匣のような巨大な船体には数百もの砲門が並び、それがこの船を戦列艦であると知らしめる。
通常あるはずの帆がこの船にはない。代わりに外輪と煙突がある。どうやら蒸気推進という最先端の技術を搭載しているようだ。
勢いよく跳ねる水飛沫の白は、黒い船体によく映えた。
唯一その船で金色の輝きを放つのは、髑髏を象った骨統一真国家―多くの者が甲皇国と呼ぶのだが―の国旗の文様。
大海原の黒点はやはり黒い煙を立てながらとある目的地を目指していた。
「――ミシュガルド大陸にはあと僅かで到着するようです」
その目的地の名を口にした桃色の髪をした少年は甲板に立つ黒い後姿を見た。
「……そうか」
小さく応えたその声はしかし、重く厳か。
纏うのは黒衣だ。その外衣からちらりとのぞく杖を持つ手は猛禽類の後ろ足の様。
灰の毛皮が包む顔をすっぽりと覆う仮面は鳥の頭蓋骨を思わせる。
この人間とも悪魔とも見える人物―便宜上“人物”と呼ぼう。それが虚実の虚であろうとも。―は王族たる甲家に仕える一族の1つ、丙家を束ねる大将軍。名をホロヴィズという。
「当艦は大陸の西、我が国の駐屯所に入港します。スズカ・バーンブリッツ参謀幕僚の報告によればミシュガルドの探索は二大国の協力もあり概ね順調に進んでいるとのこと。ただ…」
ホロヴィズの後ろで直立を保つ少年の名はシュエン。派手な髪色に反してその口調は無機質なものだ。
中性的な顔立ち、翡翠色の目。どちらかというと礼装に近いそのいでたちは軍国家の人間にしては珍しい。
彼はホロヴィズの秘書を務めている。常のように機械的に報告を続けていた彼の言葉が途切れた。
一瞬の
「大陸内における勢力範囲の拡大は芳しくないようです」
鋭い音がシュエンの言葉を遮るように響いた。
ホロヴィズが杖をついた音だ。
苛立ちを隠さないその姿にシュエンは内心竦みあがった。
「その報告は聞き飽きた。儂は戦果以外何もいらぬと何度も言ったはずだが?」
仮面の眼孔の奥でホロヴィズの眼がギラリと光った気がした。
その声は冷え冷えとしていて、慣れているはずのシュエンでさえ心臓を掴まれたような気になる。
だが、成果、否、戦果は何もない。
シュエンは苦々しく目を閉じる。
ホロヴィズの物言いが戦時中のそれなのはいつものことだ。
きっとこの方の戦争は未だに終わっていない。
なぜなら、丙家は先の大戦で敗北を喫したからだ。
人類至上主義を掲げる骨統一真国家と非人間の種族から成る精霊国家アルフヘイムとの長きにわたる戦争が中断したのはつい数年前のことだ。
終戦ではない。中断だ。
停戦協定を結び、当面の平和を保とうとした。
2つの国に勝ち負けはなかった。それにもかかわらず丙家は敗北したのである。
「何か言わぬか」
ホロヴィズの詰問。
「…」
しかしシュエンはなんと返せばいいかわからず黙り込む。
苛立ちを醸す背中。
ミシュガルド大陸の調査を現皇帝に進言したのは彼なのだ。だが、その真の目的は当然調査などではない。
それにも関わらず、現在ミシュガルドで覇権を握るのは、他国と協力して大交易所を発展させているのは、あの乙家なのだ。
目の前の将軍の憤怒は想像に難くない。
何故なら丙家は乙家に敗北したのだから。
敗北とは、対外関係の話ではない。国内における勢力関係の話だ。
皇族に仕えるもう一つの家系、乙家。
丙家は戦後その乙家に政治的影響力を奪われたのだ。
元来他国との協調路線を貫く乙家は、帝国主義を是とする丙家とはそりが合わなかった。
甲皇国がアルフヘイムの領海に侵入したことで始まった大戦にも、帝国議会で最後まで反対したのは乙家から輩出された議員たちであった。
しかし、その当時の甲皇国はといえば自然を乱開発した結果国土が荒れ、自由経済の当然の帰結と言うがごとくに国内のには貧富の差が広がっていた。
使い捨てられることがわかりきっている労働者階級はしかし、不毛の自然での農産業を捨てて都市に群がった。
