49話 黒い嵐

49話 黒い嵐







「クラウス、クラウス……」
 ああ、ビビが呼ぶ声が聞こえる。
 うっすらと目を開けるがやはり視界は白くぼやけていた。
 勘の鋭い彼女のことだからもう俺の状態には気づいているだろう。
 アリューザでの甲皇軍の爆撃による閃光が、俺の視力を奪ってしまっていた。かろうじて至近距離の物ぐらいはぼやけて見えるが、食事をするにも介助が必要なほどの有様であり、もう俺に戦える力は残っていない。そのことを公にはしていないが、ビビや親衛隊の者たちには気づかれているだろう。こんな足手まといはいつ切り捨てられるのだろうかと思っていたが、そんな様子はまったくなく、彼女たちは粛々と俺の大雑把な撤退命令を各所へ伝え、目が見えていた時と同じように俺に接してくる。
 ───こんな俺に、まだ頼ってくれているのか。
「状況を報告してくれ」
「ああ、クラウス……!」
 ビビが俺の胸に顔を埋めていた。水が滴っている……泣いているのか?
 しょうがないやつだ。強くなったと言ってもやはりまだ子供だな。
 目が見えないぐらいが何だというのだ。命まで取られた訳じゃないだろう。
「状況は芳しくありません」
 アメティスタが代わりに答えてくれた。
 親衛隊長として良くやってくれている竜人の彼女は、いついかなる時も冷静だ。表情は分からないが、きっといつもと変わらず凛々しい顔立ちをしているのだろう。
「そうか。今は撤退を急ぐんだ。一人でも多くの者がボルニアへ生きて辿り着かねばならない。傷つき倒れそうな者は、健康な者が支えていくんだ。今は負傷していても、死ななければまた立ち上がって戦える。俺だって……」
「分かっております。あなたは、あなただけは死なせてはならない御人だ」
「こんな状態になっていてもか?」
「はい。英雄クラウスという象徴が生きているからこそ、様々な種族で成り立つアルフヘイム軍はまとまっていられるのですから」
「ならば、苦しみのたうち、生き恥をさらしたとしても、死ぬことは許されないな……」
「それにあなたには帰りを待つ人たちがいるでしょう。奥様や、お腹のお子様……」
「ああ。戦場で愛する者の名を口にすると死ぬというジンクスがあるから、言わないでいるが」
「彼女たちのためにも死んではいけませんよ」
「やれやれ、かなわないな。俺を殺そうとする敵よりも、俺を生かそうとする君の方が恐ろしいよ」
 少しだけ空気が緩んだ気がした。
「ふっ……それだけの口が叩けるならまだ大丈夫ですね」
 笑っているのか? あのアメティスタが……その表情は見たかったな。
「あなたは死なせない。この私が」
 アメティスタの軍靴の音が遠ざかっていく。
「お前だって死ぬなよ、アメティスタ」
 声をかけるが、彼女が答えることはなかった。





