Neetel Inside 文芸新都
表紙

黒兎物語
104 報復の果てに 天は落ちる

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 ミスリルのミカエロ像を背に佇んでいたミハイル4世の姿は
セキーネ、ディオゴ2人の目の前から消え失せた。
そして、セキーネとディオゴはその瞬間自身の居る場所を蹴り上げると同時に
飛び跳ねる。コンマ数秒のそのさらに数秒を切り刻んだ瞬間の後、
ミハイルはつい先程までセキーネ・ディオゴの顎が浮かんでいた空を切り裂いていた。

避けるのが遅く、ディオゴの左の兎耳の一部がえぐり取られる。

「ぐッ…!!」
治癒して傷が塞がったばかりの右の兎耳から血潮が鯨の潮噴きのように
飛び散る。肉片が遥か数メートル先の入口にまで弾き飛ばされ、
皿にのせた刺身のように暫く貼り付いた後、重力の成すがまま壁を掻き毟るかのように
音を落ちる。セキーネとの戦いで引きちぎられた右の兎耳は、さらに短くなってしまった。
だが、アドレナリンで痛覚が完全に麻痺しているせいか
ディオゴ自身その痛みを感じたのはほんの僅かの時間であった。
頭から水を被ったように耳から噴出した血が髪から顔へと伝わり、頬を濡らす。

(これほどの出血なら…!)
心の中で答えを宣言する前に、身体は動いていた。耳をムチのようにしならせると、
傷口から吹き出した血を飛沫のようにミハイルの顔に吹きかける。
戦場で舌を噛み切って口内を血だらけにして、敵の顔面に血飛沫をかける
なんともダーティーな戦法を応用したものだ。

血の目潰しは意外と効果的だ、なにせ自分の身体があれば済む話だ。
お高くとまった仏頂面の女エルフの顔は雪のように真っ白だ。
その美しい肌色の顔が血で染まった時、さぞかしこのミハイルは悔しがるだろう。
ちぎれた耳の借りを返してやるつもりだった。


だが、そんなディオゴの血の報復も虚しく、ミハイルは血飛沫の一つ一つを
目で追いながらかわしていた。飛散する液体を回避することは物理的にも不可能に近い。
刀で防ごうが、手で防ごうが、いずれにせよ物に当たれば液体はさらに飛散し、
被害を拡大させる。その飛散した粒は無限大と言える程の膨大な数だ。
その膨大な粒の血飛沫を回避することなどできないはずだった。
だが、天使族の血を引くミハイルにとって、それは容易いことだった。
粒の一つ一つを目で追い、必要最小限の動きだけでそれらを回避していく。
まるで背伸びでもするかのように、ゆっくりとミハイルはかわしていく。

かわした先にはミハイルに飛びかかろうとしていたセキーネがいた。
タックルを食らわせようとしていたセキーネはミハイルもろとも倒れこむ勢いで飛びかかっていた。
ディオゴの血飛沫を目くらましとして、セキーネが飛びかかる連携攻撃……
正直言って2人とも事前に打ち合わせしていたわけではない、
だが、かつてはあの丙武軍団の猛攻を北方戦線で耐え抜き、共に戦い抜いてきた仲だ。
ディオゴが出血した時に、血の目潰しを足跡で思いつくことを
セキーネは本能的に理解していた。故に、セキーネはミハイルに飛びつき
動きを封じる算段であった。

だが、現実は真逆のものとなっていた。
ディオゴの血飛沫一つ一つが叩き打ったのは、ミハイルの目ではなく
セキーネの目であった。

「……ッ!!」

流石にまともに目に食わうのは避けたが、
いずれにせよ目を閉じたためにセキーネの視界は遮られてしまった。

(…目が!)

