Neetel Inside 文芸新都
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ミシュガルド戦記
35話 正義なき戦い

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35話 正義なき戦い









(殺せ!)
(殺せ!)
(殺せ!)
(───「   」よ、殺すのだ!)
「……っ!」
 おのれの名前を呼ばれたような気がして、男は飛び起きた。
 全身が、冷たい汗にびっしょりと濡れそぼっていた。
「……記憶が……無くても……悪夢って見るのか……」
 なかば呆然と呟く。
 今、彼が名乗っているシャーレというのはかりそめの名だ。本当の名前は忘れてしまった。
 彼の耳朶には、恐らく過去の彼が殺したのであろう亜人の断末魔の叫びが、彼の網膜には、亜人の苦痛に歪んだ表情がまざまざと焼き付いている。
 まだ若いのに、彼の頭髪はほとんど真っ白となっており、何度も繰り返し見る悪夢のせいか、すっかり目の下にはクマができ、何だかやつれた表情となっていた。
 あたりはまだ暗い。夜明けまではまだ間がある。
 手持ちが無くて交易所の宿に泊まれず付近の森で野営をしていたが、このあたりをうろついている魔物、悪夢を見せるという夢魔の仕業だろうか。
 さわさわと、木々がざわめいている。
 クスクス、クスクス……。
 ただの風の声ではなく、何かが嘲っているような……。
 何か見えざる者のしわざのような気がするが、それは精霊というよりは、悪霊や怨霊、あるいは妖怪のような良くないもののような気がした。
 ここのところ、記憶が失われて頭はぼんやりとしているが、それ以外の五感は鋭敏になっているというか、精霊の声も時々聞こえるのだ。
 が、それはまだ、確かなものではなく、シャーレは不安げに目を泳がせ、周囲の闇を見つめていた。
 そうしていると、何も見えはしないが死者の声が聞こえてくるようなというか、闇に吸い込まれそうになるというか……。
 ふと、まるでこの世界にたった一人で産み落とされたかのような心細さを覚え、死というものに憧れを感じてしまう。
 そう、それは、虚無的な……。
 あの忌まわしき禁断の……。
(ううっ……)
 ───忘れたのは、彼が忘れたいと願ったから。その忌まわしき記憶を。
 頭に疼きを覚え、ぶるぶると体を震わせる。
(虚無に、闇に、魅入られてはいけない。闇に連れ去られてしまうから)
 ぎゅっと自身の体を抱きしめて、シャーレは森にそびえる大木の洞の中で身を縮こまらせ、再び眠れないかと目をつぶった。
 亜人にも様々な種族がいるが、石や木造の家を建てるのではなく、こうやって木の洞などを住処とする種族も多い。だが甲皇国の兵士たちはそういう亜人の文化を劣ったものとして嘲笑し、アルフヘイムにおいて森を焼き、亜人狩りをし、多くの命を奪ってきたのだ。
 だが、何の因果であろうか、“狩る側”であった彼が──。
 まるで狩られる側の亜人になったかのように、怯えながら、寝苦しい夜を過ごさねばならない。
 だんだんと───。
 シャーレには、過去におのれがしてきたことが。おぼろげにだが察するところがあった。
(ぼくは……)
 ここのところ毎晩のように悪夢にうなされていた。
 恐らく、自分の肉体的な年齢は、二十歳になるやならずといったところか。
 だがしかし、二十歳と言えばまだ何者にもなっていない者が大半であろうに、いったいどれほどの経験を積んできたのであろうか。
 また、いったいどれだけの罪を重ねてきたのであろうか。
 すっかり忘れ去ったとはいえ、業というのは拭いがたいものらしい。
