Neetel Inside ニートノベル
表紙

ミシュガルド冒険譚
穢れに捧げ、癒し歌:10

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――――

 
 わからない。何もわからない。
 ベルウッドとロンドが何事か話しているのを聞き流すケーゴの脳裏には地下通路での情景が繰り返される。
 どうして亜人が疑われなければならないんだ。どうしてアンネリエたちが悪く言われないといけないんだ。
 結論など出るはずもなく胸の奥にざわざわと嫌な感触が広がる。
 何よりもアンネリエのあの表情が心に刺さって抜けない。
 悲しそうで、どこか諦めたようで、それでも唇を固く結んで。
 あんな顔をさせたくなかった。今もアンネリエの方を見ることができない。
 話が終わったようだ。慌てた様子で地下通路へと降りていくロンドを気にも留めずケーゴはベルウッドに尋ねた。
 「ベルウッド!何で俺たちが出ていくことになってんだよ!」
 いつもならさらなる怒声でもって返してくるはずのベルウッドはしかし、神妙な顔で静かに口を開く。
 「…あそこであれ以上騒ぎを起こすわけにはいかなかったわ。まだ小さな子だっていたのよ?」
 それに、と普段は見せないような戸惑いと躊躇いに染まった目をケーゴからそらす。
 「いるのよ、やっぱり。あたしたち亜人をああいう風に見てる人間は。今はこんな事態だし、魔法を使えるエルフたちが恐ろしいと思われたって仕方ないじゃない…!」
 「そんな…っ」
 絶句した。
 ケーゴとて人間と亜人の間にある確執を知らなかった訳ではない。昔ブルーとした会話を思い出す。それでも、今までは見て見ぬふりをすることができた。アンネリエとピクシーとベルウッドと過ごした日々にそんなものはなかったのだから。
 だが、もはやそれはかなわないのだ。
 ベルウッドは茫然とするケーゴを直視することが出来ず視線をおとした。昔、彼が特注なのだと自慢していた靴は土埃で汚れている。自分たちを、いや、アンネリエを探すために交易所を走り回ったのだろう。
 靴磨きをしていて、亜人だからと差別をされたことはいくらでもある。祖国ではそんなことはなかったのだが、皇国の人間もいるミシュガルドではそうもいかなかった。
 口論ばかりしているが、ベルウッドはケーゴに好感を持っている。エルフだろうがなんだろうがそんなことは考えずに接してくれる態度は良い。ただの世間知らずな田舎者と言えばまた機嫌を損ねるのだろうが、それでもそんな彼のまっすぐなところが気に入っている。そうじゃなければわざわざ一緒に行動などしない。
 そんな彼がアンネリエのことを意識しているのは明らかだった。いつだって彼女のことを守ろうとケーゴは剣を構える。
 ただ、最近はそれがあまりにも必死すぎるのではないかというのがベルウッドの見解だ。
 それを指摘したところで本人が自身の気持ちに気づいていないようだから何も言わないのだが。
 アンネリエはアンネリエでケーゴとの距離が縮まっている。昔はケーゴの隣にいることにむず痒さや躊躇いがあるような表情をみせていたのが、いつの間にか当然と言った顔で彼の傍に立っているのだ。
 その2人の距離が今はこんなにも遠い。
 ベルウッドはアンネリエの方へ視線を移した。
 できるだけケーゴの顔を見ないようにだろうか、彼の後ろでしょんぼりと立ち尽くしている。
 それよりも離れているのは彼らの心の距離だ。
 特に昨日から、2人の態度がおかしい。変にお互いを意識しすぎている。
 そしてケーゴは先ほどおかしいでは済まされない豹変をしでかした。あれは一体何だったのだろうか。
 思案するベルウッドの前でケーゴが短剣を構えた。
 「ベルウッド!」
 「えっ!?」
 突然名前を叫ばれて硬直する。そして自分たちが何故地下通路に避難していたのか思い出した。
 「伏せろーっ!」
 ケーゴの怒号が裏路地に響く。
 ひっ、と小さく悲鳴をあげながらも頭をおさえ、しゃがみ込む。彼女の頭上を火球が飛んで行った。
