まとめて読む

 その建物は、俺の通学路の途中にあった。
 俺は地方出身の某私立大学の経済学部3年生。
 学部の学生だった頃は、大学の寮に入っていた。
 3年生になり、ゼミに入るのと同時に、アパートを借りて引っ越した。
 それで、アパートから最寄り駅に行く途中にあるその建物が、気になりだしたのだ。
 それは……。
 まさに、「昭和」そのものという感じの、古ぼけた団地だった。
 外観は、ほとんど廃墟に近い。
 しかし、中に人が住んでいない訳ではないらしく、晴れた日には錆だらけのベランダの手すりに、布団が干してあったりした。
 建物は1号棟から6号棟まであるのだが、人が住んでいる部屋は、全体で四割ぐらいなんじゃないかと思う。
 忘れ去られたような団地。
 だけど、なんとなく懐かしさを感じさせる場所だった。
 何故かはわからない。
 俺は生まれてこのかた、団地に住んだことなんてないからだ。
 団地住まいの友達もいなかったし、団地の敷地内で遊んだような記憶もない。
 だけど夕暮れ時、一人帰る途中でその場所を通り過ぎる時、なぜかたまらなく懐かしい気持ちになるのだ。
 何故だろうか?
 あかあかと沈みゆく夕陽の中に浮かぶ団地のシルエットに、俺はあらがい難い磁力のようなものを感じるのだ。
「そろそろご飯の時間よ、帰ってらっしゃい」
 ふいに声がきこえた。それは、誰かのお母さんが夕飯時に子供を呼ぶ声だった。
 続いて、どこかから流れてくる、聞いたことのあるメロディ。
 『遠き山に陽は落ちて……』という、ドヴォルザークの「新世界から」という曲。
 それに被せて、スピーカーから流れてくる女の子の声。
「下校の時間です。良い子の皆さんはお家に帰りましょう。放送委員会からのお知らせです。下校の時間です……」
 俺はいたたまれないほどの懐かしさに、全身が痺れたようになった。
 本当の俺は、暗くなるまで校庭で遊んでいた経験なんかありはしなかったけれど。
 俺は帰宅部で、両親が共働きだったのをいいことに、母親が帰宅するまでテレビゲームに夢中になっていた子供だったのだ。
 だけど俺は、吸い寄せられるように団地の敷地内にふらふらと入っていった。


 俺は、団地の一室から母が俺のことを呼んでいるのに気が付いた。
 母は、なぜか、白い割烹着を着ていた。
 もちろん、俺の母は郷里に健在だ。
 こんなところにいるはずはないし、団地に住んでいる訳がない。
 おふくろが割烹着を着ているところなど、俺の記憶の中にはない。
 外で仕事をしていたせいで、俺のおふくろの家事はよく言えば効率的、悪く言えば手抜きだった。
 おかずも冷凍食品やできあいの惣菜が多かった。
 割烹着どころか、時々スーツの上着だけ脱いだ格好でキッチンに立った。
 だが、そういう理屈はぬきにして、確かに団地の一室から俺のほうに向かって手を振っている白い割烹着姿の女性は、俺の母なのだった。
 それは否定できない事実、というより、皮膚感覚なのだ。
 オカアサン、キョウ、ガッコウデネ、スゴクオモシロイコトガアッタンダヨ。
 夕食のテーブルで、はしゃぎながら母にその日の出来事を話している自分を想像した。
 俺はふらふらとその部屋へ近づいて行った。
 入口から、建物の中に入った。
 住民用の掲示板に、隙間もないほど貼られた、町内会や団地の管理組合からのお知らせの張り紙。
半分以上、「不在につき投函禁止」の札が貼られ、ガムテープで塞がれた郵便受け。
 もちろん、エレベータなんてついていない。
 俺は埃の積もったコンクリートの階段を上った。
 目的の部屋までたどり着き、インターホンも押さずに、ところどころ塗料の剥げた、金属製のドアを開けた。
 ガチャリ――。
 薄暗い部屋の中から母が呼んでいた。よどんだ空気は、母の体臭がした。
 俺は玄関でスニーカーを脱いで、部屋に上がった。
 なつかしい母が、俺を出迎えてくれた。
 その母には――。
 顔が無かった。
 顔にあたる部分が、まるで写真を針でひっかいたような傷で隠されており――。
 その引っ掻き傷のせいで、俺には母の顔がはっきりとはわからないのだった。
それでも俺は心からの懐かしさをこめて、
「母さん」
 と、言った。顔のない母が、やさしく微笑んでくれた。


 俺はその日も、6限の言語社会学の授業まで出て、大学を後にした。
 時間は午後4時50分。
 東京郊外の大学キャンパスから、アパートまで小一時間。
 10時からコンビニの遅番のバイトが入っている。
 それまで少し仮眠を取るつもりだった。
 いつもの通り、自宅アパートの最寄り駅で降りた。
 団地の脇を通り過ぎようとして、ふと、その窓のひとつに、寄り添うようにたたずむ二人の人影が目に入った。
 それは、母子のように見えた。
 いや、それは、母子に違いなかった。
 なぜなら、それは俺と、俺のおふくろに違いなかったからだ。
 ドッペルゲンガーだ、と俺は思った。
 なにかの本で読んだことがある。
 この世には、頭の先から足の先まで自分とそっくりな人間が存在していると。
 それをドッペルゲンガーと呼び、普通は会うこともなく一生を過ごすのだが、なにかの拍子にそいつと出会うことがあると。
 夕陽が逆光になっていて、二人の表情はわからなかった。
 おふくろが俺の肩に手をかけているようにも、俺がおふくろの手を取っているようにも見えた。
 二人は、仲むつまじく窓の外を眺めていた。
 だけど、いくら目をこらしてみても、二人の表情は読み取れなかった。
 そこだけなにかで引っ掻いたように、もやもやとした影がまとわりついているのだった。
 俺は、それを見なかったことにして、アパートの方に急いだ。
 俺が読んだ本には、自分のドッペルゲンガーを見た人間は遠くないうちに衰弱して死ぬと書いてあった。
 帰っても、仮眠は無理かもしれないな、と思った。


「母さん、だれかがこっちを見ているみたいだよ」
「そうね、お前の知っている人かい?」
「わからないな……僕、わからないよ」
「いい子ね。わからなければ、わからないでいいのよ」
「でも、気になるな」
「どうして?」
「僕と母さんの幸せを邪魔するような奴だったらと思うとさ……」
「大丈夫よ、そんなことはあり得ないわ」
「どうして?」
「ここにいれば、永遠に安全だから」
 そこでは、日に焼けた畳も、カーテンも、カラーボックスも、ブラウン管テレビも、なにもかもが懐かしかった。
 俺が幼いころ、本当に住んでいた家とは、似ても似つかないというのに――。
 だけど、もう駄目だ。
 俺は、この時間の中に閉じ込められた。
 ここの空気を長い間吸っていると、そんなことはどうでもよくなる。
 もう、このままでいいんだ。
 このまま、母さんといっしょにいられれば、いつまでも幸せなんだ。
 母が笑いながら近づいてくる。
 その白い顔には目も、口も、鼻も無いように見えるけれど、でも俺にはわかるんだ。
 母さんが笑っている。
 俺は、
「母さん」と声に出して、そっと母さんを抱きしめた。(了)
sage