 彼の魂に刻まれたそれは、簡単に彼を解放してはくれなかった。
 おかげで、まったく記憶の無いよちよち歩きの幼児のようになってしまったにもかかわらず、またまだ若いはずの彼の相貌はすっかり同年代の青年に比べても老成したものとなっていた。
(ぼくはいったい何者なんだ……)
 いったいどこで、それにいったい何が、間違ってしまったのだろうか。
 朝まではまだ間がある。眠らねば体力も回復できないだろうに、うなされ、呻吟し、全身汗びっしょりにならなければ眠ることもできない。
(ぼくは……俺は……)
 あまりにも、数々の別れと死と惨劇と、裏切りと流血、そして背信と背徳とをかさねてきたのか……。
 いくつもの怨嗟にこもった瞳が、シャーレの胸にかぎりなく苦く、痛く突きつけてくる。
 まだ二十歳になるやならずであろう彼の魂は、なにやら、かさねてきたおのれのその小昏い過去に耐えかねてよろめき、足元を乱すように──。
 やがて、まどろみ……。
(ああ……きこえる。アルフヘイムの森の……あの木々のざわめきが。亜人たちの──断末魔の叫びが……)
 彼の魂は、かつて激動の少年時代を過ごしたであろう、アルフヘイムへといざなわれていく。
 この悪夢が……あの日々のすべてが、ただの夢であったなら、まだ良かったのだが。









「ようこそアリューザの街へ。メゼツ公子」
 甲皇軍第四打撃軍司令バーナード・スミス少将は、眉間に皺を寄せ、固い笑顔を見せる。
 “教師(ティーチャー)”と渾名されるほどの教条主義者のバーナードは、セオリーや定石を重んじる軍人だ。毛筋一つの乱れも無く整った七三分け。神経質そうな顔。齢四十代の妻子持ち。奇人変人だらけの甲皇軍の中にあって珍しくまともな常識人なので、同じ常識人の一般兵からは尊敬も集めているが、セオリーを重んじる余り冒険ができず、攻撃的な性格の兵士からは教師というのも“先公(センコウ)”と揶揄されて呼ばれている。
(───あの“センコウ”は只の臆病者だ)
 バーナードと仲が悪い第三打撃軍司令クンニバルなどは、部下でギャンブル狂いのバルザックと共にそう嘲笑っていたものだ。
 それでも、バーナードの教条主義は揺るがない。
 平民出身なので民の苦労が分かり、アルフヘイムにおいても虐殺や略奪はよしとしない。兵には軍の規律を徹底させ、戦闘においても計算ができる安定した働きを見せる。
 ゆえに、後事を託せるだろうということで、皇太子ユリウスからも現在の総指令を任されたのだ。
「バーナード少将」
 メゼツが不遜な口ぶりで口を開くと、バーナードの眉間に皺が寄る。メゼツを睨みつけるぎょろっとした目つき…眼下のクマが、総司令に任命された彼のストレスの高さを物語っていた。
 そんなバーナードの睨みつけなど意に介さず、メゼツは快活とした笑みを見せていた。
「丙家総本家のメゼツ公子ではなく、今は着任したばかりの少尉だ。気は遣わなくてもいいぜ」
 などとのたまう。まったく上官に対する口の利き方ではないのはご愛敬か。
 そもそも一介の少尉では、軍総司令のバーナードに面会が許されるはずもないし、そんな口の利き方ができるはずもないのだ。
 貴族でも上位にあたる公爵の息子、公子にあたるメゼツに対し、将軍とはいえ平民出身のバーナード。本国と軍での地位が見事に正反対の二人。実は互いにどう接していいか難しいところだ。メゼツの態度は無礼だが武人らしいさっぱりしたものであり、いっそ清々しかった。貴族としてのプライドをのぞかせつつ下手に出られた方が慇懃に感じて不快だっただろう。
「……では少尉と呼ぶが」
