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「ブッ君、大丈夫!?」
徐々に開けていった視界。ヒュドールの顔が近い。
「…!ヒュド!」
慌てて辺りを見回す。
ブルーはそこが先ほどまでいた海辺ではないことに気づいた。
深い青に包まれ、足元にも暗い海が広がっているばかりだ。
のろのろと記憶がよみがえる。
そしてはっと目を見開く。
「そうか、僕たち…」
「津波に巻き込まれて相当遠くまで来ちゃったみたいねぇ…」
「…っ、ヒュド、大丈夫だった!?」
ヒュドールはこくりと頷いた。
半漁人のブルーよりも魚人であるヒュドールの方が当然荒波にも耐えられるのだが、ヒュドールはブルーのその気持ちが何よりもうれしかった。
他種族なら溺れ死んでいたであろう津波に巻き込まれた2人は、そこがミシュガルド大陸からかなり遠く離れた場所であると気付いた。
「…帰れるかな、交易所」
ブルーは己の内に生まれる嫌な予感をつい口にしてしまう。
「…そうねぇ。頑張れば帰れるとは思うんだけど…」
ヒュドールは体を温めるように腕をさすった。
本来魚人が海中で寒いと感じることは少ない。
その寒気の正体を、そしてブルーの嫌な予感の正体を、ヒュドールはようやく見つけることができた。
「…ねぇ、ブッ君…あれ…」
彼女が指さす先を見てブルーは瞠目した。
海が黒い。
あり得ないほどに黒い海が遠くに渦巻いている。
「…黒い海…?」
噂には聞いたことがあったが、目にするのは初めてだ。
気づいてしまえば、それは異様なほどの存在感、さらには見るものの心を重く押し付けるかのような重圧と寒気を放っている。
怖い。
ブルーの内にその感情が当たり前のように生じた。
ただ、海が黒いだけのはずなのに。
ただ、海流が激しいだけのはずなのに。
見ればヒュドールの身体が震えていた。
「ヒュド…!」
恥じらいも躊躇いも捨てて彼女を抱き寄せることができたのは、ヒュドールが普段見せない弱さをブルーに見せたからかもしれない。ブルーも同様に温もりを感じたかったからかもしれない。
ヒュドールは必死の表情でブルーに縋った。
「…ブルー、あれは、駄目…!」
「え?」
「駄目なの!あれに近づいては…駄目…!」
――おね……ん
ヒュドールの脳裏に誰かの声が響く。
思い出せない。誰。あなたは誰。
思い出さないといけないはずなのに。
焦燥と恐れが同時にヒュドールを襲う。
ブルーは脅え竦む彼女の手を引いた。
いつもと違う彼女の様子は彼の心境をも大きく変える。
「ヒュド、逃げよう。大丈夫、大丈夫だから…っ」
「…っ、ブッ君…」
握り返す力が強い。ブルーはそれに驚きながらもしっかりと彼女を離さない。
ヒュドールは潤んだ目で訴えた。
「…怖いの。……あの黒は怖いものなの…!ブッ君、お願い。また私を一人にしないで…!」
「…また…?」
ヒュドールの言葉に違和感を覚えつつもブルーはミシュガルド大陸へ向かって泳ぎだした。
黒く染まった海からは轟音が響いてくる。
艦隊戦でも起きているかのようだ。
5年前に中断したばかりの大戦を思い出す。
そう、思い出した。
大戦があった。
自分は、大戦の時、何をしていた。
何か。何かがあった。その時、何かがあった。
胸に切迫する何かを振り切るかのようにヒュドールはブルーに尋ねた。
「ねぇ…ブッ君はミシュガルドに来る前…何をしていた…?」
なんでもいい。返事が欲しかった。そうして、自分が一人じゃないと言い聞かせたかった。
「……甲皇国にいたよ」
しかし、予想外にブルーの言葉は暗かった。
「甲皇国でずっと働かされていた。ミシュガルド大陸にも最初は清掃員として連れてこられたんだけど、逃げ出したんだ」
「…そう、なの。ごめんなさい」
ブルーはしゅんとしたヒュドールの手を強く握り返した。
「いや、いいんだ。今はこうやって自由に生きていられるから」
正体不明の恐怖から逃げている状況で言う言葉ではないかもしれないが、それでもそれはブルーの本心だ。
と、そこでブルーはケーゴの言葉を思い出した。
敵がどうしようもなく強かったら。
が、今は敵どころではない。怖いのは、海だ。いかにして戦えと言うのか。
あの時、ケーゴにはヒュドールと一緒に逃げると答えた。
まさにその状況である。
守りたい、と彼は言っていた。
だが、こうして一緒に逃げることだって立派にヒュドールを守ることになっているはずなのに、どうして彼はあの答えで満足しなかったのだろう。
彼にとって守るとはどういうことなのだろうか。
ちら、と振り返る。
ヒュドールは不安げな顔でこちらを見ている。
幸いあの黒い海からは順調に離れている。どうしてあんな津波が起きたかは知らないが、とにかく無事に大陸に戻ることが出来そうだ。
「ヒュド、大丈夫だよ、きっと戻れる」
「…うん」
ヒュドールは自分の手を握るブルーの手を見た。
白く細い自分の腕と違って青黒くてごつごつしている。ハーフ故か鰓が腕に発現している。
「…こうやって」
その彼にも聞こえないほどに小さく呟く。
――こうやって、誰かの手を握っていたかった。
誰。私が握り返したいその手の持ち主は誰。
もうすぐ思い出せそうなのに。