87話 空っぽの男

87話 空っぽの男






 俺は…俺は、誰だ・・
 何も分からない…。
 思い出せない…。
 俺は……いや、僕は……!?
 そうだ、何かと戦っていた。
 火を吐いたり、触手を伸ばしてくるような…すごく大きな体をした化物と。
 炎や雷などの恐ろしい魔法を使う黒騎士と。
 隣には、赤い髪と目をした、可愛い女の子が……。
 ……。
 ……。
 誰だっけ……。
 ───おまえはたったの十六年しか生きていないんだな。
 誰だ!?
 おまえと一つになったものさ。
 一つに…? どういうことだ?
 言葉通りの意味さ。心も体も、おまえという存在は消え、おれと一つになったのさ。そして我が宿敵と戦い、やつを完全に消滅させる代わりに、すべての力を使い果たし……おれたちはじきに消え失せる……。
 そんなのいやだ。僕は、やらなければならないことが…。
 何を?
 ……。
 思い出せないんだろう? 無理もない。おまえはたったの十六年しか生きていなかった。おれは、その何百倍、何千倍もの時間を生きてきた。だがその長きにわたる使命も終えた。あとはもう消え去るだけだ。
 ……おまえは、古代ミシュガルド時代から……。
 そうさ。おれの記憶を見ただろう? 何万年にも及ぶ記憶だ。人の脳の容量ではとてもすべてを記憶することもできない。おまえのたった十六年の記憶など、溢れ出てしまうほどの圧倒的な時間と記憶…。
 ……たった十六年でも忘れたくはない。
 そうだろうな…しかし、古い記憶より新しい記憶の方が鮮明ではある。それに、おれの何万年にも及ぶ記憶より、おまえの十六年の記憶が強ければ、あるいは…。
 消えたくない。僕にはやらなければならないことが……。
 とはいえ、力を使い果たしたおれにできる手段も限られている。だが……そうだな、融合したおれたちは複雑で大きすぎて復旧は難しいが、空っぽの器だけの存在を残すだけならば、あるいは……。
 ……。
 ……。




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 清浄だが湿った空気の匂いがした。
「……っ!?」
 “僕”は目を開けようとして、瞼がとても重いのを感じた。
 左目の方は尋常じゃなく痛くて、とても瞼を開けられる感じではなかった。
 辛うじて右目は開けられたが…いったいいつから瞼を開けるということをしていなかったのか分からない。かつては目を開けてしっかり物事を見ていたような気がするが、光を受け入れるのがそもそも何年ぶりかという……ような気がした。
 恐る恐る右目を開けると……ぼんやりと景色が見えてくる。
 黒々とした木々の合間から見える空は薄暗く、分厚い灰色の雲が垂れ込めていた。雨が近いのだろう…ここはどこかの山中か? 空模様のせいで今が朝か昼か夕方かは定かではないが、深夜ではない。
 僕は多くの草花が生い茂る地面に横たわっていた。
 よろよろと起き上がるが……いつからここに寝ていたのだろうか?
 横たわったところに下敷きになっていた草花の状態から見て、ごく最近からのようだが……?
「……っぁ」
 喉がひどく乾いて、声も出ない。
 これは……何年喋ることを忘れていたらこうなるのか……?
 忘れて……?
 そうだ、僕は誰なんだ?
 頭の中にもやがかかったようで、自分のことが何も思い出せなかった。
 僕の親、兄弟、愛する人は…?
 どこで暮らし、どんな身分で、何をしていたのか…?
 自分の名前さえ……何一つ分からない。
 そしてなぜ、こんなところに倒れていたのか……?