 所詮は世間知らずの糞餓鬼だ。バーナードはそう考え、大人の余裕を見せることにした。
「ここに来たのは戦況把握のためだったな?」
「ああ。俺がアルフヘイムに上陸するのは四年ぶりのことだ。当時とは状況も変わっているだろう。本国では聞けない本当のところが知りたい」
「良かろう」
 そう言いつつも、本音のところでは話などしたくはなかった。バーナードは丙家が大嫌いなのだ。
 陸軍において丙家の影響力は強い。丙家総大将ホロヴィズからして陸軍大臣である。ホロヴィズの息子であるメゼツも現在はただの十六歳の新任少尉だが、特に戦功も何も挙げずとも二十代の内には将軍になることが約束されている。
 平民出身では異例ともいえる立身出世を遂げて四十代にして将軍の地位に上り詰めた苦労人としては、面白くないにも程がある。
 また、平民出身の将軍という意味では海軍のペリソン提督も同じだが、乙家が掌握する海軍と違い、丙家が掌握する陸軍では苦労の大きさが違っていた。陸軍には好戦的すぎる丙家の息がかかった士官や兵が多くいて、軍の規律を中々守らず、バーナードとしては尻拭いをさせられてばかりなのだ。
 そして今度は丙家の御曹司の世話などをせねばならぬのかと、バーナードは深く嘆息する。
「……少将?」
 苦虫を噛み潰したかのような表情をしているバーナードに対し、メゼツはニヤリと愛嬌たっぷりの笑顔で話しかける。どうもこの少年には憎めないところがあった。
「───失礼。戦況についてだったな」
 バーナードは咳ばらいを一つしてから語りだす。
「ナルヴィア大河の戦い以降、甲皇軍とアルフヘイム間の各戦線は膠着状態にある。特に、ボルニア要塞の守りは固く、現在の戦力で陥落させるのは難しく、本国からの増援が必要だろう。来年にはユリウス皇子が戦線復帰して大攻勢を仕掛けるという話なので、それに備えて本国からは随時増援部隊が送られている」
「膠着状態、ね。確かに本国に届く大本営発表でも、以前に比べると大げさな話ではなくなってきていたな」
「だろうな。そして現在は膠着状態なだけあって、各地の戦線は比較的おとなしい動きだ。こちらから攻撃しなければ、アルフヘイム正規軍の組織的な反抗もめったに見られない。ゆえに、現在のところもっとも警戒すべき敵は……エルカイダ」
「エルカイダ? 本国では聞いたことがない。なんだそれは」
 バーナードの口ぶりが穏やかならざるところからして、その存在が実に禍々しく厄介なもののようにメゼツには感じられた。
「アルフヘイム正規軍とは違い…民間の義勇軍のようなもののようだな。奴ら自身は甲皇軍に対するレジスタンスを自称しているが、とんでもない。内情としてはテロリスト、過激派組織といったところだ」
「ほう……というと?」
「エルカイダに襲われた甲皇軍兵は、負けを認めて武装解除して投降しようとしても許されない。必ず殺される。命乞いしても、逃げても、重傷で戦えなくても、例外なく殺される」
「何だと…」
「連中にそうさせるのは、エルカイダの掲げる思想ゆえにだ。丙家の主張する人間至上主義とは対極をなす思想…。つまり、亜人とは神に近い人であり、その証拠に姿は神に近く、能力は人間よりも優れている。自身を神の子と称し、教義に沿って死ねば神の国の住人の仲間入りができる……などと主張している」
「狂ってやがる。愚かな連中だ」
「……うむ」
(人間至上主義とどっちもどっちだろうが)
 とは思うが、口には出さない。
「エルカイダの恐ろしいところは何といっても死を恐れないこと。そして亜人兵にしては珍しく統率が取れていることだ。先日も本国からの増援部隊を乗せた軍船が攻撃を受け、アルフヘイム上陸前に撃沈された。軍としては一刻も早く奴らを壊滅させたい」
