Neetel Inside ニートノベル
表紙

ミシュガルド冒険譚
穢れに捧げ、癒し歌:10

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――――

 
 わからない。何もわからない。
 ベルウッドとロンドが何事か話しているのを聞き流すケーゴの脳裏には地下通路での情景が繰り返される。
 どうして亜人が疑われなければならないんだ。どうしてアンネリエたちが悪く言われないといけないんだ。
 結論など出るはずもなく胸の奥にざわざわと嫌な感触が広がる。
 何よりもアンネリエのあの表情が心に刺さって抜けない。
 悲しそうで、どこか諦めたようで、それでも唇を固く結んで。
 あんな顔をさせたくなかった。今もアンネリエの方を見ることができない。
 話が終わったようだ。慌てた様子で地下通路へと降りていくロンドを気にも留めずケーゴはベルウッドに尋ねた。
 「ベルウッド!何で俺たちが出ていくことになってんだよ!」
 いつもならさらなる怒声でもって返してくるはずのベルウッドはしかし、神妙な顔で静かに口を開く。
 「…あそこであれ以上騒ぎを起こすわけにはいかなかったわ。まだ小さな子だっていたのよ?」
 それに、と普段は見せないような戸惑いと躊躇いに染まった目をケーゴからそらす。
 「いるのよ、やっぱり。あたしたち亜人をああいう風に見てる人間は。今はこんな事態だし、魔法を使えるエルフたちが恐ろしいと思われたって仕方ないじゃない…!」
 「そんな…っ」
 絶句した。
 ケーゴとて人間と亜人の間にある確執を知らなかった訳ではない。昔ブルーとした会話を思い出す。それでも、今までは見て見ぬふりをすることができた。アンネリエとピクシーとベルウッドと過ごした日々にそんなものはなかったのだから。
 だが、もはやそれはかなわないのだ。
 ベルウッドは茫然とするケーゴを直視することが出来ず視線をおとした。昔、彼が特注なのだと自慢していた靴は土埃で汚れている。自分たちを、いや、アンネリエを探すために交易所を走り回ったのだろう。
 靴磨きをしていて、亜人だからと差別をされたことはいくらでもある。祖国ではそんなことはなかったのだが、皇国の人間もいるミシュガルドではそうもいかなかった。
 口論ばかりしているが、ベルウッドはケーゴに好感を持っている。エルフだろうがなんだろうがそんなことは考えずに接してくれる態度は良い。ただの世間知らずな田舎者と言えばまた機嫌を損ねるのだろうが、それでもそんな彼のまっすぐなところが気に入っている。そうじゃなければわざわざ一緒に行動などしない。
 そんな彼がアンネリエのことを意識しているのは明らかだった。いつだって彼女のことを守ろうとケーゴは剣を構える。
 ただ、最近はそれがあまりにも必死すぎるのではないかというのがベルウッドの見解だ。
 それを指摘したところで本人が自身の気持ちに気づいていないようだから何も言わないのだが。
 アンネリエはアンネリエでケーゴとの距離が縮まっている。昔はケーゴの隣にいることにむず痒さや躊躇いがあるような表情をみせていたのが、いつの間にか当然と言った顔で彼の傍に立っているのだ。
 その2人の距離が今はこんなにも遠い。
 ベルウッドはアンネリエの方へ視線を移した。
 できるだけケーゴの顔を見ないようにだろうか、彼の後ろでしょんぼりと立ち尽くしている。
 それよりも離れているのは彼らの心の距離だ。
 特に昨日から、2人の態度がおかしい。変にお互いを意識しすぎている。
 そしてケーゴは先ほどおかしいでは済まされない豹変をしでかした。あれは一体何だったのだろうか。
 思案するベルウッドの前でケーゴが短剣を構えた。
 「ベルウッド!」
 「えっ!?」
 突然名前を叫ばれて硬直する。そして自分たちが何故地下通路に避難していたのか思い出した。
 「伏せろーっ!」
 ケーゴの怒号が裏路地に響く。
 ひっ、と小さく悲鳴をあげながらも頭をおさえ、しゃがみ込む。彼女の頭上を火球が飛んで行った。
 背後でうめき声が聞こえる。心臓が冷えた。あの亡者たちだ。
 「マスターケーゴ、私が観察するにより大きな力でなければ対象の駆除には至らないようです」
 ピクシーの助言。ケーゴの瞳が苛烈に煌めいた。
 黒曜石の原石のような瞳は、いまや刃物のような危うさをはらんでいた。
 「……えたちが…」
 呟き。ベルウッドはそろそろと顔をあげた。
 そこにあるのは、怒りの表情だとまず思った。しかし、にじみ出る焦りも同時に感じた。
 「ケーゴ…?」
 「お前たちが…いるから…!」
 短剣の切っ先から炎が噴き出し長剣の刀身を成す。ベルウッドが止める間もなくケーゴは亡者のもとへと走り出していた。
 長剣を袈裟懸けに振り下ろす。先ほどの火球では再生してしまった亡者の身体が今度は消えることのない業火によって焼き尽くされていく。
 ケーゴは前を睨み付けた。嗅ぎつけられたのか複数の亡者たちがこちらへ歩を進めてきている。
 黒い魚人の他に酒場の常連もいるようだ。それがどうした。
 ――お前たちのせいでアンネリエがあんな顔をするんだ。
 「はぁああああああああああああっ!」
 雄叫びとともに剣を振るう。炎の波動が亡者たちに襲い掛かった。
