ジェイガンの証言2

 私がウルフェルト家に仕えたのは、士官学校でブランデン子爵のお父上、ヴァイデン様と知り合ったのが元々のきっかけでございました。ちょうど年も同じ、生まれた地方も同じ。しかし私たち二人は身分の隔たりがございました。私はしがない平民でしかございません。
 この地方だけでなく、骨大陸全般で、大した生まれではない人間がのし上がろうと思えば、それは軍に入ることしかありませぬゆえ、当時の若かった私は自然と軍人を志すようになったのですな。今思えば、軽率も甚だしいことです。結局、私は軍人には向いておりませんでしたが、このときは「自分ならやれる」という、若者独特の根拠のない自信に満ちておりましたから……
 とにかく、士官学校で気の合った我ら二人は、そのまま友人となり、卒業後はそのままウルフェルト家へ使えることになりました。執事として身の回りのお世話をさせていただくのですが、それだけではありません。忠節をもって、ご当主の命をお守りすること、それゆえに、筆頭執事になった者には特別にシェパードの苗字が与えられます。これを与えられるということは、タダの執事では済まされませぬ。護衛だけでなく主君の相談役も兼ねまする故、それなりの見識が必要になります。
 正直、この話を最初に聞かされた時には、私は戸惑いました。ようやく学校を卒業し、これから軍人として出世していこうという、野心爛々と燃え盛る時です。このときは、まだ自分は軍人になるつもりでおりました。それが、大領家付きとは言え、ただの執事になってしまうのですから。
 ヴァイデン様も反対されておりました。
「何も優秀なお前が執事になる必要はないじゃないか。そういうのは、もっと他の軟弱な奴にやらせれば十分だ」
 しかし、私には断れませんでした。ヴァイデン様の父上のコンラッド様が、死の間際のベッドの上からそう懇願されて、一体誰が断れるというのでしょうか。コンラッド様は、ベッドの上から仰られました。
「我々ウルフェルト家の者には、狼の血が流れている……止めようのない、呪いのような血脈。もしものときは、お前が常にそばにいて、ヴァイデンを守ってやって欲しい……」
 そこにいたのは、ウルフェルト家の棟梁ではありませんでした。ただの、朽ちてベッドに横たわる老人でしかありませんでした。かつては精悍な軍人として鍛えあげられた体も、そのときには枯れ木のようでございました。
「頼む……」
 老人が咄嗟に差し出した手を、私は無意識のうちに握り返しておりました。しかし、心中で不安も大きくなってきました。あんな野心家で自信家の人間を、いかに親しい友人だからといえ、もしもの時に諫めることができるのだろうか……そう考え、ついつい余計なことを言ってしまいました。
「でも、他に優秀な家臣がいるではありませんか。何も私のような若輩にそのようなことを頼まなくとも……」
「いいや、奴らは骨狼だ。本物以上のな。だが、お前は違う。お前は狼ではない……」
 確かに、家臣団の中には不満を持つ者もおりましょうが、それでもここまで心配するのはいささか神経質かと思いました。もう、この頃辺りからは、すでに昔のように領主同士が武力で争うような時代ではなくなりつつありました。中央集権的な国家に、集約されつつある中、反乱など起こっても、たかが知れているでしょう。
 私にそのときできたことは、さらに強く老人の手を握りしめ、首を縦に振ることだけでした。それだけで、十分に伝わりました。私も、ここまで頼まれたなら、引き受けるつもりになっておりました。こうまで頼む以上、もしかしたら何かあるのかもしれない。私は狼の巣で、生き延びてやる、ヴァイデン様と共に……しかし、それも今振り返ると、かなわない夢でしたな……
「頼んだぞ……」
老人はそれだけ言うと、ゆっくりと安らかな眠りにつきました。


 コンラッド卿は、その後まもなくご逝去されました。結局、私はそれからずっとこの屋敷で務めております。ちょうどその頃、甲皇国が力をつけており、次々と諸国を飲みこんでいっておりました。コンラッド卿は、先を見る目がおありでした。甲国に早くから友好を結んでおり、甲国の大家、丙家との婚姻の約束も取り付けておりました。これにて、両国の結びつきは強固になるはずでした。
