だが、廃人となり、不幸のどん底にいる筈のヌメロは
多くの優しさで包み込まれていた。カーディガンの下から見えるガウンはディオゴが、カーディガンはツィツィがヌメロの誕生日に買った。マフラーと靴下はモーニカがツィツィと一緒に編んであげたものだ。そして、車椅子は両親には内緒でモーニカとディアスが2年分のお小遣いを我慢してヌメロおじちゃんに買ってあげてと父親の経営する会社の副社長のフィリッピオおじさんと
警備主任のフラー兄ちゃんに無理を言って買ったものだ。
若々しく戦場を駆け抜けていた頃のヌメロには到底遠い世界のことのように思えた温もりの結晶がヌメロを包み込んでいた。


 「あ・・・」

亀の歩みのようにゆーっくりとヌメロは葡萄に目をやる。光を失なった目の輝きに僅かながら光が戻る。その光は木漏れ日か、それとも彼自身の魂の光か。いずれにしろ、ヌメロの目はモーニカを優しく見つめながら、彼女の施しに必死に応えようとしていた。葡萄に手をやろうとヌメロは力を込める。だが、手が重いのか彼の手首は数センチ起き上がるところで止まる。肘が動かず、手を引っ張って浮かせることが出来ず四指を丸め、カタカタと震えながら手を持ち上げようとする。だが、それでも手は上がらず肘掛けを虚しく叩く。

「ぅ・・・う・・・うどぅ・・・・・・うどぅ~」

「おじちゃん!!がんばれ!!がんばれ!!」

モーニカはまるで我が子を見つめる母親のようにヌメロを見つめ、精一杯
応援していた。ディアスも口を閉じ、唇を噛み締めながらヌメロが葡萄を取るのを今か今かと待ち望む。

「ぅううぅう~~~~~ ぅどぅう~~~!!」

ヌメロの目から一筋の涙が流れる。
せっかく持ってきてくれた葡萄を受け取れない自分がやるせなかったのか。

「あきらめないの!!ヌメロおじちゃん!!だいじょうぶだから!!」
モーニカは心を鬼にしながら、ヌメロを励ます。
自分でも残酷だとは分かっている、でもヌメロおじちゃんのリハビリのためだから必死にそう言い聞かせてはいるが、ぐっと握り締めた両手はわなわなと震え、両目には大粒の涙が浮かびつつあった。

「おいおい、今日はここまでにしとこうぜ。」
「もう少しなのよー ディアス!」
もう泣きそうになっていたモーニカの肩を優しくぽんと叩き、
ディアスは言った。

「あんまり焦すと、ヌメロおじちゃん我慢汁で股間濡らしちまうだろ~」

 ディアスは父親ディオゴの口汚さを真似しながら、葡萄の粒を優しく摘みながらヌメロの口へと運ぶ。

「頑張ったね ヌメロおじちゃん」
ディアスは愛おしそうにヌメロの顔を覗き込み、ほめたたえた。

廃人のヌメロは咀嚼が苦手であり、そのままでは窒息する可能性があった。ディアスは母親からよくヌメロおじちゃんに食べ物を与える方法を教わったものだ。指で葡萄をすりつぶし、そこから滴り落ちる果汁を乳飲み子のように飲ませる。
こうすれば、ヌメロも味わうことができる。

「・・・うどぅ うどぅ」
とれたての葡萄の果汁が美味しかったのか、ヌメロは葡萄を求め、舌を動かした。
「動いた!!!!」
ディアスとモーニカは見つめ合って喜んだ。
 
「ヌメロおじちゃん 舌動いた!!」

2人が生まれる前から彼らの言うヌメロおじちゃんは人形のようだった。
そして、物心ついた時から今でもヌメロは椅子やベッドに縛り付けられたように
うなだれている。だが2人の看病のおかげで少しずつではあるが反応らしきものが戻りつつあった。
最初のうちは眼球運動だけが精一杯だったが、徐々に首も動くようになり、
そして先ほどのように言葉を発するようにもなった。
食事の方はおよそ3年に渡り、口にすることはなく不思議とそれでも生きていたがその間もディオゴやツィツィが栄養を溶かした水を与えながら、少しずつ流動食を食べられるように訓練していた。最近は流動食がようやく食べられるようになり、少しずつならばお粥でも食べられるようになってきた。だが、ヌメロは自分から食事をしようとはせず、時間になれば家族交代交代でヌメロに栄養を少しずつ与えていた。それらを考えると、今回の舌なめずりは特に大きな進歩だ。