 その炎を消すこともできず亡者たちはのた打ち回る。瞬間炎が消えたかと思うとそこには焼け焦げた遺骸が残されていた。炭と化したその黒色は焼かれる前の黒色と全く違う。
 亡者たちのその黒は人々の恐怖を煽る不浄なのだ。
 「まだだ!」
 吠える。全員焼き尽くしてやる。そうすれば、もうアンネリエが悪く言われることはないのだ。
 守る。アンネリエを守る。心がそれだけを叫んでいる。
 だからだろうか、離れた場所から彼を見守るアンネリエの表情にケーゴが気づくことはない。
 彼女はケーゴがさせたくなかった表情を今まさにケーゴ自身に向けているというのに。
 亡者たちは次々と現れる。ケーゴはその群れの中にためらいもなく飛び込んだ。
 「ケーゴ!」
 ベルウッドの叫びは届かない。
 アンネリエは唇をぎゅっと噛んでケーゴの背中を追った。
 叫んでも聞こえない。なら自分の気持ちなど彼に伝わる訳がない。そう、自分の言葉は届かないのだ。
 黒色の中に赤色が踊る。
 今まで以上の魔力を行使するケーゴはどこか恐ろしくもあった。
 その時だ。アンネリエの背筋を氷塊が滑り落ちた。
 振り向くとケーゴが向かった方とは反対側から亡者たちが近づいてきていた。
 「…っ!!」
 すぐさま逃げようとしたが足がまろんで転んでしまった。
 「アンネリエ!」
 ベルウッドが悲鳴を上げる。
 すぐさま立ち上がろうとしたが右足首がずきりと痛んでそれがかなわない。杖を庇って変に転んでしまったらしい。
 それでも、この杖だけは守らないといけなかったのだ。
 黒い魚人が迫る。くぐもったうめき声を喉から鳴らしつつアンネリエに手を伸ばす。
 必死に体をよじらせて逃げようとする。
 身体が芯から冷えていくようだった。亡者が一歩近づくにつれて四肢が氷に触れているかのように痺れてくる。
 引き攣ったような呼吸でアンネリエはなおも逃げようとする。亡者はもう手を伸ばせば届くほど近い。
 誰かが自分の身体を掴んで後ろへと引きずった。恐ろしい黒色が離れていく。咄嗟に思い浮かんだのはケーゴの顔。
 だが違った。今必死に自分を運んでいるのはベルウッドだ。
 ベルウッドはアンネリエを引きずりながらも手近にあった空き缶や空き瓶を亡者に向かって投げつける。心なしか動きが止まったようだ。
 そのまま路地裏を抜ける。近くではケーゴが戦っている。
 彼の周りの亡者たちには気づかれていないようだ。とはいえどもベルウッドがこのまま逃げ切れるとは思えなかった。
 「アンネリエ…!ちょっとその杖諦めたら!?」
 彼女が持ち歩く杖は背丈ほどもあるのだ。足を挫いた今それが邪魔になることは明白だ。
 しかしアンネリエはそれを拒否した。
 大切なものだ、そう言われたのだから。
 ベルウッドに離してくれと目で訴え、なんとか杖を使って立ち上がる。しかし万全とは言えない。
 亡者は体勢を整え再びこちらに歩み寄ってくる。戦うことはおろか走って逃げることすらできない。
 冷え切った体は自身を立たせるだけで精いっぱいだ。
 頬が濡れていることに気づく。杖を握る手にちからがこもっていた。
 助けてと、彼にすがれない。そうなったら彼が自分を守るために。
 胸がずきりと痛んだ。守ってくれればくれるほど、ケーゴがあの2人のようにいつか、と怖くなる。それを誰が望んだというのか。
 亡者が腕を伸ばす。身を引く。足首が痛い。
 「…っ」
 目と鼻の先にある黒い顔。守ってくれる背中はここにはない。
 そもそも助けてと叫んでも自分の声はきっと届かない。
 ふとアンネリエは痛感した。自分を守ろうとしてケーゴが傷つくのは嫌だ。その筈なのに。
 怖くて怖くてどうしようもない時に助けてと叫ぶのはやはりケーゴに向かってなのだ。
 わがままな矛盾だ。だからきっと、自分の声は届かないのだろう。
 これは罰だ。わがままな自分への罰。
 身体が凍りついて上手く動かない。
 視界の隅に赤い炎が映る。こんなにも近いのに、彼に自分の声は届かない。凍てついた体は温もりを得られない。
 「アンネリエ!」
 ベルウッドが金切声をあげる。
 亡者がアンネリエに倒れかかるように襲い掛かったその時だ。
 灰白が目の前に滑り込んだ。
 「させないのである!」
 聞き覚えのある声だ。確か酒場で昔会った、ゼトセと言っただろうか。アンネリエは思い出す。
 よく見れば灰白は彼女の髪の色なのだ。
 固い声音でそう言い放ったゼトセは手にする薙刀で亡者を阻んでいるようだ。そのままアンネリエとベルウッドがいた路地に向かって叫んだ。
 「ゲオルク殿!思いの外数が多いのである!」
 ケーゴが相手をしている亡者の事だろう。今やケーゴは緋色の闘気に包まれて、それだけで相手を圧倒しているようであった。しかし、その姿にやはりアンネリエは危うさを感じてならない。
 金具のこすれる音がした。見れば先ほどいた路地裏から甲冑を来た男がやって来ている。
 アンネリエたちやゼトセは難なく通ることができた路地裏も、重装備の男には駆け抜けることができないらしく難儀そうだ。
 ゼトセは亡者を切り伏せるとアンネリエたちを守る態勢に入った。
 再生を始める黒い肉塊を警戒しつつも、ケーゴの戦いに目を向ける。
 「…っ」
 ゼトセは息を呑んだ。孤軍奮闘とはこのことだろう。
 炎が蛇のようにうねり、波のように敵を飲み込む。
 赤い大剣で斬られた亡者は発火し灰塵に帰した。