しかしヴァイデン卿は、親の決めた結婚などに唯々諾々と従うつもりはありませんでした。なにせ、この時のヴァイデン卿はとてつもない野心と自信の塊のようなお方でしたから。しかし、若い時分は、その野心は若い溌剌とした熱気とでもいいましょうか、そういういい方向へ向かっておりました。
ヴァイデン卿は、詰問にやってきた丙家棟梁のホロヴィズ卿に、釈明をしました。ああ、少なくともこの頃から、ホロヴィズ卿はあの仮面をつけておりましたな。まだそれほど年老いてはいませんでしたが、それでも初老くらいでしょう。さらに、監督として乙家のジーン女伯もともに来られました。
「両人とも、ご足労であった。武骨な屋敷ではあるが、くつろがれるとよい」
ヴァイデン卿は、甲国のトップを前にしても、全く動じる風を見せませんでした。それもそのはず、この方こそ、数百年に渡って荒野に君臨してきた名家の、もっとも新しい君主なのですから。いくら乙だの丙だの言ったところで、所詮は家来に過ぎないではありませんか。
 剣呑な雰囲気の中、私も堂々と紅茶をお出ししました。ジーン伯は紅茶が好物なようで、すぐに飲み干されました。
「これ、銘柄は何なのかしら?」
 私はすぐに答えました。「アルフヘイムから直接取り寄せたものでございます。田舎ゆえ、なかなかに手に入りません。ご賞味いただけましたか?」
「ええ、とても。初めて飲む銘柄だったけど、気に入ったわ。今度私も頼んでみようかしら」
 ジーン伯の笑みは、遠出に来た乙女のようでした。友人の家に招待されてでもいるかのようでした。それとは対照的なのがホロヴィズ卿でございましたな。紅茶などそこにあらじ、といった風でございました。
「どうされたのか、ホロヴィズ卿。喉が渇いていると思ったので出したのだが……紅茶では口に合わぬかな?」
「お前たちの始祖イェーガーは毒を以て成り上がった」
 ヴァイデン卿と、私の目が合いました。どちらも笑いをこらえていると、分かりました。
「まさか、我らもその真似をするとでも?」
「一度約束を破ったのだ、ありえぬことではない」
「戦争狂だとお聞きしましたが、ジーン伯より度胸がないと見えるな。そもそも、我々にその気があるなら、わざわざ毒など盛る必要もあるまい。そのまま剥製にして送り返すまでだ。あなたも、博物館に亜人の隣に飾られるのは嫌でしょう?」
 ホロヴィズ卿は亜人嫌いで有名ですからな。
 一方ジーン女伯は、無言でひたすら紅茶を飲み干しておりました。
「ずい分な自信のようだが、我々が来たのは、その甘い泥みたいなのを飲んで親善を深めるためではない。こたびの一方的な婚約破棄の件についてだ。言い訳くらいは用意してあるのだろうな?」
「私は婚約破棄など一回も申しておりませぬ。ただ、今回の婚約の内容に不満があるということ」
「どういうことかな?」
「あの婚約は私が幼少の頃、父コンラッドがあなた方丙家と結んだもの。しかし、私は今やウルフェルト家の領主なのだから、それ相応の身分と格式でなければ釣り合いませぬ……我々は、数百年に渡ってこの土地の支配者だったのだ。それ相応の身分の婚約者でなければ困りますな」
「ヴァイデン卿……今日、我々が来た。丙家と乙家のトップが。もはや、小手先の取引をしている場合ではないことは分かっておるな? これは、両家だけの話では済まない。骨大陸の、人類国家圏の行く末も決めることになりかねないのだぞ」
「重々承知ですよ。だからこそ、甲家との婚姻を求めたい」
ホロヴィズ卿は黙ってしまわれました。まあ、素顔をどれだけ隠したところで、そこに泥を塗ることは出来るのですよ。
 どちらも押し黙ってしまいましたが、ジーン女伯が口を開きました。
「まあ、いいじゃない。甲家と結びつけば、より強固な同盟関係となるでしょうし」
「本気で言っているのか? このような狂犬と甲家は釣り合わぬ」
「ホロヴィズ卿……」
 ヴァイデン様がそこでハッキリと仰られました。
「気高き狼と甲国の犬とは、もっと釣り合わぬ。この条件、甲国へ戻ってよく考えられるとよい」
「覚えておこう。お前が狂犬か狼か……そのうちすぐに分かるだろう」