もし算段通りならば、今頃彼はミハイルに飛びかかり、彼女もろともそのまま前のめりに
倒れ込んでいる筈だった。だが、実際はセキーネただ一人が前のめりに
倒れこむ傍をミハイルが棒立ちで見下ろしていた。
戦闘時においては、少しでも身を屈めることで、敏捷性を引き出す必要がある。
獅子の如く身を屈めているディオゴやセキーネの2人とは対照的に
ミハイルは背筋を垂直に保って立っていた。

ミハイルにとっては、先ほどの行動は回避ですらならない。
ただ歩いている道の遥か遠くに障害物があり、自然と避けて通るようなものだ。

「フン」

セキーネがそのまま地面に倒れこむのを許せなかったのか、
ミハイルは彼の鳩尾に目掛けて膝蹴りを食らわせる。

「か!!」
セキーネは思わず目を見開き、鳩尾を抑え倒れこむ。
いや、鳩尾だけならまだしも、そこから伝わった痛みが
セキーネの体内の中でピンボールのようにありとあらゆる臓器や骨を
殴りつけ、吹き荒れる嵐の如く、暴れまわっていた。
押し上げられた胃が心臓が強烈なアッパーの如く食い込み、
心臓によって押し上げられた肺が
背中の肩甲骨と胸骨を激しく叩き、内側から押し広げられた
胸骨が肋骨を叩き、肩甲骨が菱形筋を殴りつける。殴りつけられた菱形筋が
肩や頚椎を激しく引っ張っている。

「ゲハァ!!」
鳩尾を突き上げられ、彼はそのままうつ伏せに倒れこむ。
正直、今すぐ死ぬか気を失うかのどちらかをしたいと思うほどの
苦痛がセキーネの体内で暴れまわっている。


(ダメだダメだ…!!)
あまりの激痛で心をへし折られかけたが、このままでは死を待つだけだ。
このままでは、追い打ちをかけられてしまうことは目に見えていた。
視界には入らずとも、ミハイルからの殺気がセキーネの背筋をぞわぞわと波立たせている。
早く持ち直さなければ、だが手足に力が入らない。
いくらでも、こんな修羅場は潜ってきたはずだというのに。

「震えているのか?」

ミハイルの声が鼓膜に入り込み、背骨を氷柱で串刺しにされたような戦慄を
セキーネは覚えた。それと同時に自分の手足がわなわなと震えていることに気付く。
立ち上がろうとするが、震える手が何度地面を掴んだことだろう。だがそれでも手は意志とは
無関係に地面を滑り、セキーネは地面に顔をぶつける。震える足で何度地面を踏み、蹴りあげようとしたかは分からない。
いつものセキーネであれば、踏み上げる地面を足の裏に感じ細胞や神経の一つ一つを研ぎ澄ませながら
地面を踏みしめ、飛び退くことが出来ただろう。だが、足は意思など無関係に地面を滑り、
セキーネは立ち上がることすらままならなかった。

「臆病者め……おまえに私は殺せない。」

そう言うと案の定、ミハイルは倒れ込んだセキーネの延髄を踏みつけ、
息の根を止めようと靴底が見えるまで右足を大きく上げる。
まるで、蟻でも踏み潰すような気軽さ故か、足底がセキーネの延髄を捉えて踏みつけるまで
コンマ1秒とかからなかった。だが、その1秒の隙間を縫って、けたたましい咆哮が聞こえた。

「ぬぉあァァああアアああ!!!」
無抵抗状態のセキーネをカバーすべく、ディオゴがミハイルに襲いかかっていた。
だが、タックルのようなフォームでは無いことをミハイルは直ぐに察知した。
セキーネを踏み殺そうと右足を高くあげたため、左足一本で身体を支えている状態だった。
その不安定な姿勢をディオゴは見逃さなかった。

ディオゴは、ミハイルの一本足めがけてマサカリキック(ミドルキック)を見舞った。
兎人族の強靭な脚力は天性のものである、それに更に蹴り技最強とされる格闘技
殺戮(マサカリ)の技と、その格闘技の達人であるディオゴの蹴りを相乗すれば、
ミハイルの足を砕くことなど容易なはずだった。

「愚かな」

電光石火のような瞬間の狭間の中で、ディオゴは確かに聞いた。
ミハイルの冷たく言い放つ声を。
ミハイルは地面を支えていた左足で地面を軽く蹴り、飛び上がってディオゴのミドルキックをかわす。
蝶が舞うように鮮やかな飛翔は、美しさのゆえに一見無駄な動作が多いようにも見えたが、
その実とても効率的であり、ディオゴのミドルキックの軌道の10センチ上へとミハイルを持ち上げた。
大袈裟にかわすが故に、無駄な体力を消耗するのは愚の骨頂だ。
一見、かすったように見えるが攻撃の軌道がミハイルに当たってはいなかった。
ミハイルは軌道の10センチ上のラインに左足を避難させると、すぐさま勢いをつけた片方の足で
ディオゴの脛を踏みつけながら着地した。