 以前酒場で見かけた少年のその動きは実はでたらめなもので、見ていて危うい。しかし、それを魔法で補っているようだ。
 しかし、とゼトセは目を眇めた。
 戦っているというよりも八つ当たりの様に感じるのは何故だろう。
 思い当たる節がないわけではない。人はどうしようもなく理不尽で、理解できなくて、それでもそれを誰にぶつければいいのかわからない時に、それが間違っているとわかっていても自分を抑えられないことがある。少年の姿が追憶と重なる。
 ゲオルクがゼトセたちに合流した。
 ケーゴの戦いに目を向け、眉をひそめる。歴戦の男は一目で彼の状態を見抜いたのかもしれない。
 「…ゼトセよ、その娘たちから離れるな」
 「承ったのである」
 ゼトセが頷くと同時にゲオルクは剣を抜き戦いの中に駆け入る。
 ケーゴはゲオルクの加勢に気づいていないようだ。苛烈な炎が彼を覆う。
 骨まで焼き尽くすと思われる炎はしかし、ケーゴの盾だ。襲い掛かる亡者を容赦なく灰へと変えケーゴを守る。ゲオルクはその炎からも身を守らなければならなかった。
 灼熱の中でゲオルクは剣を振るう。敵は際限なく現れるようであった。
 「埒が明かない…か」
 自分の存在に気づきもせず炎を放ち続けるケーゴと再生を繰り返す亡者に苛立ちを覚えてゲオルクは低く唸る。
 ゼトセは戦うことができるが彼女が現在守っている2人が危険に晒される。ここは一度逃げた方が良いだろう。
 「小僧、退くぞ!」
 腕を掴む。そこでようやくケーゴはゲオルクの存在に気づいたらしい。しかし、その腕を払って怒鳴る。
 「離せよ!俺はこいつらを倒す…っ!」
 年端もいかない少年の顔は怒りに歪んでいた。これ以上邪魔をしたらゲオルクさえも敵とみなしそうな痛々しい瞳。
 よく見れば脚が震えている。気力だけで戦っているのだ。
 「俺がアンネリエを守るんだ!」
 瞬間、乾いた音が響いた。ゲオルクの平手がケーゴを張り倒したのだ。
 事態を静観していたアンネリエとベルウッドは息を呑む。
 「大馬鹿者!思い上がるなよ小僧!」
 地面が揺れんばかりの怒号が衝撃で動きを忘れたケーゴを貫く。
 見上げた先にあるゲオルクの顔は険しい。
 ぐらりと世界が揺れたと思うと腕を掴まれて無理やり歩かされてる。
 こんなことをしていたらあいつらが倒せない。アンネリエを守れない。
 胸の奥で激情が叫んでいる。しかし身体が言うことを聞かない。
 「――アンネリエ…」
 無意識であるかのような呟きと共に彼女へと目を移す。
 ケーゴの視線の先の少女を認め、ゲオルクはこの少女か、と理解する。
 亡者から逃れようとしている状況でする話ではないだろう。だが、ここでこの子供に突きつけなければならないとゲオルクの直感が告げている。
 ケーゴを投げるように解放する。乱暴に放された目の前にはアンネリエがいた。
 脅えているような、悲しんでいるような、心配しているような、今にも泣きだしそうに顔をくしゃくしゃに歪めている。
 「…」
 ケーゴは思わず目をそらした。こんな表情、見たくなかったのに。こんな姿、見られたくなかったのに。
 そんな彼を冷え冷えと見下ろしたゲオルクは淡々と言い放った。
 「守ると言ったな」
 返事はない。ただ悄然と頷く。
 「なら何故貴様はこの子にこんな顔をさせる」
 「…っ、それは…俺が弱いから」
 怖いものがあるから脅えるんだ。だから自分がその怖いものを排除すればいい。
 アンネリエを否定する者を、アンネリエが否定する事を、全部自分が消し去ればいい。
 そうしないとアンネリエは守れない。
 そうか、とケーゴは合点がいった。
 だから叱られたのだ。守ると言っておきながら何もできないから。
 ゲオルクは剣呑に目を光らせた。何も理解していない。
 苛立ちと共に短く吐き捨てた。
 「例え強くなろうとも貴様にこの子は守れんよ」
 落雷のような衝撃がケーゴの全身を駆けた。今まで自分を支えようとしていた心の柱が音を立てて崩れたような気がした。
 心臓がやけにうるさい。足が震えている。まるで全てが別世界の事のようにケーゴは立ち尽くした。
 目の前にあるアンネリエの顔は愕然と自分を捉えている。
 「何、を…」
 そんなわけない。強くなれば。強くなればきっとアンネリエを守れる。
 悲しい顔はさせないで済む。辛い目に遭わせなくて済む。
 血の気の失せた顔をした子供にゲオルクはさらに畳みかけた。
 「貴様の手が握る剣はこの少女も傷つけていると知るのだな。今の貴様は何も守っていない。自己満足に浸っているだけだ」
 ケーゴの中で何かがぷつりと切れた。
 力なくだらりと垂れた手がついに短剣を落とす。
 輝きを失った瞳がアンネリエをぼんやりと求める。彼女は目をそらした。
 胸までぽっかりと穴が開いてしまったような感覚を抱きながらもケーゴはアンネリエのもとへと歩を進めようとして、そのまま崩れるように倒れてしまった。
 アンネリエは倒れ伏したケーゴに駆け寄ることができなかった。
 そんな彼をゲオルクは無造作に担ぎ上げる。
 「ふん、相当無理をしておったらしい」
 そうして不安そうにこちらを見ている2人のエルフに言う。
 「調査報告所まで護衛しよう。こやつも気を失っているだけだ」
 ベルウッドとアンネリエは殊勝にこくりと頷いた。