 黒い嵐が吹き荒れていた。雷が轟き、突風が吹き荒れ、黒い雨が横殴りになっていた。息苦しく、会話さえままならない。昼だというのに分厚い雲が垂れ込め、陰鬱な薄暗さ。それはまるでこの世の終わりかのような光景だった。
 アリューザから撤退していくクラウス率いるアルフヘイム軍にとって、その薄暗さや騒々しい突風は良いカモフラージュとなっていたが、降りしきる冷たい雨は体温を奪い、じわじわと彼らを弱らせてもいた。ズタボロに傷つき疲れ果て暗い表情で行軍する彼らは、さながら葬列のように見える。
「ただでさえ敗走というのは気が滅入るのに、この雨ではな……」
「しかもなんだこの黒い雨は……」
「普通の雨じゃない。こんなものに打たれて、変な病気にならないといいが……」
 漏れ聞こえてくるのは不安そうな声ばかり。
 アリューザ爆撃直後から降り続くこの黒い雨は、誰もが初めて目にするもので得体が知れず、学識豊かなはずのエルフ族の賢者からの説明も無い。またこういう時に精神論でも安心させてくれるような言葉をかけてくれるクラウスからの言葉も無い。下っ端の兵士たちはいたずらに不安を募らせるしかなかった。
 「萌えの覚醒作戦」が開始された当初、アルフヘイム軍はクラウス率いる精鋭のA軍集団三万がアリューザ攻略にあたり、ニコロ率いる歩兵中心のB軍集団二万がボルニアからアリューザにいたる甲皇軍要塞群を抑える形をとっていた。
 その後、アリューザでの激戦と思わぬ甲皇国空軍の爆撃によってアルフヘイムA軍集団は痛手を被っていたが、混乱の中で正確な被害状況を確認することもできていなかった。撤退を初めて半日を経過したところでやっと明らかになったところによれば、戦死したのは全体の三割程度。尚も二万名余りの兵士の心臓は動いていた。完全に爆撃を予知できなかった訳ではなく、爆撃の三十分前に退避を始めることができたおかげである。とはいえ、その二万名もすべてが五体満足という訳ではなく、負傷者は三千を超え、自らの足で立って歩くことができない重傷者も多数いた。
 一般的に、軍全体の死傷者率が三割を超えればその軍は戦闘を継続できなくなる。退却するにも文字通り足手まといとなる負傷兵のために、一人の負傷兵を後送するのに二人か三人の無事な兵士を必要とするからだ。そういう意味では、アルフヘイムA軍集団は「壊滅」したと言っても差し支えない。
 それに加えて激戦を経たことによる疲労感、甲皇軍の増援が現れて追撃を受けようとしているという恐怖と焦燥感、ここまで来たのに結局何も得られなかったという徒労感が、彼らの足を重くさせていた。
 脱落していく兵士、疲れ切ってその場でへたり込んでしまう兵士も目立つ。戦友を奮い立たせようと鼓舞したり、肩を抱えて共に歩こうとする者もいるが、見捨てられていく者も出てきていた。ぼやきや弱音が吐けるうちはまだよい。脱落していく者たちはそれすらないのだから。
「───小休止!」
 十五分だけの休息をとるよう、アルフヘイム軍に命令が下る。
 食事を含めた大休止をとるまでには地形が悪い。そこはアリューザからまだそう遠くないバーンブリッツ街道にあたるのだ。悪路となるが、森に潜まねば大休止を取るにはためらわれる。
「クソッ……」
 火打石を使って紙巻煙草に火をつけようとするが、雨で湿気って火がつかない。オウガ族の魔術師で構成された鬼兵隊を率いるベルクェットは舌打ちし、湿気った煙草を投げ捨てた。
「あの爆撃を防げなかったことは、天地に対する冒涜だったとでも言うのか……」
 彼ら鬼兵隊は殿しんがりを引き受けていた。防壁魔法も使える彼らはその任に適している。が、それでも危険な殿を敢えて引き受けたのは負い目があるからだ。
 オウガ族が領地としていた島は、甲皇軍がアルフヘイム本土へ侵攻する格好の橋頭保となる位置にあったために真っ先に狙われた。オウガ族はアルフヘイムが自分たちを守ってくれないのならばと、自らの島を第三国のSHWに売り渡すことで戦火から逃れようとした。だがSHWはその島を甲皇軍に転売してしまう。そして島には甲皇軍の空軍基地が作られてしまい、アルフヘイム本土は空襲の脅威にさらされることとなってしまった。ゆえに、オウガ族はアルフヘイムから裏切り者のそしりを受けるようになる。
 オウガ族でもベルクェットをはじめとする志ある戦士たちは、汚名返上するためこのアリューザでの戦いに参戦したものの、大した武勲は挙げられないまま敗走することとなってしまった。だが鬼兵隊も全滅したわけではない。ベルクェットも諦めた訳ではない。一人の敵を殺すことと一人の味方の命を救うことには同等の価値がある。友軍を守ることがオウガ族の名誉を守ることになる。
「ベルクェット隊長!」
「なんだ。ああ、そうか……」
 駆け寄ってきた部下の表情で察して、ベルクェットは首を振る。
 また一人、部下が力尽きていた。悲しいことに未熟な新兵ほど早くに脱落していく。
「回復魔法も効かないのか? オウガ族だからって遠慮するこたぁねぇ。エルフの僧兵たちは内心俺たちを良くは思っていなくても傷ぐらい癒やしてくれるだろう」
「確かにそうですが…回復魔法は傷を癒やすことはできても、疲労までは取れませんからね…」
「この雨ではな。人心地もつけぬか」
 恨めし気にベルクェットは天を仰ぎ見た。
「それにしてもこの黒い雨は死神のようだ。魂を刈り取っていくかのような──」
「雨にそんな力はありはしませんよ。それより、こんな状態の我々に敵の追撃がくることこそ恐ろしい」
「そうだな」
 ベルクェットは首を振る。
「地獄になる」