ホロヴィズ卿はそのまま退出なされました。
その後、ジーン伯はヴァイデン卿と他愛無い世間話をしてから、同じく退出されました。
しばらく、陽の差し込む部屋は沈黙に包まれておりました。
「うまくいきますでしょうか?」私はききました。
「大丈夫だ、きっとうまくいく。奴らはこの条件を飲むしかないのだからな。毒入りだと分かっていても」


 ヴァイデン様の思惑は次の通りでした。
 当時の骨大陸は大まかに5つの領邦に分かれておりました。まずは中央部の甲国。そして北部の我がウルフェルト。東部沿岸工業地帯を有するゼット領。西部のゴルゴダ山脈沿いの資源国家、カルヴァリー領、そして南部の穀倉地帯を有する南部諸侯連合。
 甲国は骨大陸を統一するつもりですが、一度にすべてを敵に回しては、四囲が全て敵になってしまい、さすがの甲国も手も足も出ませぬ。
 そこでどこかと結び、安全を確保してから、残りを落としていく、というのが甲国の思い描く戦略でありましょうか。
 それに対抗する四カ国は、甲国が手を付けられぬほど大きくなってしまう前に、四方から叩き潰す、ということでございますな。
 甲国の切り崩し外交は、まずゼット伯領に及びました。ゼット伯の息子は二人いましたが、兄の方が生まれつき心臓に障害があり、身長は常人の半分しかありません。そして医者に見せたところ、成人するまで生き延びられれば幸運な方だという見立てでございました。当然、成人するまで生き延びられるかどうかも分からない人間よりか、健康な弟君に跡を継いでもらうことになり、兄君は追放され、結果として甲国に拾われることになりました。
 ところが、それが兄君の運命の変わり目でした。甲国では義肢だけでなく、内臓の機械化技術も開発していたのでありますが、それによって心臓の機械化に成功いたしました。
 そして甲国の後押しもあって、正式にゼット伯として認められるようになったのでございます。
 驚いたのは弟君でございますな。まあ、あとはお決まりのパターンで、後継者争いでございます。正当な血筋に、勢い盛んな甲国の支援もあるのですから、東部海岸の諸侯のうちおおよそ北半分はこの兄君を、南半分は弟君を頂いて、互いに争うようになりました。
 甲国としましては、東部沿岸の工業地帯を戦わずして半分手に入れたようなものですから。とてもお得な買い物でした。
 あとは西部のゴルゴダ山脈沿いを支配する、カルヴァリー領ですな。ここはミスリルに鉄、燃料のドラグノイドなど、様々な資源を豊富に産出する、資源国家です。カルヴァリー家の人間は、それは様々な異名で呼ばれるくらいの金持ちでありますが、庶民は一番正直に言いますね。「ミスリルのクソを出せる唯一の人間(おそらく、この“人間”は亜人も含むものと思われる)」だと。
 さらに南部の穀倉地帯。南部の工業化は遅れております。しかし東部の工業力、西部の資源を合わせると、侮りがたい勢力になります。特に南部諸侯連合は世界一の農業国・亜国ともパイプがあるので、食糧問題は常に甲国のアキレス腱でございました。
 そんな中、北部のウルフェルト地方は甲国を選びました。といっても、コンラッド卿はいざという時のために、丙家とのつながりにとどめておく意志だったようです。もし情勢が連合有利の場合に、裏切ることも視野に入れたのでしょう。
 ですが、ヴァイデン様は違った考えをお持ちでした。当時の軍事・科学と言えば、やはり甲国が一番でしたでしょう。私もヴァイデン様も、二人とも、卒業後に甲国へ一時的に留学したのです。
甲国は、科学技術も戦争の技術も、全てにおいて他国に抜きんでておりました。次々と生まれていく新技術と、発展していく街並み……そう、ヴァイデン卿は、もはや甲国に勝つことは出来ないことを、薄々悟っていたのかもしれませぬ。それなら、早い時期に甲国について、周囲の領土を奪った方が得策だと考えたのでしょう。
ヴァイデン様が、甲家の姫君であるメルセデス様とご結婚されたのは、そういう情勢の中でございました……


