ミシュガルド冒険譚
穢れに捧げ、癒し歌:1
――――今度こそ、その手を掴む。二度と離さない。
海中に黒い軌跡が踊った。
深い青を漆黒が分断するかのようだ。
その黒を描いているのは人の上半身と魚の下半身を持つ生物。人魚だ。
幼い少年の顔と胴体はしかし、各所が汚染されているかの如く黒に犯されそこには赤い筋が走る。
泳ぐたびにうねる魚の下半身もまた、どろりと漆黒で、肉が崩れ落ち骨が露わになっている。
死人のごとく蒼白な、そしてやはり一部が汚染されたあどけない顔。眼球も黒く、瞳だけが赤く発光している。
この人魚が泳ぐ跡が黒で示されていくのだ。
残された黒はそれ自体が穢れのごとく海洋生物を近づけない。
何かを目指しているのだろうか。何かから逃れているのだろうか。
少年の人魚は海に不浄をまき散らし続けた。
――――
精霊国家アルフヘイムは人間以外の種族がそれぞれ自治を行い、それらの小さな自治政府が1つにまとまった地域共同体国家である。
国としての意思決定は各種族の代表の合議によってなされる。そのとりまとめを行うのがエルフ族であった。が、アルフヘイムの中でもエルフ族がこの取りまとめ役を行うことに劣等感を抱く者もいるし、逆にエルフにおもねる種族も存在する。
甲皇国の様に一枚岩ではなく様々な種族の思惑が入り組むこの国の特色が、かつての大戦で最終的にアルフヘイムを劣勢に立たせることになったことは言うまでもない。
ミシュガルド大陸出現の際大陸の東部、憎むべき甲皇国とは対極の位置に拠点を置いた。そこでは戦争の反省もふまえ、各種族が建前上は協調して未知の大陸の探索を行っている。
レンガ造りの甲皇国駐屯所に対して、アルフヘイムの拠点は大樹をくりぬいた自然の建築物だ。周囲の木々も中をくりぬき様々な用途に供されている。自然との調和を国是とするアルフヘイムらしい開拓拠点となっているのだが。
「馬鹿な!」
「そんなこと許されるわけがないだろう!」
「丙家は何を考えている!?」
その開拓拠点に激震が走った。
開拓拠点となっている大樹群の中心。最も背の高い樹の中に設けられた会議室で怒号と混乱が飛び交う。
甲皇国が、それも主戦派の丙家がアルフヘイムとSHWのミシュガルド領海で捕虜の捜索を行うために艦隊を停留させろというのだ。その要望が穏健派の乙家を通じてもたらされた。
だが、その狙いは明らかだ。
交易所での乙家との会談を終え、開拓拠点に戻ったアルフヘイム合議会取り纏め役ダート・スタンは渋面を隠さない。
「確かに乙家を通じて昨日そのように伝えられた。丙家め…ミシュガルドでもなお領土拡大を狙うか」
背の低い老齢のエルフだ。だがその出で立ちはつば付の帽子に遮光眼鏡、派手な緑色の法被と異様に若々しい。
彼と同じテーブルを囲む女性が緊迫した面持ちで口を開く。
「ダート様、何故すぐに申し出をはねのけなかったのです」
若干彼を責める口調が混じる。
薄い青竹色の髪をしたエルフだ。目を布で隠し、緑色を基調としたひらひらとした服装は戦闘向きではない。露出する肌には赤色の魔術文字が刻まれている。
エルフの名はニフィル・ルル・ニフィーという。
彼女の問いかけにダートは重々しく首を横に振った。
「エルカイダの一員を捕えていたが、海に脱走したとのことだ。あくまで国際的なテロリスト集団の一員であるから他国と共に共同で捜索を行いたいと言ってきてのぅ」
「…っ」
ニフィルは唇をかんだ。
エルカイダとは停戦協定後も甲皇国に攻撃行為を行う過激派武装組織だ。蛮行を犯した皇国に対して攻撃を行うその姿勢からアルフヘイムとの関連が叫ばれてはいるが、アルフヘイムもエルカイダも互いに関係のない組織であると建前上は主張している。