「うごぁあぁアあアッ!!!」

エルフの怪力は、アナサスやキルクたちの腕力を見ても明らかだろう。
人間ですら引けぬハズの弓をいとも簡単に引くその怪力。
老いたエルフのミハイルであろうとも、獣人の足を砕くことは可能だった。

「げあぁぁああア!!!」

脛骨はただでさえ、脂肪が少ない部位である。
だからこそ、弁慶の……オウガ族の泣き所と形容されるほど
激痛を伴う急所の一つなのだ。
ディオゴは長年の鍛錬により、脛骨は人数倍丈夫だった。
ゆえに、ミハイルの蹴りの一撃で粉砕骨折は免れた。
だが、ミハイルの蹴りによって自慢の脛骨が折れたことは確実だった。
そして、その衝撃を受け止めた脛骨筋や長指伸筋の筋は数本 断裂し、
衝撃で行き場を失った腓骨が僅かに内側から皮膚を貫こうとしていた。
思わず、ディオゴはバランスを保てず、その場に倒れこむ。

「ぉあ……がっ!!」

まるで鉄の塊、いや巨大な石の棍棒で叩き潰されたような激痛だった。
折れた腓骨が筋肉や心臓をメタメタに傷つけ、声にならずに息が漏れる。
叫び声をあげたい気分であったが、痛みのあまり声すら出なかった。
だが、倒れ込んで悶絶してばかりも居られない。
悶絶しながらもディオゴは止めをされることを恐れ、咄嗟にディオゴは片方の脛に忍ばせていた
べングリオンナイフをミハイルの顔面目掛けて投げつける。
ディオゴの足を踏みつけた勢いを利用し、着地したばかりのミハイルの
一瞬の隙を狙い、ナイフは彼女の顔めがけて飛んでゆく。
共にミハイルを倒したいと思っていたヌメロの悲願を託された以上、
せめてヌメロのナイフを何らかしらの形でミハイルにぶち込んでやりたい気分だった。

「…無駄なことを」

ディオゴの想いなど知る由もなく、当然の如くミハイルは顔を5センチだけ傾けてかわす。
飛び道具を回避することなど、天使族の血を引くミハイルにとってほんの朝飯前だった。
神の血を引く天使族は動体視力が良く、おまけに数秒先を予知することが出来た。
といってもあくまでも敵の行動パターンから取りうる可能性を予測し、見ているだけに過ぎないが。
ディオゴやセキーネが身体能力を駆使して神速を使っているのにも関わらず、
ミハイルがその動きに付いて行く……いや、それを上回って立ち回れているのは
その特性のおかげだ。あらかじめ、セキーネやディオゴの動きを目で見て予測し、
どこに行くかを計算し、先回りして行けば良い。そのために、エルフ族の持つ超怪力という特性を
利用し、最大限の瞬発力に変換すればいいだけのことだ。

要するにディオゴやセキーネに勝ち目はない。
その事実は先ほど2人を圧倒したことで、彼ら自身が体だけでなく心で思い知ったはずだ。
それにも関わらず、反撃をやめないのはただの強がりか。愚かな。
無駄だと分かっているのにやれやれとなかば呆れながら、彼女は回避を終えた。
だが、咄嗟に殺気を感じ、裏拳を背後に食らわしながら彼女は振り返る。
振り返りざまに右手側でで裏拳を繰り出そうとしたものの、前腕をスライスされてしまった。

「くぁッ!!」

スライスされた前腕で一瞬顔を歪めはしたものの、ミハイルは
その後ナイフで切りつけられた右前腕を気にする暇もなく、
ナイフで切りつけてきた敵の姿を目視で捉える。

(セキーネ…!!)
まさか、先ほどまで悶絶していたハズのセキーネがそこにはいた。
無論、かといって彼も無傷ではないようではあった。
玉のようにポツポツと浮かんだ冷や汗を散らしながら、
奥歯を噛み締めた苦悶の表情がセキーネの顔には刻まれていた。
気合というものであろうか、先ほどの苦痛を跳ね除けて立ち上がってきたというのか。
手応えはあったはずだ。セキーネの内臓同士が殴り合うようにシェイクするように
蹴り上げたはずだ。たとえ、並みのエルフですら悶絶するほどの痛みだ。
アバラや胸骨の数本はぶち折れた筈だ。