     


――――

 「刳!」
 声の勢いとは裏腹に威力が弱まっている。
 ウルフバードは己の限界を感じ始めていた。
 少しずつ後退はしているのだが、いかんせん数が増え続けるのがよろしくない。
 交易所の南門はミシュガルドの入り口とまで呼ばれる巨大な門だ。海に面したその門から今は亡者が上陸し続けている。
 閉門しようにもその大量の亡者が邪魔なのだ。
 「小隊長殿!」
 背後でした焦り声にウルフバードは呆れと怒りの入り混じった声で返す。
 「ビャクグン!お前は俺に何度同じことを言わせる気だ!敵に背を向けるな!」
 「そう言われましても、今の状況では!」
 ビャクグンの気持ちが分からないウルフバードではない。その心遣いが好ましい時の方が多いのも事実だ。
 それでも。
 「お前があんな黒い姿になって、力が生前のままだったらどうする気だ!?俺はこんなところで死ぬ気はないぞ!」
 「…っ、申し訳ありません」
 確かに、とビャクグンは剣を握りしめる。
 この黒い亡者たちに後れを取る訳にはいかないのだ。もし自分がこの仲間入りをしたらと思うとぞっとしない。
 ウルフバードを危険な目に遭わせるわけにはいかないし、何より子供たちが悲しむではないか。
 そんな2人の間を縫うように氷の礫が飛ぶ。フロストの魔法だ。
 しかし彼女も限界に近く、もはや亡者一体を氷漬けにするのも難しい状況。
 見ればもう肩で息をしてその場から動くのにもよろめいてしまうようだ。
 今この中で一番動けるのは自分だろうとビャクグンは考えた。
 不死に近い亡者たちを全力で屠ろうとしているため、疲労の色が見えない訳ではないがまだ体力はある。
 今なら小隊長殿とフロスト殿2人くらいは抱えて逃げることができるかもしれない。
 だが、と周りに目を向ける。
 今戦っているのは3人ではないのだ。応援に来た魔法使いや傭兵もいる。
 消耗しているとはいえウルフバードとフロストの実力は本物だ。現に亡者たちによって黒の仲間入りをする者がいる中でこうして戦い続けているのだから。
 逆に言えばこの2人が要なのだ。戦線から離脱すればこの僅かばかりの戦線が総崩れになってしまう。既に交易所には大量の亡者たちが入り込んでいるのだろうが、そこに自分たちがひきつけていたこの大群が加わることになる。
 目の前でまた一人の魔法使いが5体の亡者に掴みかかられ、内腑を貪られ絶命した。
 あまりこういう光景は見せてほしくないものだ。戦っているこちらの士気が下がるではないか。
 苦々しげに表情を歪めるビャクグンに背を預けるウルフバードもまたこの状況を絶望的であると端的に分析していた。
 少なくとも逃亡用の魔力だけは残しておかなければならない。このまま戦い続けたら明らかにこちらの負けだ。
 そして、もはやその魔力を使わなければ戦うこともできない状況なのだ。撤退しなければ死ぬ。
 「操」によって水を操り空へ逃げる。ビャクグンくらいなら水に乗せて一緒に逃げれるだろう。むしろそうしないと今後困る。
 水の量からして定員は2人。だがビャクグンが担ぎさえすればあのエルフ女くらいは助けることができるだろう。残りの傭兵たちはできれば殺しておきたい。亡者の仲間入りをさせるくらいなら死んでもらった方がましだ。自分の兵ならこういう時簡単に殺せるのだが。
 と、そこまで考えて一瞬ウルフバードは呆けた表情をする。何故あのエルフ女だけ助ける必要があるのか。
 どうも最近は助けられることが多いせいか自分も助けることを考えてしまう。
 とはいえ別に助けても罰は当たらないだろう。そう考え水を展開しようとした時だ。
 「オンアビラウンケンシャラクタン!」
 少年の鋭い声が響いた。
 同時に白銀の刃がウルフバードの横を駆け、亡者を斬り裂いた。
 ウルフバードは目を瞠った。
 その攻撃自体にではない。攻撃を受けた亡者が再生せずに消滅したことにだ。
 攻撃がきた方向を見ると少年と亜人らしい女性がこちらに走ってきている。
 術を放ったらしい少年はそのままウルフバード達の戦線に加わり刀印を組む。
 「オンデイバヤキシャマンダマンダカカカカソワカ!」
 魔力とは違う異質な力がうねりをあげる。
 不可視の鎖が亡者たちを縛り上げたようだ。亡者たちは動きを止める。
 「アマリ様!」
 少年の声に応じるようにアマリと呼ばれた狐の亜人らしい女性が炎を放つ。橙の業火が亡者を覆い焼き尽くした。
 その圧倒的な力に照らされウルフバードもフロストも呆然としている。あれだけ苦戦していたのが嘘のように敵は灰塵に帰したのだ。
 ビャクグンだけはその力に思うところがあったらしく納得のいく顔で少年と女性を見つめている。
 少年は一息つくとウルフバードに質問した。
 「あの、大丈夫ですか?」
 自分より背が高く、人相の悪い男におずおずと聞く。
 「ああ、助かった。…お前、今の魔法は一体何だ?」
 見ればフロストも同じことを聞きたかったかのようにこちらを見ている。
 じとりと詰問のごとく睨まれて少年は思わず身を引く。
 アマリがそんな2人の間に割って入った。
 「詳しい話はもっと安全な場所でしよう。ここではまた奴らに襲われる」
 