「……なるほどね。しかし、俺の任務はそんな狂信者どもとは関係がない。ボルニアの情報が聞きたいがどうか?」
「ボルニアには現在、第三軍が攻撃をしかけている。第四軍の知るところではない」
「おいおい、総司令としちゃそりゃまずくね?」
 バーナードはやっと少しくだけた笑みを見せる。それは、彼には珍しく虚無的な笑みであった。
「ふっ…構わんさ。第三軍を率いるクンニバルは、私の命令なぞ聞かず独自に動いている。少尉もボルニアのことが聞きたいのなら、やつに会いに行けばいいだろう」
「ちっ、あの男か…」
 メゼツはクンニバルの姿を想像して顔をしかめた。本国で少し会った事があるのだ。メゼツは軍服の上着を着崩すことが多いが、上半身裸(乳首)を晒すスタイルをからかわれたことがあった。逆にクンニバルは上着はきっちり着ているがズボンを履かずに常にブーメランパンツもろだしのくせに。
「あの変態親父に会いに行くのは気が進まねぇなぁ…」
「ふっ…。せいぜい、取って食われないように気を付けることだ」
 満更それが比喩表現でもないことは、メゼツにも何となく察することができた。








 アルフヘイムに上陸したばかりのメゼツ小隊は、旅の疲れを癒すためにアリューザの街に数日だけ逗留することに決めた。
 バーナードとの面会を終えたメゼツは、部下のロメオを伴って町の様子を見に大通りを歩いている。
 バーナードの統治が温厚なのだろう、亜人が普通に食料や土産物の露店を並べて商売をしているし、それを甲皇国軍人がちゃんと金銭を払って買い物をしている。SHWから流れてきたのであろうか、色っぽい恰好をした娼婦が人種など関係なく亜人にも人間にも声を掛けて誘っている。また、建物もどこも壊れてはおらず、通りもゴミは落ちておらず清潔そのものである。おそらく、夜に一人で出歩いても強盗に遭ったりという犯罪に巻き込まれる可能性も少ないであろう。そんな緩んだ空気さえ感じられる。甲皇軍の統治という状況ではあるものの、そこは確かな平和が保たれていた。
 アルフヘイムにおいて、甲皇軍はまさに悪鬼羅刹のように恐れられている。各地で略奪や強姦や虐殺が行われ、亜人をまさに絶滅させんとする勢いで侵略の魔手は伸ばされている。
 しかし、甲皇軍といっても将軍の方針や兵の性格によってその素行は様々である。性質が悪い方の──それこそあの丙武のような───甲皇軍が通った後であれば、亜人の生存確率というのはゼロに等しい。まさにぺんぺん草一つ残らない状況となる。
 ただこのアリューザの街においては、先述の通り、そんな苛烈な状況は見られない。街は破壊されず、インフラはそのまま使用され、先程メゼツがバーナードと面会した場所も元はアルフヘイム貴族の邸宅を接収したところだった。
 メゼツにとって、それは甲皇国本土で伝え聞いていたプロパガンダ通りの「正しく勇敢な甲皇軍」そのものだった。
 アルフヘイムで最初に出会った将軍がバーナードのようなまともな男だったということは、メゼツにとっては幸運だったかもしれない。
(───そう、私は思うのですよ、若様)
 メゼツの部下ロメオ軍曹は、不満げに頬を膨らませるメゼツを柔らかなまなざしで見つめ、内心思う。
「なるほど、バーナード少将はそのように…」
「ああ。くそ……」
 憤懣やるかたないといった表情で、メゼツはぐちぐちと呟く。
 先程までは彼も精いっぱい我慢をして、彼なりに大人の態度で話していたのだ。だが今や、彼は十六歳の少年らしい青臭い素顔を見せていた。
「メゼツ公子だと……。俺はそんな丙家総本家の威光をかさにきるような男じゃねぇ。だが今は仕方がねぇ。この肩書がなけりゃ、バーナード少将と会うこともできなかったんだし。だけどなぁ……」
