からない。「それじゃあ、こういうのはどうですか?」
私はその日初めて、梓の愛想ではない笑顔を見た。
「あなたが私を好きになる」

 私は動揺を隠しながら、皮肉めいた唇を歪ませる。

「出来ればそうしたい所だけれど、残念ながらそれは無理ね。あなたとは友達になれそうにない」

「なら恋人には?」

「は?」

 梓の細い指が、私の腕を掴んだ。逃げようともがく私は蜘蛛の巣に囚われた虫だった。

「ほら、例えばこんな風に」

 接近する唇が、私を喰らおうとしているように見えた。恐怖だ。退屈な日常に殺されるのとは別の、守っていた物が壊されてしまう種類の即時的恐怖だった。

「やめて!」
 私は梓の手を振りほどく。
「あなたにそんな趣味があったとは驚きね。うちは根っからのプロテスタントよ!」
 
実に馬鹿げた台詞だった。たった1人で迫ってくる異国の女の子に、キリスト教を盾にして私は逃げたのだ。梓がくすくすと笑っていたのは、単に私の反応が滑稽だったからだ。

 でも結局、私はこの事をパパに告げ口しなかった。骨の髄まで保守派のパパなら、これを聞いた途端に梓を別の家に移しただろう。最悪玄関の銃を使う事になったかもしれない。というのは流石に冗談だが、何にせよ、この出来事を誰かに伝えさえすれば、私は梓の顔をこれ以上見ずに済んだ。
私がそれをしなかったのが何故かと考えると、やはり梓は、本当の私を見抜いていたという事になる。


 一件以来、私は意図して梓に近づかないようにしていたが、梓の方は遠慮なく私に近づいてきた。私の所属するソロリティにやってきたのだ。ビッグシスターに連れられて。
「由緒正しき我々のソロリティに、日本人が来るのは初めての事よ」
 正しいかどうかは分からないが、歴史がある事は間違いない。私も祖母が同じソロリティに属していなければ、声をかけられる事すらなかっただろう。ビッグシスターは梓をこう紹介した。
「でも梓は、我々のクラブに寄付してくださっている牧場に一時的とはいえ住んでいるようだし、成績の方も大変優秀なようだから、みんな、構わないわよね?」
 ビッグシスターにこう言われて、異議を唱えられる者はいない。私が立ち上がって、「彼女はレズビアンだ!」と指を差せば場を混乱させるくらいは出来るかもしれないが、今度はそれを知っている私との仲を疑われて得がない。パパの耳にもそれはすぐ届いてしまうだろう。だから、黙っている他なかった。
「それに見て、梓ったらお人形さんみたいなの。ほら、この髪なんて真っ黒で、触ってもまるで手に触れてる感覚が無いのよ」
 我らが偉大なるビッグシスターは、新しいおもちゃを手に入れて大層ご満悦のようだった。1週間腋毛を生やしたままノースリーブの服を着て過ごすという新入生の入会儀式も、一時的な所属という事で免除されていた。お墨付きの私でも嫌々やったというのに。
 梓はそんな私のイライラなど気にも留めない素振りで、下手な英語を使って先輩方に媚びていた。いや、媚びているように見えたのは私が媚びてきたからだ。梓はいつも通りに距離を置きながら、そして自分がおもちゃにされているのも知っていながら、パーティーの後に残ったピザのように冷えきった感覚を、その薄い皮膚1枚下に隠していた。私にはそれが分かった。ソロリティのマスコットとして、その役割を全うしていた。


「梓。せっかくだから、しばらくソロリティの寮に住んだら? 気に入ってもらっているようだし」
 団欒の食卓にて、私がそう提案すると、意外にも乗ってきたのはパパだった。
「そうなのか? それなら私は一向に構わないぞ。ホームステイはあくまでも君を受け入れる仕組みであって、束縛する物じゃない。好きな時に帰ってきてもいい」
 例の日本人女性と結婚した議員が僅か2ヶ月で離婚したので、パパには梓を預かっている理由がほとんど無くなったようだった。以前より明らかに梓が手伝っている仕事の量が増えた所を見ると、パパの経営の才覚も伊達ではないらしい。
「いえ。せっかくのご提案ですが、まだしばらくここでお世話になりたいと思っています」
「はっは、それでも構わんよ」
 嘘つきのパパは毛皮が大好き。動物愛護団体に寄付する3倍のお金を使っている。
 その時、私は確かに見た。梓の嘲笑に満ちた表情を。
 私はその夜、眠りにつこうとして堪らなくなった。初めて自分が、自分の家族の事を恥ずかしいと思っている事に気づき、そして自分でも気づかなかった恥を、とっくに梓に見透かされていた事に、堪らなくなったのだ。
 夜。初めて私は、梓の部屋を訪れた。
「ねえ、あなたの事を好きになった、って私が言ったら、あなたは何をしてくれるの?」
 梓はお風呂上りで濡れた髪を乾かすドライヤーを置いて、タオルで丁寧に黒髪を拭きながら、私に近づいてきた。何かが終わって、何かが始まる予感に、胸が締め付けられる。そして私の耳元で、完璧な発音の英語を口にする。
「いつも疑問系ばかりなのは、あなたが私に興味を持っている証拠」
「何ですって?」
「ほらまた。あなたはいつも、他人が自分に何をしているかで評価を変えるという態度を取っている。でも、あなたが本当に気にしているのは、自分が相手に何を出来るか。何かをして相手が困らないか、ただ臆病になっているだけ。違う?」
 ミルクが白人の強さを作った。パパの格言が私を支える。
「……だとしたら何?」
「もういちいちお伺いを立てるのをやめなさい。あなたがしたい事を、ただ、すればいい」
 気づくと、私の唇が梓の唇に触れていた。顔を動かしていたのは私の方だ。梓の唇から放たれる言葉が恐ろしく、それを防ぐ手段がこれしかなかった。という言い訳も今は役に立たない。キスをしたかったからした。梓の武器を借りればこうなる。
「捻じ伏せさせて」梓の舌は、私達の口の中で確かにそう言っていた。絡まる唾液と途切れる吐息が感覚を麻痺させる。瞳が、美しい。
「……その前に」
 私は梓の束縛から逃れようと、顔を離す。ただそれだけの動作が私に余計な罪悪感を抱かせる。
「あなたの本性を見せて。梓」
 梓は至って真剣に言う。
「白人コンプレックスを抱えたごく一般的な日本の女の子。それじゃあ不満?」
 私達の関係は、とっくに一線を越えてしまっていた。もう、言葉はいらない。
「あなたのパパが知ったら、きっと私達を殺そうとするでしょうね」
 望む所。何ならイエスも一緒に相手をしてやる。私はミルクを嫌いになった。

       

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