それから、年月は過ぎ去っていきました。ヴァイデン様はすでに甲国の同盟軍として、様々な場所で戦争に参加され、めざましい活躍をされました。家庭内も順調で、メルセデス様とは非常に仲睦まじく、待望の長男ザクソン様もお生まれになり、それに伴ってウルフェルト地方も徐々にではありますが、着実に発展していったのです。
この頃は、甲国はすでに東部海岸地域を全て掌握、あの兄君が正式にゼット伯を名乗ることになりました。伯と名乗ることで、正式に甲国の中に組み入れられたのでありますな。このゼット伯は、かなりの変わり者でして。ご自身も相当な冒険家で、特に空への関心がありました。本来なら死んでいた命ゆえ、無謀なことに挑戦なされたのかもしれませぬ。その好奇心を満たすために、新しいエンジンの開発に取り組んだのでございます。それも普通は出資者として取り組むのが普通だと思われますが、ゼット伯は、自らが研究者も兼ねていたのでございます。それも、ゼット伯の考えなされた魔科学理論、これを実際に応用して、空中戦艦の製造に励んだのであります。
そのときの周りの人間は、みんな内心ではバカにしておりました。「またゼット伯の空中サーカスが始まったぞ……あんなことに金を使うなんてもったいない……」。庶民も金持ちもです。
実際、ゼット伯は税収のかなりの部分を空中戦艦の製造に費やしていましたが、なかなか成果はあげられませんでした。鉄の塊を浮かべるなど、そうそう容易いことではありませんからな。
さて、そんな中に、やっと残った敵のうち、カルヴァリー家が当面の目標となりました。
技術力と工業力を手に入れた今、欲しいのは資源です。
ですが、それほど簡単にはいきませんでした。今までに何度も攻め立てたのですが、全ては険阻な地形と、そこで活動する頑強なゲリラ兵、そして山脈を越えた背後からの亜人の支援によって、全て跳ね返されてきましたから……
そこで、我らウルフェルト家に、その背後の亜人国家を叩くよう、甲国からの要請があったのでございます。
出征の日、ヴァイデン様は機嫌が悪かった。今までにないくらいでございました。
メルセデス様は次男のブランデン様(ただし、このときはまだ男か女かすら分かっておりませんでしたが)をご懐妊しており、家庭も領内の統治も、うまくいっているところでしたのに。
私はそのとき、出征中に生まれるから、出産に立ち会えないからだと思っておりましたが、ヴァイデン様はもっと悪い予感がしていたのであります。
もちろん私は、心配のしすぎでしょう、となだめました。
「俺は、今までたくさんの諸侯を没落させてきた。たくさんの都市を攻め落とすこともしてきた。たくさんの人の死も見てきた……」
 ヴァイデン様は、窓の向こうにある、もやのかかった太陽を眺めながら言いました。私は驚きました。ヴァイデン様がそのようなことを気にするようになったことに。
「きっと、ご家族を持って、守るべきものを持って、考えが変わったのでしょう」
 私は無難にそう答えました。「息子のザクソン様は聡明な子です。きっとよいお兄さんになるでしょう。メルセデス様の体調も良好ですし、何も心配することはありませんよ」
「俺は……今までの終わっていったものたちの夢を見るんだ……」
 なぜ、今日だけはそんなに弱気なのか? 私は思わずそう問いかけてしまうところでした。しかし人間たるもの、いかに強く振る舞ったところで、完璧な存在ではありませぬ。気の弱くなるときもありましょう。しかし、何もこんなときでなくてもいいではありませんか……もちろん、そんな気持ちは口にも態度にも出しません。私の役割は、ただ、主人に付き添うことですから。
「俺もいつか、あんな風に終わってしまうような気がしてくる……」
「終わりませぬ、この私が、命にかけて守ります。生きている限り、終わることなどありませぬ。いくらでもやり直せます」
 自分でも、気休めを言っていることは分かっておりました。ヴァイデン様も分かっていたでしょう。気休め以外に私が言えることなど、ありはしないと。
 いつでも指導者というのは、誰にも負えない重責を、ひとりで負うのですから。いくら私が身代わりになろうとしても、その重責までは肩代わりできませぬ。
 今までの因果が、ついにヴァイデン様の身にも差し迫って参りました。
