Neetel Inside ニートノベル
表紙

ミシュガルド冒険譚
穢れに捧げ、癒し歌:4

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――――


 「なんか海水浴場閉鎖しちゃったみたいなのよねー」
 朝。青々と晴れ渡った空とは対照的に曇り空のような髪をいじりながらベルウッドは口をとがらせた。
 「そりゃ、あんな化け物が出たら仕方ないだろ」
 ケーゴがパンをかじりながらそう返す。
 パリ、とよく焼かれた皮を歯で崩すのが心地よい。
 少し味に物足りなさを感じて机の上にあったジャムに手を伸ばしたら、もう一つの手と重なった。
 ビクリと手を戻す。
 ジャムを欲したアンネリエに順番を譲ったつもりだったのだが、彼女も手を引っ込めたままこちらの様子を窺っている。
 こういう時今までどうしていたのかよくわからなくなり、ケーゴは味気のないパンをかじり続けた。
 そんな2人の様子に違和感を持ちつつもベルウッドはじゃああたしが、とジャムをたっぷりとパンに塗りたくった。
 なんとなくそれを恨めしく羨ましく想いつつ、今度は水を飲もうと水差しに手を伸ばしたらまたアンネリエと手が重なりかけた。
 慌てて手を戻してパンを飲み込もうとしたら思いのほか口の中が乾いてむせた。
 「あーあー、何してんのよあんたは!」
 ベルウッドが呆れ顔で水を注ぎケーゴに渡す。
 「いつにもまして間抜けな顔してると思ったら…一体どうしたのよあんたたち」
 せき込みながらも礼を言ってケーゴはようやく落ち着いた。
 「…別に何でも」
 追及されるのも困るからとケーゴは別の話題を探した。
 「そういえばヒュドールとブルーは…今日海に遊びに行ってるんだっけ。海水浴場閉まってて大丈夫なのかな」
 「大丈夫も何も、あの2人ならべつに整備されてない海でもなんとかなるでしょ。魚なんだし」
 「魚て」
 それはあまりにも淡白な言い方ではないだろうか。
 ケーゴの隣に控えていたピクシーも会話に参加する。
 「マスター・ケーゴ、私があの告知文の内容を伝えるに、今日はロビン・クルー氏の握手会もあるようです」
 「それは興味ないからいいや」
 別におっさんに恩がない訳ではないけど、行ったら行ったで同じ本を10冊くらい買わされそうな気もする。
 さて、それなら今日はどう過ごそうか。
 自分の本来の目的であるトレジャーハンティングに乗り出してもいいのだが、アンネリエを連れていくことに躊躇いを感じた。
 どうしたものかと迷ったケーゴの目の前でベルウッドがいたずらっぽく笑った。
 「そうだ!ヒュドールとブルーの様子見に行かない?」
 「2人の?」
 「面白そうだしいいでしょ?アンネリエも問題ないわよね?」
 話題を振られたアンネリエはおずおずと首を縦に振った。
 アンネリエがいいならそれでいいか、とケーゴは軽く考えて席を立ち、ピクシーに検索を依頼する。
 「近くで泳ぐのに一番適した場所ってどこだろう」
 「私が地図を投影しながら回答するに、この港の南西部ではないかと。潮の流れが比較的穏やかなうえ、天然の砂浜が出来上がっています」
 「ならそこに行ってみましょうか」
 ベルウッドが先導する形で4人は出発した。