「どうされたのですか?」
「あのおっさん、俺とも嫌々話しているって態度がありありだったぜ? 随分と非協力的なこった。俺とは初対面のはずなのに。何なんだ畜生」
「まぁまぁ、丙家出身の士官や兵に苦労させられているのでしょう」
 ロメオは口を濁しつつとりなした。
 メゼツより十歳も年上で、アルフヘイムでの従軍経験もあるロメオは既に知っている。丙家出身の士官や兵が、前線で何をしているのか。
 だがそれを、敢えて今、メゼツに伝えることもないとロメオは考えていた。
 何となくだが……ロメオは、年若く純粋なメゼツの魂が汚れてしまうことを恐れていた。
 甲皇国本土から付き従って、ごく短い期間だけしかメゼツと行動を共にしてはいないが、早くもメゼツというこの少年を好ましく感じていた。
 ロメオだけではない。メゼツの従兄弟だというヨハン、一等兵のガロン、二等兵のウォルトも……。
(この少年は……メゼツは違う)
 そんじょそこらの有象無象では勿論なく、尚武の家である丙家に生まれつつもただの猪武者でもない。
 確かな輝き、天性の人を惹きつける何かを持っている。
 人の上に立つ指導者としての資質か、戦いの才能か、それは凡人のロメオには分からない。 
 血統主義というものを信じる訳ではないが、やはりさすが貴い血筋の家の男子なのだなと感じさせるものがあった。
 十六歳という恐れを知らない年齢がさせるのか。少々礼儀知らずでやんちゃなところはあるが、それがまた快活で武人らしく、潔いとも感じられる。何よりメゼツにはとても人懐こい愛嬌が。たやすく人の懐に入り、人の心を掴んでくる魅力があった。
(この少年の、キラキラとした輝かしい笑顔が曇るところは見たくはないな……)
 ロメオはそのために自分がいるのだ、そこに自分の使命があるのだと感じつつあった。
「エルカイダか───」
「それは……」
 さっと、ロメオの表情が引き締まる。
「きゃつらの話を、お聞きになりましたか」
「ああ。少将から聞けたのはエルカイダとかいう狂信者集団についての情報ぐらいだ。せいぜいそれに気を付けろってさ」
「それは実際そうだと思いますよ」
 ロメオは彼なりに知っていることをメゼツに語った。
 軍の末端の下士官の情報では大したことは分からないが、現場での空気感というものがある。
 ロメオはエルカイダに遭遇したことがあり、彼らの残虐非道ぶりはバーナードが警告した以上の苛烈さだったのだ。
 現在、主戦場となっているボルニアが膠着状態になっているので、それ以外の戦場でエルカイダは出没し、アルフヘイム全域で活動する甲皇軍の補給基地や輸送部隊などが狙われている。
「用心に越したことはないでしょう。亜人至上主義というべき彼らの思想ですが、対極的といえる丙家の人間至上主義を敵視しないはずがありません。丙家の御曹司など最も狙われてもおかしくない対象です」
「ふん、そうかよ……」
 ロメオの忠告に、メゼツは不満そうに頷いた。






 ───だが、ロメオの心配は的中する。
 アリューザの街にけたたましいサイレンの音が鳴り響いていた。
 先程まで平和そのものであったアリューザは、にわかに殺気立ち、第四軍の兵士たちが武器を手に街の守備につこうとしている。
「敵襲か!?」
「若様、こちらへ───!」
 ロメオがメゼツの手を引き、安全な場所へ避難するよう促す。
「バカを言うな。俺だって戦うぞ!」
 が、メゼツはその手を払い、背中に抱えていた身の丈を超すような大剣を軽々と振り回す。
 そして、そのまま敵襲があったらしき、騒がしくなっている区画の方へ走りだした!