 私はつくづく思うのです、骨(ダヴ)の神は残酷だと。せっかくの肉も、骨しか残しておいてくれませぬ……


 この骨の大陸に亜人国家があったことについて、少し驚かれているかもしれませぬな。まあ、世の中の法則には、何事も例外があるものですよ。
 この亜人国家はサトゥルニアと言い、人と山羊の亜人であるサトゥロス族が住んでおりました。この国家の歴史はおそらく骨大陸の人間国家より古く、人間とほぼ同時に、この大陸に入植してきたようなのです。
 詳しいことは歴史家に任せますが、このサトゥロス族は高地での生活に非常に長けておりました。そこで、ゴルゴダ山脈の西側に住み着き、そこで半ば自治権を獲得したというような感じでございます。特にめぼしい特産品も資源もないため、歴史の表舞台に出てくることはありませんでした。山脈の向こう側で、静かに暮らしていたのでございます。
 我々が攻め寄せるまでは。
 とは言えサトゥルニアも、今回の統一戦争において、全くの無関係ではありませんでした。
 先のカルヴァリー領でのゲリラ兵、このゲリラ兵にはサトゥロス族もかなりの数が参加しておりました。彼らは山の地形にも熟知しています。間道などを通して、西側からカルヴァリー領へ、補給物資が流れ込んでいたようでございますな。
 我々はそれを止めるべく、そしてサトゥルニアを支配して軍事基地を置くべく、この骨大陸の尾根へとやって来たのでございます。
 しかし、行きの時点ですでに行軍は困難を極めました。険阻な地形に、厳しい気候……もちろん、比較的穏やかな時期を見計らって出発したのでございますが、高山の気候は予想以上に気まぐれでした。
 それでも、途中までは車両が使えたので、それで一気に村や砦を落としながら行軍を進めることも出来たのでございます。しかし、やがて車両などとても通れないような、細い道だけになりました。
 こうなると、昔ながらの移動手段、馬と徒歩ですな。プレーリードラゴンは、山の厳しい寒さに全く持ちこたえられませんでした。
それと、途中の村々から取り上げた家畜用の牛などに荷物を引かせたりしました。
 もちろん、それ用に小型の砲などを用意して、周到な準備を進めていたのでございます。ヴァイデン様も、一般兵卒と同じものを口にし、前線に立って指揮なされました。それほど早くこの征服を終わらせて、メルセデス様のところへ帰りたかったのでしょう。
 しかし、サトゥルニアも広い高原地帯でございます。住民も戦う意志を見せていたので、そう簡単に終わるわけもありませんでした。
甲国の亜人差別も裏目に出ましたな。亜人なら、誰も亜人差別の国に降ろうなどと思いますまい。
亜人の抵抗は必死に続きました。車両も乗り捨て、遅々として進まぬ行軍の中、それでも一年が過ぎ去りました。もう、メルセデス様もとっくに出産されていることでしょう。一刻も早く帰って、子供の顔を目に焼き付けなければならない……ヴァイデン様はおそらくそう思われていたに違いありません。当然、それを行軍中に表に出すようなことはしませんが、それでも長年仕えておりますと、それくらいは分かります。
そんな中、ある一通の手紙が参りました。それはウルフェルト領からの手紙で、次男が無事に生まれたことを伝えるためのものでした。そして、メルセデス様が逝去されたことも……


メルセデス様は花が好きな方でした。荒野にでも咲く花があり、季節と場所によっては色彩のオアシスが見られました。身重な間は、屋敷で安静にしておりましたが、それでもたまには気晴らしに出かけることもあるでしょう。召使いなどは、外に出ることに反対しておりました。もし外出中に産気づいたらどうするのかと。しかし、メルセデス様はどうしても、と言って押し通しました。長い間屋敷にいては気分も滅入っていくのは、召使いたちにもよく理解できました。そこで、比較的近くなら、というわけで、例のFスポット(フラワースポット)へ出かけたわけです。
本来なら、そんな人里に近い場所に骨狼などいないハズなのですが……不幸というのは分かりませんな。もしかしたら、その骨狼も花を眺めに来たのでしょうか。あの狡猾と暴力そのものが呼吸しているかのような畜生どもに、そんな風流があるとは思えませぬが……