――――


 「海なんて久しぶりねぇ」
 波の音に混じって心地よさげな声。
 来てよかった。本来の姿を取り戻したがごとく華麗に泳ぐヒュドールを見てブルーはそう思った。
 ヒュドールの下半身を彩る鱗は深海のような深い青色だ。
 普段葡萄酒に使っているとその色が紫がかって見えてしまうのだが、改めて海で泳ぐ彼女を見ると、その濃い青色が爽涼な海の青とよく似合っているのが分かる。
 ヒュドールに呼ばれてブルーも足を浸した。
 まだ夏本番という訳ではないが、海は心地よかった。
 もしかしたらブルーの中の魚人の血がそう思わせているのかもしれない。
 彼は服が濡れることを気にせずざぱりと海に潜った。
 やはり血のおかげか、海の中でも目に映る光景ははっきりとしている。
 青の中をヒュドールが踊っている。
 近づこうとしたら彼女はいたずらっぽく笑って逃げてしまった。
 「待ってよ、ヒュド」
 口からあぶくが漏れ出す。
 それでも声は伝わるようで、ヒュドールはこちらを振り返りながらなおも泳ぎ回った。
 ブルーはそれを追いかけつつも、彼女の自由な動きに、やはりあの樽がヒュドールを窮屈にしているのではないかと考えてしまう。
 いつもの酔いどれた姿とは一転、人魚は海中を謳歌し自在に泳ぎ回る。
 ヒュドールは人魚でブルーは半魚人だ。息継ぎの必要もない。
 しばらくしてヒュドールがようやくブルーに速度を合わせる。ようやく追いついたブルーは疲れた様子で口を開いた。
 「やっぱり早いなぁ…僕じゃ追いつかないよ」
 「そりゃそうよ。私はれっきとした人魚なんだから」
 普段と違い声は涼やかではっきりとしている。恐らく酒が入っていないからだ、とブルーは思った。
 つまり、これが彼女の本当の姿なのだ。
 「ねぇ、ヒュド。これからは酒樽に入るのやめたら?」
 「なんで?私お酒大好きなのに」
 小首をかしげるヒュドールに対してブルーは勢いよく答えようとした。
 「そりゃあだって…」
 が、そこで止まってしまった。
 頬が熱いのが分かる。
 海の中にいて顔が熱いだなんていったいどういうことだ。
 「えー…と、その、今の方が僕は好きだから」
 思いの外直球なその言葉にヒュドールは目を大きく開いたが、すぐに薄い笑みを見せた。
 すいっとブルーに近づく。
 あまりにも滑らかな動きにブルーは身を引くことすらできなかった。
 「―ーじゃあね、これは私とブッ君の2人だけのヒミツ」
 するりとブルーから離れる。
 ブルーはぽかんと言い返した。
 「ヒミツ…?」
 「そうよん。この海の中で私とブッ君だけのヒミツ。それならいいでしょ?」
 「…うん」
 ヒミツ。2人だけのヒミツ。
 単純なものでその言葉でブルーの胸は飛び上がらんばかりに踊る。
 彼の心中などお見通しであるヒュドールはそんな様子がおかしくてクスリと笑う。
 海の中は静かで、ゆらゆらと陽がさしている。
 このまま水面を眺めて揺られていたら気持ちよくて眠ってしまいそうだ。
 そっとヒュドールは目を閉じてみた。
 
 ―――ぇ―ちゃん。
 
 「…っ?」
 呼ばれた気がした。
 どこでもない、自分の中からその声は響いてきた気がした。
 奇妙に体をくねらせたヒュドールの様子にブルーは首を傾げた。
 「ヒュド?どうしたの?」
 「…ううん何でもない」
 それでもこの時は、まだ訝しがりながらもそう答えることができた。


     


――――


 黒い海と呼ばれるその海域は常に荒波が踊り狂い、強風が吹き荒れている。穏やかな海に囲まれているにもかかわらずその海域だけどす黒く、悪夢のような様相を呈していた。
 噂では黒い海に長居し続けると船が腐ってしまうという話もあるくらいだ。
 故に各国の船はその海域を避ける。
 それは甲皇国の企みにより緊迫し、各国の船団が集結しようとしているSHW領海においても同じであった。
 どれだけ企みが渦巻こうとも、黒い海の荒波の前では小波にも満たない。
 故に触れてはならない場所としてその海域は荒波を立て続けていた。
 折しも晴天。空は雲一つなく、どこまでも高く青色であった。それに対してその海域は底のない穴のように黒い。

