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鏡を通じた連絡を終え、トクサは息をついた。
石組みの部屋。一人で過ごすにはやや広い。
今彼がいるのは甲皇国の帝都マンシュタイン。アルフヘイムの民からすれば憎むべき敵の本拠地とでもいえるだろうか。
その帝都の中心にそびえる甲皇国皇帝が住まう城。その城の一角にトクサは自身専用の部屋を与えられていた。
それは彼が甲皇国の幹部であるからに他ならない。
「…ロウよ」
誰もいない部屋の中、トクサは厳かに呟いた。
その言葉に反応してトクサの影から一人の人物が音もなく現れた。
灰色の衣服に身をくるんだ人物だ。甲皇国の者が着用する衣服とは見た目が違う。頭巾で頭と口元も隠し、長い黒髪で右目も隠れている。
ロウと呼ばれた人物は無言でトクサの命を待った。それを認めたトクサは口を開く。
「直にミシュガルド大陸の調査兵団から艦隊の増援要請が届くでしょう。その文が誰かの手に渡る前に、処分してください」
「………御意」
一言そう発するとロウは再びトクサの影にもぐり姿を消した。
それまで影の中に感じられた気配が今は完全に消えていることを認め、トクサは息をついた。
「これで、しばらくの時間稼ぎにはなるでしょうかね…」
そう一人ごちた時、部屋の戸が叩かれた。
「入りなさい」
そう短く返す。
そろそろと扉が開かれ、一人の少女が中の様子を窺うかのようにゆっくりと顔を見せた。
それが誰かを確認したトクサは深くため息をつき、ぴしゃりと言った。
「何ですか、ハシタ。用があるなら早く入ってきなさい」
少女の肩がびくりと震えた。
「ごっ、ごめんなさい!」
転がるように入って来た少女は給仕服に身を包み、紫色の髪をしていた。長い髪を後ろで一つにまとめ、今にも泣きそうな顔でトクサの顔を見上げている。
「……で、何用ですか?」
あくまで事務的に聞き返すトクサにハシタは小さく尋ねた。
「あ、あの、申し訳ありません…えっと…アルフヘイムの火急の用件とは…」
予想通りの質問にトクサは一瞬目をそらしかけた。
が、隠しているわけにもいかない。彼女も丙家監視部隊の1人なのだから。
「……皇国がアルフヘイムの領海に侵入する可能性が高まりました。このままではまた争いが始まってしまうかもしれません」
ハシタは息をのんだ。
「そんな…っ!それを防ぐための丙家監視部隊ではなかったのですか…!?」
トクサはハシタを目で制した。ひっ、と悲鳴をあげてハシタは黙り込む。
その過剰なまでの反応に寂しさに似た感情を抱きつつも彼女をたしなめた。
「あまり声を荒げないでください。我らの存在は決して明るみに出てはならないのを忘れたのですか?」
「もっ、申し訳ありません!!」
頭をさげるハシタにトクサは静かに伝える。
「僕らも予期し得ない事態でした。ここまで早く事が進むとは…。ホロヴィズももう少し慎重かと思っていたのですが…」
ここまで強硬手段に出てくるとは、一体何があったというのか。
これでは僕ら監視部隊の失態と思われてしまうではないか、とトクサは何度目かわからないため息をついた。
丙家監視部隊とは、アルフヘイムが乙家と協力関係を結んだことで成立した、妖から成る部隊の事だ。
甲皇国本土とミシュガルド大陸に素性を隠して幾人もの妖が派遣されている。
その目的は丙家の再びの台頭の阻止。そのような隠密活動にむいていたのが、彼ら妖であったのだ。
トクサは相手の心を読むことのできる覚だ。彼の護衛を務めるロウは影法師であり、ハシタは姿こそ人間の少女だが、その正体は鵺の亜人だ。
この数年間、丙家が再び皇国の主導権を握らないようにと彼らは暗躍を続けていた。それは最終的に乙家の利益にもつながるのだが、とトクサはいまいち乗り気ではない面もある。
だが、彼らの心を読む限り、邪な考えはないようだし、いがみ合っている場合でもないだろうとトクサは考えた上でこの任についているのだ。
が、どうにも雲行きが怪しい。
確かにホロヴィズといえば甲皇国の中でもかなりの強硬派で有名だ。
だが、その動向から自分は目を離したことはない。確かに野心に燃えてはいたが、ここまで性急に事を進める背景があったとは記憶していない。
トクサは思案しながらハシタに言った。
「ハシタ、最終的にはあなたにも働いてもらうかもしれません。心構えだけはしておくように」
「……はい」
返事が遅い。
トクサは胡乱気に目を細めた。
「嫌なのですか?」
ハシタは慌てて頭を振った。
「いっいえっ…!ごめ、ごめんなさい…っ。……ただ、怖い…のです」
「……」
身をすくめるハシタをトクサは悼むような目つきで見下ろす。
怖い。
トクサが知っているハシタはそんな弱弱しい言葉を発しない。
彼女はあの大戦でも奮闘し、隊の
それが、この変わりよう。
トクサの脳裏に禁断魔法によって穢れたアルフヘイムの大地が浮かぶ。
戦争末期、彼女は禁断魔法が発動されたまさにその場所で戦っていた。
妖部隊をはじめ、獣人族や植物人族はエルフ族ではないという理由で彼らに切り捨てられてしまった。囮にされたのだ。
結果として甲皇国軍は壊滅し、停戦協定のきっかけとなったのであるが、その背後には数多の犠牲があった。
故にトクサはアルフヘイムにも信頼を置いているわけではない。元来、妖の故郷はアルフヘイムとは別に存在している妖の里なのだから、愛国心があるわけでもない。
閑話休題、いずれにせよハシタは禁断魔法を直にその身に受けた。
しかし、無事であったのだ。
それがなぜかは分からない。
以来ハシタは常に何かに脅えるかようになり、泣き顔が顔面に張り付いてしまった。
自分の能力を使って彼女の心の内を探ろうとしたこともあった。だが、最後まで見ることができなかった。
覚としての能力を行使する際、トクサの額には第三の目が現れる。その目に映ったのは、闇。
否、闇ではない。闇よりも深い何か。それは、黒としか形容できないものであった。
闇に生きる妖であるトクサでさえ、その黒に恐怖を覚え読心を中断してしまうほど。
今でも氷塊が背筋を滑り落ちるその感覚が残っている。
その黒を思い出すたびにうすら寒くなる。情けない話だが、500年の長きを生きた妖である自分が身をすくめてしまうのだ。
何があったか、それは結局わからず終いであった。
しかし、己の内にあの黒を抱えているのであれば、彼女の豹変も頷くことができる。
今目の前にいるハシタは似て非なる、それでも確かにハシタであるはずで。
苦虫を噛み潰した表情で、トクサはそうですか、とだけ応えた。
悔しさとも悲しさとも割り切れない気持ちを抑えつける。
そいえば、あの黒は。
ふとトクサは思い出した。
長らく甲皇国にいて忘れていたアルフヘイムの海洋が頭に浮かぶ。
禁断魔法によって汚染された海。奇怪なことにその汚染域は意思を持っているかのように移動を繰り返しているという。
ハシタの内に見た黒は、その海の穢れと同じ色をしていた。