 背後でうめき声が聞こえる。心臓が冷えた。あの亡者たちだ。
 「マスターケーゴ、私が観察するにより大きな力でなければ対象の駆除には至らないようです」
 ピクシーの助言。ケーゴの瞳が苛烈に煌めいた。
 黒曜石の原石のような瞳は、いまや刃物のような危うさをはらんでいた。
 「……えたちが…」
 呟き。ベルウッドはそろそろと顔をあげた。
 そこにあるのは、怒りの表情だとまず思った。しかし、にじみ出る焦りも同時に感じた。
 「ケーゴ…?」
 「お前たちが…いるから…!」
 短剣の切っ先から炎が噴き出し長剣の刀身を成す。ベルウッドが止める間もなくケーゴは亡者のもとへと走り出していた。
 長剣を袈裟懸けに振り下ろす。先ほどの火球では再生してしまった亡者の身体が今度は消えることのない業火によって焼き尽くされていく。
 ケーゴは前を睨み付けた。嗅ぎつけられたのか複数の亡者たちがこちらへ歩を進めてきている。
 黒い魚人の他に酒場の常連もいるようだ。それがどうした。
 ――お前たちのせいでアンネリエがあんな顔をするんだ。
 「はぁああああああああああああっ!」
 雄叫びとともに剣を振るう。炎の波動が亡者たちに襲い掛かった。
 その炎を消すこともできず亡者たちはのた打ち回る。瞬間炎が消えたかと思うとそこには焼け焦げた遺骸が残されていた。炭と化したその黒色は焼かれる前の黒色と全く違う。
 亡者たちのその黒は人々の恐怖を煽る不浄なのだ。
 「まだだ!」
 吠える。全員焼き尽くしてやる。そうすれば、もうアンネリエが悪く言われることはないのだ。
 守る。アンネリエを守る。心がそれだけを叫んでいる。
 だからだろうか、離れた場所から彼を見守るアンネリエの表情にケーゴが気づくことはない。
 彼女はケーゴがさせたくなかった表情を今まさにケーゴ自身に向けているというのに。
 亡者たちは次々と現れる。ケーゴはその群れの中にためらいもなく飛び込んだ。
 「ケーゴ!」
 ベルウッドの叫びは届かない。
 アンネリエは唇をぎゅっと噛んでケーゴの背中を追った。
 叫んでも聞こえない。なら自分の気持ちなど彼に伝わる訳がない。そう、自分の言葉は届かないのだ。
 黒色の中に赤色が踊る。
 今まで以上の魔力を行使するケーゴはどこか恐ろしくもあった。
 その時だ。アンネリエの背筋を氷塊が滑り落ちた。
 振り向くとケーゴが向かった方とは反対側から亡者たちが近づいてきていた。
 「…っ!!」
 すぐさま逃げようとしたが足がまろんで転んでしまった。
 「アンネリエ!」
 ベルウッドが悲鳴を上げる。
 すぐさま立ち上がろうとしたが右足首がずきりと痛んでそれがかなわない。杖を庇って変に転んでしまったらしい。
 それでも、この杖だけは守らないといけなかったのだ。
 黒い魚人が迫る。くぐもったうめき声を喉から鳴らしつつアンネリエに手を伸ばす。
 必死に体をよじらせて逃げようとする。
 身体が芯から冷えていくようだった。亡者が一歩近づくにつれて四肢が氷に触れているかのように痺れてくる。
 引き攣ったような呼吸でアンネリエはなおも逃げようとする。亡者はもう手を伸ばせば届くほど近い。
 誰かが自分の身体を掴んで後ろへと引きずった。恐ろしい黒色が離れていく。咄嗟に思い浮かんだのはケーゴの顔。
 だが違った。今必死に自分を運んでいるのはベルウッドだ。
 ベルウッドはアンネリエを引きずりながらも手近にあった空き缶や空き瓶を亡者に向かって投げつける。心なしか動きが止まったようだ。
 そのまま路地裏を抜ける。近くではケーゴが戦っている。
 彼の周りの亡者たちには気づかれていないようだ。とはいえどもベルウッドがこのまま逃げ切れるとは思えなかった。
 「アンネリエ…!ちょっとその杖諦めたら!?」
 彼女が持ち歩く杖は背丈ほどもあるのだ。足を挫いた今それが邪魔になることは明白だ。
 しかしアンネリエはそれを拒否した。
 大切なものだ、そう言われたのだから。
