ミシュガルド冒険譚
穢れに捧げ、癒し歌:13
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人魚の里と呼ばれたその海底の街が“黒”に襲われたのは禁断魔法が発動した直後だった。
“生焔礼賛”がアルフヘイムの大地を穢した衝撃は遥か深海にまで伝わってきた。その衝撃を、そして海の悲鳴を聞いた時には既に逃げ場はなかった。
水棲型の亜人たる彼らは幸いにも甲皇国の侵略を受けることはなかった。しかし、祖国の大地からもたらされた凶悪な魔法にはいともたやすく攻め込まれてしまったのだ。
突如として海上からやってきたその黒色は激流をともないながら人魚の里を飲み込み始めた。
黒色は周囲のものを飲み込みながらも勢いよくその範囲を広げる。飲み込まれたものはどうなってしまったかはわからない。何も見えず、ただ黒があるだけだ。
逃げた。何を考えるでもなく本能が叫ぶままに逃げた。
あれに飲み込まれては駄目だ。帰ってこれない。
声がする。悲鳴だ。昨日まで笑い声にあふれていたのに。今は仲間の悲痛な叫びだけが海底に響く。
穏やかなはずの海中が荒れ狂い視界が回転する。水棲の身体をもってしても身動きが取れない。息苦しい。
黒が。黒が迫る。海を、街を、人を、あらゆるものを穢しながら死がやってくる。
必死に体をくねらせる。下半身は魚のそれであるにもかかわらず上手く泳ぐことができない。徐々に近づいてくる。
なおも泳ぎつづけた。もう振り返ることすらしたくない。振り返ったら、仲間が黒に堕ちていく様を見せつけられる。
普段なら難なくよける海底の岩に体をぶつけ、激流に漂う海藻に視界を阻まれながらも泳ぐ。
何が起きたのか、どこまで行けばいいのか、何もわからない。
――ぇ…ちゃん…
轟音にまぎれて微かに声が聞こえた。思わず動きを止める。
愕然とあの子の存在が自分を支配した。
どれほど世界が荒れ狂っていようともこの声だけは聞き逃さない。
愕然と辺りを見回す。どこだ。どこにいる。
――…ね…ちゃ……助け…
青が黒に染まっていく。白いあぶくが眼前に踊る。
確かに声がする。助けを、否、自分を求める声が。
あの子がこの世に生を受けて以来、ずっと聞き続けてきた声が。
――………!!
いた。岩に必死にしがみついている。荒れ狂う海の中で体は傷だらけだ。
大人ですら泳げないほどの荒波に耐える小さな子供。
――………!!
もう一度、名前を呼ぶ。
そして何もかもかなぐり捨てて彼のもとへと向かった。
激流に身をあおられ、一回転する。それでも無理やりに腕を伸ばす。
まっすぐあの子の方へ手が伸ばせない。どうして。こんなに手を伸ばしているのに。どうしてあの子に届かない。
――…ぇ…ちゃ…っ
助けを求めながら、あの子も手を伸ばした。
必死に前に進んだ。
もうすぐだ。もうすぐあの子の手を掴める。そうしたら2人で一緒にこの黒から逃げるのだ。
荒れ狂う世界に負けじと手を伸ばす。掴む。握り返してみせる。
唐突にあの子が掴まっていた岩が崩れた。
声を出すでもなく、思考をするでもなく、一瞬で。
一瞬で、弟は黒に飲み込まれていった。
そして、彼の歪んだ表情を網膜に焼き付ける間もなく、自分自身もあの黒色に――
ヒュドールはそこでブルーが自分の名を呼ぶ声を聞いた。
夢から覚めたように、目を大きく開く。
「ヒュド、大丈夫?」
ブルーが彼女の顔を覗き込む。
「ブッ君…」
力のない声。ブルーだけではなくケーゴたちも異変に気付いた。
身を案じたブルーが口を開く前にヒュドールは彼の肩を掴み、勢いよく言った。
「ブッ君、お願い、私を海につれていって…!」
「海に!?」
予想だにしない懇願に素っ頓狂な声をあげる。周囲の人々がちらとブルーの方を見たが、すぐに力なく視線を戻した。
「何言ってるんだよヒュド!今僕たちその海から必死に逃げて来たんじゃないか!」
ヒュドールはもどかしそうにかぶりを振った。
「それでも、それでもお願い!私、私…あの子の所に行かないと…!」
「あの子…?」
訝しがりながらもヒュドールの視線の先を見る。
彼女はニッツェが持つ水晶、それに映る少年の人魚を見ていた。
ニッツェがついと水晶を差し出すと、ヒュドールは半ば奪うようにそれを掴み、怪物に戦いを挑むその人魚を凝視した。
