帝都マンシュタイン中心部にそびえ立つ皇居グデーリアン城。その周辺を、貴族達が暮らす上町が取り囲むように華麗な屋敷が建ち並ぶ。薄汚れてはいるが夜でも活気のある下町とはまるで違う。ごみ一つなく清潔に保たれているが、しんと静まり返り、月明かりだけが仄かに街中を青白く照らしている。戦争による燃料需要により、国内では灯火管制が敷かれて久しい。このような月の高い夜でなければ、一歩も外を出歩くこともできない真っ暗闇だっただろう。
(まるで死人の町だな)
 ゲオルクとダンディは、周囲を警戒しながらも、その上町を足早に駆けていた。
 人影どころか生きて動くものもいない。それは死人の町か、もしくは管理された精密機械の工場のような印象を与える。
 実際、この上町は、甲皇軍が開発した近代兵器──無人の自動機械兵──だけが、ガションガションと無機質な足音を響かせて巡回しており、不審な人物がいれば問答無用で攻撃される。
 だが、なぜか一向に、その自動機械兵が襲ってこない。
 ゲオルクは気づいていなかったが、それは彼が懐に忍ばせているアスタローペの宝玉のおかげだった。
 アルドバランの出入りにしか使えないとシャムが言っていた宝玉だが、実のところはミシュガルドびとの貴族の証であった。
 宝玉を持つ限り、ミシュガルド流用の技術を応用して造られた自動機械兵からの攻撃は受けないのだ。
 巡回する自動機械兵とばったり遭遇しても、それらはまるでゲオルクのことなど見えていないかのように、無機質な足音を響かせて通り過ぎていく。
 ともかく、これはチャンスであった。
 このまま一気に皇居に向かおうと、はやる気持ちを抑え切れず、ゲオルクは足早に駆け出し───
「止まりなさい!」
 だがしかし、障害はまだあった。
 いんいんと大きく響き渡る警告の声。
 凛々しいが、トーンの高い女性の声のように聞こえたが、聞き間違いだろうか。
 ゲオルクはぎょっとしてその声がした方と向き合った。
 にゅるりと蠢く大蛇の尾、大きな牙をむき出しにした肉食獣の虎の顔。体も毛むくじゃら…。それは“鵺(ぬえ)”という伝説上の妖怪であった。巨体のゲオルクでも一呑みにしてしまいかねないほど、でかい。ハイランドの迷宮で数々の魔物と戦ったゲオルクも、初めて見る異形の姿。
「こいつは厄介そうだな」
 ゲオルク、ダンディはそれぞれ剣を抜き、怯むことなく鵺に対峙する。
 鵺は大蛇の尾を走らせ、二人を威嚇する。
(───あんな、おじいちゃんが結婚相手だなんて、あんまりだわ……)
(───エレオノーラ様……)
(───ハシタ! 私、どうしたらいいの……逃げられるものなら逃げたい……)
 その鵺の正体は、亜人差別をする丙家を監視するアルフヘイムからの密偵部隊、その一人、鵺の亜人ハシタであった。
 心を盗み見ることができる“覚(さとり)”の亜人である丙家監視部隊長トクサは、ホロヴィズの屋敷から脱出して皇居に向かおうとするゲオルクの動きを察知していた。
(───戦争を早期終結させるには、この国の皇帝の首をすげ替えるしかないでしょう)
 トクサは、そう乙家の重鎮ジーン伯爵に囁く。
 その様子をハシタも目にしている。
(───そう、これはやむを得ないことなのだわ)
 ハシタはそう思い、獣の牙を剥き、ゲオルクとダンディを威嚇した。近づくものなら近づいてみろ。その頭、噛み千切ってやるぞと。
 だが躊躇せず、ゲオルク、ダンディは別々に走った。狙いを定まらせないようにと、別方向から切りかかろうというのだ。
 ハシタの対応も素早い。ゲオルクに対しては虎の顔で威嚇し、背後から迫り来るダンディに対しては大蛇の尾が別個の生物のように蠢いて牽制する。
(───でも、娘の、女としての幸せは……)
(───大事の前の小事。政略結婚、大いに結構! 貴族としては当たり前の話だ。甲皇国の為、平和の為に! 貴族の責務(ノブリス・オブリージ)を果たさねばなりません!)