 ベルウッドに離してくれと目で訴え、なんとか杖を使って立ち上がる。しかし万全とは言えない。
 亡者は体勢を整え再びこちらに歩み寄ってくる。戦うことはおろか走って逃げることすらできない。
 冷え切った体は自身を立たせるだけで精いっぱいだ。
 頬が濡れていることに気づく。杖を握る手にちからがこもっていた。
 助けてと、彼にすがれない。そうなったら彼が自分を守るために。
 胸がずきりと痛んだ。守ってくれればくれるほど、ケーゴがあの2人のようにいつか、と怖くなる。それを誰が望んだというのか。
 亡者が腕を伸ばす。身を引く。足首が痛い。
 「…っ」
 目と鼻の先にある黒い顔。守ってくれる背中はここにはない。
 そもそも助けてと叫んでも自分の声はきっと届かない。
 ふとアンネリエは痛感した。自分を守ろうとしてケーゴが傷つくのは嫌だ。その筈なのに。
 怖くて怖くてどうしようもない時に助けてと叫ぶのはやはりケーゴに向かってなのだ。
 わがままな矛盾だ。だからきっと、自分の声は届かないのだろう。
 これは罰だ。わがままな自分への罰。
 身体が凍りついて上手く動かない。
 視界の隅に赤い炎が映る。こんなにも近いのに、彼に自分の声は届かない。凍てついた体は温もりを得られない。
 「アンネリエ!」
 ベルウッドが金切声をあげる。
 亡者がアンネリエに倒れかかるように襲い掛かったその時だ。
 灰白が目の前に滑り込んだ。
 「させないのである!」
 聞き覚えのある声だ。確か酒場で昔会った、ゼトセと言っただろうか。アンネリエは思い出す。
 よく見れば灰白は彼女の髪の色なのだ。
 固い声音でそう言い放ったゼトセは手にする薙刀で亡者を阻んでいるようだ。そのままアンネリエとベルウッドがいた路地に向かって叫んだ。
 「ゲオルク殿!思いの外数が多いのである!」
 ケーゴが相手をしている亡者の事だろう。今やケーゴは緋色の闘気に包まれて、それだけで相手を圧倒しているようであった。しかし、その姿にやはりアンネリエは危うさを感じてならない。
 金具のこすれる音がした。見れば先ほどいた路地裏から甲冑を来た男がやって来ている。
 アンネリエたちやゼトセは難なく通ることができた路地裏も、重装備の男には駆け抜けることができないらしく難儀そうだ。
 ゼトセは亡者を切り伏せるとアンネリエたちを守る態勢に入った。
 再生を始める黒い肉塊を警戒しつつも、ケーゴの戦いに目を向ける。
 「…っ」
 ゼトセは息を呑んだ。孤軍奮闘とはこのことだろう。
 炎が蛇のようにうねり、波のように敵を飲み込む。
 赤い大剣で斬られた亡者は発火し灰塵に帰した。
 以前酒場で見かけた少年のその動きは実はでたらめなもので、見ていて危うい。しかし、それを魔法で補っているようだ。
 しかし、とゼトセは目を眇めた。
 戦っているというよりも八つ当たりの様に感じるのは何故だろう。
 思い当たる節がないわけではない。人はどうしようもなく理不尽で、理解できなくて、それでもそれを誰にぶつければいいのかわからない時に、それが間違っているとわかっていても自分を抑えられないことがある。少年の姿が追憶と重なる。
 ゲオルクがゼトセたちに合流した。
 ケーゴの戦いに目を向け、眉をひそめる。歴戦の男は一目で彼の状態を見抜いたのかもしれない。
 「…ゼトセよ、その娘たちから離れるな」
 「承ったのである」
 ゼトセが頷くと同時にゲオルクは剣を抜き戦いの中に駆け入る。
 ケーゴはゲオルクの加勢に気づいていないようだ。苛烈な炎が彼を覆う。
 骨まで焼き尽くすと思われる炎はしかし、ケーゴの盾だ。襲い掛かる亡者を容赦なく灰へと変えケーゴを守る。ゲオルクはその炎からも身を守らなければならなかった。
 灼熱の中でゲオルクは剣を振るう。敵は際限なく現れるようであった。
 「埒が明かない…か」
 自分の存在に気づきもせず炎を放ち続けるケーゴと再生を繰り返す亡者に苛立ちを覚えてゲオルクは低く唸る。
 ゼトセは戦うことができるが彼女が現在守っている2人が危険に晒される。ここは一度逃げた方が良いだろう。