「モーニカ~~!!ディアス~~!!」
その声に2人は嬉しそうに振り返る。

「おかあさん!!」
2人の母親であり、ディオゴの妻であるツィツィ・キィキィが優しく3人の許に歩いていく。
半袖のブラウスの上には太陽で熟したオレンジのように暖かなオレンジ色のボディスを羽織り、ややオレンジ色を抑えた腰巻をマフラーのように巻き、そこから下半身はボディスと同じ色のロングスカートを靡かせている。頭にはオレンジがかった赤色の頭巾からは左右にあご紐が兎耳のように
垂れ下がっている。太陽のように暖かいカラーで仕上げた姿はブーナッドのようではあるが、
複雑な刺繍はなく、とてもシンプルかつ目に優しい暖かいデザインだ。
さながら家庭的なお母さんそのものの格好だ。かつて生活費を稼ぐため、
SHWの雇われダンジョントラベラーとして働いていた時は黒兎人族の兵士のように
重々しい装備や格好をしていたものだが、今の彼女の姿にその面影は見られない。

「おかあさぁーん!!ねぇ!!聞いて!!聞いて!!」

「ヌメロおじちゃんがねー、ぶどう、ぶどう欲しいって舌を出したの!!」

ディアスもモーニカも大はしゃぎしている、
子供の頃から一緒に育ってきた2人にとってヌメロは愛すべき兄弟のような存在だった。
一つずつ反応出来ることが増えてくるヌメロと
一つずつ成長していく自分たちを重ねていたのかもしれない。

「そうなんだ~ ヌメロおじちゃんも嬉しかったのかもね!!」

ツィツィははしゃぐ子供たちに満面の笑顔で答えた。だが、内心は変わり果てたヌメロの現状を嘆いてはいた。夫であるディオゴが、ヌメロが変わり果てたことを大変悔やんでいたからだ。

10年前
暴走したメゼツ・ホロヴィズことシャーレによって再起不能にさせられ、周囲を
甲家の武闘派皇太子ユリウス大将、丙家総大将アンセルム・ホロヴィズ大将、
レドフィンを倒した丙家の鉄血の独眼竜ゲル・グリップ大佐、
そして鬼家の鼻無しのロンズデール中佐とその軍勢に包囲され、絶体絶命の崖っぷちの中、発動した禁断魔法「白の狂風」……敵のみを根絶やしにする筈だった滅殺魔法は巫女ニフィルの心の奥に潜んでいた邪悪によって「黒の災禍」と化し、味方もろとも敵を滅ぼした。ネロとヌメロが全身全霊を込めた「光の盾」を発動したが、それでも「黒の災禍」を禦ぐ(ふせぐ)ことは出来ず、
咄嗟にネロとヌメロはそれぞれの主に覆いかぶさり、身を呈して下僕としての使命を果たした。ヌメロがその身を護ってくれなければディオゴは確実に戦死していただろう。

「俺なんかのためにどうして……」

ディオゴはヌメロを犠牲に生き残ってしまったことを悔み、
懺悔の日々を送っていた。
そして、ヌメロが廃人となり、モニークが死んでから得た10年間の幸せを
罪深い自分には相応しくないと思いつめていた。
だからこそ、ダニィは出て行ってしまったのだと。
モニークの仇を取る……ただそれだけのために、牙を向け傷つけるのが敵だけならばまだいい。だが、自分は味方であるはずのセキーネや、ゲオルク、ガザミ、アナサス、ネロにも牙を剥き、そして義兄としての立場を押し殺し従者として従ってくれたヌメロにまで多くの迷惑をかけてしまった。それだけではない、モニークを犯したアーネストへの憎しみが
消えず、罪もない白兎人族の少女や生娘たちを八つ当たりの如く、陵辱した。
その過去がディオゴを苦しめていた。
ツィツィも、時には夫としてしっかりするように叱責しつつも、
時にはかつて可愛がっていた弟分のディオゴボーイとしてディオゴを支え、
心の傷を癒していた。



ツィツィ、モーニカ、ディアス、そしてヌメロの4人は
ぶどう畑から別荘へと続く道を歩いていた。その道は直射日光を防ぐために
ところどころ、木々が多めに生えており、木漏れ日が主体となった程よい暖かさと明るさで
照らされ、ぶどう畑へと吹き抜ける風が、涼しく歩く者たちを癒す場所だった。

ツィツィはリヤカーに載せた数十個のビールケースの中にぶどうを詰め込み、
モーニカやディアスはヌメロを載せた木製の車椅子を押していた。

「思い出の中の あなたの笑顔が♫」


娘や息子たちがどこかで聞いたような歌を口ずさんでいた。

「絶望すら抱きしめてくれるから   あなたの居ないこの世界でも」


ツィツィはその歌を口ずさんでいたある少年の姿を思い出していた。


「愛を信じて 生きていける」


その歌を聞いていたヌメロは木漏れ日に照らされながら、天を見つめ悲しげに笑う。


「死でさえも あなたと僕を 分かつなんて出来ないのだから~」

「……ダニィ」

ツィツィはかつてその歌を歌っていた時のダニィ・ファルコーネを思い出していた。
病人と新たに加わったフローリア難民たちが絶望に打ちひしがれ、時には衰弱して
息を引き取っていく避難所で、ダニィ・ファルコーネはロンロコ・ギターを弾いていた。