 「…つまりお前たちの行使する力は魔法とは違うと、そういう訳か」
 ウルフバードの確認にアマリは頷く。
 「悪鬼に対する調伏の術じゃ。魔法とは異なることわりである霊力を用いる」
 「だからあの亡者たちが…」
 フロストも納得がいったらしく思慮深げにアマリ達を眺めた。
 彼らは南門を閉じた後に調査報告所に移動していた。今は避難した人々がいる一階ではなく二階の会議室で話し合いを続けている。
 本来関係者以外立ち入り禁止となっているのだがウルフバードは皇国が丙家の出身だ。ここまで共に戦っておきながら仲間外れはないだろうと強行突破した。そのウルフバードの随身としてビャクグンも共にいる。
 そして最も重要なのがアマリとイナオと名乗るこの2人だ。
 慣れない空気に緊張しているらしいイナオは椅子に座って縮こまっているが、アマリの方は泰然としている。
 ウルフバードはアマリに尋ねた。
 「その力、俺たちが今すぐ会得することはできるか?」
 「無理じゃな」
 にべもなくアマリは首を横に振る。
 「魔法とは異なる才がいる。一朝一夕で会得できるものではない」
 ウルフバードの脳裏に魔法の研究の日々がよみがえる。成程、確かに無理だろう。
 「…となると、この騒乱の解決のためにはあなた方の力が必要不可欠になるということですね」
 それまで窓の外を眺めていた人物がくるりとこちらに体を向けた。
 差し込む光が長い黒髪を照らす。艶のあるその髪とは対照的にその女性の肌は白い。切れ長の目とすっと通った鼻筋は麗人のそれなのだがどこか冷たさも感じさせる。
 飾り気のない服は彼女の為人を表しているようだ。唯一髪につけた骨を基調とした装飾はしかし、皇国以外の者には悪趣味にも見えるだろう。
 足が不自由なのだろう、車いすに乗っている。彼女はアマリたちの方へまっすぐと車いすを動かす。
 「乙家令嬢ククイ」
 ウルフバードがその名を呼ぶ。
 「なんですか丙家の爆弾魔」
 硬い声音。両家の確執が嫌でもわかる。特にククイと呼ばれた女性の顔つきは静かな憎悪に染まっている。
 それを気にせずウルフバードは続けた。
 「外交官オツベルグはどうした。下の避難民が脅えきっている。こういう時こそあいつのタンバリンが必要だろうに」
 全く外交官とは関係のない役目を期待する彼に対し、ククイは一言返した。
 「今は海です」
 「海?」
 そこにフロストが加わった。
 「お前たち甲皇国がアルフヘイムに侵攻してきたんだろう」
 ああ、とウルフバードは合点のいく顔で頷いた。
 思えばあの老いぼれ耄碌骨仮面爺が海に出たのをいいことに外に出てきたのだった。
 そういえば調査報告所でアルキオナの宝玉やアルドバランについての資料を探すつもりだった。結果的にはそれがかなっているのだからつくづく悪運だけは良い。
 そして、今のフロストの言。知ってはいたがやはり乙家はアルフヘイムと協力関係にある。恐らくあのタンバリンは今アルフヘイムの者たちと共に行動している。ああ見えても甲家の血も入った貴族だ。丙家も無下にはできない。そうしてさらにアルフヘイムとのつながりを強化するつもりなのだ。
 だが、とウルフバードは考える。
 乙家とアルフヘイム。その関係を担保するものは何だ。
 仮にも侵略した国の一族だ。例え亜人との友好を掲げていたとしてもそれを簡単に信用するほどアルフヘイムも馬鹿ではない。
 ならば、乙家は何をした。
 例えば、人質を送る。しかし、乙家の誰かがいなくなったという話は聞かない。こちらも丙家の末端だ。そんな話があればすぐに耳に入る。
 ならば、と思考を巡らせる。
 そう、自分が丙家という皇国を支える貴族の出であるように、乙家もまた皇国の中枢。
 ならば、皇国の機密をアルフヘイムに渡すことでその信用を得ているのではないか。
 疑念をはらんだ目をしたウルフバードに対してビャクグンがおずおずと口を開く。
 「あの、小隊長殿…」
 「あ?」
 「…私も失念していたのですが、亡者たちの出現前の大津波…駐屯所は無事なのでしょうか」
 「……」
 そういえば。
 駐屯所も海に面する場所にある。交易所ほどではないがやはり被害はあるだろう。
 何しろ魔法で対処することができないのだ。唯一にしてもっとも津波の対処に適していたであろう自分はどういう訳か交易所の防衛に徹している。
 「…丙家に戻れる気がしねぇ」
 無断で謹慎を破ったくらいならまだよかった。そのせいで駐屯所が壊滅と言うことでもなればさすがに許されない。
 「…いずれにせよ」
 ククイが口を開く。
 「今オツベルグはいません。…フォビア卿の言ももっともですが、下の者たちを落ち着ける術を私たちは知りません」
 「あるとすれば、亡者たちの掃討じゃろうな」
 ようやく話が本筋に戻った。
 閑話休題をなしたアマリに対してウルフバードは机に広げられた地図を示す。
 「すでに南門は閉じた。奴らの侵入経路は大方この南門だろうから、交易所の亡者どもがこれ以上増えることはないだろう」
 ククイもそれに同調した。
 「既に東門、西門、北門も閉じています。籠城と共に交易所内の亡者たちもこれで逃げることができない」
 「…となると、そこの2人の力で交易所内の奴らを叩き切ればいいってことか」
 「ですが小隊長殿、それでは根本的な解決にはなりません。それに外にはまだ亡者が溢れています」
 「…そうね、そもそもまだ海にはあの化け物がいるのよ」
 「…大体、あの怪物は何だ。あれが根本ならどうしようもないぞ」
 「――それについては私からお話ししましょう」
 突如新たな声がした。
 見れば机の上に魔法陣が浮かび上がり、目隠しをした女性の顔が浮かび上がっている。
 「ニフィルさん!」
 フロストが驚きの声を上げた。崇拝する大魔法使いが無事であると知り表情には喜びが混じる。
 「ニフィル・ルル・ニフィー…悪名高い禁断魔法の発動者か」
 苦笑いとともにウルフバードが確認した。その言葉にフロストが食って掛かろうとしたがビャクグンが慌てて制す。
 顔だけの像であるニフィルもウルフバードの方を見やり言葉を返した。
 「初めまして、皇国の水魔道士。あなたの悪名も相応に聞き及んでいます。そこにいるということは私たちと協力してくださると?」
 「今は停戦中だ」
 端的な言葉にニフィルは不敵に微笑んだ。
 「…そうですか。ならばあなたも聞いてください。今我々を襲っている未曽有の危機。それを生み出した全ての源」

 その名は、禁断魔法「生焔礼賛しょうえんらいさん」。

     


――――


 「…大丈夫なのかしら」
 ベルウッドが横たわるケーゴを心配そうに見下ろす。
 いつもは喧嘩ばかりだがさすがに目の前で意識を失われたら憎まれ口を叩く気にはなれない。
 「大丈夫である。多分、体力的に限界だっただけで外傷はないのである」
 ゼトセの言葉にベルウッドは曖昧に頷いて見せた。だが不安はぬぐえない。
 ここはミシュガルド調査報告所だ。避難してきた人々がひしめき合うエントランスや資料室から医務室代わりのこの小部屋に不安の声が響いてくる。
 アンネリエは最初こそケーゴの傍についていたのだがしばらくするととぼとぼと部屋を出ていってしまった。追いかけようとしたベルウッドをゲオルクは制止した。代わりにピクシーが彼女を追いかけた。
 「1人になりたいのだろう。今一番辛い思いをしているのはあの子だ」
 「…それは、そうだけど」
 俯くベルウッドは愚痴をこぼし始める。
 「…こいつ、バカなのよ。アンネリエの気持ちに気づけないバカなの。あの子が上手く気持ちを伝えられないのをいいことに戦ってばっかり」
 よくわかると言わんばかりにゲオルクは頷いた。
 「…でも、ケーゴ殿の気持ちが分からないでもないのである。自分の大切な人が傷つくのは怖いのである」
 ベルウッドがくわっと牙をむいた。
 「じゃあアンネリエの気持ちはどうなるのよ!アンネリエは…ケーゴに戦ってほしくなんかない筈よ!」
 「それは…そうであるが…」
 ケーゴがアンネリエに傷ついてほしくないと思うのと同様にアンネリエもケーゴに傷ついてほしいとは思っていない。それなのにケーゴは戦いに行ってしまうのだ。
 守ると言いながらも一番大切な守り方を彼は知らない。
 ゲオルクは未だ目を覚まさない少年を見下ろして息をつく。
 怪我はしていない。体力が回復したらこの子供はまた外に飛び出してしまうだろう。だが、それでは意味がないのだ。
 ケーゴの隣に座っていた少女がいた場所に目をやる。少年はあの子を守りたい一心で戦っている。ゼトセの言う通りその気持ちは分かるのだけれど。
 ただやみくもに戦うだけでは意味がない。敵ばかりを見ていてはいつか大切なものを見落とす。
 まっすぐな思いは道を誤れば破滅への近道にもなり得るのだ。だから誰かが正しい道を示してやらなければならない。
 だが、示すことしかできない。結局一歩を踏み出すのはこの少年自身だ。
 「…戦うことと守ることは違う」
 重く呟く。
 それは、過去に気づくことが出来なかったこと。
 「失ってからでは遅いのだ」
 何故なら自分は道を違えてしまったのだから。