 ためらうジーン伯爵に、トクサはそれが物事の道理だというように、強い口調で語りかける。
「おのれ!」
 ゲオルクが手傷を負うのも構わず、長剣を振るった。ハシタの体に長剣が刺さろうとする。
「させナイよ」
 金属音が響き、ゲオルクの長剣は何かで弾かれた。
 ハシタの影がにゅっと伸びて、そこから影法師の亜人ロウが現れる。
 短めの刀子──忍者が使う特殊な刃物クナイを手にしたロウは、ハシタを守るように身構えている。
 これで2対2。凄腕の傭兵であるゲオルクとダンディだが、相手もまた只者ではない。
 しかも、鵺と影法師という、ゲオルクもダンディも初めて目にする特殊な戦い方をする相手。
(───女の、幸せ……)
 同じ女であるハシタは、トクサの言う道理は分かるが、それでも胸が痛むのを感じていた。
「ハシタ!」
 咎めるように、ロウが叫ぶ。戦いに集中しろ! そう、ロウの真っ暗な洞のような目が語りかけていた。
(───分かっているんでしょうねぇ、ハシタ!)
 トクサの声が、ハシタの頭の中に響いた。幻聴だろうか、頭をぶるぶると振る。
「危なイ!」
 再び、ロウが叫んだ。
「おおお!」
 ダンディが両手で持つ大剣を一閃した。決して小柄ではないダンディの身の丈よりも大きなバスタードソード。破壊力は凄まじく、ハシタもそれを食らう訳にはいかないと、後ずさった。
 ロウの叱責がなければ、ハシタは危ういところだった。
「ハシタ、何をやってイる…! 相手は“プロ”だ。集中しないと、こちらが殺らレる!」
 ロウはその任務の性質上、人と話す機会がとても少ない。言語能力が少し衰えており、やや訛りがある喋り方をする。そんな彼が珍しく饒舌に警告してくるほど、危ういところだったということだ。ロウもまた長命の亜人だが、実のところまだ20才になったばかりである。それでも戦いの経験は豊富であり、ハシタとの付き合いも長い。彼女の戦い方に迷いがあるのを見抜いていた。そして影法師という暗殺や密偵に向いている亜人であるロウは、正面から堂々たる戦士と戦うには分が悪いと思っている。やはりハシタにしっかりしてもらわないといけないのだ。
(───ハシタ、しくじったら…分かっているんでしょうねぇ…おしおきですよ!)
 ハシタの目蓋に、トクサの顔が浮かんだ。
 ひょうげた声で言うトクサだったが、目が笑っていなかった。普段とは違う、親しみの欠片も無い作り笑顔は、はっきりと任務はこなせとハシタに言っていた。
 ハシタは咆哮する。不気味で、恐ろしい、獣の叫び。
 その夜、外を決して出歩かない上町の人々は、すっかり目覚めており、家々の中で震えながらその様子を目撃していた。
 ただの亜人でも化け物と恐れる甲皇国の人々は、化け物中の化け物である鵺の姿は、それこそ地獄から来た大悪魔のように恐ろしい。
(───ば、化け物…!)
(───恐ろしい、何だあの不気味な姿は…!)
(───醜く、奇怪な…! 早く消えてなくなれ!)
