馬鹿な子だ。シンチーは諦めのような溜息をついた。
結局最後まで意地を張って、大口をたたいて。
その結果がこれか。いっそヌルヌットを殺して逃げてほしかった。
勝ち目があるようには見えない。ケーゴのは心身ともにもうぼろぼろのはずだ。
シンチーは必死に体をゆすった。幸い大蜘蛛はまだ戻ってきそうにない。今のうちに好機を見つけるのだ。
馬鹿な人間だ。ヌルヌットは最大級の嗤いを見せた。
シェルギルは群れをなして行動する。アヘグニーは巣を張り獲物を待つ。そして自分自身は人間の言葉を話し獲物にありつく。
この森では知性が、知略がものをいう。まさに愚肉智食の世界。そんな中で今の行動はどうだ。今まで騙してきた人間に輪をかけて無様だ。自ら助かる機会を捨てるなど。
「――愚かしいにもほどがあるわっ!!それがウヌの望みだというのなら、今度こそ屠ってくれる!!」
ヌルヌットが吠えた。体中から電気がほとばしる。その気迫にケーゴは吹き飛ばされそうな錯覚さえ覚えた。
負けじと一歩踏み出す。足の痛みは無視した。
もう手元には何も残っていない。崖から落ちて傷だらけになった体があるだけだ。
ヌルヌットが駆けだした。体中から迸る電撃の音と獣の咆哮がケーゴに迫る。
それでもまだケーゴは強がって、噛みつかれても殴り返してやろうと身構えた。
ふと、家族の顔が脳裏に浮かんだ。
…あんなショボい村で生きていくのはうんざりだったけど、こんなところで死ぬのも、ショボいよなぁ。父さんの言う通り、母さんが提案する通り、フツーの人生を送ればよかったのかなぁ。
「死ねぇい!!」
獣、牙、雷、眼光、雄叫び。
「ケーゴ!!」
冷静を欠いた声。
あ、おねーさん。初めて俺の名前、呼んでくれたじゃん…
もはや勝利の美酒、いや美肉は目前だった。
さすがにこれ以上何かを忍ばせてはいまいと、ヌルヌットはケーゴの喉元めがけて大口を開けた。
まさに首を噛みちぎろうとしたその瞬間、腹に重い衝撃が打ち込まれた。
「なぁっ!?」
驚きと共に吹き飛ばされた。
着地もままならず、地面にたたきつけられ、転がる。
いつかのケーゴのように呼吸ができない。ヌルヌットは痙攣のごとくもがきながら立ち上がろうとした。
「いやぁー、今の蹴りタイミングばっちりだったね」
みると、知らない男が子供の前に割り込んでいるではないか。
がっしりした体に大きな荷物。手には剣を握っている。
不敵な笑みだ。ヌルヌットは体勢を立て直し、その男を睨んだ。
「…おっさん!?何で!?」
その緊張の中ケーゴが叫んだ。今しがた走馬灯を頭の中で走らせていたというのに、いったいなんだこの状況は。
シンチーも同様に唖然としていたが、やがて悔しそうに眼をそむけた。
ロビンは常のようにニヤリと笑って振り向いた。
「この剣がさ、教えてくれたんだよね」
そう言ってケーゴに握っていた剣を見せる。
月明かりとヌルヌットの放電でその剣がぼうっと浮かび上がる。
所々に装飾が施されている、短めの剣だ。どこかで見たことがある。
「って、それ俺の剣じゃん!!…いってぇ!!」
慌ててロビンのもとへ駆け寄ろうとしたが、足に激痛が走った。その姿を見てロビンは笑いながら語りかけた。
「この剣、魔力が込められてるんだね。ケーゴ君の居場所、感じ取ることができたよ。きっと持ち主のもとに戻りたがってたんだろうねぇ」
数刻前に話はさかのぼる。
シンチーとケーゴを探して町中を走り回ってとうとう探し出せなかったロビンは、話に聞いた通り西の森へ向かうことにした。
しかし、例のごとく門番に追い返された。しかし、ただ追い返されたわけではない。そこでケーゴの登録証が提出されていることを把握したのだ。
確信した。ケーゴは交易所の外だ。そしてそれを追ってシンチーも何らかの手段で外へと出た可能性が高い。
ではどうするべきか。ロビンは一計を案じた。そして思い出した。露店を開いていた薬屋がいたことに。
急いで薬屋のもとへと走り、聞いた。
「兄ちゃん、眠り薬とかない?」
たった一人の男に門番が眠らされて、まったくの無防備になる門。ミシュガルド大交易所の未来は明るい。
「そういう訳で俺はあのダークエルフを見つけたのさ」
手遊びのように宝剣をくるくると回す。ロビンが見据える先、ヌルヌットは唸っている。
「そんな簡単に見つけたのかよ!?」
「あの細い獣道を進んでいっただけなんだけどね」
「あっ…」
思えばケーゴ自身、わざわざ獣道を外れて森を探索し始めたのだった。あの時素直に道に従っていればこんなことにはならなかったのか。
自分の体たらくを呪いかけたケーゴをしり目に、ロビンははっと目を見開いた。そして目にもとまらぬ速さでナイフを投げた。
狙いはまたヌルヌットではない。
ぐちゃり、と嫌な音を立ててナイフが二本大蜘蛛の頭に刺さった。ケーゴとロビンとヌルヌットがにらみ合う中で、ようやく巨体を持ち上げ、自らの巣へと戻ろうとしていたのだ。
三本ものナイフが頭に突き刺さり、蜘蛛は痙攣をしばらく続けた後についに息絶えた。足元の脅威が倒れ、シンチーは長めに息をついた。
その様子を見てヌルヌットはロビンを睨む。
「…何者じゃ、ウヌは」
「さぁね。今はちょっとした冒険家さ」
やはり不敵な笑みは絶やさない。ケーゴは一連の動きを呆然として見ていることしかできなかった。
警戒するヌルヌットを睨み続けながらも、ロビンはケーゴに宝剣を差し出した。慌ててそれを受け取る。
「おっさん…」
「さ、頼んだぞ。ケーゴ君」
ぽかんとしていた顔が、その言葉を聞いて一転した。顔つきが戦士のそれに似る。力強く敵を睨んだ。
剣を強く握る。剣から魔力を感じた。戦えと言われているようだ