正直、セキーネがナイフを持ち斬りかかってきたのは予想外であった。
それよりも頭に浮かんだのは、何故
先ほどディオゴが投げたはずのナイフをセキーネが手に握り締め、自分の前腕をスライスしたのか。
その謎の答えを解くのに時間はかからなかった。
セキーネはディオゴが弾丸のようなスピードで投げたナイフを受け取り、
ミハイルに向かって斬りかかったのだ。息が合っているどころではない、
下手をすれば自分の手もナイフで串刺しにされてもおかしくはない状況だった。
だが、戦場という修羅場で共に2人で戦いあってきたセキーネだからこそ
ディオゴのナイフを受け止めることが出来たのだ。

咄嗟にミハイルは裏拳を繰り出して、鳩尾めがけてセキーネに殴りかかるが、
セキーネはべングリオンナイフを握り締めた右手で、叩きつけるように鳩尾までの軌道を止めた。
別にナイフが当たらなくてもよかった。いずれにせよ、最初に前腕を切りつけた時点でもう
狙いは完了していた。

「くっ…!!」

その直後、裏拳を叩き落とした右手を大きく振り払い、喉笛を切り裂き首を刈ろうと、ナイフを振る。
咄嗟に顎を庇うために顎を引きながら、振ったナイフをかわし、
セキーネの胸骨に手刀を叩き込む。だが、一瞬セキーネの顔が苦痛に歪むが
それでも彼はひるまず、蹴りをミハイルに叩き込む。

「くっ……!!」
蹴りを腹に喰らい、ミハイルは驚いていた。
正直、兎人族の蹴りを喰らったところで痛くも痒く向かなかった。
溢れ出す魔素によって、ミハイルの防御力は多少なりとも強化されてはおり、
平手で打たれたほどの衝撃しか感じなかった。
だが、問題はそこではない。先ほどまでの自分ならば、この蹴りをかわせたはずだ。
にも関わらず、まともに蹴りを受けたのは何故だ?

その疑問を抱く合間もなく、セキーネは距離をつめてミハイルに向かって斬りかかってくる。
軌道一つ一つをミハイルは手刀や掌底や肘で叩き、払い、流し、軌道を逸らさせることで捌いていた。
だが、何故かミハイルは時折セキーネのパンチや蹴りをかわせずにかすることが多くなってきた。
最早 最低限の動きで攻撃をかわそうにも距離感が掴めない上に、軌道を読もうとするにも
頭が働かず、見当違いの場所に攻撃が来る。その答えにミハイルはハッと気づいた。

(おのれ……ゼロマナか!!)

セキーネの持っているナイフには細工がしてあった。ゼロマナの刻印がされている
ベングリオンナイフであった。いつものミハイルならば、
セキーネの手を叩いてバラバラに砕くことなど可能なはずだ。
叩き、払い、流している内に、セキーネの手が砕けてもおかしくはない。
だが、今のところその素振りは見られない。それどころか、むしろ動きが早くなってきているような気がしていた。

(……あの時か!)
今の状況に陥ったのを冷静に整理し、ミハイルはひとつの結論にたどり着いた。
ゼロマナナイフでスライスされたあの瞬間からだった。
力が吸い取られるのを感じ、いつもよりも力が出せない。
だが、それでもミハイルはその様子を悟られるのは癪に障ったので冷静を装っていた。

(ここだ!!)

容赦なくセキーネはナイフによる応射を浴びせかける。
徐々にミハイルの動きにも陰りが見え始めていた。先ほどより動きが鈍くなっていっているのが手に取るように分かった。
ガラ空きとなったミハイルの鳩尾目掛けて、セキーネは刺突を繰り出した。
隙があれば容赦なく刺すだけだ。だが、セキーネのナイフは鳩尾に達する前に
ミハイルの両手で彼の手首ごと握り締められ、止められてしまう。

「…待っていたぞ ここに刺してくるのをな。」
ミハイルがセキーネの手首を捻り、へし折る。

「う!!!」
ありえない方向に手首が曲がり、思わず痛みでナイフを離してしまった。
ミハイルはその隙を逃さず、ナイフを引き抜くと
そのナイフの柄を掴み、ディオゴの足目掛けて投げつける。