とにかく、メルセデス様は運悪く、骨狼と遭遇してしまったのです。おそらく、すぐに逃げようとしたでしょう。しかし、身重ではそれほど早く動けませぬ。
もちろん、護衛の者もいましたが、彼が気づいたときには、もう骨狼の毒はメルセデス様を蝕んでおりました。
護衛が銃声で威嚇すると、骨狼は一目散に逃げ去ったといいます。ひょっとしたら、骨狼も殺すつもりはなかったのかもしれませぬ。ただの戯れだったのかも。
ですが、どちらにせよ、そのひと噛みがメルセデス様の命取りとなりました。
まずいことに、毒のショックからか、産気づいてしまったのです。
ただでさえ出産というのは、命がけの難事業でございます。それを、骨狼の麻痺毒に耐えながら、メルセデス様は何とかお子様を守ろうとしたのでございます。もしちょっとでもその後の対応が遅れていたのなら、お腹のお子様にも毒が完全に回っていたでしょう。そうなれば、命はなかったと思われます。しかし、屋敷へと迅速に運び込めたこと、さらに産婆たちの適切な処置、つまり帝王切開により、お子様の命だけはとりとめました。しかし、メルセデス様は……そのまま逝去なされました。あまりに早い死でした。メルセデス様は、家族のいない私にとって、まるで姉のような存在でした。ヴァイデン様を無謀や無茶から抑えられたのも、聡明なメルセデス様のご助力あればこそです。しかし、彼女はもう、死んでしまったのです……


その手紙を読んだヴァイデン様は、ただ一言、「しばらく一人にしてくれ」とだけ仰いました。むろん、私はすぐにその通りにしました。
きっと、ヴァイデン様はそれからずっと一人だったのではありますまいか……
その後のヴァイデン様を、私は止めることはできませんでした。所詮、私はシェパード、つまり犬に過ぎないということでしょうかな……


それからは強行軍に次ぐ強行軍で、グングンとサトゥロス族の砦を落としていきました。季節はまた巡り、すでに初冬に差しかかっておりました。それでなくとも、すでに雪が積もるほどの寒さだというのに……
しかし、その行軍はサトゥロス族にとどめを刺す直前に止まらざるを得ませんでした。兵卒の疲れももちろんですが、山頂の聖地へと続く唯一の関所を、やつらは完全に閉ざしたからです。
仮設の陣幕の中では、諸将が激しい議論を戦わせておりました。
 ここで一気に聖地攻めを敢行し、情勢を決定づけようとする急襲派。まだ非常に若いライバックが、この急襲派の先方でした。
「すでにこの遠征は長引き過ぎている。すぐにでも終わらせるべきだ!」
 この時はまだ二十歳にもなってないというのに、その声にはすでにベテランの狼すら後ずさりするほどの気迫が込められておりました。
「このまま手をこまねいていては、我らの戦力は弱まる一方……それに対して、やつらは聖地を保持しており、それほど士気の衰えさえも見えない。ヴァイデン卿、私は即時聖地侵攻を進言いたします!」
 対する持久戦派は、一時撤退を主張しました。理由は外を見れば明白ですな。猛吹雪、一面の銀世界、その真っただ中で損耗していく我が軍勢……一方、敵方は準備万端の聖地の中にこもっており、それほど戦闘能力も落ちていない。防衛戦で、士気も旺盛。誰がどうみてもすぐに決着のつけられる状態ではないように思えました。
「手は考えてある……ひどく不愉快だが、それでも勝利のために必要だと思われる……」
 ライバックが提案したのは、聖地へとつながる唯一の道である、大きな関所の突破方法でした。ここが突破出来ずに足止めを喰らっているのですが、あれはもはや“関所”などという生易しいものではござりませぬ。まさに断崖絶壁そのもの……工作兵がダイナマイトで爆破しようと試みましたが、分厚い氷と岩に阻まれ、大した傷すらつけることが出来ませんでした。
「捕虜を連れてくる……それを殺して死体を積み上げるのだ……」
 一瞬、陣幕の中は完全な静寂に包まれました。いや、外の風の音だけが、何か不吉な笑い声のように陣幕の中を吹き抜けてはいましたが……
 やがて、陣幕の中は、ライバックを支持する急襲派と、一時撤退を進言する持久戦派の間で、喧々諤々の議論となりました。
