Neetel Inside ニートノベル
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――――


 交易所が異様な雰囲気に飲み込まれていることは一目でわかった。
 ブルーは建物の陰から大通りの様子を窺った。だが、気味の悪い魚人のような者たちが徘徊をしていて通るに通れない。
 「駄目だ…ここにもいる…」
 困り顔を向ける先にいるのはヒュドールだ。人魚である彼女が地上でその下半身を晒しているのは非常に珍しい。が、彼女の樽は既に流されてしまっているのだ。
 先日買ってあげた水着が津波で流されなくてよかったと今更ながらブルーは思う。そうでなければ岸からここまで抱えて運んでくるのが色々と難儀だったはずだ。
 浜辺に戻る道中ではブルーだけが一度交易所の様子を見てくるという話であったのだが、彼らもまた黒色の化け物に襲われたのだ。
 その数体の化け物から辛くも逃れ地上に戻ったブルーが、ヒュドールをその場に置いていくことなどできるはずがなかった。
 そして、交易所なら、と賭けた一縷の望みも今消滅したのだ。ブルーは1つ息をついた。
 「海だけじゃなくて地上にもいたのね…」
 「…あれ、亜人なのかな」
 返事を求めるでもなく彼は呟いた。ヒュドールは沈黙を返した。
 答えなど必要ない。彼らの身体の黒を2人は既に知っている。
 それをヒュドールが口にした。
 「…黒い海と関係があるのかしら…」
 ブルーは押し黙った。答えようがなかったかもしれない。あの黒色が恐ろしかったからかもしれない。
 「…とにかく、ここでこのまま隠れてる訳にもいかないよ。酒場に戻ってみよう。もしかしたらミーリスさんやマリーアさんがいるかもしれない」
 そう言ってブルーはヒュドールを抱えた。とりたてて力の強い亜人の血が流れているわけではない彼には大きな負担のはずだ。
 「…ごめんね、ブッ君」
 こんな弱弱しい声を聞くのも初めてだ。その謝罪の意味が分からないブルーではないが、彼はそれを無視した。
 重いだなんて言うものか。何が何でも酒場まで連れて行ってみせる。
 改めて腕に力を込めた時だ。
 金属のこすれ合う音が近づいてくることに気づいた。
 一体何だとブルーが立ちすくんでいると、周囲に防具を着こんだ男たちが現れた。
 どうやら自警団のようだ。
 彼らもブルーたちがいることは意外だったらしく、ぎょっとした顔で立ち止まる。
 一方のブルーとヒュドールは、ようやくまともな人間に出会えた、と肩の力を抜いた。
 もうこれで安心だろう。この人たちに道案内を頼もう。それに、あの黒い怪物が何なのかも。
 「あの、僕たち――」
 しかし、ブルーの言葉を制するように自警団の1人が口を開いた。
 「…魚人……!」
 「…え?」
 男たちの顔が青ざめている。
 何だ。一体何が起きているんだ。
 魚人と言う言葉が周囲の男たちの間を駆ける。
 次第に彼らの表情が険しくなっていくことにヒュドールは気づいた。
 魚人。
 魚人だ。
 あの黒い化け物どもも、最初は魚人だった。
 そして、今目の前にいるこの亜人もまた魚人。
 何故だ。
 もう住民の避難は終わったはずだ。
 どうして今更こんな場所に魚人が2人もいる。
 男たちの疑念が増幅する。
 彼らの中に、一人でも非人間の種族がいれば違ったかもしれない。
 彼らがこの騒動の中で亜人への恐れを抱いていなければ違ったかもしれない・
 疑いに満ち、怒りと憎悪を目に煌めかせた兵士たちはしかし、2人に向かって剣を抜いた。
 「なっ、何を!?」
 驚き叫ぶブルーに対して剣を向けた兵士は怒鳴った。
 「黙れ亜人!交易所に魚人の化け物が現れたことと、お前たちが無関係だとは思えない!ここで何をしていた!言え!」
 「そんな!僕たちは今帰ってきたばかりで…!」
 ヒュドールを抱える両腕に力がこもる。
 目の前にいる彼女を脅えさせるわけにはいかない。
 「帰ってきたばかりだと…?」
 別の兵士の顔が歪んだ。
 「あの大津波の中!どこに行ってどこから帰ってきたというのだ!」
 ブルーは瞠目した。これが人間と魚人の認識の違い。
 彼らの表情はいよいよ険しい。
 怒りを向けられるブルーとヒュドールは逃げ場もなく脚を震わせる。
 残る兵士たちも、あの津波もお前らの仕業かと、アルフヘイムの差し金かと、2人を責めた。
 どうしようもなく、ブルーは違うと喚いた。
 自分たちは関係ない。自分たちは今海から戻ってきたばかりなんだ。お願いだ信じてくれ。そう叫ぶが彼らの耳には届かない。
 「ブッ君…」
 か細い声がする。
 肩を震わせるヒュドールがこちらを見ている。
 彼女だけは守らなければ、とただそう思う。だが、そのためにはどうすればいい。
 理不尽な悪意にブルーは唇をかみしめた。
 震える彼に兵士が一歩近づいた。
 「重要参考人として連行させてもらう。抵抗するならこの場で斬る」
 「…っ!」
 逃げ場はない。既に囲まれている。
 お願いだ。せめて、この人だけでも
 そう訴えようとしても喉が壊れたようにか細い声しかでない。
 ヒュドールがいるのに。
 ヒュドールだけは守りたかったのに。
 何もできず立ち尽くしたブルーに、兵士がさらに一歩近づいたその時だ。