「ぐおッ!」
立ち上がろうとしていたディオゴの右足の足の甲は、
指ごと串刺しにされていた。名刀セナ・ベングリオンの作ったナイフだ。
その切れ味でおそらく、指の数本は両断されてしまっているだろう。
立ち上がろうとした意志とは正反対にディオゴは仰向けに倒れ込んだ。

「ぐあああッ!!」

その冷たい切れ味は、心臓に突き刺さるかのような戦慄を
ディオゴに与え、全身から力を奪い去っていく。
ゼロマナがエルフだけに効くというわけではない、
並みの獣人や人間でも生命力を奪われる可能性はあった。
特に体力を消耗しているものならば、尚更だった。
手首をへし折られ、その痛みを味わう暇もなくセキーネの鳩尾に
再びミハイルの掌打が食い込む。

「は…!!」

うめき声を上げる間もなく、次々とミハイルの掌打と拳や抜き手が連続で
叩き込まれ、セキーネは勢い余って後方に倒れ込んだ。
痛みなど何のこれしきと立ち上がろうと奮い立たせようとしたが、
身体はその精神を抑え込むかのように、セキーネの身体を地面に縛り付ける。
足に力が入らない。内臓がカクテルのシェイクのように揺れていく。
ミハイルの蹴りを受けた時に、感じた圧倒的な力。
エルフが持つ超怪力。おそらく、ミハイルはその半分も出してはいないだろう。
自身の鍛錬の成果もあって、辛うじて即死は免れたが それでもなお、埋めきれぬ戦力差を
セキーネは感じ取ってしまった。

処女を必死で守ろうと必死で抵抗しようとする女子が、あまりの恐怖で身体が動かず
ケダモノに犯されるのを防ぐことが出来ないように、2人はただ跪いていた。

「……それがお前たちのあるべき姿だ。」

ミハイルは言う。
跪く2人を見下ろしながら、ミハイルはただ冷酷に言い放つ。

「おまえたち獣人は自分たちの力が先天的なものだと信じて止まない。
神をも翻弄する神速か……笑わせる。
実際は、我々の持つ力のほんの一欠片を与えたに過ぎないと言うのにな。」

ミハイルは侮蔑するかのように嘲笑っていた。

「神はエルフを恐れた。万能さ故にエルフが神をも打倒することをな。
だからこそ、神はエルフにその力を分け与えよと命じた。
おまえたち獣人が持つ力がそれだ。」

ミハイルは嘲笑いながらも激しく激怒していた。
眉間に皺をよせたその表情は、若い女子の見た目に隠された
老婆(ババア)の本性がにじみ出ているようだった。

「……だが、我々は超怪力だけは手放さなかった。
いずれ、その強大なる力で全てを蹂躙するためにな。
だからこそ、神の娘たちとされる天使族を征服することが出来た。
その末裔が我らエンジェルエルフだ……!」

エンジェルエルフの始祖であるミハイル1世、かつて彼が志したのは
神への反抗であった。万能たる種であったハズのエルフは牙を抜かれ、
その牙を下等であるハズのケダモノに分け与えることを強要された。
アルフヘイムでは禁断の書となり、名を唱えることすら封じられた書物には
その詳細が描かれている。ダート・スタンたち穏健派の先祖たちによって
焚書にかけられたこの書物は、アルフヘイムの理想である獣人族たちとの共存を著しく
阻害するとして大部分が焼却され、封印されたが、その一部をミハイルたちエンジェルエルフは
聖書として読み、アルフヘイムの歴史として先祖代々に渡って学んでいた。


「お前たちに奪われた万能たる力を取り戻す……
お前たち兎人族に与えられた精霊樹「スカイフォール」はその曙光だ。
くっくっくっ……皮肉なものだ。我々から全てを奪った神への復讐劇の幕開けは、
天空を引きずり落とすこと(スカイフォール)で始まる……」

ミハイルは笑っていた。
神への復讐の第一歩がスカイフォール(天は落ちる)の名を持つ精霊樹から始まることに。
確かに、兎人族以外にも分け与えられた精霊樹は多く存在した。
だが、彼女がいの一番に兎人族の精霊樹を手中に収めようと企んだのはこれが理由であった。