 そこへ一筋の雷が落ちた。

 まさに青天の霹靂と言わんばかりに激しい音を立てて落ちた雷は黒い海を貫いた。
 すると、その海域はまるで生き物であるかのように一瞬動きを止めた。
 鼓動が止まる一瞬。それは最後の情けの様。
 すぐにまた海は荒れだした。
 それまでよりも激しく、苛烈に波が暴れる。
 やがて海域の黒が周りの青を侵食し始めた。
 黒く染まった海は激しい波を立てる。
 巻き込まれた艦隊はなす術もなく荒波にさらされる。
 突如として海が隆起した。
 何かが海中からぬっと姿を現し、轟音を立てて津波が起こる。
 そこにあったのは、一対の眼球。
 だがその大きさは尋常ではない。戦艦ほどの直径がある眼球だ。
 ぎょろりと眼光が動く。全方向に自在に眼球を動かしながらもそれはゆっくりとその体躯を海上に表した。
 その動きは緩慢ではあるのだが、巨体故に大津波を起こして周囲の戦艦を襲った。その脅威に艦隊は面白いほど簡単に轟沈していった。
 一対の眼球の上には縦に裂けた口がある。牙を縦に並べそろえたその口の奥はやはり黒く、終わりがないようだ。
 その体は水死体のようにぶくぶくと膨れ上がりつつも奇妙に弾力がありそうで、吐き気を催すようなくすんだ灰色。
 縦に伸びたその巨体からは腕が生えている。
 水生ほ乳類のようなひれ、蛸のように吸盤のそろった腕、甲殻類の鋏のような腕、好き放題に伸びる触手。
 天を衝くという表現がよく似合うほどの巨体。それにもかかわらず半身は未だ海中にある。
 目覚めたばかりという体のその生物は状況を確認するかのように体を揺らした。
 その度に津波が起きる。
 生物の口から大音響が漏れた。
 はじめ鳴き声のように聞こえたそれは、嘆きであった。悲痛が聞いた者の胸を刺し、離さない。
 ひとしきり悲嘆をこだまさせたその生物は半身を傾け、口からぐじょり、どろり、と何かを吐き出した。
 嘔吐のように吐きだされる、漆黒。しかし、それが何かは分からない。
 吐き出された黒い穢れのようなそれは、海の黒と混じりやがて境目を失くしたかのように見えた。
 ひとしきり黒い塊を吐き出すとその生物はゆっくりと、渦潮を巻き起こしつつ移動を始めた。

 「一体なんだあれは!?」
 混乱と悲鳴の中、ペリソン提督は負けじと怒鳴り散らした。
 答えを求めているわけではない。ただそうして怒鳴らないと自分が飲まれてしまいそうだった。
 辛うじて津波の衝撃には耐えることができた。恐らく皇国の技術のおかげだ。
 だが艦が万全な状態を維持しているかはわからない。
 被害状況を知ろうにも混乱が席巻してそれどころではない。
 それでも艦を預かる者として最大限の事をしなければならない。
 耳をつんざくような嘆きの声に辟易しつつも彼は操舵手に指示を出した。
 「最大戦速で後進!あの化け物から距離をとれ!」
 海の黒色が急速に広がっている。あの中に巻き込まれたら厄介だ。
 昨日海上を封鎖するSHW船団への対応を考えSHW領海に入らなかったのが幸いした。もしSHW領海に入っていたらあの海の中に飲み込まれていたかもしれないのだ。
 見ればSHWの艦隊が黒い海に飲み込まれ、何隻も転覆している。
 辛うじて難を逃れた艦隊が後進するが、化け物の触手が叩きつけられ、いとも簡単に轟沈した。
 「…っ」
 自分の乗り込む艦がああなったらと思うとさすがに肝が冷える。
 震えそうになる脚を無理やり動かし、ペリソンは吠えた。
 「急げ!死ぬぞ!」
 端的なその言葉にこもる生命への執着。船員たちはその怒号にようやく己を取り戻したのか、喚きながらも戦闘配置につく。
 経験豊富なペリソンといえどもあんな化け物は初めてだ。
 見上げるだけで首が痛くなるほどの巨体。既にこの距離からは眼球は見えないほど高い。
 甲皇国の最新鋭の大砲をもってして、はたしてあの化け物は倒せるのだろうか。
 「まさかあれが件のテロリストという訳でもあるまい…」
 恐怖が渦巻く中でペリソンは最善の手を模索した。