 
 不安の声がさざめく中をアンネリエはあてもなく歩いていた。
 今のケーゴはみていられない。自分のせいでまた傷ついてしまう。
 そんな風に守ってほしくない。そんな風に自分だけ無事に残されて、それで自分はどうすればいい。
 本当はやめて、と言いたかった。それでも、それが言い出せない。ケーゴがいなければ自分は自衛の手段を持たないのだから。
 胸にわだかまりがある。
 話したい。ケーゴに自分の気持ちを伝えたい。
 持ち歩いている黒板では足りない。直接、自分の言葉をぶつけたいのに。
 今の自分にはそれすら叶わないのだ。
 唐突にアンネリエの脳裏に2人の顔が浮かんだ。
 今自分が手にしている杖を守りきれと、怖いほど真剣な顔で言っていた。
 手にした杖はずっしりと重く、どうしてと涙を流しながら聞き返した時には2人の顔はうってかわって穏やかで。
 ――大丈夫だよアンネリエ。お前には精霊樹様がきっとついていてくださる。
 嫌だ。そんなの嫌だと首を振った。しかし2人は穏やかに笑ったままこちらに背を向けたのだ。
 身体を魔力がふわりと包む。結界の魔法にかけられたのだと悟った。きっと外から自分の姿が悟られないようにするためだ。
 背中に向けて叫んだ。なんで一緒にいてくれないの、みんなで隠れようと。だがその声は届いていないようだった。
 ――愛してるよ、アンネリエ。
 喉が裂けんばかりに泣き叫んだ。逃げて、やめて、殺さないで。
 だが、どれだけ叫んでももう誰にも届いていなかった。
 全てが終わった時には目の前に大好きな2人が血を流して倒れていて。それでも残された結界は強力で近寄ることすらできなかった。
 叫んだ。叫び続けた。不可視の壁を叩き続けた。
 それでも、もう二度と自分の声が聞いてもらえることはないのだ。
 届かない。どれだけ叫んでも届かない。自分の声は伝わらない。

 その日以来、アンネリエは声を出すことが出来なくなったのだ。

 潤んだ目をこする。と、そこで気づいた。人々の声が遠い。
 今いるのはエントランスからは離れた長い廊下だ。どうやら開放されていない場所に来てしまったらしい。
 本当はこうした静かな場所にいたいのだけれど仕方ない、と引き返そうとした時だ。
 近くの部屋のドアが開き、中から少女が出てきた。
 「…ん、君は?悪いけどここは関係者以外立ち入り禁止だよー」
 アンネリエよりも年上であろう少女は好ましいものを見るように彼女に話しかける。
 「あ、君エルフなんだね。もしかして人間もいる避難所じゃ不満だったかな。でもごめんね、種族別に部屋を開放できるほど報告所も広くないんだー」
 そこでアンネリエはその声に聞き覚えがあることに気づいた。確かこれは津波や亡者が襲来した時に頭に響いた声だ。
 そんな彼女の視線を察したらしいハナバは得意げに笑う。
 「あ、気付いちゃった?いやー自分の存在って本当は機密なんだけどねー。でも、やっぱこういう時こそ自分の力って本領は発揮できるじゃん?それに君みたいな可愛い女の子も守れるわけだしさー」
 ぽんぽんと肩を叩いたその手をアンネリエはぎゅっと掴んだ。
 思いの外強い力に驚く。見るとアンネリエは何かを必死に訴える目をしている。そこで察した。
 「…話せないんだ」
 本当はこのまま帰すべきなのだが、その必死さについハナバは伝心の術を使ってしまう。
 (どうしたの?何かあった?)
 心と心がつながり会話が可能になる。
 アンネリエは意を決してハナバを見つめた。強い光がハナバをさす。
 (……お願いがあります)

     


