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地響きが、轟音が、そして衝撃が徐々に和らいでいく。
それに魔法使いたちが目の輝きを取り戻し、魔法の壁は一時的にだが強度を増した。
なんとか立っていられるまでには回復したフロストの前で魔法は津波をいなし、遂にその危険はもはやないようにまで見えた。
術者たちも幾分か緊張の解けた顔つきで防御壁を維持している。
しかし、衝撃が来ないとはいえ城壁の向こうの様子はわからない。フロストは硬い表情で立っていた。その時だ。
「フロストさん!」
空から海を観察していた鳥人が彼女に報告を行いに地上に降りてきた。
地上に降りてきた。それだけでフロストはある種の確信を持つ。
「どうやら津波の脅威は去ったようです」
「そう、わかったわ」
予想通りの言葉にフロストは思わず歓声をあげそうになるが、それをぐっと我慢して事務的に頷く。気を緩めてはならない。
その報告を聞いてようやく確信ができたのか、周囲の術者たちは次々に魔法を解除していく。
波紋のように解除が広がり、城壁を守っていた魔法壁は消え去った。
フロストも深く息をついた。
守り切れたのだ。この交易所を。
疲労よりも安堵が全身を巡った。
「ったく…なんだってこんな時に津波が来るのかね」
彼女の背後であきれたような口調。
そうだ、そういえば。
フロストは弾かれたように彼に向き合った。
長身の彼を見上げる形だ。うってかわって彼女は冷え冷えとした口調で詰問した。
「ウルフバード・フォビア…!丙家のあなたが何故ここにいるのッ…!?」
ウルフバードは小ばかにしたように肩をすくめた。
「おいおい、俺がここにいては駄目なのか?大交易所の門に丙家お断りの張り紙はなかったはずだが?」
「…っ、あなたは私たちの仲間を何人も殺した悪魔だッ!」
ともすれば彼を殺しかねない勢いで詰め寄る。
しかし、ウルフバードは涼しい顔だ。何事もない様子で彼はフロストに言い返した。
「その悪魔がこの交易所を救ったんだ。それも何百人もな。文句はあるまい」
せせら笑う。
フロストはぐっと押し黙った。
確かにあの時彼が魔法を使っていなければどうなっていたかわからない。
まだ避難が完了していなかったことから考えるに、彼が結果的に助けた人数は、戦時中彼が殺した人数に匹敵する。そしてその中には自分も含まれる。
ウルフバードはフロストを見下ろしながら言った。
「せっかく助けてやったのに、礼の一つもなしか?」
「………協力感謝する」
苦虫を10匹ほど噛み潰した顔でそう呟いた彼女に、ウルフバードは満足げに頷く。
「そうだ。それでいい」
こころなしか本当に喜んでいるようだ。が、それが余計にフロストの怒りを募らせる。
今にも爆発しそうなフロストを見てウルフバードの後ろに控えていたビャクグンは青い顔で彼に意見した。
「小隊長殿、それ以上彼女を挑発するのは…」
「挑発なんざしてないさ。これはなぁ、情けと言うものだ」
フロストの額に青筋が走った。
それを知ってか知らずかウルフバードは続ける。
「わかるかビャクグンよ。助けてもらったらありがとう、これは大事だぞ。誇り高きエルフがその程度の礼節を欠いていたらかわいそうじゃねぇか」
そのエルフの誇りを現在進行形で傷つけているのはどこのどいつだ、とフロストの青筋は増えていく。
不遜な笑みを浮かべるウルフバードと爆発寸前のフロストの視線が交差する。
と、ウルフバードはそこですっと表情を戻した。
「…で、エルフ女。何故こんな津波が起きた?」
フロストもその口調に怒りを抑えた。そして思案気に目を伏せる。
空から海の様子を窺っていた鳥人から化け物が現れたことは聞いている。
そして、ハナバの伝心によって津波と、それ以上に恐ろしいものがこちらに向かってきているとの報告もきている。
そうだ、津波のせいですっかり忘れていたが、その他にも脅威が迫っているのだった。
が、それをこの男に言っていいものか。
「…ビャクグン」
黙りこんでしまったフロストの態度を秘匿であると捉えたウルフバードはビャクグンに甕の水を操作すると合図をした。
それに応え、ビャクグンは甕を地面に下ろす。
「奔。並びに操」
水の流れを操ることで、その上に立つことを可能にした。さらにその足場を空中に浮かび上がらせて鳥人のように空に舞い上がった。
さらりと目の前で二種類の魔法を同時に使ってのけたウルフバードに対してフロストは渋い顔だ。
祖国の仇であるとはいえ、人間でありながらここまで魔法を使いこなすのは純粋に賞賛に値する。
はずなのだが、それを口にするくらいなら魔法を使えなくなっても構わないとすら思うフロストだ。
いっそのことあの足場を凍りつかせてやろうかと思うのだが、目の前でビャクグンが目を光らせている。
丙家監視部隊の存在を知っているフロストは当然ビャクグンとも面識がある。
元々はアルフヘイムの陣営同士なのだ。そこまで上官を守る兵士の目でこちらを見なくてもいいと思うのだが。
そんな不満を内に押しとどめているうちに渋い顔をしてウルフバードが戻ってきた。
「…おいエルフ女。あれは何だ」
「……私たちも詳しいことは分からない」
「人外はお前らの担当だろうが」
「愚弄しても無駄よ。本当に初めて見る化け物なんだから…」