水晶を固く持ちながらヒュドールは小さく呟いた。
それが、人魚の少年の名前なのだろうとブルーは考えた。
「お願いよ…ブッ君…」
そうしてヒュドールは再びブルーに言った。
震える声はブルーの心に突き刺さる。それでも彼は彼女の願いを是とするわけにはいかなかった。
「…駄目だよヒュド…!」
涙をためた目を大きく開いてヒュドールはブルーを見上げた。
顔には失望が浮かんでいる。ブルーは思わず顔をそらした。
どう思われようとも構わない。嫌われてもいい。
「危険なんだ」
ブルーはともすれば荒くなりそうな呼吸を落ち着けながら言い切った。
「危険なんだよヒュド!外にはあの黒い亡者みたいなのがうようよしているし、それに、あんなに酷い目にもあったじゃないか!海だってすごく荒れてるし、それにあんな巨大な化け物が黒い海に…!」
違う。言葉を紡ぎながらブルーは気づいた。
こんなことを、こんな常識的な理由を言いたいんじゃない。
胸からこみあげてくる想いはただ1つ。
その想いが自分の言葉を薄っぺらな警告だと胸中で暴れる。
暴れるその感情に任せてブルーは叫んだ。
「…っ、僕は!ヒュドのことが大切なんだ!」
ヒュドールの目がより一層大きく開かれた。
つつ、と涙が一筋零れる。
「大切なんだよ…!君のことが…!死んでほしくないんだよ…!」
それが、ブルーの本音。
化け物でも人間でもない。それが彼女を行かせたくない理由。
今、彼女を行かせてはいけない気がした。
どうしても、彼女の手を掴んでいなくてはいけない気がした。
想いを吐き出した後の心は空っぽで、それでも不思議と何かに満たされているようで。
ブルーにはそれ以上何を言えばいいのかわからなかった。
誰もがブルーの告白に圧倒されて呆然としている。ヒュドールでさえ返す言葉を探している。
時が止まったようだった。
少なくとも深呼吸3つ分の沈黙が続いた後、静かにケーゴが口を開いた。
「…ヒュド、前に手を握り返したいって言っていたね」
彼の声は奇妙なほどに落ち着いていた。
そして彼はヒュドールが持つ水晶へと視線を注ぐ。
「…その子の事だったんだ」
ヒュドールは無言でゆっくりと首を縦に振った。
「………そっか」
短く呟く。そして何かを覚悟するように。何かを祈るように。
ケーゴはゆっくりと目を閉じた。
地下通路の時ほどではないが、何かが違う。
アンネリエとベルウッドは硬い表情でケーゴを見守る。
緩慢にケーゴが目をひらいた。
そこにあるのは黒曜石の瞳ではない。ゆっくりと燃える温かな紅の瞳だ。
誰もが息をのむ中でケーゴは明るい声をつくった。
「…ヒュドール、ありがとな!」
「…え?」
唐突に礼を言われたヒュドールは何事かとぱちくりと目を瞬かせる。
ケーゴは続けた。
「俺さ、ずっと悩んでて!すごく苦しくて、それでもどうしようもなくて、戦うしかできなくて!」
不自然なほど明るい声だ。それは誰もが分かった。
でもどうして、ケーゴはこんな振る舞いをするのだろう。
疑念の視線をものともせず、ケーゴは笑顔で続けた。
「でもさ、ヒュドールが言ってくれた手を握り返したいって言葉の意味が分かって、ようやくお互いに手を取り合うことができたんだ!」
そこでケーゴがアンネリエに顔を向けた。
振り返ったヒュドールに向けて彼女は戸惑いながらも頷いてみせた。
そうしてアンネリエは、どうして自分は今涙を浮かべているのだろうと疑問に思った。
「守るってすごく難しい。俺、やっとその言葉の意味も、本当に俺が守りたいものもわかったんだ」
ヒュドールの脳裏にケーゴと話をした夜のことが浮かぶ。
あの時、ただただ力を求めていた少年が、袋小路で悩んでいた少年が、今こうして彼が守りたい本当のものに気づくことができたという。
あぁ、そうか。この子は、ケーゴは、大切なアンネリエの手を握り返すことができたのだ。
全てを諒解し、彼女は漸う微笑んだ。
「…よかったわね、ケーゴ」
「うん、だから」
ケーゴの声が一瞬震えた。
次の瞬間、ヒュドールの身体は赤い粒子と化した。
反射的にブルーがその粒子を掴むかのように手を伸ばした。しかし、赤い粒子は彼の手をすり抜け、水晶へと吸い込まれていった。
「…ありがとう、ヒュドール。きっとヒュドールも手を握り返せるよ」
ゆっくりとケーゴはそう言葉をきった。