柔肌を優しくなで上げるような音色に乗せられて、ダニィの甘い暖かい
ボーイソプラノが多くの避難民の心を癒していた。
当時、ダニィは白兎人族に拷問されて大火傷を負った胸の傷が癒えず、
上半身を包帯で覆っていた。包帯からは血が染み出し、やがてズボンにも赤い染みが
浮き上がるほどだった。正直言って絶対安静で水分補給を欠かさずにしなければならない容態だと
言うのに、それでもギターに打ち込み歌を歌っていたのは
モニークを失った悲しみを拭おうとしていたのだろうか それとも、モニークの居ないこの世界への
せめてもの復讐か……全身から汗を流し、やがてギターの弦が切れると同時に
ダニィは意識を失い、2ヶ月昏睡状態に陥った。
昏睡状態の中、その分動き回らないのが功を奏してか、火傷は見る見るうちに回復していった。
だが、それでもダニィの胸に刻まれたケロイドは消えることはなかった。

ダニィが意識を覚ました後にツィツィは破水した後だった。
子供の父親が不在ということで、意識を覚ましたばかりのダニィが
身元引受人となり、出産に立ち合ったのだった。
ツィツィは今でも忘れない、2人を生んだ時に優しく手を握り大丈夫だと
言い聞かせてくれたダニィのあの優しい眼差しを。

ダニィの手を必死に握り締めながら、ツィツィはモーニカとディアスを
生んだ。父親のディオゴが出兵中で不在ということもあり、
ダニィは姪と甥を2人をこの手に抱いた。
2人の名付け親(ゴッドファーザー)になったのもダニィだった。

姪はかつてダニィの愛したモニークの生まれ変わりだと信じ、
どうか女としての幸福を満足に生きることが出来なかった彼女の代わりに
どうか精一杯生きて欲しいと願い、モーニカと名付けた。

甥は無事に一日(ディア)を終えられず命を終えてしまう殺伐とした世界に生まれたとしても、どうか無事に一日一日をゆっくりと積み重ねて生きて欲しいと願い、ディアの複数形のディアスと名付けた。


2人を抱きしめたダニィは、どこかでモーニカとディアスに
かつてのモニークと自分を重ねていたのかもしれない。


「どこにいるの……? ダニィ。」


ツィツィは空を見上げ、呟く。
この子たちもまだダニィを写真でしか見たことはない。
ゴッドファーザーとその子との繋がりは時に親子の絆よりも強い。
モーニカもディアスも写真を見るたびに早くダニィ叔父さんに会いたいと口ずさむようになった。

ある日のことだった。

「待ってろ……会わせてやる」

我が愛する娘と息子の頭を撫でながら、ドン・コルレオーネとなった
ディオゴ・J・コルレオーネは決意を込めた眼差しで告げる。
傘のように両肩を覆い、そして背中と腰周りを覆う黒兎人族特有のベストには
彼岸花の刺繍が施されている。首元には、かつて父親のヴィトーが
愛用していたラディアータ教の僧侶が身につけていたスカーフを巻きつけている。
その出で立ちに、かつて亜骨国大聖戦で大暴れしていた頃の野良犬のように粗暴だった
18歳のコルレオーネ大尉の姿はそこには無い。
今、ここにいるのはコルレオーネファミリーのドン・コルレオーネである。
顔も少しばかりやつれ、目元にはクマと皺が刻まれている。長袖から顔を出す手からは
少しばかり黒い産毛が生えつつあった。黒兎特有の老化現象が始まっていた。
それも、ある事件がきっかけか。

ディオゴは白兎人族の少女をレイプした罪に耐え切れず、リストカットをしていたが我慢できず発作に駆られて陰茎の3分の1をノコギリで切り落とした。
下半身を血だらけに濡らしながら、彼は睾丸を切り刻もうとしたが、
異常に気づいた妻のツィツィにノコギリを奪い取られ、何十発も顔を平手打ちにされた。

「アンタが自分を傷つけたら゛…!  あ゛たし゛はどうなる゛のよ……っ!!
子供たちはどうなるのよぉお!! なんで!! なんで アンダ……!!
自分のことばっがり゛……!! どうじで あだじのごども考えてぐれないの゛……!!」

姉御肌で姉さん女房だったツィツィがあれほど泣き叫んだ姿を
ディオゴは初めて見た。ディオゴはツィツィを抱きしめ、去勢を思いとどまったのだった。
今でもディオゴは愛する女房を泣かせてしまったことを後悔している。

罪深き自分のために泣いてくれた女房のため、
罪深き自分を父と慕ってくれる子供達のため、
ディオゴことドン・コルレオーネは日々を生きることを決意したのだった。