――――


 「生焔礼賛しょうえんらいさん。それが大戦末期に用いられた禁断魔法の名前です」
 「生焔、礼賛…」
 確認するかのようにフロストは呟く。魔法取締官の自分でも初めて聞く名前だ。
 誰もが禁断魔法とだけしか知らないあの日の禁術。その正体が。
 ニフィルはこくりと頷いた。
 「そうでしょう。数ある禁断魔法の中でもその存在すら秘匿される特一級の禁術です。この魔法を知り、さらに行使することができるのは私ともう1人だけ」
 フロストの脳裏に不遜なエンジェルエルフの顔がちらついた。
 「…で、どんな魔法なんだ。それだけ厳重な扱いなんだ、破壊力があるだけではあるまい」
 ウルフバードがニフィルを睨んだ。それに怯む彼女ではない。
 「…もちろん、威力が大きければ三級禁術に指定されますが、ここまで厳重には扱われないでしょう。生焔礼賛が禁術とされる理由は、生命の尊厳を踏みにじる点にあります」
 いったん言葉を切る。ウルフバードは続けるよう促した。
 ニフィルは覚悟を決めたように口を開く。
 「生焔礼賛の発動には生贄が必要です。そして、その生贄の身体を憑代として結界を発動、その結界の中で、生贄とされた者の魂が生者の命を奪うのです。まるで失った命を求めるかのように。しかし、決して死者がその命を得ることはできない。結果として増えるのは命を求めるもう1つの霊魂。2つの霊魂は2人の死者を生み、4つの霊魂は4人の命を求める。生ける者の命の炎を求める死の連鎖。結界の中の人々が全て斃れた時、結界は封印術へと変わり、犠牲者の魂は未来永劫魔法が発動された地に封印される。それがこの魔法の力です」
 誰もが言葉を失った。
 今まさにその状況が起こっているのだ。亡者が人々を襲い、自らの仲間にしている状況が。
 「…だが、今起きているのはその魔法そのものではないな…」
 冷静さを無理やり保ちウルフバードが確認するように語る。
 「それにだ。今の話ではアルフヘイムの国土が壊滅したことと話がつながらない」
 皇国の人間だけを結界に閉じ込めることだってできたはずだ。それがアルフヘイムにも甚大な被害を及ぼし、あまつさえ不毛の地にしたのは何故だ。
 「…そうです。重要なのはここから。…私は、その魔法の維持に失敗しました」
 フロストが瞠目した。
 失敗。この人が魔法を失敗したというのか。
 フロストが知りうる限り最高位の魔法使いだ。だからこそ禁断魔法の発動という大役を仰せつかったと聞いている。
 ニフィルは彼女の驚愕を認めつつ話を続けた。
 「本来はアルフヘイムの部隊が皇国を引きつけて、そこで魔法を発動する予定でした。しかし、その時に生贄となったのが…我らアルフヘイムの守り神だった」
 「守り神を生贄にするとはな。貧乏神の間違いだったのか?」
 「…憑代になるはずだった犯罪者とアルフヘイムの夫婦神が入れ替わった。そう言って納得していただけますか?」
 「納得できるわけがないだろう。夫婦神が何だかは知らないが、仮にも神を名乗る存在が魔法の干渉を受けるとは思えん」
 「…ですが実際にそれが起こったのです。贄となった神の力を私は御しきれず、魔法は全ての生命力を奪い尽くす爆発と化した。それが、大戦末期に起こったあの爆発なのです」
 漆黒の大爆発。全ての命を奪う悪夢。ニフィルの脳裏にこびりついて消えない黒色だ。
 「…生命力を奪われ、大地があのように…」
 フロストの言葉にニフィルは頷く。
 「大地だけではありません。魔法は海洋にまでおよび、黒い海と呼ばれる海域を作りました。そして、ここからは仮説ですが…爆発に巻き込まれた人々はその海の中で本来の生焔礼賛と同じように生命を求め続けていたのではないかと考えています。そして、あの化け物を形成した。ですがあの黒い海と言う海域が結界の役割を果たし、それが何らかの形で破られ今回こうして現れたのではないかと」
 ソフィアは言った。あれは自分が残した魔法の残余だと。私たちの故郷の穢れとはまた違う、執念が今になって目を覚ましたと。
 つまりは、そういうことなのだ。あの亡者たちは爆発に巻き込まれた者たちの成れの果て。魚人が多いのは禁断魔法の爆心地が魚人族の集落に近かったため。
 アマリがイナオの方を向いた。
 「この子が用いる術は調伏の力。救われぬ魂を無理やり浄化させたというところか」
 ニフィルが頷く。ウルフバードとフロストもことの真実に圧倒されているようだ。押し黙って事態の深刻さを受け止めている。
 ビャクグンだけが青ざめた顔でニフィルの告白を聞いていた。彼の中で1つ、繋がってしまったことがある。
 禁断魔法が発動したその時、彼の仲間であるハシタは爆心地にいたという。それにも関わらず生き残り、そして性格が豹変してしまった。それは何故だ。知己のトクサが彼女の心の中に見たのは、黒。その黒は一体何だ。
 「…そういう、ことだったのか…」
 誰に聞かれるでもなく呟いた。
 妖の生死は人のそれと異なる理による。
妖たちがもつ命とは、人々の記憶。人々の恐れや不安が妖を生み出し、人々の記憶から消え去った時にその妖も消滅する。
 肉体を持つ限り不死ではない。しかし、命を失ったとしても再び生成される。人々の想いによってだ。それが妖。
 恐らく、生焔礼賛の魔法による絶命は人の生命力そのものに作用するものだ。暴発した魔法もそうなのだろう。
 肉体に損壊を与えるものではない。だからハシタは無事だった。
 だが、その魂には確実に楔が穿たれた。それは生命の死そのもの。魔法による全ての生命の死が爆心地にいたハシタの魂に作用してしまったのだ。
 それが、あの黒。生命を奪われた漆黒。アルフヘイムの大地、黒い海と呼ばれる海域、交易所に現れた亡者たち。全てトクサがハシタの心の中に見た黒色と同じなのだ。
 勢いのままにビャクグンはニフィルに詰め寄った。
 「方法は…っ!黒に染まった者を元に戻す方法はないのですか!?」
 「…魔法の暴走が引き起こした結果です。元に戻しようがありません」
 「そんな…」
 力なくそう呟いたビャクグンをよそにウルフバードは思案を続けた。
 「それが真実として…どうする気だ。お前の言うとおりだとあの化け物は神の成れの果てでもあるのだろう」
 「そうです。神の御身すらあの化け物の一部。生半可な魔法では手が出せないでしょう」
 「待ってください。ニフィル様、そうだとすれば夫婦神だけではなく、禁断魔法によって失われた精霊樹様も…?」