「いけない! あなたは、今はまだ……!」
 制止するロメオの声を背中に、メゼツの体は軽々と家の屋根の上を飛び跳ねていき、目的地へと最短で駆けていく。
「何ということだ……」
 はたして、そこでメゼツが目にしたものは、凄惨な光景であった。
 街が燃えていた。
 もうもうと黒煙をあげ、焼け焦げた臭いが立ち込めてきている。
 家の屋根の上から見たところ、既に何百という家々が炎上し、あちこちに火だるまとなった人々が水を求めつつ死んでいっている。
 一瞬のことだったようだ。おそらく頭上から油をまかれ、火をかけられたのだ。炎上する建物は規則性があり、街の外周部分から徐々に焼かれる範囲を狭め、やがて街を全焼させる狙いなのだと気づく。
「汚ねぇやり方だ…! これがエルカイダとやらの仕業なのか!?」
「そうだ」
 メゼツに声をかける者がいた。
 その冷徹な声の響きに、メゼツは総毛立つ。
「小僧、その骨の紋章を背負い、剣を持ってここに立つということは、我々に殺されても文句は言えない。覚悟はできているのだろうな」
「き、きさまは───」
 表情は読めない。頭全体を覆う黒い兜の中から、らんらんとあやしく眼光がきらめいている。全身を覆う黒い鎧からは、強さというよりも殺気が放たれていた。精霊に祝福されていたはずの鎧は、あまりに多くの呪いを受け、黒く染まってしまったという……。
「我が名は黒騎士。黒龍騎士、黒の侯爵、月影の騎士などと人は呼ぶが……」
 黒騎士の傍らには、彼の騎乗する愛龍グリンガレッドが羽ばたいている。黒い鱗に覆われた巨大な飛竜を従えるその姿は、まさしく黒龍騎士と渾名されるにふさわしい迫力を持つ。そして、彼の持つ聖剣ユピテルブリューが、その刀身にばりばりと不吉な黒い稲妻を走らせていた。
「ふふふ、敢えて自ら名乗るとすれば、“復讐者(アベンジャー)”が相応しいか……」
 黒騎士としては実にかっこいいことを言っているつもりなのだろうが、メゼツは冷めた目をしている。だが。
(───こいつ……強いな)
 メゼツに実戦経験は無い。父ホロヴィズから剣の特訓を受け、その過程で多くの亜人兵を相手に首実験のような戦闘をしてはいる。それで亜人兵を殺してもいるので、人を殺した経験というのもあるにはある。だが……本格的な命と命のやりとりは、これが初めてとなる。
「貴様のような青二才が私に立ち向かうつもりか? ふ、片腹痛いな」
 黒騎士に、そのメゼツの経験の浅さは見破られていた。
「な、なんだと……!」
 メゼツはぎゅっと大剣の柄を握る。
 だが、その手が無意識にぶるぶると震えているのに気が付く。
(───ばかな。震えているというのか、この俺が……)
 額に冷たい汗が流れる。信じがたい思いで、メゼツは手の震えをこらえようと、両手で剣を持つ。しかし震えはいっこうに止まらなかった。次第に、足までがくがくと震えだしていた。
 黒騎士の正体はエルフだという。つまり亜人だ。人より劣った種族と信じ込んできた相手に対し、だがメゼツはおのののきを振り払うことができない。
 エルフなんて訓練の中で何匹も殺してきたはずだ。それなのに……。
「ふん、私が相手をするまでもないようだな」
 黒騎士が鼻で笑っていた。
 メゼツは愕然とする。
(お、俺は……)
 途端に悟ってしまったのだった。おのれがたった十六歳の少年に過ぎないということを。
 肉体改造手術もした。軍事教育を受け、若いながらも自分より年上の部下たちを率い、自分でも抜きんでた才能があるとうぬぼれてもいた。
 なのに、目の前に現れた本物の戦士、いくたびも戦いをくぐり抜け、多くの命を殺めてきたであろう迫力を放つこの黒騎士を前にして、メゼツはどうすることもできないのだった。
 黒騎士は、なんの恐れも感じていないようすで、愛龍グリンガレッドの喉元をごろごろと猫をあやすように撫で回している余裕さえ見せているというのに──。