 だんだんと……頭の中は混乱していたが、意識ははっきりしてきたので、自分の置かれている状況を整理してみる。
 この体は、生まれたての赤ん坊という訳では絶対になく、確かに成人した男性のものであるし、森や天候のことなどの基本的な知識はある。何となく手を握りしめ、拳を作ってみた。目覚めたばかりだが、既に体の中にどくどくと血が巡ってきているのは感じた。
 次に、自分の体をまさぐった。身に着けているもので、何か自分の手掛かりになるようなものがないか。だが、衣服はボロボロで、上半身は紫色の外套のようなものの切れ端が僅かに右上半身に張り付いているだけで……どうも元は何かの制服だったような感じがするが、所属を表すようなマークは失われていた。気になる点としては……衣服が剥がれている左上半身の大胸部周辺に、おかしな紋様が刻まれていることくらいか。赤い刺青……? 僕はマフィアかヤクザのような身分だったとでもいうのだろうか。下半身はシンプルな黒いズボンに灰色のブーツで、やはり身分を表すようなものは何も得られなかった。ただ、それも制服のようであり……それもしっかりした実用的な作りであることからして、荒っぽいことに臨むように作られた……つまり、軍服ではないか?と、僕は推測した。左胸の刺青のことといい、どうやら僕はろくでもない…荒んだ生活をしていたようだ。
 と、やはり知識はそれなりにあるようだが……自分が何者で、どこで何をしてきた人間なのかということだけ……記憶がまったくない。
 これ以上、ここでは何も分からないし…得るものもなさそうだ。
 僕はよろよろと立ち上がり、歩みだした。
 歩くという行為も恐らく何年ぶりかという感じがする。
 体がとても重く、今の僕が野生動物にでも襲われたら逃げられずにすぐ食べられてしまうことだろう…。
 とにかく体力を回復させ…喉を潤し、胃を満たし、人心地つきたい。
 そうすれば少しは僕が何であったのか思い出すかも…。
 急に考え事をしたからか、使っていなかった脳を使い、頭の中さえ痛むようだ。
 見るのも、動くのも、考えることさえ…何もかも辛い。
 まるで生まれたてのヒヨコのようなか弱い存在だ…。
 僕はその弱さに何故か苛立った。
 いや…なぜ苛立つ…?
 そうだ、かつての僕は、強くあろうとした……ような気がする。
 強くなければ生き延びられないような、そんな生活をしていた……ような。
 僕は……僕は、いったい何者なんだ…!?
 頭を掻きむしった。
 髪の毛が数本抜けて手に絡まっている。
 奇妙なことに、老人のように白くなった髪の毛に、少しオレンジ色の髪も混じっていた。
 ───それから、幾日かが過ぎて…。
 深い森が続く山の中は、昼も夜もなく、ただ黒々とした木々が続くばかり。
 幸い、余り険しくも危険でもない、自然が豊かなだけで喉かな山だった。
 ところどころ清浄な小川が流れていて喉を潤せるし、食べられそうな木の実がよく落ちているのでそれを拾って飢えをしのぐ。これほど豊かなのに、まだ人の手が入っていないというのが不思議だが、未開拓の山のようだ。危険な魔物や大型肉食獣も出てこない。風が吹けば木々のざわめき、小川のせせらぎ、小鳥や小動物の囀りだけが聞こえる。
 小川に辿り着いた時、自分の姿を改めて見ることができた。
 頭髪は白髪にところどころオレンジ色の髪が残っている。目覚めてから初めて見る自分の顔の美醜は良く分からないが、別に見られないような顔でもない。もしかしたら自分は人間ではないのかもしれないという疑いも少しあったので、そこは安心した。
 気になったのは“目”だ。左目にはまだ痛みが残っているが、これは何か強い光でも受けたのか…それも幾日か山の中で過ごしている内にやっと見えるようになってきていた。一方、右目の方はずっと視力は確かだ。だが見た目が…左大胸部と同じような禍々しい刺青が刻まれていた。やはり僕はならず者とかだったのだろうか。
 ただ、その刺青が刻まれている部分(右目と左大胸部)だけは、嫌になるぐらい健康である。この刺青があるおかげで自分の身が守られているという気さえした…。