 上町に住む甲皇国の貴族達の恐れと差別の眼差しは、その密やかなる囁きと共に、痛いほどハシタに届いていた。
「甲皇国の人々の考えを変えるためには、亜人差別をしない皇帝の誕生が必要……だから、あなたにここを通させるわけには、いかない!」
 ハシタの迷いは晴れた。唸り声を上げながら、彼女は凶暴な虎の爪を繰り出した。
「…ぬう!」
 凄まじい一撃に、ゲオルクは怯む。すんでのところでかわすが、麻布の上着が切り裂かれた。
 ゲオルクの鍛え抜かれた筋肉の鎧のような上半身は、生々しい傷跡が無数に走っていた。
 よく見ると、ところどころ新しい傷跡が回復しきれず、ぽたり、ぽたりと流血している。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
 ゲオルクは体力が消耗するのを隠し切れない。アルドバランでの戦い、ホロヴィズの屋敷で受けた拷問……既に、気力だけで立っているようなものだ。
(この人は……そんな体で、まだエレオノーラお嬢様を救おうと……)
 再び、ハシタに迷いの影が差す。
 両者は対峙しつつも、互いに攻め手に欠けており……と、そこに。
 ハシタの足元に何かが転がってきて、こつん、と当たった。
 ゲオルクが懐に忍ばせていたものが、上着が切り裂かれて落としたらしい。目玉がぎょろっと不気味に蠢く黒い指輪だった。
「これは…?」
 不用意だった。ハシタはそれを爪にひっかけて拾った。
 はたして、指輪は黒い輪の部分を生物のようにハシタの爪に絡みつかせる。きゃあ!っと少女のように驚いてハシタがそれを外そうとするが、へばりついて外れない。
 指輪の目玉が瞳孔を広げ、その金色の瞳が光った気がした。
 と同時に、地面から無数のピンク色の触手がほとばしった!
「い、いやぁーーーっ!!」
 触手がハシタの巨体に絡みつき、ねばねばとした気持ち悪い粘液がぬるぬるとまとわりつく。
 もはや戦いどころではなかった。ハシタは鵺の姿のままではいられなくなり、元の少女の姿に戻る。
 ピンク色の触手はまるで男性性器を先端につけた巨大な蛸の足のようで、ウネウネと蠢き、ハシタを拘束して離さない。
 ゴゴゴゴゴゴ…。
 地鳴りが響く。
 触手の根本の方から、地面を割り、巨大なイソギンチャクのような化け物が現れる。
 それも何百、何千体とだ。
 上町の界隈は、謎の奇怪な触手化け物によって埋め尽くされていた!
 その魔物は、“歩くオナホール”と呼ばれるローパーという淫魔の一種であった。
 ミシュガルドに多く生息していた魔物なのだが、当然その場にいる誰もが初めて目にする。
「な、なにこれ……しゅごいぃぃ……」
 ハシタは、触手のなすがままとなり、今やローパー本体に捕食されていたが…その表情は、恍惚としていた。
 そう、気持ちいいのだ。ローパーの触手から分泌される粘液には、催淫効果があり、女性であれば誰もがその虜になってしまう。オナホールと言いつつそれは形だけのことであって、どちらかと言えば女性向けバイブローターマシーンのようなものなのだ。
 ゆえに捕食……と言っても、実のところ無害である。いや、貞操には大いに脅威だが。
 ひとしきりハシタを陵辱したローパーは、ぺっと裸になって伸びているハシタを吐き出すのだった。衣服だけ溶かされていた。
「何だこれは…」
 呆然とするゲオルクやダンディだが、ローパーはまったく彼ら男臭い連中には興味を示さず、彼らが近づいてもさっと避けていく。女性の匂いにだけ引き寄せられる習性があるようだ。
 今や帝都は、ローパーの大量発生により、混乱と嬌声の阿鼻叫喚の騒ぎとなっている。
 帝都にどれだけ女性がいるか分からないが、100万の人口をすべて大混乱に陥らせるだけの数のローパーは出てきているようだ。
 すべてはゲオルクが持っていたあの不気味な指輪…ミシュガルドでの名前は“魔触王の指輪”のせいなのだが…。
 街角のあちこちで、貞淑な妻も、男を知らない処女も、まるで下手な娼婦のように喘ぎ声をあげまくっている。
 ロウは裸のハシタに目のやりどころに困りながらも、おろおろしていた。主戦力のハシタが伸びてしまっては、ロウ一人ではゲオルクとダンディには抗えない。
 そして皇居の警備も、この騒ぎでは機能しない。
 ゲオルクとダンディの二人は、これはチャンスだなと頷き合う。
 易々と、二人は皇居に侵入していくのだった。