 「――やめなよ」



 閃光が走った。
 まばゆい白に兵士たちが耐えられず目を覆う。
 ブルーも突然の光に目を細めていた。同時に体がぐらりと揺れた。
 がくりと揺さぶられる衝撃。
 気づくとブルーの目の前には、兵士たちがいた。が、もはや彼らに囲まれてはいない。
 何もない空間を包囲する自警団の男たちを外から眺めている状態だ。
 「なっ…?」
 両腕にはちゃんとヒュドールもいる。彼女もまた目をぱちくりとしてこちらを見つめている。
 状況に脳の処理が追いつかない。
 混乱するブルーはそこでようやく自分の身体が何者かに抱えられていることに気づいた。
 腹を抱えるその腕から解放され、ブルーはその人物をしげしげと眺めた。
 くすんだ翡翠色の大剣を背負う男だ。赤い服は首を覆うスカーフの青と対称的で目立つ。
 先端のとがった耳はエルフの証。硬くごわごわとした髪を赤いバンダナでまとめている。無精髭を生やしたその表情は、無。ただ正面を見据えるのみのその瞳にも感情は窺えない。
 予期せぬ闖入者に自警団の男たちは色めきだった。
 「…!何だお前は!」
 「その魚人の仲間か!」
 「答えろ!」
 怒号に眉一つ動かさず、男はただ自警団を眺めている。
 それが彼らを逆撫でする。
 怒りと混乱を抑えきれず、1人の兵士が駆けだした。
 「答えろと言っているだろぉおおおお!」
 叫び声と共に剣を振り下ろした。剣筋は確実にエルフの顔面をとらえている。
 思わずブルーとヒュドールは身を竦めた。
 エルフは微動だにしない。 
 そして、まさに兵士の剣がエルフを斬りつけるその刹那。
 剣とエルフの間に赤い膜が現れた。
 薄氷のごときその赤い膜は剣によっていとも容易くたたき切られるかのように見えたがしかし、兵士の剣を完全に受け止めた。
 予想外の衝撃が兵士の右腕を襲う。鋼鉄に思い切り斬り込んだかのようだ。
 彼の背後で事の成り行きを見ていた他の自警団の者たちも、予期せぬ盾に目を瞠る。
 「…!何だこれはぁっ!」
 エルフから距離を取った兵士が喚く。
 それに答える声がした。
 「…それは我が血液。我が力」
 唸るような低い声。
 ブルーが振り返ると巨大な熊型の亜人がこちらを、いや、兵士たちを睨んでいる。
 全長はブルーをゆうに超える。全身の筋肉と傷痕がその巨体をさらに威圧感のあるものへと変えている。
 その巨体を巡る2対の鎖は装飾だろうか。
 右手にはこれまた巨大な棍棒を持っている。その棍棒の周囲を赤い霧のようなものが漂っている。
 両目には断裂の痕が残り、そこに光はない。
 その獣人が唸り声ともつかぬ音を立てながら一歩前へ踏み出した。
 兵士はひっ、と情けない声を1つ出し、仲間のもとへ逃げた。自警団の者たちも次から次へと現れる亜人に対し、困惑の表情を浮かべ始めている。
 それを感じ取ったのか、獣人はエルフに向かって口を開いた。
 「我らが迅雷の同胞よ、その者らを安全な場所へ」
 「うん、ぼくわかった」
 エルフの声もまた地鳴りのように低く、一言そう発する。
 彼の体からばちりと電気が走った。
 瞬間、白い閃光が弾け、光が収束した時にはその場にエルフの姿も、ブルーたちの姿もなかった。
 それを認めたらしき獣人は、漸う男たちに向かい合う。
 「…さて、醜悪なる人間どもよ。貴様たちは今、我らの仲間を迫害したな?」
 亜人だから。魚人だから。
 それを理由に疑い、罰しようとした。
 「いかなる状況でもそれは許されない。例え貴様たちが恐れを抱いていようと、怒りを覚えていようと」
 獣の体毛が逆立ち、甚大な殺気が爆発した。
 「―ー故に、神罰は執行されるのだ」
 そこで兵士たちは直感した。それが人間の力では太刀打ちし得るものではないと。
 もはや、この場から逃れることはできないと。
 
