「貴様っ…!!」
糸に絡められながらもシンチーはもがき続けた。ケーゴもなんとか立ち上がろうとする。だが、逃げたくとも足の痛みがそれを邪魔する。
その様子を見てヌルヌットは口元を歪める。
あれだけいた虫たちはヌルヌットの放つ電気に驚いて物陰から様子をうかがっているようだ。だが全く事態は好転していない。
ヌルヌットはシンチーの方を振り返って言う。
「アヘグニーの糸は強力じゃろう。いかに半亜人といえども脱出はできまいて。…まったく、ワシの知略にはまる者共を見るのは楽しいのぅ」
クツクツと下卑た笑いを見せる。
「…っ!!」
やはり先ほどの声はこの獣のものか。シンチーは唇をかんだ。
そして、なおももがこうとする彼女の視界に巨大な蜘蛛が映りこんだ。
横並びになった8つの目がギラリと光っている。巨大な体を体毛が覆っている。頭部の凹凸が人間の顔のように苦悶の表情を浮かべる。あるいはこの本当に蜘蛛の犠牲者なのかもしれない。
その大蜘蛛が、巣にかかった餌に向かって糸を吐きだした。
「やっ…!離せっ…!!」
しゅるしゅると予想外の速さで糸はシンチーの体を拘束していく。腕が、脚が、腰が、みるみるうちに白く縛られていく。シンチーは苦しげに顔を歪めた。
「おねーさ…っ!?」
シンチーの身を案じるケーゴにヌルヌットが一歩近づいた。
「よもやシェルギルたちに襲われているとは思わなんだが、これもまた僥倖。おかげで頭上のアヘグニーの巣にうまくあの娘をおいやれたわ」
もはやもがくことすら難しくなっていく。それでもシンチーは体を丸ごとゆすって抵抗を試みる。
「娘、貴様はそこで蜘蛛に食われておれ。ワシはこっちをいただくぞ」
ヌルヌットはケーゴへと顔を戻した。3つの目が獲物を捉える。
ケーゴは後ずさりをしつつ、近くの小石をヌルヌットに投げつけた。しかし、いともたやすく放電に弾かれてしまう。意に介した様子もなく、一歩また一歩と楽しむように獣は少年に迫ってくる。
息遣いも荒くケーゴは敵を見た。ヌルヌットも睨み返す。そこで気づいた。この目はまだ光を失っていない。それをもヌルヌットは見下した。
「なんじゃ、その目は。よもやまだ諦めておらぬのか。なら今すぐに息の根を止めてくれる」
「逃げて…!!」
息もできないほどに蜘蛛の糸はきつくシンチーの体を拘束する。しかし、なんとか頭だけは拘束を逃れ、守るべき少年に向かって叫んだ。
そのシンチーに向かって大蜘蛛はぐわりと大口を開けた。牙という牙が粘液で覆われ、あたりにどろりとした液体が飛び散った。この大蜘蛛は、この粘液で獲物を溶かして食すのだ。
どうしようもなく、シンチーは大蜘蛛をにらんだ。
同時にヌルヌットが、ついにケーゴに向かって飛び掛かった。
獣は牙をむき、飛び掛かってくる。ケーゴは目を見開いた。
一閃。
獲物の喉元を食いちぎろうと飛び掛かったヌルヌットの耳を何かが掠めて行った。
「…!?」
ピリ、と痛みが走る。ヌルヌットは警戒して、身体を回転させケーゴの傍らに着地した。
見るとケーゴが投擲のごとく右手を前に突き出している。
まさか、この子供が刃物でも投げたのか。
左耳の痛みを感じながらヌルヌットはケーゴをにらんだ。小癪なことをする。どこかに隠していたのだろう。
…だが詰めが甘い。あれだけ真正面から向かっていったのに、この子供はそれをはずしたのだ。
所詮児戯か。ヌルヌットは今度こそとどめをさそうと牙をむいた。そこで気づいた。
ケーゴはこちらを見ていない。今しがた自分が飛び掛かっていったななめ上空をずっと睨んでいる。こちらのことなど忘れているかのようだ。
その目はいまだに光が消えていない。何かを確信したかのように、燃えてさえいるかにみえた。最後の一撃が外れたというのに。自分を屠らんとする獣が真横で牙を見せているというのに。
その時、ヌルヌットの背後で何かが落下する音が響いた。
「なんだ!?」
巨大蜘蛛が巣から落ちてきていた。八本の脚がびくびくと動いている。まだ死んではいない。痙攣しながらも起き上がろうとしている。
ヌルヌットは思わず目を見張った。辛くも下敷きは逃れた。この蜘蛛がまだ小さくて助かった。
「あの娘か!?」
頭上を見やる。しかし、シンチーはいまだ蜘蛛の糸に絡められたままだ。驚いたようで眼下を見下ろしている。
もう一度大蜘蛛に目をやる。よく見ると蜘蛛の頭部に何か刺さっている。
ヌルヌットは三つの目を細めた。
ナイフだ。大ぶりのナイフが蜘蛛の頭に刺さっているのだ。
「…まさか、貴様!!」
ヌルヌットが振り返ると、果たしてケーゴは大蜘蛛をじっと見据えていた。口元は薄く笑っている。
狙っていたのは大蜘蛛だったのだ。だからこそ投擲後も見据えていたのはヌルヌットではなかった。
ようやくケーゴはヌルヌットを睨み付けた。
「俺の靴は特別でさ…。大事なものを隠せるようになってるんだ」
もしまたヌルヌットが襲ってきた場合、ナイフでまともにやりあえるとは思わなかった。だからこそ、あえてケーゴはナイフを靴に隠していたのだ。
シンチーの脳裏に浮かんだのは、崖の近くのあの場所を発つ際に足元をごそごそさせていたケーゴの姿だった。そうか、あの時に。
そしてヌルヌットが飛び掛かるまさにその瞬間、忍ばせていたナイフを取り出したのか。…いや、そうだとしても。
「だからといって、なぜあの娘を助けた!?」
ヌルヌットが唸る。
シンチーも同意するかのようにケーゴのもとへともがいた。
ぎりぎりまでナイフを使わず、相手をひきつけて、そして一撃必殺を狙う。その作戦は良い。
実際ヌルヌットもケーゴが隠し持っていたナイフには気づくことができなかった。あのまま狙われていれば確実にとどめをさされていたはずだ。それが何故。
絞りだすように、ケーゴは荒い息の中言った。
「だって、さ…。俺、あのおねーさんに助けられたんだよ」
それこそ、体を張って。敵の攻撃から自分を守ってくれた。
「だから、今度は…俺の番だ…!」
助ける。おねーさんを。絶望的な状況の中、それだけは決意した。
「俺だって…俺だって、何かできる。…何かしないといけないんだ!」
唖然とするヌルヌットを前にケーゴは無理やり立ち上がった。そして力の限り叫んだ。
「来いよ犬野郎!こっからが本番だ!!」