「……演説は終わりか? くそばばあ。」

ディオゴが中指を立て、上半身を起こす。
もはや下半身は萎えて動きはしないが、上半身は肘を立てれば起き上がることは出来た。

「へっ……黙って聞いてりゃあただの願掛けじゃねえか……下らねぇ
そんなことのために俺たちは潰し合わされ滅ぼされたってわけか……クソが。」

上着からディオゴは人参の葉巻を取り出し、火をつける。

「親が親なら子も子ですね……ディオゴ。理由はどうあれ、
結局のところ、怨みを晴らすために他の民族を征服しようとする醜い欲望……
我々があなた方から授かったものはこんなものだったのかと思うと
実に情けない……」

セキーネも倒れながら、虚しく呟いていた。
心の底から、ため息を吐くとセキーネはミハイルを見つめ
哀れんだ眼差しで彼女を見つめた。

「だとよ…ばばあ。俺たちを見下すなら好きにしろ、だが、てめェの先祖様は
天使をレイプして手篭めにしたクソだ。とどのつまり、てめェも
俺たちも同じクソだってことだよ。」

黒兎人族のディオゴは復讐のため、白兎人族の女子たちをレイプした。
アーネストに犯された妹の怒りを晴らすためではあったが、
いずれにせよその復讐の本質は、ミハイルと変わりはしない。
こうして実際に会うまでは、魔王のような女だと思っていたが
自分と変わることのないただのクソだったことに、ディオゴは心底情けなく失望していた。


「黙れ黙れ黙れ黙れ!!!!」
目を見開き、ミハイルは怒り狂った。
ババアと呼ばれたことが何よりも気に障ったのだろうか、
ミハイルはかつての余裕が見られぬほど感情を顕にしていた。

「何故 地に伏せたハズのおまえ等がどうして私を見下している…!!」
ミハイルは獣人に見下されていることが屈辱で堪らなかった。
自分の信念をあっさりとこき下ろされたことが恥かしく、怒り狂っていた。


「……いやぁ 自分と変わんねーなぁって思ってよ。改めて自分の醜さを
思い知ったっつーか……」

なかば死を受け入れつつあったディオゴは、長年の宿敵に思いの丈をぶちまけずに死ぬのも
癪だと思っていた。それゆえか、臆することなく本心のまま語っていた。
正直、ミハイルを馬鹿にするつもりもなく ありのままを言っていた。

「う~……うるさい!!黙れ黙れ!!」

「陛下……貴女は全てのエルフを統べると仰っていた。
そんな貴女がまさかスカイフォールの意味を履き違えておられていたとは……
正直 絶句の念を隠せません。スカイフォールの真意は「天空を引きずり落とす」ことではない、
「たとえ天が落ちようとも、正義を成就すべし」ということ! 
天を引きずり落とそうとした貴女は、正義を成就すべし者に勝てない!!」

ミハイルは完全に言葉を封じられ、反論の余地すらなかった。

「ぬぁぁああああああああああああ!!!」

「…お喋りは終わりだ ミハイル」

ディオゴは48口径の大型拳銃「クンペル・カマラーデン48」を構え、
ミハイル目掛けて突きつける。ゼロマナの刻印がなされた銃身が
桃色のような紫色の光を放っている。この銃から放たれる銃弾は全て
ゼロマナが込められたものとなる。喰らえば、ナイフのスライスどころではない。

銃口から発せられた殺気を感じ、ミハイルはディオゴの存在を感知した。
ミハイルの目は憎悪で歪み、ただディオゴを見据えていた。

「おまえだけは先に殺すぞ……ディオゴ」
ディオゴと会うのは今日が初めてであったが、噂はミハイルも聞いてはいた。
女をレイプし、凶暴性を精子のように撒き散らす下品きまわりない男。
獣人という分類に属するにまさに相応しい穢れた生き物。
そんな下卑た輩に銃を向けられていることは屈辱の極みであったが、
見透かされたような目つきで同類扱いされたのには我慢汁を抑えきれない。

「ゴメンだね 先に死ぬのはお前だ くそばばあ」

相変わらずの悪態はついてはいたが、ディオゴはあえてばばあとミハイルを揶揄した。
正直 高飛車な女は嫌いだが、こいつは女の片隅にも置けない醜く老けた老獪だ。
だが、一応女ではあるから間をとってばばあと罵った。

「ガキが……思い知れ!」
自分の生きてきた年齢の半分すら生きていない小虫のような
生き物に侮辱された屈辱から、ミハイルは怒りを露にしてディオゴに一歩ずつ迫っていった。
近づいてくるミハイルに向けて、ディオゴはカマラーデン48の引き金を引く。
だが、怒ってはいたが、ミハイルはそのことを本能的に理解してか銃弾一つ一つを
上体を逸らしかわしていた。