「全体、止まれ!」
「オークトーン将軍に敬礼!」
 整然と黒いマントや胸兜に身を固めた甲皇軍騎兵隊が整列していた。
 軍用車両や銃火器で急速な近代化を進めている甲皇軍だが、伝統的な騎兵や刀剣の存在感が失われた訳ではない。機動力が重視される戦いや、敵陣を突破せしめるような戦い、それに敗残兵狩りとして散兵を駆逐するような戦いでは騎兵が投入されるのだ。騎兵といっても前時代で見られたような全身鎧で身を包んだ重装騎兵ではない。軽量化が図られ、身にまとう鎧は胸当てと鉄兜程度。騎乗しても使いやすい曲刀、長槍、短銃などを装備した軽騎兵である。彼らの軽快な騎兵突撃は、ここぞという場面での突破力にもなり、魔力タンクがまだ実験兵器に過ぎない現在の陸戦においてはまだまだ主流と言えた。
「ふっ……敗残兵狩りには豚のお手付きで十分という訳だ」
 皮肉っぽく口端を歪め、ナタイシ・オークトーン騎兵隊隊長は言った。
 艶やかで長い金髪を頭頂部で縛り上げ、身にまとうのは銀色に輝く鎧と剣であり、凛々しい女騎士然とした姿。ただ目元だけを紫色の仮面で隠していた。
 彼女が自虐的に言った「豚のお手付き」という言葉通り、ナタイシはかつてアルフヘイムとの戦いの最中で敵オーク兵に敗北し、貞操を奪われ、オークとの混血の双生児を出産するという不名誉な経歴を持つ。彼女がそんな目に遭っても戦場に立つのは、丙家の由緒ある家柄であるオークトーン家の名誉を回復するためである。豚のお手付きのそしりを受けたままでは、子や孫の時代にも悪影響を及ぼすだろう。双子の娘たちも明らかにオークとの混血児であっても立派な丙家の戦士として育てている。彼女たちもまた丙家の者、甲皇国に忠誠を誓う戦士であるという証を立てねばならないのだ。
「これは千載一遇の好機である! 敵は今は青息吐息であり、突けば脆くも崩れ去るような有様だ! ここでクラウスの首という手柄をあげ、甲皇国騎兵隊ここにありと示すのだ!」
「おおおーーー!」
 部下たちの気勢も上がっていた。
 ナタイシは一般兵卒からの信望が厚い。平民ばかりで構成される一般兵卒からすると、ナタイシは理解ある上官なのだ。何かと気位が高い貴族連中の中にあって、豚のお手付きとそしられることになったナタイシは貴族の中でも浮いた存在となった。表向きは今まで通りに接していても、冷たく蔑んだ視線は感じる。貴族社会の嫌なところを多く見てきたナタイシは、その分平民に優しい貴族となっていた。
「ナタイシ将軍! 敵軍を発見しました!」
 斥候に行っていた騎兵が駆けてきて、良く通る高い声で報告する。高いというか、幼い声だった。
「そう、この雨の中で。良くやったわね、リーリア」
「ありがとうございます! 私も丙家の一員ですから当然です!」
 斥候の騎兵リーリアはまだ十三歳の少女に過ぎなかった。
 そんな幼さで騎兵として戦うリーリアにもまた戦場に立つ理由があった。実は彼女は丙家の一員などではない。丁家という没落貴族の家柄であり、家督を相続する立場の長女の彼女でさえ丙家の子弟と婚約することによって家を守ろうとしているのだった。彼女は丙家を継ぐ者となるメゼツの婚約相手として丙家に連れてこられたものの、数多くいたメゼツの婚約者レースからは早々と脱落し、丙家の戦士となることを選んだ。女としてよりも、丙家の戦士の一員として手柄をあげることで、丁家の復興を果たそうというのだ。女の身でそれは容易いことではないが、その分彼女の丙家への忠誠心と必死さは抜きんでている。
「雨が小降りになってきたな」
「この黒い雨は何だったんだろうか」
「さぁ? 亜人どもの土地は俺たちにはまだまだ分からないことだらけだからな…」
 甲皇軍の兵士たちがつぶやくように、黒い嵐はようやく勢力を弱めつつあった。
 甲皇軍にとってもこの黒い雨の正体は分からなかった。何人かの兵士はこの黒い雨に打たれて体調不良を訴えていたが、単なる風邪だろうと思われていた。
 昼日中ずっと降っていた黒い雨も止みつつあり、僅かに雲の切れ目から日の光も見え始めている。
「この光明は、勝利の兆しになるだろう」
 ナタイシは腰の帯剣からすらりと銀の剣を抜き放つ。
 かつてオークトーン家の先祖が戦場で武勲を立てた際に、先代皇帝から賜った銀の剣。これにかけて、この戦いに敗北は許されない。
 眼前には行軍するアルフヘイムの軍勢が見えていた。何か喚きながら戦闘準備をしているようだ。つい先ほどこちらに気づいたのだろう。遠目にも慌てふためいている様子が見て取れる。黒い嵐のために、ナタイシ騎兵隊の接近に気づけなかったのだ。
「騎兵隊、突撃!」
 騎兵が活躍するには絶好の地形であり、見晴らしの良い平原地帯。
 ナタイシの命令一下、甲皇軍騎兵隊はアルフヘイム軍後方部隊へ殺到していく!
 それは、アルフヘイム軍にとって更なる地獄となるのだった。






つづく