Neetel Inside 文芸新都
表紙

見開き   最大化      

 その後階下に降り諍いの糸を引いた気まずい空気の中で無言の朝食を終えると、光太郎がガタンと椅子から立って食器を載せたお盆を抱えながら背中を向けて言った。「喫煙室行ってくる」
 何気なく見送るその背中はしっかりとしたもので、俺の知っている少年時代の面影は失せていた。大人で、大げさに表現をするなら生を感じるものだった。そこには年月がさせた成長があり、また昨晩見たお袋の老朽化したようなみっともない体とは違っている、活力がある。
 ポケットの煙草の箱に手をやりかけてここが禁煙だということをはっと思い出し、しかしだからといって光太郎がいるところへ行くのもなんだかバツが悪く感じられたので、食器を返し、俺はフロントを通ってエレベーターに乗りホテルの外へと出た。自動ドアを潜った瞬間冷えに冷え込んだ空気が鼻先を掠めて、すぐに背中が鳥肌立った。そこでようやく長袖シャツ一枚の薄着に気付き、部屋へと上着を取りに戻ることも考えたが面倒くさい気持ちが寒さを僅かに上回った。煙草を出し火をつけて深々と吸う。前の往来を行く子供は小豆色のジャージを着てブリジストンの自転車に乗っている。俺の中学のジャージだ。部活にいくのだろう。10年以上経った今でもあの野暮ったい色が変わっていないことがなんだか可笑しかった。
ふかしている煙草がだいぶ短くなるまでそれぞれ、様々なところへいく人々の影を眺め続けた。遠く雪で白い山々を背景に、どこかへいく人々の表情のない顔は侘しさを感じさせた。果てしなく広がる無情。煙草を捨てて靴で火を踏みにじると、小高い駅前の広場からこちらへやってくる者がある。これもまた野暮ったい格好で、言うならば森ガールのようだ。小さな顔に不釣合いともとれるごついサングラスを額にあげると、その女はこちらへ手を振って心底嬉しそうに笑った。ああ奈津美だ。
「おう、何してんやお前」
 奈津美はその振り上げた腕を下ろし腰に当て、笑みをうかべたまますっと俺の横に立ち、今しがたあげたばかりのサングラスをまた鼻の上へ掛けた。
「今日非番やし、家おんのも暇やから、あんたらと世間話でもしよか思って」
「ほうか」
「なぁ、煙草、くれる?」
 二本目を口に咥えたとき奈津美が左手を差し出しそう言った。冷気で冷えて赤く腫れ上がったその手は見ているだけでこちらが冷え切って痛くなりそうで、俺は煙草を奈津美の手に落とすようにして渡した。ライターもいるかと訊くと、奈津美は首を小さく横に振って自分のものを鞄から取り出した。白黒のパンダの体に見える子供のような手提げ鞄。奈津美は俺の渡した一本を細い指に挟んで美味そうに吸う。
「お前、煙草吸うんか」
「看護師が吸うたらあかん?」
「別にそう言ってはないやろう」
「そうやね、あんまり臭わんようには気つけてるけどね。ほら、入院患者の人らって引き篭もりがちで、あんまり外の空気吸わんでしょう。敏感なのよ、鼻がね」
 奈津美は自分の鼻を指でつついてかったるそうに言う。奈津美と俺は高校が同じで理系というところも一致していて、腐れ縁か三年間同じクラスだったから奈津美が看護系の進路を望んでいたのは知っていたが、昨日のナース姿は嘘や冗談ではなく、どうやら本当に思うようになったらしい。
「調子はどうや」
「どうみえる?」喜んでいるのか迷惑がっているのか悲しんでいるのか、眉を扁平な八の字にしながら、どうとでも取れる仮面のような複雑な表情でぶっきらぼうにそう俺に質問を返した。
「良さそうにみえるよ」
「本当に?」
 奈津美はその杳として、真意の測りがたい上げた口角を崩すことはない。
「順風満帆やろう、もうすぐ結婚するし看護師にもなれたんやろう。羨ましいよ」
「そう、そっかぁ」
「そうじゃなかったらなんなんや」
「うーん、なんやろね」
 道の脇の側溝に目を落とすとそこで几帳面にも並んだブロックの流れが途切れていて、通り過ぎていく車の排気ガスで汚れている黒ずんだ雪が中で溜まっていた。寂しげだった。降った雪がただ積もっただけにしてはいかにも重たげで水っ気があり、触れればその場から溶けてなくなってしまいそうな柔らかさなどは一切なかったが、きっと今はそうして汚されてただ静かに太陽の光を避けているだけのそれにも美しさと人に慕情を感じさせるだけのものがあったのだろう。しかし、それが何故こうして心細げに薄暗い街の底でただひっそりと消えるまでを忍んでいるのか。
 じっと見つめながらそうやってとりとめのないことに頭を廻らせていると横の奈津美も同じように雪を見つめていることに気がついて、横目に映ったその表情からは先程までの真意の測り難い複雑さは取り払われていてひたすらに無表情だった。奈津美は俺の眼差しに気付くとさっと目を伏せ、煙草を捨てて、またいきなり歩き出して側溝の中へ手を突っ込んで入れた。
「なにしてんの」
「んー」しばらく夢中になったようにその白腕をかき混ぜるようにさせていたが、動きがぱたんと止んだときには奈津美は側溝から手を抜いて何かを固く握り締めながらまた戻ってきて俺にその拳をぱっと開けた。
白雪である。
奈津美が強く握っていたものだから溶けかかっているが、まだ確かに雪はある。
「腕汚れてるぞ」そう一言呟いて、俺は視線を逸らして見なかった。それ以上見ることはなんだか憚られて、ぞっとして、意識より先に無意識的に強く感情が動いて拒んだ。そうした後逆に自分でも驚いて体が強張って煙草を持つ指が空中で静止した。そんな俺を知ってか知らずか、奈津美は泥とガスとで混ざった雪がついたその汚れた腕で俺の止まった手にそっと触れ、包み込むようにして握りしめた。
「ああ、温かぁ」
「冷たいねんやめろや」
 振り放そうとするも奈津美は一向に握り締めた手を離そうとしない。奈津美の腕から溶けて水になった氷が曲線を描きながら伝わってきて俺の手と俺の手を握り締める奈津美の手の内に流れ込む。
「あんたこんな手あったたかったかな」
「冷たくはなかったよたぶん」
「徹の手は温かくなくてもっと冷たいんよね」
「急に旦那の話だすなや」
「ああごめん。啓介誰か良い人いんの?」
「あー・・・・・・」
 その言葉でようやく俺は思い出した。東京に置いてきた俺のたった一人の彼女。彼女といってももう別れてしまったのかまだ続いているのかは俺にも、たぶんあいつにもわからないしどうでもいいけど、さすがに時間も経って少しくらい見苦しい釈明の言葉を聞いてもいいぐらいの余裕も生まれていた。それにこのままなあなあにするのもなんだか釈然としないのも事実ではある。
携帯を出すと画面は真っ暗でボタンを押しても反応はなくて、要はバッテリーがない。二日前、穂花と喧嘩をするようにして一方的にこちらから連絡を途絶えさせて以来充電をした覚えもないし当然だ。動かない画面の奥には放ってきた現実がたんまりとあるようで、頭から冷や水を浴びせられる思いだった。
「どうしたん?」
「いや彼女いるんやけどな、この前喧嘩してそれっきりやねん」
「へぇ、喧嘩の理由は?」

       

表紙
Tweet

Neetsha