 「第三艦隊全滅!…うわぁっ!」
 絶望的な報告が響き渡る船内が揺れる。艦自体が恐怖しているようだ。
 ヤーは焦燥を無理やり胸の奥底に抑えて目の前の惨状を目に焼き付けていた。
 魔法陣を通して絶望的な状況だけがまるで別世界の出来事のように伝えられてくる。
 しかし、これは紛れもない現実。今、まさにミシュガルド大陸SHW領海で起こっている異常事態なのだ。
 今その場にいることができれば、と歯噛みする。
 危険だとしても、そうでなければ現状の把握が難しい。
 目の前にあるいくつもの魔法陣から送られてくる断片的な情報を無理やり縫い合わせるに、突如として化け物が現れ黒い海の領域が広がったということらしい。
 化け物のせいか荒れ狂う波のせいか、次々と魔法陣が消えていく。すなわち、術者の命が沈んだのだろうとヤーは悟った。
 「全艦、黒い海から脱することに全力をかけて!怪物を下手に刺激することのないよう!」
 ヤー自身は怪物がどのような姿なのかすらわからない。ただ彼らの怯え方からすると尋常ではない存在のようだ。
 SHWが造船技術にも通じていて助かった。そうでなければ今頃全艦隊が轟沈していたかもしれない。
 状況が状況だけにアルフヘイムと連絡を取っている暇もない。
 とにかく、窮状を脱しなければならないのだ。
 しかしどうすればいいのか。
 答えなどわかるはずもなく手を組む。
 「どうしたものかね…こりゃあ」
 困り果てつつもヤーの目は鋭い眼光を失わない。
 いくつもの打開策が頭を駆けるが、いかんせん初めてのことだ。しかも状況を目の当たりにしていない。
 まずは現状把握から、とヤーが結論づけたその時だ。
 1つの魔法陣から金切声が響いた。
 「何があった!?」
 応答を求める。
 「艦が動かなくなって…黒い魚人が大量に…っ」
 悲鳴と断末魔に交じって伝えられる事実はなかなかに壮絶なものだった。
 まさかエルカイダか。
 ヤーは思わず立ち上がり、声を荒げた。
 「全艦第一種戦闘配置!襲撃に備えて!」
 その指示と悲鳴が重なった。
 「こいつら…死なない…っ!!」
 馬鹿げた言葉に聞こえるそれは、しかし信じるに値するほどの恐慌をはらんでいた。
 ヤーがその言葉の意味を理解した時、既にその魔法陣はぶつりと消えていた。
 しかし彼は見逃さなかった。魔法陣が映し出していた像に一瞬だけ映りこんだ黒い影を。
 骨ばった痩せ細った体、顔は魚のそれだ。しかし、全身が黒く、朽ちているかのようだ。
 ヤーの知っている魚人はここまで不気味な姿ではない。
 それに、先ほどの言葉。
 「…死なない……?」


