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黒い海。それがどうした。
あの日、あれだけ恐ろしかった黒色の中をヒュドールは臆すことなく泳いでいた。
いくら魚人と言えどもこの荒波と恐るべき黒色の中では上手く前に進むことができない。
それでも彼女は泳ぎつづけた。
魚の下半身をこれでもかとくねらせ、人の手で水をかく。
荒波が押し寄せ世界が一回転する。どこが海面でどこが海底だろうか。どちらが西でどちらが東だっただろうか。
いや、そんなこと関係ない。
例え今いる位置が分からなくとも、それでもわかるのだ。あの子の泣いている場所は。
泳ぎつづけた末、果たして視界の隅に何かの赤色を捉えた。
「――っ!」
名を呼ぶ。
どうしてこんな大事な名前を、存在を、忘れていたのだろう。
「待って!――っ!」
きっと、怖かったのだ。黒い海が、あの日の出来事が、あの子の手を握り返せなかったことが。だから無意識のうちに自らの記憶に蓋をしていたのだ。
でも、あの子はもっと怖い思いをずっとしていたはずで。
ずっと私のことを探していたはずで。
黒く染まった海中に、赤い軌跡が走る。
同じ黒のはずだが、あの子の輪郭が見えた気がした。
「――!!」
眼前にあぶくが踊る。どうして、どうして逃げるの。
私が…怖いの…?
「大丈夫よ!もう一人にはしないから…!ずっと傍にいるから!!」
だから逃げないで。
そう叫んだヒュドールの声は、穢れた少年の耳に届いたのだろうか。
ふいに彼が旋回し、ヒュドールと向き合う。
無垢な子供の面影はもはやなかった。
初めて彼の全身をまじまじと見たヒュドールは息をのんだ。
身体のいたる部分は黒く腐食し、下半身の一部からは骨が露出している。
全身に走る赤色。記憶よりもくすんで見える頭髪の青色。
それでもあなたは。
「――。」
名を呼ぶ。
それに少年は過激なまでに反応した。電撃が走ったかのごとく全身を震わせ、悲鳴とも咆哮ともつかない声で周囲の水を操り、波動と化したそれをヒュドールへ向けて放つ。
うまくかわしたつもりであったそれが右肩を掠めた。
一瞬顔を歪めたヒュドールはしかし、懸命に彼の名を呼んだ。
「――っ…!」
ゆっくりと泳ぎながら彼と距離をつめようとする。
少年の人魚は顔をこわばらせて後ずさる。周囲の海水を黒い槍と成し威嚇する。
「――、お姉ちゃんよ。覚えてる…?」
先ほどよりも強い衝撃が下腹部を襲った。
身体がくの字に曲がり、口からあぶくがこぼれる。
しかし怒りではない。少年は何かに脅えている。霞む視界の中でヒュドールは確信を持った。
「怖かったのね…。そうでしょう…?」
突然全てが奪われてしまった。黒によって人魚の里は穢れに染まったのだ。
そして、自分自身が、彼を助けることが出来なかった。
「ずっと、一人で…さみしくて、恐ろしくて…」
それに比べて自分は。
どれだけ幸せな日々を送っていたのだろう。
黒い槍が右腕を貫いた。
血はすぐさま黒く染まり海と混ざる。
二度目の攻撃。動きそうにない右手に気をとられながらも体を回転させる。
辛くも躱したその槍はしかし、ヒュドールの水着の紐を裂いた。
ブルーが贈ってくれた大切な水着。
荒波に流されていってやがてその白色は見えなくなってしまった。
これはきっと罰だ。あなたを忘れてのうのうと暮らしていた罰だ。
だから今、自分には目の前のあなたしかいない。
「――、ごめんね…こんなお姉ちゃんで…っ」
零れた涙は海の黒に染まらずに漂う。
少年が攻撃の手を少しだけ緩めた。
もう右腕は動かない。ヒュドールは左手を彼へと伸ばした。
「でも…今度こそ…絶対に、あなたの手を…!」
彼自身、それがどうしてかはわからなかった。
しかし、少年はヒュドールに背を向け逃げることをしなかった。できなかった。
ヒュドールは荒波にも黒い槍にも負けず前に進む。
そして駄目押しとばかりにぐい、と手を伸ばす。
もう少しであの子の手を掴める。そう思った刹那。
「…っ、あああああああああああああああああああっ!!」
突如目の前の弟が咆哮をあげた。
手にした槍を振り上げる。
大切な彼に差し出したはずの左腕がヒュドールの眼前で漂っていた。