「ぼくはいったい何者なんだ……」
 数日ほど山を彷徨い、喉の調子が良くなってきて、やっと言葉が出てきた。



 更に幾日かが過ぎた。いや、何日経ったのか数えていなかったので定かではなく、ひょっとしたら一か月ぐらい経ったかもしれない。
 山中での生活はきつかったが徐々に慣れていく。
 まだ明るいうちに少しでも食料を確保しつつ、山中から出られる道を探した。山を降りて人里に辿りつければいいが、どう進めば山を降りられるかも分からないのでかなり当てずっぽうだが…。
 それより、まだ誰一人として人間には遭遇していなかった。
 人に会ったとして、まだ目覚めてからというもの会話というものをしたことがない。言葉が通じるかもわからなかったが、とにかく誰かと会いたいし、話したかった。自分は確かに人間…のはずだ。獣、化物のような見た目ではないし…僕が人間であることの確信が欲しくて、人と会いたいと思っていた。
 辺り一面が真っ暗で何も見えなくなる真夜中は苦手だった。
 じっと木の洞などでうずくまるしかなく…。
 時には雨まで降ってきて…。
 闇夜の雨中で…僕は眠るのが恐ろしかった。
 そんな時は、決まって悪夢にうなされるのだ。
 ───夢の中の僕は、悪鬼羅刹のごとくだった。
 嬉々とした表情で戦い、人を殺し、血を浴びても平然としている。
 そして、だんだんと───。
 僕がしてきた過去の所業が思い出されてくるのだった。
 そうだ…僕は人殺しだ…戦争だったから仕方なかったんだ…とは、言い訳だろうか。
 何と戦っていたのかまでははっきりと思い出せないが……。
 恐らく、僕の肉体的な年齢は、二十歳になるやならずといったところか。しかし、二十歳と言えばまだ何者にもなっていない者が大半であろうに、いったいどれほどの経験を積んできたのであろうか。また、いったいどれだけの罪を重ねてきたのであろうか。
 すっかり忘れ去ったとはいえ、業というのは拭いがたいものらしい。
 魂に刻まれたそれは、簡単に解放してはくれない。
(ぼくはいったい何者なんだ……)
 いったいどこで、それにいったい何が、間違ってしまったのだろうか。
 朝まではまだ間がある。眠らねば体力も回復できないだろうに、うなされ、呻吟し、全身汗びっしょりにならなければ眠ることもできない。
(ぼくは……おれは……)
 あまりにも、数々の別れと死と惨劇と、裏切りと流血、そして背信と背徳とをかさねてきたのか……。
 いくつもの怨嗟にこもった瞳が、僕の胸にかぎりなく苦く、痛く突きつけてくる。
 僕の魂は、なにやら、かさねてきたおのれのその小昏い過去に耐えかねてよろめき、足元を乱すように──。
 やがて、まどろみ……。



 絹を裂くような女の悲鳴がして、僕は顔を上げた。
 立ち上がり、すぐさま悲鳴がした方へ駆けだした。
 起きたばかりというのに、どくんどくんと、体中の血が巡っているのを感じた。
 僕以外の人間がいた!
 その喜びもあるが、悲鳴ということは危機に瀕している。
 何としても救わねばならない。
 僕に戦う力があるかは分からないが、あの悪夢の通りならばあるはずだ。
 多くの人を殺してきたのなら、多くの人を救うこともできるはずだ。
 気のせいだろうか…いつもは歩くのに邪魔な森の木々が、この時ばかりは僕が走るのを避けてくれているような…とにかく、一直線に僕は悲鳴の元へ駆けつけることができた。
「チキチキチキチキ」
 不快な鳴き声…歯か牙を擦り合わせるような音。
 それは巨大な蜘蛛であった。
 ねばねばした蜘蛛の糸を張り巡らせており、それにひっかかった若い女性…それに、その女性の子供であろうか、まだ五歳かそこらの少年が動けないでいる。どうも少年が蜘蛛の糸に絡めとられたのを、母親の女性が何とか救おうと引きはがそうとしてもがいている様子だった。
 件の蜘蛛は、信じがたいことに体長5メートルほどはある。体は毛深く、宝石のように赤く光る複眼が恐ろしい。口からは大きな牙が突き出しており、消化液のようなものをぴゅるぴゅると噴き出している。
 こんな巨大な蜘蛛を倒すことができるのか!?