 持久戦派は、捕虜の虐殺など到底認められないことだ、と主張しました。さらにウルフェルト領はその来歴からも、骨大陸の中で比較的亜人に対して寛容でありました。特にヴァイデン様は英明であられ、果敢な戦闘を行うだけでなく、寛容さも併せ持っておりました。
 勇敢さだけでなく、寛容さも敵を屈服させる武器になりえます。しかし、ここで捕虜を虐殺したとあっては、その“武器”も一つ失うことになってしまう……そうなれば、例え勝てたとしても、その後の占領統治に支障をきたすのではないか……
 議論は、持久戦派有利に傾きました。自説をさらにアピールするために、ライバックが口を開きました。
「おやおや、誇り高い狼ともあろうお方たちが、この程度のことを躊躇するとは。羊どもに尻を向けて、狼の誇りが保たれるのか? 今一度よく考えてもらいたい」
「真の狼というのは、獲物を倒すためなら、獲物に尻を向けることもある……お前のような“猪”には、よく分からんことかもしれんがな」
 持久戦派を支持する、“猟犬”ハウンドが冷然と言い返しました。
「特に知恵のある骨狼は、獲物に毒を注入しさえすれば、いったん逃げて獲物が衰弱するのを待つことがある」
「ほう、これは勉強になる。授業料はいくらかな?」
「私は“寛容”だからそんなものはいらないさ。ただし、授業の内容を忘れたら……その時、アンタは非常に高い授業料を払うことになるだろうな」
「あなたには分かってないらしいな、“毒”を注入されて弱っているのはこちらのほうだということを。早く引退して猟師にでも戻ってはどうかな?」
 ライバックは余裕そうに言い返しましたが、内心怒りと焦りに満ちていることは、私には分かりました。ライバックは野心の塊で、少しでも出世するために躊躇なく突っ込んでいく、そんな武人ですから。このときも、聖地攻めを敢行して、自らの手柄としたかったのではないのでしょうか。
「君こそ、もっと狩りから学んだ方がいい。今度、この戦争が終わったらいい狩場へ案内してあげよう」
「お前たちの作戦では、狩場へ行ける日が来る前に俺の寿命が終わってしまうわ!」
 バン! ライバックがついに我慢できなくなって、机を叩きました。
「ヴァイデン卿、こいつらと話し合ってもらちが明きません! ご決断を!」
 私も含めたライバック以外の全員が、恐らくヴァイデン様は持久戦を支持するだろうと考えておりました。ハウンドは、ライバックとは明らかに年季が違う。功名にはやるだけのライバックでは、仮に急襲案が採用されたとしても、成し遂げることは難しいだろう……
 ヴァイデン卿が手をあげて諸将を制しました。
 「諸君らの考えていることは、よく分かった」
 私は、何やら嫌な予感がしてまいりました。長くお側に使えていると、微妙な変化でその人の気持ちを察することが出来るようになるものです。
「どうやら持久戦派が大勢を占めているようだが、俺はそれが最善だとは思わない」
 ライバックが飛び上がらんばかりに喜ぶのが、眼に見えました。
「兵は神速を尊ぶと、昔から言われている。ましてや、今ここで引き下がれば、やつらは息を吹き返し、我々は後々さらなる代償を払うことになるだろう。ライバック、もう一度だけ尋ねる。今回の作戦、本当にできるな?」
「お任せください」
 ライバックが、意気揚々と立ち上がって言いました。
「この寒さなら、死体もすぐに凍りつきます。隙間に雪を詰めて積み上げれば、何とか上まで届くはずです……いったん上まで届いてしまえば、あとはロープをかけて、下ろして引き上げていけばいいのです……」
「言っておくが、もし失敗すれば、その未完成の氷のピラミッドに、お前も入ることになるぞ?」
「承知しております。必ずや、この作戦を成功させて見せます、我が骨と血に誓って……」
 しばらくの間、ヴァイデン様はライバックの誓いを噛みしめるように沈黙した後、言いました。
「よし、それでは、お前のやりたいようにやるがいい。ライバックに、今の作戦に必要な権限を臨時に与える。諸君らは協力を惜しまぬように。それでは、諸君らの健闘と――
 次の句は全員が斉唱しました。
「「軍神にして偉大なる主神、アレスのご加護を……」」
