Neetel Inside 文芸新都
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二匹目のカブトムシは立派な角を持っていて、アパートの何もない壁に一匹くっついていたところを親父が捕まえていた。実は俺はカブト虫だけはあまり好きではなく、というか得意ではなく、それはたぶんどこかの道で蟻に集られている頭と胴体が離れたカブト虫の死骸を見てからじゃなかったかと思う。甲虫の体はそのしっかりした外見とは裏腹にひどく壊れやすく、死んだらことさら脆い。ちょうどゼンマイ仕掛けの玩具にひどくよく似ている。何か一つが狂えば、次第に動きを鈍くして、最後にはただの質量を持った物体になる。俺はカブト虫には触れたくなくてだから育てた記憶はほとんどない。生きていたときの記憶はないし死んだときの記憶もない。しかしこうして保存しているのは何故なのだろうか。俺は記憶を辿る。俺は答えを知っていた。このコンチュウは俺の指を噛んだことがある。俺は虫篭の中に指を入れた。それは夜で俺は寝巻きで一人で外の通路に出ていた。その前に俺は布団で寝ている親父とお袋に挟まれて天井を見ていた。ふとした感傷と混在する小さな罪悪感から俺は床から半身を起して彼の元へ向かったのだ。
俺はソファの手前の机にケースを置いて胸元から煙草を抜いて咥えて火をつける。照りつける太陽から俺は目をろくに開くことが出来ない。光線の中の奈津子の僅かなシルエットを、目を凝らしながら追っている。
「そうよ、啓介」姿を現した奈津子は笑顔で、胸いっぱいに濡れた洗濯物を抱え込んでいる。「今日はここに泊まっていこうよ」
「そう、そうやなぁ」
白みを増した煙が風でリビングの奥にそよいでいく。卓上の灰皿には既に煙草の吸殻が丘を作っており、俺はその中にねじ込むようにまだ吸いかけの煙草を埋めた。
「昔は良かった」
 奈津子が使い古しの洗濯籠に腕の洗濯物を入れていく。「なんで?」
「何も考える必要がなかった。正直俺はお袋にひどいことされてたときも色々考えてたけど、そんなん無駄なことやったんかもしれん。ほんまは考えへんくてよかったんや。お袋は間違ってたで、何も許したわけじゃない。でも少し、ほんの少しだけな」
 奈津子は作業の手を止める。俺は肘掛から離れてソファに座る。
「大人になってわかったことなんてなかった。ただ少し図体がでかくなっただけや。俺はあえて今まで気付かんようにしてた。お袋の持っている苦しみにな。そんなん知ってたよ。俺は俺の憎しみは確かや。許したらあかん。ただ知ることも大切なのかもしれん」
「それは本心?」
「本心ではないよ。いやそうするべきと考えてること全部が本心なら、本心なんやろうけど。俺はお袋を殺したいよ、それが本心や。でもここに来て少しだけ冷静になったんかもしれん。そう少しだけ、安心したんや。街も人も本質は何も変わってなんてなかった。俺は東京に逃げて心のどこかで何もかもが変わってるもんやとばかり思ってた。望んでるようで、諦めてた。本当は変わったのは俺やったんかもしれん。そう、何も変わってなかったからさ」
結局何も終わってはいなかったし、始まることもなかった。ただゆらゆらと時間だけが流れて、歳をとり、暇を持て余したが故の気まぐれで俺はここにいるのだろう。ただ何かが変わるとすれば、それはきっと当事者からなのだろうということもわかる。俺は東京にはまだ帰れない。確かめるべきことがたくさんあって、今がたぶんその時期なんだ。

       

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