 「小僧、退くぞ!」
 腕を掴む。そこでようやくケーゴはゲオルクの存在に気づいたらしい。しかし、その腕を払って怒鳴る。
 「離せよ!俺はこいつらを倒す…っ!」
 年端もいかない少年の顔は怒りに歪んでいた。これ以上邪魔をしたらゲオルクさえも敵とみなしそうな痛々しい瞳。
 よく見れば脚が震えている。気力だけで戦っているのだ。
 「俺がアンネリエを守るんだ!」
 瞬間、乾いた音が響いた。ゲオルクの平手がケーゴを張り倒したのだ。
 事態を静観していたアンネリエとベルウッドは息を呑む。
 「大馬鹿者!思い上がるなよ小僧!」
 地面が揺れんばかりの怒号が衝撃で動きを忘れたケーゴを貫く。
 見上げた先にあるゲオルクの顔は険しい。
 ぐらりと世界が揺れたと思うと腕を掴まれて無理やり歩かされてる。
 こんなことをしていたらあいつらが倒せない。アンネリエを守れない。
 胸の奥で激情が叫んでいる。しかし身体が言うことを聞かない。
 「――アンネリエ…」
 無意識であるかのような呟きと共に彼女へと目を移す。
 ケーゴの視線の先の少女を認め、ゲオルクはこの少女か、と理解する。
 亡者から逃れようとしている状況でする話ではないだろう。だが、ここでこの子供に突きつけなければならないとゲオルクの直感が告げている。
 ケーゴを投げるように解放する。乱暴に放された目の前にはアンネリエがいた。
 脅えているような、悲しんでいるような、心配しているような、今にも泣きだしそうに顔をくしゃくしゃに歪めている。
 「…」
 ケーゴは思わず目をそらした。こんな表情、見たくなかったのに。こんな姿、見られたくなかったのに。
 そんな彼を冷え冷えと見下ろしたゲオルクは淡々と言い放った。
 「守ると言ったな」
 返事はない。ただ悄然と頷く。
 「なら何故貴様はこの子にこんな顔をさせる」
 「…っ、それは…俺が弱いから」
 怖いものがあるから脅えるんだ。だから自分がその怖いものを排除すればいい。
 アンネリエを否定する者を、アンネリエが否定する事を、全部自分が消し去ればいい。
 そうしないとアンネリエは守れない。
 そうか、とケーゴは合点がいった。
 だから叱られたのだ。守ると言っておきながら何もできないから。
 ゲオルクは剣呑に目を光らせた。何も理解していない。
 苛立ちと共に短く吐き捨てた。
 「例え強くなろうとも貴様にこの子は守れんよ」
 落雷のような衝撃がケーゴの全身を駆けた。今まで自分を支えようとしていた心の柱が音を立てて崩れたような気がした。
 心臓がやけにうるさい。足が震えている。まるで全てが別世界の事のようにケーゴは立ち尽くした。
 目の前にあるアンネリエの顔は愕然と自分を捉えている。
 「何、を…」
 そんなわけない。強くなれば。強くなればきっとアンネリエを守れる。
 悲しい顔はさせないで済む。辛い目に遭わせなくて済む。
 血の気の失せた顔をした子供にゲオルクはさらに畳みかけた。
 「貴様の手が握る剣はこの少女も傷つけていると知るのだな。今の貴様は何も守っていない。自己満足に浸っているだけだ」
 ケーゴの中で何かがぷつりと切れた。
 力なくだらりと垂れた手がついに短剣を落とす。
 輝きを失った瞳がアンネリエをぼんやりと求める。彼女は目をそらした。
 胸までぽっかりと穴が開いてしまったような感覚を抱きながらもケーゴはアンネリエのもとへと歩を進めようとして、そのまま崩れるように倒れてしまった。
 アンネリエは倒れ伏したケーゴに駆け寄ることができなかった。
 そんな彼をゲオルクは無造作に担ぎ上げる。
 「ふん、相当無理をしておったらしい」
 そうして不安そうにこちらを見ている2人のエルフに言う。
 「調査報告所まで護衛しよう。こやつも気を失っているだけだ」
 ベルウッドとアンネリエは殊勝にこくりと頷いた。

       

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