「言ったはずだ……おまえに私は殺せないと。」

「耄碌したかババア……そのセリフは俺に言ってねぇぜ。」

逆上し、冷静さを失っていたミハイルをより一層逆上させてやろうとしていたが
それでもミハイルは攻撃を避ける冷静さだけはあったようだ。
容赦なくディオゴはカマラーデン48の引き金を引く。
だが、それでも銃弾の一つ一つがミハイルの横をすり抜けていく。


「見苦しいお喋りは終わりだ ディオゴ……
先ずはその不愉快な舌を切り取ってくれる。」

「優しいんだな……てっきりキンタマを取られるかと思ったがな。」


減らず口を叩きながら、ディオゴはカマラーデン48の引き金を引く。
足を封じられ、得意の機動力を発揮できないディオゴには最早
引き金を引く以外に攻撃する他なかった。

だが、その銃弾もやがて全て尽きた。
スライドが後方に引かれ、硝煙が虚しく立ち上る。

「……ふぅ~……やれやれ」
人参の葉巻を咥えながら、ディオゴはため息をついた。

「……お前の強がりもここで終わりだ。
お前は足を潰された蟻と同じだ。その分際で……お前は 私を本気で怒らせた……!
おまえの魂は 愚かな神もろとも葬り去ってくれる……!」
こうしてディオゴを見下ろすと、死にかけの蟻と同じなのが見て取れる。
小麦色の肌は紫色に染まり、血の気は引いている。
汗は玉のように体中を伝い、ミハイルを見上げている。
もはや少し力を入れるだけでいつでも殺せる。
それを思い知らせてやる。ミハイルは自身の指から圧縮した光線を出そうと、
ディオゴの脳天目掛けて発射しようとした。
その無様な脳天を撃った後は、次は口に光線を叩き込んでやるつもりだ。
心の底から死ねと呪詛の念を抱き、力を解放しようとした刹那、
ディオゴの言葉がその刹那の嵐を一刀両断してきた。

「神と共に葬られるのはお前の方だ……ミハイル」

ミハイルの背中を容赦なく銃弾の嵐が襲う。

「うご!がは!!」

先ほど撃ち尽くした筈のカマラーデン48の銃弾が
何故か跳ね返り、ちょうどディオゴに覆いかぶさる形でミハイルに降り注いだのだ。

「ぐぉ……ぐあぁぁああああああっ!!!」
予期せぬ攻撃を背中から受け、ミハイルはその場に跪き倒れ込んだ。
上半身の衣服は敗れ去り、乳房も何もかも露になった女体からは血が噴き出し、
鯨の潮噴きのようにいたるところから吹き出している。
かつてのディオゴならばここで、「ケッ、レイプされた女みてェだな」とか
「ちっせぇ乳だな ぺシャパイが」と減らず口を叩いた筈だが
今のディオゴはその様子をただ黙って見つめていた。
ここでそんな下品な減らず口を叩けば、ミハイルと同レベルになるような気がしたからだ。

「馬鹿な……!何故だ!」

「お前の行いは 神に見透かされてたというわけだな。」

後ろを指差し、ミハイルは恐る恐る背後を振り返る。
そこにはひび割れた大天使ミカエロのミスリル像があった。

(こ……いつ……銃弾をミスリル像に反射させて……わ……わたしの背中に……)
先ほどの乱射は全てミハイルの背中に当たるように計算して撃っていたものだった。
そのことに気づいたのが遅すぎた。

皮肉なものだった。エンジェルエルフ族が神と称える大天使ミカエロ。
ミカエロは神への復讐を企んだエルフが、最初に陵辱した天使族の女性であったのだ。
エルフに犯されたミカエロが子殺しの罪を恐れて止むなく産み落としたエンジェルエルフ族の末裔。
その末裔の女帝たるミハイルは、ミカエロを崇拝していた。
女性として屈辱を受けようとも、折れぬ魂を持った母なる天使として。
彼女の名前ミハイルも元は、ミカエロが由来である。

「母なる天使よ……どうして私を見捨てになられたのです?」
運命のいたずらか、あるいは必然か。
ミカエロのミスリル像は、八つ裂きにされたミハイルの背中を見つめるとそのまま崩れ落ちた。
まるで、自分を陵辱したエルフの末裔の最期を見届けて力尽きたかのように。