確かに危険な集団であるしその捜索に甲皇国が乗り出すことに間違いはない。だが何が共同だ。それを口実に領海に侵入することは明らかだ。
思えばあの大戦も甲皇国がアルフヘイムの領海に侵入したことで始まったのだから。
とはいえども。
「…ただの捕虜なら交換条約でも何でも提示できましたが、あくまでアルフヘイムとは関連のない国際的犯罪集団。その捜索となれば我らも申し出を無下にするわけにはいかないでしょうね」
長机の中央に配置された鏡に浮かび上がった壮年の男性の像が状況を冷静に分析した。
縦長の帽子を被り、白いローブを身に纏う。その衣装の随所に甲皇国の紋章が確認できる。
男は続けた。
「甲皇国の本国ではそのような話は聞いていませんから、恐らくは先日大陸に向かったあのホロヴィズの独断でしょうね。ビャクグンから何か報告は来ていないのですか?」
「来ておりますよ。どうやら丙家の1人、ウルフバード・フォビアの傍にうまくつくことができたらしく、乙家との会談では伝えられなかった丙家の動きまで子細に伝えてくれたわい。ただ、伝達役ハナバ殿の言では、かなりビャクグン殿との連絡が取りづらくなったとのことじゃ。恐らくウルフバードに警戒されているのだろうて」
鏡に映る男の像が苦笑した。
「…まったく、彼も変なところで運がいいのか悪いのか」
「が、よくやってくれておるわい。丙家監視部隊。甲皇国待機班のトクサ殿、お主も含めてのぅ」
トクサと呼ばれた男は表情を引き締める。
「慢心はいけませんよ。むしろここからが正念場なんですからね。乙家にも丙家の動向は伝えられているのでしょう?」
「当然じゃ。乙家と我らアルフヘイムはお主ら丙家監視部隊を通じて全ての情報を共有しておるよ」
「…そうですか」
トクサの表情に一瞬浮かんだ懸念をニフィルは見逃さない。
「もちろん互い腹の内に抱えるものはあるのでしょう。ですが、今回は共通の敵が存在していますから」
ダートはうむ、と頷きトクサに向かい合った。
「丙家監視部隊の諸君には引き続き監視を頼む。恐らく本国でも何かしらの動きがあるであろうからの」
「ええ、わかりました。…して、今回の皇国の申し出、アルフヘイムとしての方針は」
トクサの問いにダートは立ち上がり、その場に集まった種族の代表たちを見回した。
「アルフヘイムの友人諸君。これはあの大戦の繰り返しにもなりかねない非常事態じゃ。甲皇国は再び儂らの領土を奪わんとしておる。しかも今回はエルカイダの捜索という大義名分つきじゃ。これを拒否すれば確実に国際的な論壇であの国は我らアルフヘイムを糾弾する。じゃが彼奴らをこの地に近づけることは決してあってはならぬ。そこでじゃ…儂は乙家のみが乗り込んだ艦のみならば妥協が可能なのではないかと思っておる」
表向き関係のない組織といえどもエルカイダは多くの構成員がアルフヘイム出身者の組織。恐らく一国のみで捜索を行うとなれば疑いの眼差しを向けられる。
「だがそもそもエルカイダの者が本当に甲皇国の駐屯所から逃げ出したのかどうかもわからんのだぞ!?」
「だからといってそこを押し問答している時間はないでしょう!」
「乙家といえども下賤な人間に過ぎぬわ。エルフ、貴様何を考えている」
「今ダート殿を責めてどうするのですか。これだからあなたたちの種族は」
「貴様!我らを愚弄するか!?」
はたしてダートの予想通り、その提案は更なる怒号と混乱を生み出すに至った。
それほどに人間と非人間の、そして種族間の軋轢は深いのである。不和は敵愾心を呼び、そしてさらなる不和を生む。