 いや、夢の中ではあれだけ暴れられた僕だし、やれないことはないはずだ。
 僕はその辺に転がっていた大きな石を拾い、拳のように固く握りしめ、蜘蛛の体へ叩きつけた。
 ぶよん、という柔らかい感触がしただけだった。
 ぎょろり、と蜘蛛の複眼が僕の方をにらみつける。
 たちまち、蜘蛛の糸が吐き散らかされ、僕を捕えてきた。
 何ということだろうか……夢の僕と違い、現実は厳しいというか……僕は弱かった。
「お母さん!」
「ルキウス!」
 母子が互いを呼び合い、励まし合っている。
 だが、無情にも蜘蛛の牙が今にも母子をその毒牙で喰らおうとしている。
「ガチガチガチ」
 蜘蛛が顎を鳴らし、母子へにじり寄っている。
 くそっ、僕にもっと力があれば……。
「ミーシャ! ルキウス!」
 雄々しく叫ぶ男の声がした。
「グエエエエエ!!」
 化物蜘蛛が絶叫している。
 見ると、蜘蛛の背中がごうごうと炎に巻かれており、のたうち回っていた。
 そうか、この蜘蛛は火に弱かったのか…。
 火をつけたのは、燃える剣を持った灰色の髪をした男だった。長い耳をしている…知っているぞ…あれはエルフというやつだ。エルフの彼は、更に炎をまとった剣を振るうと、蜘蛛の糸を切り裂き、母子を救い出した。
 一方、巨大蜘蛛はまだのたうち回っていて、柔らかそうな腹を無防備に晒しだしている。
「うおおお!」
 エルフの男が剣を突き、蜘蛛の腹に刺した。
 たちまち、剣から大量の炎が移り、蜘蛛は背中からも腹からも焼かれ……やがて動かなくなった。
「お父さん~!」
 少年が駆け寄り、男に抱き着いた。
「無事で良かった……怪我はないな? ルキウス」
 男は険しい表情を崩し、ルキウスと呼んだ我が子を優しい目をしながら抱きかかえた。
「クラウス! あの人も……」
 母親の方が僕の方を指さしている。
 よしてくれ、あなたたちを助けようとして醜態を晒した僕なんか助けなくても。
「………きみは」
 クラウスと呼ばれた男は少し驚いた表情をしつつも、僕の体を絡めとっていた蜘蛛の糸を切り裂いてくれた。



 クラウスとその妻ミーシャ、その子ルキウスは、三人でこの森の奥深くにある渓谷に小屋を建てて暮らしているという。
 僕はようやく会えた人々に、色々と質問したくてたまらなかったが、父親のクラウスの方は険しい表情をしていて話しかけづらい雰囲気を出していた。そんなクラウスの様子を察してか、母親のミーシャ、息子のルキウスの方も神妙な顔で黙っている。
「あ、あのーー……」
 小屋へ案内される道中、黙々と歩いていたが、沈黙に耐えきれずに僕は話しかける。
「さっきは助けてくれてありがとうございます。僕が…その…奥さんとお子さんを助けようと思ったのですが、何にもできなくて…」
「……」 
 クラウスはまた驚いた顔をして、僕をまじまじと見つめている。
「あ、あのーー、何か……? 僕の顔に何かついてます?」
 確かに右目の方には変な刺青は入っているけど…。
「……何でもないさ」
 クラウスはふっと意味深に微笑するのみだった。
 案内された場所は、実に雄大な光景が広がっていた。
 山中に大きな滝があり、虹がかかっていた。
 その滝の側にクラウスたちの小屋があり、その周囲に小さいながらも麦や野菜の畑、プレーリードラゴンの厩舎などが見られた。親子三人ならこれぐらいで十分ということか。狩りと畑から得た収穫で生活しているという。いったいどれだけの手間をかけたのか、最初は何もなかった土地を夫婦で開拓したのだろう。
「ここは水も空気も綺麗だから…夏になるとホタルが舞うようになるんだ」
 と、クラウスが言った。
