Neetel Inside ニートノベル
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 「バレンタインデー?」
 聞いたことのない言葉だ。ケーゴは首をかしげた。
 耳が隠れる程度に黒髪を伸ばし、服は動きやすさを重視している十代の少年だ。腰にさげた短剣は彼が何よりも大事にしている宝物。
 本当はもう一人、大事な人がいるのだけれど今この場にはいない。一緒にいるのはケーゴと、ミシュガルド大陸で靴磨き屋を営むエルフの少女、ベルウッドだ。
 彼と対面して座る彼女は大げさに驚いてみせた。
 「はぁ!?それ本気で言ってんの!?バレンタインも知らないってあんたどんだけ世間知らずなのよ!」
 小柄ながら灰色の髪は長く、椅子に座ると床にまで垂れてしまう。着ている服は質素だが靴だけは光沢がある。
 声は高く、表情は豊か。故にケーゴの神経を逆撫でする。
 「確かにうちはド田舎だったけど、お前にそこまで馬鹿にされる筋合いはないだろ!」
 売り言葉に買い言葉。今日も今日とて酒屋で言い争いが起きる。
 普段はこの光景をアンネリエが呆れ顔で眺めているのだが、今日は一人で買い物がしたいということで今日はここにいない。
 一人で大丈夫か、と聞いたケーゴに彼女はやや頑なに首を縦に振ったのだ。本当はあんな事件が起きた直後だしずっとそばにいたいのだけれど、どうしても一人で行きたいのだという。
 仕方なくケーゴは心もとないが彼女の護衛にピクシーをつけた。甲皇国の技術の粋を込めた人工妖精である。が、別段戦闘能力があるわけではないので非常に不安ではある。
 一体アンネリエは何をしようとしているのか。それをもんもんと悩むケーゴに対してベルウッドが鈍いわねぇ、と言って教えたのがバレンタインという行事である。
 「…で、結局何なんだよ、バレンタインって」
 ぶすっとした表情で尋ねるケーゴに対してベルウッドはにんまりと口元を緩めるが決して答えようとはしない。
 「ま、お楽しみってところね。あたしもちょっとアンネリエの所に行ってこようかしら」
 あんたの顔見てるより面白そうだわ、と言いながら立ち上がる。会計はケーゴに押し付ける。
 「行ってくるって…アンネリエの居場所わかんないだろ?」
 「大体見当はつくのよねぇ、これが」
 「え、それマジで言ってんの?」
 交易所もそれなりに広い。アンネリエと初めて会ったあの時も彼女を見つけ出すことができたのは運が良かったからとしか言えない。
 それが、見当がつくとはどういうことだ。ケーゴは胡乱な顔をする。
 ベルウッドは得意げにケーゴを見下ろす。
 「確かにSHWではメジャーな行事なんだけどねー。まだまだ他の国には浸透していないってことかしら。あんたは着いてきちゃ駄目よ」
 言うだけ言ってそのまま酒場を出ていく。
 伝票と共に一人取り残されたケーゴは半ば呆然とベルウッドの背を目で追う。
 「…何がどうなってるんだ」
 呟いたところで誰も答えない。
 ケーゴはふと周りを見回した。

 そうか、今一人なのか。

 ここのところずっと誰かと一緒だったからこうして1人きりになるのは久しぶりだ。
 急に世界が広くなったような気がした。
 どこかそれが寂しい。
 俯いたケーゴの脳裏に戦いの情景が浮かんでは消えていく。
 森で犬と戦ったこともあった。獣人に立ち向かったこともあった。洞窟を冒険したこともあった。
 そして。
 ケーゴは頭をぶんぶんと横に振った。
 忘れてはいけない。だけど、忘れてしまいたい。きっと、その方が楽なんだとわかっている。だけどそれは無責任だ。
 おっさん、おねーさん、アンネリエ、ピクシー、靴磨きでこすけ。それに…まだまだたくさん。このミシュガルドに来て以来いろんな人に出会った。一つ一つが大切な出会いのはずだ。一人一人がかけがえのない人のはずだ。だからこそ。
 ずきん、と胸が痛んだ。
 駄目だ。やっぱり駄目だ。
 アンネリエの傍にいたい。
 悲しむ顔をもう見たくない。
 突然焦燥感に襲われたケーゴは弾かれるように酒屋から飛び出した。
 もうベルウッドの姿は見えない。
 仕方ない。虱潰しに探していくか、と腹を決めて一歩踏み出そうとした時だ。
 「Hey…Boy…」
 突然肩を掴まれた。
 どきりと振り返ると、自分より頭一つ分は背の高い男だ。
 山高帽を被り、紫色のローブを纏っている。胸元は開放的で、何よりも目に付くのはその男がかけている遮光眼鏡だろう。
 ケーゴは目を白黒させた。
 誰だ。この人。確かにいろいろな出会いがあったとは思ったけどこんな人とは知り合ってないぞ。
 警戒を見せるケーゴに男はゆっくりと語りかけた。
 「……悩んでいるようだne。Boy。瞳が揺れているyo」
 「えっ…」
 思わず声を漏らしてしまった。
 確かに悩んでいることは多い。心の容量を超えたかのように様々な思いが全身を巡る。
 「Boy…Youの目はとても綺麗だ。黒曜石のような瞳。それが揺れているんだ」
 「あー…えっと…」
 顔を覗き込まれ、思わず目をそらす。
 占い師か何かだろうか。男の怪しげな出で立ちはケーゴの推測に説得力を与える。
 とはいってもさすがに見ず知らずの男に自分の思いのたけをぶつける訳にもいかず、ケーゴは頭に思い浮かんだその疑問をとりあえず口にした。
 「あー…えーっと…バレンタインデーって何かなーと思って」
 男は顎に手を当てた。
 「ふむ。Valentine’s Dayについて悩んでいたのか…。Boy、youもそういう年頃ということなんだne」
 「年頃!?」
 バレンタインって年が関係するものなのか。
 ケーゴは素っ頓狂な声でそう納得した。
 男は深く息を吐いた。
 「確かに、この物語はValentine’s Dayなどにうつつを抜かしている場合ではないからne。だが、私は敢えてこの物語にこそValentine’s Dayが必要だと思う」
 「…あの」
 まったく言っている意味が分からずケーゴは男から距離をとろうとした。
 しかし、男はぐいっとケーゴを引き寄せ、熱心に語りかける。
 「Boy。youが今立っているこの場所は一つの解釈に過ぎない。まずは他の物語の頁を開いて読んでみると良い」
 「…は?」
 「綴られた物語は様々だyo。君がValentine’s Dayについて知りたいというのなら、聖典に修正を加えてみればいい。さぁ、目次を開いて。刻まれた解釈物語。悲劇の形も様々だ。そこからValentine’s Dayの結末を導いてみれば、おのずとこの世界でのValentine’s Dayの在り方も見えてくるだろう」
 「ちょっと、何を言って…」
 言いかけたケーゴを無視して男は遮光眼鏡を外した。
 瞬間、彼の目を正面から見たケーゴの動きが止まった。
 彼の瞳から光が消えていく。
 それを確認した男は満足げに囁く。
 「…youも来ちゃいなyo。Chocolateの世界に」
 そして懐からもう一つ、遮光眼鏡を取出し身動きしないケーゴにかけさせた。

       

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