フロストの言葉にウルフバードは少し目を開いて、少し口角を釣り上げて見せた。
「…何を笑ってるの」
また馬鹿にされたと思いフロストは今度こそ己の魔力を周囲に展開させた。
辺りの温度が急激に下がる。吐息が白い。
しかしウルフバードはそれでも怖気づくことなく言い切った。
「いや、お前らの口から化け物なんて言葉を聞くとは思わなかったもんでな」
「…ッ、私たちが化け物とでも言いたい訳かしら?」
凍てついた瞳がウルフバードを刺す。
「知らないようなら教えてやるがな、か弱い人間は魔法も使えなければ空も飛べねぇんだ」
「…少なくとも私たちは仲間を爆殺なんてしないし、そもそも他国を侵略なんてしないわ。人間は己の内に十分化け物を飼っているじゃない」
「クハハ、違いないな。…まさか禁断魔法で自国を滅ぼしたお前らに言われるとは思わなかったが」
「そのきっかけを作ったのはあなた方でしょう?」
「禁断魔法を使うほどお前たちが追い詰められていたとは到底思えんがな?」
「…ッ、それは…ッ」
さすがのフロストも終戦末期に何故禁断魔法が発動されたのか、その詳しい経緯は知らない。
一度だけニフィルに尋ねたことがあったのだが、彼女は口を閉ざしたままだった。
しかし、どのような理由があろうともエルフが他の種族たちが多く住む土地を犠牲にして戦闘を行ったことは事実だ。
その気になればエルフたちが総攻撃を仕掛けて皇国軍を撤退させることもできたかもしれない。それをせずに虐殺すら看過したのはエルフの指導者層が自らの保身と他種族の弱体化を狙ったからだ。
当時のエルフ族の中で権力を握っていた貴族階級の者たちは戦後、禁断魔法発動の騒ぎの中いつの間にか姿をくらませていた。しかし彼らさえいなければフロストもニフィルも戦場に赴くことができたのである。彼らが保身のために有能な術者たちを傍に控えさせていたのだから。
結果としてエルフの犠牲者はその地に元から住んでいた住民や、命令を無視した戦士ばかりだった。
その事実はビャクグンもよく理解している。以前ウルフバードが彼に語った推測は外れてはいなかった。エルフ全ての総意でもって他種族を見捨てた訳ではなかったが。
いずれにせよ、アルフヘイムは完全に追い詰められていた訳ではなかった。
ウルフバードはそれを知っている。戦地においても我を失わず、一歩退いて冷静に大局を見極めたからこそ、虐殺に酔わずに敵の戦力を分析したからこそ、その事実にたどり着いている。
皇国で言われる戦時中の歴史が虚飾にまみれたものであると嗤うことができる。
フロストは何も言えず黙り込んだ。
どれだけ言いつくろってもそれこそエルフの矜持を傷つけるだけなのだ。
閑話休題、とばかりにフロストは殺気を抑えた。
その時だ。
(フロストさん、ビャクグン…っ!)
呼ばれた2人の脳内に震え声が響いた。
(どうした、ハナバ…っ!)
危うく顔色を変えかけたビャクグンはしかし、ウルフバードに気取られないように無表情で彼女の身を案じた。
フロストも表情を変えまいと必死になる。
ハナバが脅えた声を出すなんて初めてだ。
(…何か、何か…怖いものが近づいてきてる…!!)
(怖いもの…?)
(また津波が来るって言うの!?)
(違う!違うよ!津波なんかじゃない!ニフィルさんが言った通りだ!津波よりも怖い何かが…っ!)
弾かれたようにフロストは駆けだした。
まさか、あの化け物がこちらに向かってきているのか。最悪の事態がフロストの頭に浮かぶ。
それはつまり、三国の艦隊が全て沈められてしまったということだ。
あってはならない。そんなことがあってはならない。
「…なんだあの女。いきなりどこへ行きやがる」
「小隊長殿、我々も追いかけた方がいいのでは?」
ビャクグンの進言にウルフバードは目を眇めた。
「…あの女エルフに興味があるのか?」
「違います。…ただ、彼女の様子が少し妙なのが気にかかるもので」
もちろん嘘だ。ビャクグンもハナバの言った「怖いもの」が気にかかる。来るとしたら南側、つまり海の方角からであると考えているのだ。
何が来るというのだろうか。いずれにせよ確かめなければならない。
「……ふむ」
ビャクグンの真剣な眼差しをウルフバードは見つめ返す。
この男は正直者だ。あまりにも正直すぎて、「気にかかる」などという軽い動機ではないことくらいすぐにわかる。
エルフの女が走っていた先は海だろうか。もしかしたら津波や化け物と関係ある何かを察知したのかもしれない。
とはいえそれはウルフバードには関係のない話だ。
彼らを助けたのだって、自分が危険な目に遭うからというそれだけに過ぎない。
特にあの女の服は聞いたことがある。確かアルフヘイム魔法監察庁の第三種摘発科。要は魔法の取り締まり屋だ。
禁断魔法を発動して祖国を不毛の地にして以来、アルフヘイムでは魔法の取り締まりが厳しくなったのである。あくまでアルフヘイム内の話でそもそも魔法使いが希少な皇国出身の自分には全く関係のない話ではあるが、恐らく彼女はこちらを煙たがるだろう。憎むべき甲皇国の人間があろうことか魔法を使ってそれを取り締まれないのだから間違いない。
と、そこまで考えてウルフバードは結論を出した。
「あの女を追うぞ」
なんのことはない。彼はとても良い性格なのである。