ダートは頭を抱えた。何のために友人たち、と呼びかけたと思っているのだ。諍いのために儂らは集まったのではないのだぞ。
いよいよ騒然とし始めた部屋にトクサの一喝が響いた。
「御仁たち!甲皇国が攻め入ってきた後の反応も先の大戦の繰り返しの様ですね。その小競り合いが続いた結果あなた方の故郷はどうなりましたか?」
冷静な物言いの中にも激情がこもる。
一見壮年の男性に過ぎないが、齢500を超えるその妖の言葉に、痛いところを突かれた彼らはぐっと押し黙ってしまう。
戦時中にもかかわらず種族間の諍いを続けた結果、戦争末期には遂に甲皇国の領土侵攻を許し、結果としてアルフヘイムの中でも禁忌とされている魔法によって国土を穢してしまった。今や国土の3分の1が不毛の地、否、それ以上にひどい状態だ。大地は腐り生物が住まう場所はない。海は黒く染まり海域を無に帰した。
それは紛れもない事実。
トクサの辛辣な言葉に場が一瞬で静まり返る。
沈黙の中、ダートはニフィルが唇を固くかみしめているのを認めた。
禁断魔法の発動により甲皇国軍を撃退し、その代償に母なる大地を失った。その一連をアルフヘイムでは「大精霊の両成敗」と呼ぶ。
特に精霊信仰が強いエルフの間では、この大地に住まう大精霊が邪なる侵略者に裁きの鉄槌を下し、そして国としての誇りを失い共に戦うことをしなかったアルフヘイムの民にも罰を与えたと語られている。
だがそれを行ったのは、禁忌とされる魔法を発動したのは、大精霊ではない。この話し合いの席につく1人のエルフ、ニフィル・ルル・ニフィーなのだ。
故に彼女は恐れられる。故に彼女は誇られる。故に彼女は疎んじられ、故に彼女は恨まれる。
そして、それ故に彼女は誰よりも禁断魔法を忌み嫌う。
故郷をその手で死の大地へと変貌させ、アルフヘイムの民ごと甲皇国の軍を消し去ったその魔法を。
誰が好き好んでその魔法を使うだろうか。それでも使わなければ愛する国は、愛する者たちは、全て侵略者の魔の手に落ちていたかもしれない。
だから、これは正しいこと。
だから、誰かがしなくてはならなかったこと。
自分を納得させて、そして禁呪に手を染めた。
恐らく生涯消えることのないその咎を、彼女は負い続けるのだ。
ダートは咳ばらいをした。ニフィルがはっと顔をあげる。
会議はまだ続いているのだ。ぴりぴりとした緊張が今更のように肌を刺す。
「トクサ殿の言う通りじゃろうて。我々の間で諍いを起こしている訳にはいかぬ。友人諸君、儂は君たちの暴言ではなく意見を聞きたいのじゃ。……断固として皇国の艦隊の侵入に反対する者?」
まばらながら手が上がった。
憤懣やるかたないと言った表情だ。
「では…乙家の者のみなら、という者は?」
先ほどよりも多くの手があげられた。
最保守派の者たちは顔を歪める。
「…一応聞いておくが、丙家を受け入れるという者は…おらんな」
激しく睨まれダートはすごすごと言葉尻をすぼめた。
つまり結論は。
「…では、乙家の者のみが乗り込んだ艦艇のみ、我らアルフヘイムのミシュガルド海域に受け入れることにする。が、諸君らの警戒ももっともじゃ」
ダートは甲皇国断固反対派の者たちを見やる。少数意見を無下にするようでは協調は生まれない。
反対派の種族たちを指名し、命じた。
「国境に我がアルフヘイムの艦隊を並べ、彼奴らの暴挙に備えよ。もしも我らが領土を侵犯しようものなら…まずは十分な警告を与えよ」
ニフィルは唇を固く結んだまま黙り込んでいた。
そんなことはないと信じたい。だが、皇国が越えてはならない一線を越えてしまったのなら。
それは、かの大戦の繰り返し。
彼女は背筋にうすら寒いものを感じた。