 突如として現れた巨大な生物が引き起こした大津波にアルフヘイムの者が魔法で対応することができるのは幸いであった。
 「防御魔法展開!できない者は魔力の提供を!」
 言うが早いかニフィルはアルフヘイム領海に魔法陣を展開する。
 魔法とは世界の魔力を体内に吸収し、変換、具現化させる術であるが、多くの者はその身にも魔力を宿している。己の内の魔力を用いなければそもそも魔力を体内に吸収することがかなわない。
 もちろん、魔力を持っていたところで魔法を使えるかは別の話である。それは身に宿す魔力の量の問題ではない。単純に上手く使えるか使えないかだ。己の魔力だけで魔法を使えることになるため多いことにこしたことはないが、大抵は自身の魔力だけではろくな魔法が使えないために一般論としての魔法は吸収、変換、具現化の順を辿る。
 言うなれば、外界の魔力は無色。それを己の魔力をもって身の内に引き込み、自分の色に染める必要がある。
 今ニフィルが展開した魔法陣には己の魔力を上手く扱えない者でも彼らの魔力を他者に供給できるように手助けをする術式が込められている。
 集まった魔力を防御魔法の術者に流し込むことで、術者の負担を減らし、さらに魔法の強化を図るのだ。
 ニフィルは自身でも防御魔法を展開した。船団の前に一際大きな魔法陣が現れる。
 これが2つ目の魔法。
 さらにニフィルは最悪の事態に備えて艦に魔法をかけて強度を増した。
 これで3つ目。緊急事態の中でもその手腕に彼女の周囲の周りのエルフたちは感嘆する。
 魔法の三重展開。並みのエルフは2つの魔法を同時に運用することにも数十年の鍛錬を要するというのに、ニフィルは平然とそれを超えてみせたのだ。それも魔法陣を用いて。
 魔法陣とは既成の魔法の複製装置と言ってよいものだ。
 通常魔法を使う時にはその状況に応じて体内に取り込む魔力の量や魔法の性質を変える。しかし、一度陣中に呪文の代わりたる魔法式を刻んで魔法陣として完成させ、魔法の発動ではなくその魔法陣の出現を行えば、常にその設定した魔法を扱うことができる。
 魔力変換や具現化のための式が既に存在しているため、その分負担が少なくなり、魔法行使までの時間も短縮できる。一方で常に設定した魔力を使わなければならないなどの欠点もある。
 いずれにせよ、魔法陣を使用する者は多い。ただし、魔法陣の作成の難易度は非常に高い。その上常に定量の魔力を必要とするために多重展開は呪文の多重詠唱よりも困難だ。そもそも多重詠唱であっても魔力を分散させて与える必要があるため通常は魔法の精度が落ちる。
 それを望まないのであれば、大抵は魔力を己の限界以上に取り込まなければならない。魔法が術者を介して魔力を要求するからだ。
 そしてそれは身を滅ぼしかねない愚行だ。己の許容量を超える魔力を宿すことも、逆に己の魔力を使い果たすことも生物にとっては危険なのだから。
 甚大な魔力の器。それがニフィルに魔法陣の多重展開、ひいては禁断魔法の使用を可能にした理由の一つだ。
 しかし、その力を疎ましく感じることもある。故に彼女は無意識に魔法の使用を避けているのだが、今回ばかりは緊急事態だから仕方ない。
 と、そこでニフィルは大陸のアルフヘイム領を包み込むように別の魔法が展開された気配を感じた。
 これは結界魔法だ。術者の許可したもの以外はその結界を通り抜けることは決してできない、ただの壁を作り出す防御魔法よりも強力な守護魔法。
 その魔力の質でニフィルは術者を特定した。
 「……アルフヘイムだけ、か…」
 3重魔法で羨望の眼差しを受けるニフィルであるが、その術者が自分以上の魔法使いであると彼女は理解している。
 古い付き合いのエンジェルエルフだ。むしろ彼女の力ならアルフヘイム領だけではなくミシュガルド大陸全体に結界を張ることができるはずなのに。
 あれはいつもエルフの事しか考えない。
 不遜な顔を思いだしニフィルが苦虫を噛み潰した時だ。
 艦に乗り込む者たちが必死に作り上げた防御魔法陣の群が一瞬で消え去った。
 違う。消されたのだ。あのエルフの魔力干渉によって。
 「一体何を…!」
 激昂しかけたニフィルの目の前で別の魔法陣が展開された。
 複数の魔法陣で防波壁を造り上げていた先ほどとは違い、巨大な魔法陣一つでアルフヘイム領海を覆っている。
 しかし、その魔法陣に刻まれた魔法式を読み取ったニフィルはさらに絶叫した。
 「あの魔法陣の前に防御魔法陣を今一度展開しなさい!!あの魔法陣には津波を触れさせてはいけない!!」
 怒涛の勢いで移り変わる状況に乗組員たちは慌てふためきながらもニフィルの指示に従う。
 やがて津波が到達した。
 すさまじい勢いで押し寄せる津波は魔法の障壁によってせき止められ激しい渦を巻く。
 穏やかだったはずの海は、しかし穢れた黒と清涼な青が入り混じり轟音を立てる。
 術者たちは障壁が受けた衝撃をその身に受けた。
 が、なんとか踏ん張りを見せ、ともすれば倒れそうになる我が身を叱咤する。
 やがて激しい潮の衝撃は和らぎ、術者たちは疲労困憊の体で息を深く吐き出した。
 当面の危機を乗り越えた船内の緊張が緩和する。
 「一体何がどうなっていますの?あの魔法陣は一体…?」
 無事を感じ取ったジュリアが誰ともなしにこぼす。
 ニフィルはいら立ちを隠さずに応えた。
 「あの魔法は私の知己のものです。…が、防御魔法ではありません。あの魔法陣に描かれた魔法式は転移を示している…。起動条件を津波の衝撃に設定してこちらにくる津波を全て転移させる魔法なのです」
 「転移…?ならば波が別の場所に行ってしまうと?」
 「ええ…その通りです。…そして、その転移先は甲皇国の帝都に設定されていました」
 さすがにジュリアもオツベルグも瞠目した。
 「そんなことが起きたら…っ」
 ジュリアはそのまま二の句が継げない。
 津波が帝都に転移されればその後の惨状など容易に想像がつく。
 オツベルグが顔をしかめてニフィルを見た。
 「どうやら私たちを快く思ってない大魔法使いがいるようですね」
 ニフィルは彼の言葉に首を振った。
 「大魔法使いなどではありません…あれは、どうしようもない…」