 ククイにもその名前は聞き覚えがあった。懐かしむような口ぶりで会話に加わった。
 「精霊樹というと…全ての魔法の始祖と崇められるあの精霊樹ですか」
 ニフィルは驚いた様子で返した。
 「驚きましたね。皇国にも精霊樹信仰があるのですか?」
 アルフヘイム国内では精霊樹は神と呼ばれる存在だ。だが皇国の人間からすればただの大樹程度にしか思われていないと思ったのだが。
 ウルフバードはククイの方を見やりながら、記憶を掘り起こし教えた。
 「甲皇国に伝わる神話だな。かつてこの地をダウの悪夢が支配しようとした時、マギア・ゼクトという大魔道士が精霊樹を犠牲にその悪魔を討ち果たした…ってちょっと待て。この神話…!」
 話しながら気づいた。幼い頃に聞いた昔話程度に考えていたが、この神話に出てきた魔法は。
 愕然とするウルフバードに対してニフィルは告げた。
 「あなた方人間にとっては神の御世は神話かもしれませんが…私たちにとっては1つの歴史です」
 「…そうか、あの昔話にでてくる魔法が生焔礼賛だったのね」
 フロストも記憶にはあったらしい。
 「…マギア・ゼクトは実在の人物です。生焔礼賛を含むいくつもの禁術を創り上げた、大魔術師。魔法の始祖たる精霊樹をも贄にするその力。恐らくは私たちとは違い、神の眷属だったのでしょう。そして彼女に連なるもの達は皆その甚大な魔力を持ち、彼女の直系は禁術にも関わらずその魔法を知り、あまつさえ発動ができる」
 「そんな!」
 フロストが金切声をあげた。一日で何度驚愕するのだろうか。だが、ニフィルの言葉に相当する一族を、人物を、彼女は知っている。
 「じゃあ、あのソフィアは、マギア・ゼクトの子孫だというのですか!?」
 「そう考える方が自然でしょう。恐らく我々の管理とは別に一族の間で禁術が伝承されているはずです」
 そうでなければあの禁断魔術をそう簡単に扱いさらには自己流に改良するなど不可能だ。
 「…っ、エンジェルエルフが神の末裔と自身を誇っていることは知っていましたが…!」
 「恐らく血は薄まっていて、その事実を知らない世代も増えているのでしょう」
 ニフィルとフロストの会話についていけなくなったウルフバードが手をあげた。
 「…とにかく、その精霊樹もあの化け物の中にあるってことか?」
 「…昔話の中では精霊樹は贄になったにもかかわらず、再びアルフヘイムの大地に姿を現しました。しかし、今度ばかりはそうもいかないようですね。ただ、精霊樹の巫女の話では今も精霊樹はどこかで復活の時を待っているということです。彼女の言葉を信じるならあの化け物の中には精霊樹はないのかもしれません。ただ…」
 ニフィルの表情の変化を読み取りウルフバードの目が光った。
 「何だ?」
 彼女は逡巡を見せたが、ここまで話したのならと口を開いた。
 「…これは関係のない話かもしれませんが、禁断魔法によって消滅する際に夫婦神は私に仰ったのです。精霊樹を再び大地に戻してはならないと」
 誰も答えようがなく、沈黙が訪れた。精霊樹を大地に戻すなとは、どういうことだ。
 その沈黙を破ったのはイナオだ。
 「えぇと、あの。で、結局どうするんです?」
 6対の目が一斉にイナオをとらえ、彼はおっかなびっくり続けた。
 「あの、結局今交易所にいるのが亡者たちだとして、対応できるのは僕とアマリ様だけなのでしょうか…?」
 さすがにそれは無理だと少年目が訴えている。
 ウルフバードとフロストは互いに顔を見合わせた。
 自分たちは消耗しすぎた。それに魔法ではなく別の術が必要となれば、この2人を援護しながら動くほかないのではないだろうか。
 「…伝令役に頼んで、今ある戦力を結集させましょう。できる限りこの2人を守りながら戦うほかありません」
 ククイの言葉にビャクグンが反応した。同時にアマリが尋ねる。
 「伝令役…というとあの伝心の術を用いた少女か」
 フロストが首を立てに振って肯定を示す。
 そこでウルフバードの目が煌めいた。
 伝令役。伝心の術。つまりはあの頭に響いた声の持ち主だろう。あの女が伝令役と呼ばれているのだ。
 彼女の本来の役割は何だ。もちろん伝令だろう。では誰と何を。
 フロストは伝令役を知っている。乙家のククイも知っていた。
 先ほどの仮説が再び頭をもたげる。
 乙家がアルフヘイムとの間のつながりを維持するために情報の提供をしているとして。
 その方法が伝令役とやらの伝心の術だとしたら。
 どれだけ場所が離れていたとしても、その人物がいれば皇国ともアルフヘイム本国とも情報のやり取りができるではないか。
 ウルフバードの脳内で組み立てられていく仮説。それに気づくことなくニフィルたちは作戦をまとめていく。
 「海の化け物は私たちに任せてください。現在皇国とSHWの艦隊と合流しようとしているところです。三国の力を合わせて必ず討ち果たして見せます」
 「なら私たちは地上の亡者たちを潰していけばいいのですね。まずは交易所内の亡者をなんとかしましょう。アマリさん、イナオ君、交易所内の亡者たちを掃討するのにどれくらいの護衛と時間が必要かしら」
 いや、とアマリは首を横に振る。
 「一体一体潰していてはきりがないし、危険も伴う。だから、一気にこの大陸全土の亡者を調伏したいと思う」
 「…アマリ様、そんなことが可能なのですか!?」
 イナオが驚きの声を上げる。
 と、アマリは不思議そうに返す。
 「何を言っておるのじゃ。お主がやるのだぞイナオよ」
 「…は?」
 思い切り胡乱気な声を出したイナオに対して飄々とアマリは言う。
 「妾にできるのは焼き尽くすことだけ。この力を解放したら交易所ごと焼き尽くしてしまう。じゃが、イナオ。お主に教えた術であればそれができるじゃろう。なに、心配するな。霊力だけは妾も力を貸す」
 「でも、僕に全ての霊力を受け止めるだけの力はありませんよ」
 顔を青ざめさせるイナオに対してアマリもうむと頷いた。
 「そこがネックなのじゃ。いつもの刀では妾の力を受け止めきれない。…と言っても他の人間やエルフを憑代にすることもできないじゃろうな。自分で言うのもなんゃが妾の力は甚大」
 そこでじゃ、とアマリはその場の全員を見渡した。
 「妾に1つ憑代の心当たりがある。お主ら…ケーゴという少年に心当たりはないか?」

       

表紙

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Neetsha