 ごうごう、ごうごう。
 炎が燃え盛る。
 街がいよいよ延焼を起こし、家々が崩れ落ち、轟音を立てている。そして、あちらこちらで黒こげとなった死体がメゼツの網膜に焼き付く。
「きさまは……」
 苦々しく、メゼツは怒りをこらえるように、声を押し出す。
 甲皇国人の同胞だけではない。バーナードの理性ある統治のために、アリューザにはアルフヘイムの亜人たちも生活を営んでいたのだ。
 それなのに、黒騎士とエルカイダはそれを一顧だにすることなく、容赦なく無差別に焼き、殺したのである。
「何様のつもりだ。これがエルカイダとやらのやりかたなのか。こんな、無法な……むごいやり方が……」
「むごいだと? それを貴様が、甲皇国人が言えたことか?」
「……アリューザは平和だった。少なくとも、我が国の統治の元、人間も亜人も共存共栄をしていたじゃないか」
「そんな平和はまやかしに過ぎん。そう。これが我々のやり方さ。アルフヘイムびとも少し殺してしまったようだが仕方がない。甲皇国人の統治を受け入れるような者はもう信用できないし、私も守る気はない。巻き添えに死んでいったとしても彼らの自業自得というものだ。そう、これが正義の無い戦いだということは、私もじゅうぶんに理解しているつもりだよ」
「な、なんだって……」
「不思議なことではあるまい? むしろ驚きだな。小僧よ、貴様は自分が正しいと思って剣を持っているのか?」
「そ、それは……勿論、俺は……!」
「愚かな。戦いとは非情であり、純粋な力と力とのぶつかりあいだ。圧倒的な力を前に、貴様のような小僧が出る幕は無い」
 刹那──。
 バリバリバリー!
 黒騎士の聖剣がきらめき、黒い稲妻がメゼツめがけて放たれた!
 あやういところで、メゼツはそれをかろうじてかわした。
 いや、自ら動けたわけではない。メゼツを追ってきた者がおり、彼に抱きかかえられるように身をかわすことができたのだった。
「よ、ヨハンの兄貴……!?」
「メゼツ。危ないところだったな……」
「あ、ああ……」
「お前は下がっているんだ。いくら強いといっても訓練と実戦は違う。ここは俺が──」
 長剣を手に、ヨハンは黒騎士におどりかかった。
 メゼツと遠縁であるこのヨハンは、丙家の血を薄く引いている。メゼツより長くアルフヘイムで戦ってきており、既にたくましい一人前の戦士であり、ちゃんと戦える男であった。
「うおおお!」
 だが、ほんの一合しか、ヨハンも黒騎士と剣戟を交わすことができなかった。
 聖剣ユピテルブリューは刀身に稲妻を走らせているが、それと剣で打ち合うということは、剣づたいに感電させられるということだったのだ。
「雑魚が。貴様らごときに、この私がどうにかできるとでも思ったのか」
 黒騎士は嘲笑している。
 よろよろと、糸の切れた人形のようにふらついたかと思えば……どう、とヨハンは黒騎士の前に倒れる。全身に稲妻が走り、びくびくと痙攣しながら、ヨハンは気絶してしまっていた。
「愚かな甲皇軍の兵士どもよ」
 怨嗟のこもった声で、黒騎士は言う。
「貴様らに殺されたアルフヘイムの罪なき人々に代わり、私は復讐を遂げているだけだ。目には目を!歯には歯を!血には血をだ!いずれ、貴様らのすべてをうばいつくしてやる!」
 黒騎士はグリンガレッドに騎乗する。
 周囲はいよいよ延焼が激しく、その場にとどまるというのは死を意味すると思われた。
「人間どもは皆殺しだ! これは神罰だ!」
 羽ばたき、飛び去って行く黒騎士。
 結局、メゼツの初めての実戦は、ろくに動くことができないまま終わってしまったのだった。










つづく

       

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