 「―ーあら、せっかく助けてあげたのにそんな言い方するのね」
 澄ました声が船内に響いた。
 聞き覚えのない声の出現にジュリアはあたりを見回す。
 ニフィルは堅い表情のまま黙っている。魔法によって声だけが届けられていることを知っているからだ。
 「ソフィア、あのけだものはあなたの仕業なのですか?」
 旧知の仲であるそのエルフの名を呼ぶ。
 響き渡る声が嘲笑に揺れた。
 「まさか。私が同胞を危険にさらすと思っているの?…あれをなんとかしたいならあなたが手を下すことね。…大陸のアルフヘイム領には結界を張ったわ。交易所も守りたいと思うならそれもあなたがやりなさい。悪いけど私は今から本国に戻るわ。あっちにも被害が及ぶかもしれないもの」
 「…っ、手を貸す気はないのですか?」
 「私はあの化け物が世界を滅ぼそうとアルフヘイムが無事ならそれでいいの。それに、どう考えてもあれはあなたの責任でしょう?国の守護を一身に引き受けてあげた私にそれは傲慢な態度だわ」
 冷たく放たれた責任と言う言葉にニフィルの心がすっと冷える。
 「責任…?あれは禁断魔法のせいだとでも言うのですか!?」
 「本当に何もわかっていないのね。だからあの魔法を使いこなせなかったのよあなたは。…あれはあなたが残した魔法の残余。私たちの故郷の穢れとはまた違う、執念が今になって目を覚ましたのよ。ここまで言えばニフィル、あなたには分かるでしょう?」
 「……ならばあの怪物は…」
 「生を貪るわ。さっきあれが口から吐き出したのが命を求め続ける渇求。今はミシュガルド大陸に向かってその群れが動いている。感じるでしょう、穢れた亡者を」
 感覚を研ぎ澄ますと、確かに感じる。あの怪物を中心にあの魔法が引き起こした執念が広がっている。
 それがあの化け物が口から吐き出した黒い塊のようなもの。
 そしてその執念が最も近くに生命があるミシュガルド大陸を目指して移動しているのだ。
 この異常事態の中、ソフィアは大事をとってアルフヘイムを護りに行くという。確かに亡者たちがアルフヘイムに向かってくる可能性は大いにある。
 交易所にも結界を張ってくれればいいものを、同胞の数の多いアルフヘイムを選び、他種族もいる交易所を見捨てたのだ。
 否、見捨てたという表現は間違っている。
 彼女はニフィルに守りたければ守れと交易所を一任したのだ。
 気まぐれな旧友に苛立ちを抱きつつもニフィルはダートを顧みた。
 「前線に配置した魚人部隊に伝えてください!化け物から放たれた黒い影を交易所に近づけてはならない…っ!」
 「あの魚人たちならもう死んでるわよ」
 なんでもないように告げられたその事実はさらなる衝撃を船内にもたらした。
 「馬鹿な!彼らはあの大戦で活躍した精鋭たちじゃぞ!?」
 反応したのはダートだ。
 彼らはもしもの時に備えて、SHWにすらその存在を伝えなかった奥の手だ。
 さしものダートもSHWに全てを任せていたわけではなかったんである。
 わだかまりのあるエルフと魚人であったが、力量に関しては信頼を置いている。しかしそれが。
 「防御壁を織りなす前、あなたたちの指示を待たずにあの化け物のもとへ向かったのよ。確かに彼らなら荒波を無視して泳ぐことはできる。でも多勢に無勢。亡者たちに飲まれてそれで終わり」
 「…っ」
 ニフィルの顔が引きつる。
 しかし、2人の会話の核心が他の者には見えてこない。
 ダートは声を荒げた。
 「一体何の話なのじゃ!亡者とはなんじゃ!?あの化け物は何なのじゃ!」
 応える必要はないというように声は途切れた。
 どうやらアルフヘイム本国に本当にとんだようだ。
 ニフィルは後手に回らざるを得ない状況に焦りを覚えつつダートに説明をした。
 「…あの怪物は禁断魔法の名残の暴走。先ほどあれが吐き出した黒い物体は禁断魔法と同じ効果を持つようです。…塊に見えてはいますが、恐らくあれは亡者たちの群れであるかと」
 要領を未だに得ない話だ。
 つまり、禁断魔法とは亡者の群れなのだろうか。
 魔法に疎い甲皇国のジュリアとオツベルグはもちろん、禁断魔法の本質を理解していないダートも他の乗組員もぽかんと首を傾ける。
 ニフィルは無意識に禁断魔法についての説明を避けたのだ。
 が、問題は禁断魔法の詳細ではない。
 ダートは未曽有の危機がミシュガルドに迫っていることを感じ取っていた。ダートだけではない。誰もが敏感に禁断魔法という言葉に反応し、その残滓らしい存在に恐れおののいている。
 「…とにかく、あの化け物同様に化け物が吐き出したものにも手を下さなければならないという訳じゃな?」
 「当面はそれだけの認識で構いません。むしろ、交易所に向かっている以上亡者の方が問題かと」
 簡単に答え、ニフィルは通信魔法を起動した。通信先は調査報告所だ。
 すぐに慌てた表情のハバナが応答した。
 「ニフィルさん!今津波がこっちに来てるって交易所中大騒ぎですよ!ってかなんすかあの化け物!?」
 ハナバの音声の背後からはけたましい鐘の音が響いて聞こえる。
 ハナバの早口の相まって交易所にも脅威が訪れていることが分かる。
 「ハナバ、落ち着いて聞きなさい。その津波以上に危険なものが今そちらに向かっています。とにかく、交易所の魔法使いを集めて…っ!全てから交易所を守り切ってください…!」
 ハナバの顔がさらに困惑に歪んだ。津波以上に恐ろしいものとは一体なんだ。
 船内の恐慌と交易所の混乱の板挟みになりつつもニフィルは冷静を保とうと必死だ。
 「詳しい説明はすべて後で行います。とにかく今は交易所の安全を確保してください…!」
 ニフィルの言葉にハナバは無理やり首を縦に動かした。
 納得はできない。それでもニフィルのことは信頼している。
 「わかった…っ!今、フロストさんが津波を止めようと向かったところ。自分は交易所全体に伝心の術をかける!」
 いうが早いかハナバは伝心を切った。
 「ハナバ…っ」
 言い差して口を閉ざす。
 決して無理はするな、と伝えたかったのだが。
 後ろ髪をひかれながらもニフィルは船員に向き合い、凛と言い放った。
 「私たちで、あの化け物を止めます。皆、力を貸してください」
 