「へぇ…そうなんですか」
 僕は気のない返事をするが、クラウスは何だか遠くを見るような目をしていた。何かを思い出しているかのようだった。
 小屋の中は清潔に保たれていて、大きな食卓と三人が座るそれぞれのサイズに合わせた椅子がしつらえてあった。
 小屋に着くと、やっとミーシャとルキウスの二人が顔をほころばせていた。あの大蜘蛛に食べられかけた恐怖がまだ残っていたが、安全な家に辿り着いてほっとしたのだろう。
 ルキウスが嬉しそうに自分用のハイチェアーに駆け寄ってよじ登った。小さいながら高い座高となる子供用の椅子は、座ると自然と大人たちと同じ目線になるように作られてあった。
 ミーシャは夕食の準備をすると言って台所に行く。
 恐らくこれらの調度品もクラウスが木を削り出すところから作り上げたのだろう。
「暮らしやすそうな家ですね」
 お世辞ではなく本当にそう思って呟くと、クラウスは微笑んだ。
「俺は元はアルフヘイムで大工をしていたことがあるからな…」
 クラウスも自分の椅子に座り、食卓に置かれたマグカップに手を伸ばそうとして──。
 ガタン。
 クラウスの座った椅子の足が折れ、彼が盛大に尻もちをついた。
「……腕は、余りよくはなかったが……」
「あなた、大丈夫?」
 ミーシャが駆け寄ってクラウスの腕を取る。
 ルキウスがその様子を見てけらけらと笑っていた。
 ああ、僕に家族というものがあったのか分からないが…いい家族だなと感じる。
 ありがたいことに、クラウス一家の夕食では、僕の分も用意されていた。
 食卓には野菜を煮込んだスープ、サラダ、肉の串焼きが並んでおり、かまどで焼かれた軽焼きパンまで並んであった。
「ここはね、パトやカチやトゥアといった食べられる木の実が沢山落ちてるから、そういうのを拾ってパンに練り合わせてから焼いたり、シチューにして煮込んだりしてるの。ジーユーも採れるからそれでサラダも作ったり…。私たちが畑を耕して作っているのはアルフヘイムのフローリアから持ってきた小麦に、ベネーノっていう解毒効果もある芋ぐらいね」
 と、食卓に並んでいるものをミーシャが説明しているが、半分ぐらいしか聞こえていなかった。
 余りに旨そうな見た目と食欲をそそる香しさに、ぐうぅと、腹の虫が鳴った。
「ほ、本当に頂いて良いんですか?」
「ああ。腹が減ってると心も荒む。食べてくれ」
「じゃあ遠慮なく」
 これまで木の実ぐらいしか食べていなかったので、本当に旨かった。夢中になって食べたが、これほど人間らしい食べ物はいつぶりだろうか…。
「きみの名前は何と言う?」
 食べ終わってから、クラウスが神妙そうな表情で尋ねてきた。
「それが…」
 僕は少しでも自分の正体が知りたくて、僕が記憶を失って森の中に倒れていたことや、このボロボロの服装や謎の刺青のことなども包み隠さず打ち明けた。
 初対面で会ってからもろくに時間も経っていないのに、何でも気安く話してしまいたくなるような雰囲気を、このクラウスという人物が備えていたというのもあるが…。
「……なるほど」
 僕が事情をすべて話し終えてから……クラウスは、マグカップに入った良い香りのする黒っぽいお茶(後で知ったがカルファというらしい)をすする。
「過去の自分を何もかも忘れたという訳か……あれは酷い戦争だったから、それも無理ないことかもしれない」
「戦争……?」
「そうだ。このミシュガルド大陸から遥か南方、かつて俺たちがいたアルフヘイム大陸というところで起きた、アルフヘイムと甲皇国との戦争だ」
 クラウスは過去に起きた戦争の話を、かいつまんで説明してくれた。