当然失業者は都市に溢れた。
環境汚染、格差問題、失業、住宅難、社会保障の欠落。誰もが閉塞感の打開を望んでいた。
募る不満がお上に向けば皇国そのものが傾く。
そこで当時の皇帝はその不満を国外に向けることにした。
この国家に渦巻く不幸の連鎖は精霊国家アルフヘイムによるものであるという根拠のない言いがかりをつけ、国民はそれを信じ切った。
結果として世論は侵略を是とする丙家に寄り添った。
そして自然豊かな土壌に文字通り骨と成り果てた国は牙を剥いたのである。
しかし、それから数十年。
一時的に国民の渇きを癒したはずの戦争によって彼らの生活は再び困窮することになる。
彼らの喉を潤したのは犠牲者の血なのだ。渇きはいや増す。
侵略を始めた以上退くこともできず、かといって決定打があるわけでもなく、甲皇国軍はアルフヘイムとの海上戦を続けていた。
敵船を墜としたことは確かに戦果である。しかし、それでは国民に何の還元も得られない。
厭戦感情は蓄積していた。
総力戦のごとく働き手を奪われたため、国内産業は軍事産業以外成長が見られず戦争開始以前よりも国内は荒れた。
何十年にも渡った膠着状態を打破し、ようやくアルフヘイム本土に上陸した皇国軍はその地で解放されたかのごとく蛮行の限りを尽くした。骨が生者の血肉を啜った。
それは現在でもアルフヘイム内で口にするのもためらわれるほどの悪逆で、非人間たちの憎悪はいやました。
沿岸の占領は数か月にわたった。そこでの攻防は熾烈を極めた。そんな好機にホロヴィズ将軍は皇国内の全勢力でもってアルフヘイムに進行するという大規模な作戦を敢行した。
しかし、その大軍勢を待ち構えていたのはアルフヘイムでも禁断とされている凶大な魔法。
それに飲み込まれ多くの兵士が消え去った。
もはや世論は戦争の即時中断を訴える以外になかった。
それにおされる形で皇帝は丙家に停戦を迫った。
国民の丙家に対する評価は地に落ちていた。そして乙家が台頭した。
丙家は戦果を挙げること叶わず敗北したのである。
まだ少年のシュエンにとっては歴史であるそれはしかし、ホロヴィズにとっては人生の軌跡といって差し支えないものだ。
これがホロヴィズ将軍がミシュガルド大陸の調査を我先にと提案した理由である。
大戦の後突如として現れたミシュガルド大陸。そこに彼は復権を賭けた。
調査兵団を率いるのは他ならぬ彼なのだ。
未知の大陸を掌握することで再び評価を得る。そして必ずや甲皇国の、丙家の栄光を。
しかしその思惑とは裏腹にミシュガルドの勢力範囲の拡大は進んでいない。
それに業を煮やしたホロヴィズはついに自身がミシュガルド大陸に降り立つことにしたのである。
経験則上下手なことを言わない方がいいのは分かっている。だからシュエンはそのまま嵐が過ぎ去るのをじっと待ち続けた。
苛立ちを語る背中にそのまましばらく耐え続けただろうか。
足音が近づいてきた。
シュエンがそれに気づいて助かったとばかりに振り返る。
そこにいたのは黒い軍服の青年。
漆黒の外套、軍帽をその身に纏うがっしりとした体形の軍人であるが、何よりも彼を特徴づけるのは、顔の右半分を隠すように装着している髑髏の面だろう。
しかしその面も不遜さにみちたどこか土気色の顔と残忍に煌めく左目は隠しきれていない。
「あぁ…ゲルさん」
シュエンにゲルと呼ばれた男はその場の緊張感を的確に読み取り口を開いた。
「……将軍、まもなく大陸が見えてまいります。我々の新たな戦場であり、そして…いずれは我らの手中に収まるべき大地…将軍御自ら彼の地に降り立つのであれば必ずや全ての憂いは取り除かれましょう」
再びホロヴィズが杖を甲板に打ちつけた。
先ほどよりも力強く、高い音が響いた。
ゲルの言葉を是としたということらしい。
ホロヴィズは杖を船の進行方向へとつきつけ、呪詛のごとく唱えた。
「…新天地をわが手に。世界を我が手に」