     


――――


 警報を知らせる鐘がけたましく交易所に響き渡る。
 津波が来るぞという叫び声と共に人々がそれこそ波のように高台へと押し寄せる。
 「アンネリエ…っ!」
 その人波に抵抗しながらケーゴはアンネリエの手を取った。
 びくりと緊張が伝わるが、それどころではない。
 流されないように必死に歩き惑い、ケーゴは喚いた。
 「何なんだよこれ!津波くらいで何みんな慌ててるんだ!?」
 津波というとは大きな波がやってくるということだろう。だがここまで大騒ぎすることだろうか。
 確かに濡れるのは嫌だけどさぁ、とこぼすケーゴの頭をベルウッドが思い切り叩いた。
 「あだっ」
 「この世間知らず!そんなのんきなこと言ってる場合じゃないでしょうが!」
 ベルウッドに睨まれたピクシーが旋回しつつ説明を加えた。
 「私がマスター・ケーゴの無知に呆れながらも警告するところによれば、現在迫っている津波の高さはおよそ8メートル。このままでは死にます」
 「死ぬぅ!?」
 思ってもみなかった言葉だ。
 ケーゴはベルウッドに手を引かれ、まろびながらも尋ねた。
 「な、何故!?」
 「私が説明するところによれば、津波とは通常の波のように表面のみがうねっているわけではなく、海底から海面までがそのまま移動しながら全てを押し流していく自然現象です。その力は絶大で、数十センチの津波でも危険なのです。おそらく交易所の城壁もあの高さの波では倒壊する可能性が高いでしょう。押し寄せる波は家屋を押し流し、やがて引いていきます」
 「…なるほど?」
 よくわからないがとにかくすさまじいらしい。
 「私が推奨するところによればすぐさま交易所を出て高台へと避難するべきです」
 「高台って…!」
 アンネリエの手をケーゴが掴み、ケーゴの手をベルウッドが掴む。そうして必死に走りながら北門を目指す。
 既に北門には人が集まっており、押し合いながらも交易所の外に押し出ようとしていた。
 交易所の周囲は森に囲まれている。逃げるとすれば北門を抜けて森の小道を通過し、登山道へ行くのが最短だ。
 やがておどろおどろしい音が彼方から響いてきた。
 海が暴れている。海が吠えている。
 その音が人々を狂乱に陥れ、ケーゴ達もがむしゃらに人垣をかき分けようとした。
 やけくそ気味に叩かれていた半鐘の音がやんだ。
 叩いていた者も恐怖に逃げ出したのだ。無理もない。
 その時だ。
 (交易所の皆さん!聞こえますか!)
 声が頭に響いた。
 突然の出来事に一瞬人々は動きを止める。
 (ご存知の通り津波が迫って来ています!だけど落ち着いて!今、魔法監察庁の人を中心に魔法使いが津波を食い止めに行ったの!だから…だから魔法が使える人は協力して!この交易所を守って…!)
 「ふざけるな!」
 遮るように怒号が響いた。
 混乱しながらも頭に響く声を聞いていた内の誰かが叫んだのだ。
 「下手したら死ぬかもしれないってのに協力なんかできるか!」
 その言葉で催眠から解かれたかのように人々は再び高台に向かってぐしゃぐしゃと走り出した。
 見れば逃げまどっているのは人間ばかりだ。
 羽の生えた鳥人や魔法の使えるエルフは空に退避している。
 中には先ほどの言葉に応えて魔法で津波から交易所を守ろうとしている者もいる。
 そこでケーゴは唐突に気づいた。
 人間は何もできないのだと。
 守ることはおろか、逃げることすらできないのだと。
 できることをやろうと、できないことを無理することはないのだと、そう考えていた。
 それと矛盾する思いも抱いていた。
 じゃあ自分にできることって何だ。
 ぐらりと何かが崩れた。
 津波が来たのかと思ったが違う。
 自分の中の何かが崩れた。
 アンネリエは自分の手を掴む彼の手が力なくほどかれたことに気づいた。
 慌てて握り返した。
 と、そこでアンネリエは何かに気づいたかのようにはっと目を開いた。
 一方存外強く手を握られたケーゴも驚いてアンネリエを眺める。