「……俺の復讐劇はここで終わりだ。後は……任…せたぞ 相……棒」

ディオゴの瞼が彼の目を飲み込んでいった。
ミハイルの驚いた表情を見届けただけで、胸が晴れていった。
足の激痛に耐え、自分を奮い立たせる必要はない。
ディオゴの意識を保っていた糸はぷつんと切れ、闇へと沈んでいった。

「ぐわぁが……苦しい……!!苦しい!!」
ゼロマナの銃弾をまともに喰らい、ミハイルは身を焼かれるような
激しい苦痛に襲われ始めていた。まるで血液という血液に油を注ぎ込まれ
焼かれるような痛みだ。

「陛下、ならばせめて苦しむ前に。」

またもや後方から聴き慣れた声が聞こえた。
その声の主がセキーネだということは想像に難くなかった。
そして、その考えに頭が追いつくのを待たず、
セキーネのワイヤーがミハイルの首筋に絡みつく。

「うぅ……ぐわぁが……っ」

ミハイルはワイヤーを解こうと爪を引っ掛けようとした。
だが、強靭なワイヤーは切れるはずもなかった。

(く……そ… これ……も……ゼロ……マナか……)
爪の合間にワイヤーを引っ掛けることに成功したが、
だがそれも束の間だった。爪はワイヤーによって弾き飛ばされ、
砂のように風化していく。

「か……!!かは……!!」

指は見る見るうちにしなび、枯れ果てていく。
何度も喉を掻き毟ろうとする内に、その手がペタペタと虚しく音を立てていくのが
薄らいでいく意識の中で分かった。
ミハイルの指はまるで枯れ果てた枝のように生気を失い、細く萎びていく。

「……憎い仇の貴女であろうとも せめて安らぎを……」

あぶくを吐き、喉を掻きむしりながら、乳房を揺らし、
ミハイルはあがいていた。なんとも惨めな死に方だ。
女として屈辱的な死に方と言って他にならないだろう。
まだ全裸で殺された方がマシだった。女として隠したい乳房そ力なくぺたぺたと
揺らし、首を血まみれにして暴れ、藻掻く惨めな自分の姿を客観的に見ている自分を感じていた。
あまりの屈辱に涙が目から溢れる。

たわわではないが、美しい形をした乳房もやがては萎びた柿のように
皺だらけになり萎んでいく。それと同時に、その美しい顔にも皺が現れ始めていく。
540年に渡り、生き抜いてきた復讐のためだけの人生。
その醜さを刻み込んでいくかのように、ミハイルは見る見る内に皺だらけの老婆へと
変貌していった。

「おとう…さま……」
老婆と化し、枯れ果てた声でミハイルはそう呟くと
やがてミハイルはワイヤーを顎で挟むかのようにして、うなだれたまま動かなくなった。
そんなミハイルをセキーネは見下ろすかのように見つめていた。

「……もう……終幕です。陛下。」

セキーネは虚しく動かなくなったミハイルに語りかけた。
憎き敵であるハズのミハイルを最後の最後に哀れに思った自分を許せなかったのか。
それとも、心の奥底では復讐に胸を抱いていた自分がとった行動の呆気なさに萎えてしまったのか。
セキーネの表情に浮かんでいたのは、復讐を遂げられた喜びに満ちた顔ではなかった。

遠くで倒れこむディオゴの表情をセキーネは見つめた。
ディオゴの顔は満足げに微笑んでいた。
復讐を遂げられた喜びか、それとも全てを失ってまで突き進んできた
自分の悲願が達成できたことへの喜びか……その顔に後悔の念はなかった。

「……結局 私は復讐の鬼にはなりきれなかったというわけですか。
……ディオゴ」

聞こえるハズのないディオゴにセキーネは投げかける。
おそらく、それが答えなのだろう。
復讐をすると誓ったのならば、全てを棄てる覚悟と行動が伴わなければならない。
ディオゴはその生き方に従っただけのことだ。

復讐する筈のミハイルが老いていく姿に少しでも哀れみを感じたのは
その覚悟が足りなかったのかもしれない。
やがて、セキーネたちの姿は崩落するミカエロ像の破片と粉塵に
覆われ消えるのであった。

       

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Neetsha