Neetel Inside 文芸新都
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昼をまだ済ませていなかった俺たちはまずホテルの向かいの平和堂の空いた喫茶店に入り、窓際のほうへ座って店員が来るのを待った。窓際の席に座ったのには特に理由はなく強いて挙げるなら何となく落ち着くからというぐらいで、今までまったく無自覚だったがどうやら俺は昔から窓際へ座る癖があるそうで、窓から差し込む西日を反射している丸くて茶色いテーブルにぼんやりと頬杖をついたとき、クスと口元が崩れるのを片手で隠した訳を問うと奈津美が笑い混じりにそう俺に告げた。
「日当たり好きやなあ」
「冬だけや」
 舌打ちをしたら、まだ大学生にも満たないだろう童顔の女の店員がそそくさと来て霞むような声で注文を聞いてくる。適当なサンドイッチにブレンドコーヒーと彼女に言うと、奈津美は続けてサーロインステーキ丼を頼んだ。よく食うなと言いかけるとどうやら店員の彼女も同じことを思ったらしく、すこしぽかんとした後に誤魔化しも兼ねてか愛想よい満面に笑った。肩を下げ、凹んだ頬のえくぼが可愛らしかった。
 翻されたマーブル模様のスカートが靡いて厨房の奥に消えると、ガラスコップの水をからんと飲んで奈津美がねぇ、と話しかけた。ゆっくりと両指が沿って胸の前で交差して、眠たげにまどろんだ目はガラスコップのひび割れた氷に落としながら。
「ねぇ、啓介、今の子絵里に似てると思わへん」
 俺は後ろの厨房を見ている。年季の入った厨房は店内よりもずいぶんとぼろっちくて黒い染みだらけのタイルの床を這えばどこかでゴキブリと目が合いそうな気がする。さっきの彼女の姿はない。
「絵里? 高校のときの同級のか」
「そうそう、その絵里。嫌味ったらしくて、一々自慢しいな絵里。ずっと嫌いやったわ」
「嫌いやったって、お前仲良かったやんけ」
「馬鹿やね、あんた。あんなの見せ掛けに決まってるやんか」
 暑いね、と奈津美は上着のカーディガンを脱いで背もたれにかける。肌がピンク色に上気してしっとりと汗を纏っている。
窓の外を数人の老人の集団が通ってその中の一人がこちらをちらと一瞥して、何事もなかったように去っていく。すこし距離が離れてからその男は指から道端の茂みへ煙草を落とした。煙草に火はあったけれど残っている雪の上に落ちて消える。
「絵里か、良いやつやったと思うけどな」
 奈津美は力なさげに小さく首を横に振って、テーブルの中央にある観葉植物の葉っぱを一枚ちぎって俺に見せた。
「ねぇ、こういう葉っぱの細い線みたいなやつ、何ていうんやったっけ? この血管みたいに中で走ってるやつ」
 置かれっ放しだっただろう植物の葉っぱは埃で汚れている。
「葉脈のことか?」
「ああ、そうやね、葉脈葉脈。ほらいつかみんなでブルーメの丘行ったやんか、湖南のほうの、私とあんたと、仲良かった子らと遊びにさ。夏休みやったね。あのときイベントでやってた押し花教室かなんかで作ったラベンダーの押し花、私、まだ持ってるんよ」
「そんなん、あったかなぁ」
「あったよ。今でもたまに戸棚の奥から引っ張り出して見るんやけどね、昔はなんとも思わんかったのに、そんなものでも置いとくものよね、綺麗なもんよ、色はすこしかすれちゃったけどね、また懐かしくて・・・・・・」
 奈津美は指で葉っぱを引っ張ったり、半分に折ったり、端を千切ったりして弄って遊んでいる。よく見ると千切られてぶつ切りになったところから寝癖みたいな葉脈の線が数本顔を見せている。俺は過去の記憶を思い起こす。俺は自転車をこいでいる。道路の段差を隔てた数メートル前を奈津美や他のやつらが先行して、たまに思い出したようにこちらを振り返って言う。おい啓介、のろいぞ。俺は言い返す。うるせぇ俺の自転車小せえんじゃ。真上に太陽があって暑いのに馬鹿みたいに一心に自転車をこぎ続けて向かうのはブルーメノ丘だった。遠い8月のそこでは俺たちは今よりもずっと小さくて、俺の自転車は他のやつらとは違って小学生が使うようなやつで周りのピカピカの通学自転車が羨ましかった。車のクラクションが後ろで鳴ったかと思うと俺たちの横を抜けていく。奈津美がその車に向かって握りこぶしの親指を下に向けてブーイングをすると、他のやつらも、俺もケタケタ笑いながら同じようにする。道中同じようなことが何回も起きる。同じような風景もずいぶん続いている。俺は自転車を追いすがるように漕ぐ。連中は先へ先へ行く。丸い顎の先から汗を滴らせ、何キロも何キロも俺たちはそうしている。
 先程の店員がコーヒーを持ってきて、俺が口をつける前に奈津美が一口飲んでしまう。咎めようとする前に奈津美は渋面でカップを俺の手元に差し出してくる。
「私、いつになってもブラックって合わへんわ。ああ苦い、苦い」
 そう言って奈津美はコップの水を一息に空ける。俺は奈津美が差し出したコーヒーを手に取る。奈津美の唇が触れたところが口紅とコーヒーとで混ざって赤黒くある。俺はそこに重ね合わせるようにして唇をつけて、コーヒーを啜る。鼻腔の下をコーヒーの酸っぱい匂いがくすぐって、そのせいか喉の奥がひくひくして液体はあまり喉を通らない。
 奈津美はスマホを弄り俺を見ていない。
 日向がやけに暖かくて肩に体中の熱が集中しているような錯覚を覚えて、手の平を肩に当てながら外の太陽を見る。いつか見た太陽の色によく似ている。
「春やな」
「え? 何て」
「いや、暖かいからさ、もう春やなって」
「春なんてまだ先よ」
奈津美は表情はなくじっと眼下のスマホを見ながら言った。

       

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