 両国の戦争は、アルフヘイムの大地に甚大な被害、そして両国から多くの人命を失わせたが、決着はつかず和平となり……そして新大陸発見の知らせと共に、戦争の傷跡も残ったままだが新大陸開拓の波が押し寄せているということ。
 ここは新大陸ミシュガルドであり、中でも奥地にある未開拓の森林であるということ。
「俺も戦争に参加していたことがあってな……少しは名を残したりもした。が、もう祖国にも、どこの国にも関わりたくはない。今の俺は、目の見える範囲の者だちだけを守れればそれでいいと考えている」
 そう言って、クラウスはあの炎をまとっていた剣を剣帯ごと持ち上げ、テーブルの上にごとりと置いた。不思議なことに、戦闘時ではないからか、鞘に収まっている炎の剣は普通の鋼の剣のように静けさを保っている。
炎の剣メギドブレードという。俺はエルフだが魔法は使えん。だがこれは魔法剣というやつで、魔法と同等の効果を魔法の使えない戦士でも得られる。あのアヘグニーという大蜘蛛のような魔物も、容易く退けてみせたようにな」
「すごい剣ですね…」
「これをきみにやろう」
「え!? こんな貴重なものを頂くわけには…」
「いいからもらっておけ。丸腰でこの渓谷や森を抜けるのは大変だぞ。さっきの蜘蛛みたいなのが他にも出るかもしれんからな」
「は、はぁ……」
 ではなぜこの人たちは、その危険なところに住んでいるのだろうか…。
「恐らくきみは、戦争で心に傷を負ってしまい、すべてを忘れてしまったのだろうな」
 クラウスは独り言のように呟く。
「俺も戦争はもう懲り懲りだ。きみは記憶喪失ということだが、そのままでも…辛い記憶なら思い出さない方が幸せに生きられる。まぁ、俺の場合、多くの人たちから俺という存在を忘れて欲しいと思って、こんなところで世捨て人のような暮らしをしているんだが…」
 クラウスは首を振った。
 何か彼には彼なりの深い事情があるようだ…。
 だが、確かに戦争の記憶というのはろくでもないのかもしれない…僕自身も、夜の雨のたびに悪夢として見ていたことだし…忘れた方がいいのかもしれない。
「……それでも僕は、自分が何者かを知りたいんです」
「そうか……」
 クラウスは、ふぅと溜息をつく。
「ならば…大した力になってやれなくて済まないが、その剣は貰ってくれ。そして、代わりと言っては何だが…俺という人物、クラウスに会ったということは他言無用に願いたい。俺はもう、世間では死んだ扱いとなっているからな」
「死んだ…?」
「ああ、だから幽霊にでも会ったと思って…」
「お父さん、死んじゃやだー!」
 突然、ルキウスがハイチェアーから駆け下り、クラウスの膝元にしがみついた。
「ははは、ルキウス。これは言葉のあやというか……どう言えばいいのだろう? とにかくお父さんは死んでない。ちゃんと生きているから安心しなさい」
「本当?」
「本当だとも。こう見えてお父さんは、その昔は……」
 言いかけて、クラウスはまた僕の方を見て、ごほんと咳ばらいをする。
「……ともかく。今夜はゆっくりしていくといいだろう。人里までの道のりは案内するよ。大きな町ならば、きみのことを知っている者もいるかもしれないしな…」
「ありがとうございます」
「うん。それにしても、名前まで忘れてしまったとはな…。名乗ることもできんのは何かと不便だろう。本当の名前を思い出すまで、仮の名前でも……」
「そうですね。では……」
 その時、ふと頭の中に言葉が浮かぶ。
「シャーレ…と、名乗ることにしましょう」
 なぜその名前を選んだのか分からないが、僕はシャーレと名乗ることにした。






つづく
sage