 ――何か、何か大切なことに気づくことができるような気がした。

 「何してんのあんたたちはー!!」
 しかしベルウッドの怒号が2人の間に割って入った。
 ケーゴとアンネリエはびくりと肩を震わせてベルウッドの方を見る。
 背の低いエルフは彼らを見上げて喚く。
 「この緊急事態に手をつなぐのが初めてなことにでも気づいた訳!?それどころじゃないでしょーが!さっさと走れーっ!!」
 言われて初めてお互いの手を見る。
 あまりに必死でそれに気づいていなかったのだ。
 「~~~っ」
 場違いなようにケーゴの頬が火照る。
 とはいえどもここで手を離すのもおかしな話だ。
 そんなやりとりをしている間にもケーゴ達は押され、弾かれ、結局その人だかりの外に追いやられてしまった。
 音は次第に大きくなっている。
 このままではもう間に合わない。
 「…っ、どうせ間に合わないなら…っ」
 ケーゴは短剣に手をかけた。
 なんとか自分も交易所の防衛に貢献できないだろうか。
 できない訳ではない、と思いたい。
 無力なままが嫌だからとか、そんな負けず嫌いな理由じゃない。
 ちらとアンネリエを見る。
 不安そうにこちらを見ているエルフは、人間よりも長寿で魔法に長けて誇り高き種族のはずなのに、それを感じさせないほどに華奢で、儚げで。
 ――守りたい。
 出会った時からずっとそう思っていた。
 彼女が話せないからとかそういうことではない。
 なぜかは分からない。ただ、そうしたいと直感した。それだけだ。
 そうだ。違う。
 「逃げれないからじゃない……ただ、守ってみせる…っ!」
 ケーゴは迷いを振り切るように彼女の手を離した。
 アンネリエの目が衝撃で大きく見開かれた。
 「ベルウッド!アンネリエの事頼む!できるだけ遠くに逃げてくれ!」
 それに気づかずにケーゴは叫び、駆けていく。
 「あっちょっと!待ちなさいよ!バカケーゴ!」
 そう叫ぶベルウッドの声すら聞こえず、アンネリエは力なく立ち尽くした。
 次第に遠くなる背中に向かって言いたいことはたくさんある。
 どうして、彼を呼び止めることができないのだろう。
 どうして、彼に伝えることができないのだろう。
 どうして、彼に聞くことができないのだろう。
 「…っ」
 どうしても声が出ない。
 どうしても脚が動かない。
 引き止めたいのに。追いかけたいのに。
 その代わりとでも言いたげに目からは感情があふれ出してしまいそうだった。


 ――ねぇ、ケーゴ。守るってそういうことなの?


       

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