 

 血の匂いが辺りにたちこめる。
 もはや原形をとどめていないかつて人間だったその肉塊を見て獣人は鼻を鳴らした。
 と、そこで背後に気配を感じた。
 「…迅雷か。彼らは無事か」
 光を失った彼の眼は、背後に佇むエルフの姿を捉えることができない。しかし、鋭敏に研ぎ澄まされた感覚は、その彼が迅雷と呼ぶエルフが首を縦に振ったことを察知した。
 「そうか、それは重畳」
 ならばもはや交易所に長居は無用だ。
 「我らが麗貌の同胞から連絡があった通り、既に報告所には仲間たちも避難しているようだ。この事件に乗して憎き皇国の輩どもの施設を襲撃するという企ては失敗だったようだな」
 「やめなよ」
 間髪入れず、エルフが獣人を制した。
 予想外の反論を受けた獣人は一瞬怪訝な表情を見せたが、すぐに合点がいった。
 
 新たな気配が裏通りに生じている。

 「…あぁ、そうだったな」
 
 先ほど獣人が見せた殺気よりもさらに苛烈な感情が瞳に映る。
 華奢な体を少々露出させた涼やかなその服装とその強い光を放つ目は不釣り合いだ。
 
 「――コラウドの言う通りです。我らが血牙の同胞、ロー・ブラッド。私たちの歩む道は常に正しき裁きの道。そこに“失敗”などありえません。此度の件も同じこと。神罰の優先ではなく、仲間たちの無事を“彼”は選んだのです。」

 見かけによらない硬い声。
 先端だけ黒に染まったレモン色の髪を両側頭部、短く結んでいる。
 熊型の獣人と向き合うとその小柄な体躯はさらに目立つ。

 「難儀なものだな。…それが神託者としての貴公の言葉か。我らが魂依の同胞にして漆黒の英雄」

 彼の正面で立ち止まった少女は凄絶な笑みを見せた。
 ローと呼ばれた獣人もまた、口元を歪めて牙をのぞかせた。そして彼女の名を呼んだ。


 「――ダピカ」

       

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