「軍議は閉幕。各自すぐに作戦に移れ」
 諸将はそそくさと立ち去っていきました。私は、しばらくの間、呆然としておりました。ヴァイデン様が、輝かしい王道にこのような汚物の山を付け加える行為を自らお許しになったことが、あの時の私には到底信じられずにいたのです……


 私はその日の晩、ヴァイデン様に必ず聖地は残すように進言しました。そして、できればあの忌まわしい作戦を中止していただくようにとも。
 この時なら、まだ下から捕虜を連れてきている段階でしたし、ギリギリ間に合ったでしょう。
 いつもなら、一考していただくのですが、この時は違いました。「さっき決まったことだ」、とそっけない返事でした。
「ヴァイデン様、お気持ちは察して余りありますが……」
「家族のいないお前に、俺の気持ちなど分かるわけがないだろう」
 シェパードを襲名する人間は、当主を守る盾となるため、婚姻は禁止、つまり自らの家族を持つことを禁止されております。当主以外の守るべきものを持ってはならない――それは代々、というと少しおかしいような気がします。見もしない他人なわけですから。しかし、その代々の魂は、ずっとシェパードという名前と共に受け継がれているのでございました。
 そして、この時だけは……私は何も言い返せませんでした。メルセデス様は私にとって家族のようなものだった……ただ、それは本当の家族なのだろうか。私にはそれは分かりません。ですから、私は何も言えませんでした。
「下がれ。一人にしてくれ」
 陣幕の外に吹き荒れる寒風の音が虚しく響く中、私はそこを立ち去りました。


翌日から、ヴァイデン様はライバックの元を訪れ、作戦がうまくいっているかどうか監督なさいました。あれは、まさしく屠殺場でした……
 最初は、捕虜たちも何でこんなところに連れてこられたのか、分からない様子でしたが、最初の軽機関銃が轟音を響かせると、すぐに自らの運命を悟りました。
 何人かは甲国人を、人類を罵りました。しかしほとんどのサトゥルス族の捕虜は、慈悲を乞いました。曰く「俺を生かしておいたら、身代金をタップリ払ってくれるぞ」とか、曰く「奴隷でも何でもするから、命だけは助けてくれ!」とか……あとは私の聞いたことのない神の名を口にするものもいました。
 彼らに命乞いは必死だった……機関銃で血反吐をぶちまけて、湯気を立てて倒れる同胞の姿が目の前にあれば、誰でもそうなるでしょう。
「骨の人よ……!」
 サトゥロスの捕虜の一人が、そう叫びました。それは命乞いと罵りの波の中、突如として隆起した岩のように明瞭でした。一瞬にして、波は止みました。
「どうしてこのようなことをする? 我らに何か特別な恨みでもあるのか? これはもはや戦争ですらない!」
 そこでライバックは、ただ黙って天空を指さしました。空は昨日の吹雪が嘘のように、青く澄み渡っておりました。
「どういう意味だ?」
「……天へ近づくためだ」
「あははははは!」サトゥロス族の捕虜は高笑いしました。
「俺たちの死体をどれだけ積み上げたところで、人間が生身のままで神にはなれるわけがない! お前たちはいずれ死体のピラミッドから転落する! よくある神話のようにな。そしてそのピラミッドを最下層で永遠に支え続けるのが、お前らのいつか来る未来の役割だ! 俺たちはまだ、この傲慢な骨の人よりは幸運だ。こうやってお前らに殺され、天国へ送られるのだから!」
 ライバックは苦笑しながら答えました。
「ついでに、その天国にお前らの大事な神々とやらも送り込んでやるよ。なるべく、速やかにな。そこの小汚い聖地とやらも、すぐにクソ山に埋もれた便器になるだろうよ」
「聖地は我らの心の中にすでにある! お前らの心など、汚くなりようもない、ただの虚無だ! 骨だ!」
 そこでライバックはもう話あっても無駄だと思ったのか、部下に命じさせて、その捕虜だけを引っ張って来させました。
ライバックは身長が2メートル近くある巨漢で、亜人より強いとすら言われている男です。そんな男が、サトゥロス族の角を掴んで固定したあげく、思いっきり殴りつけたのです。二、三発殴りつけると、岩は砕け散りました。ライバックが角を掴んだ手を放すと、そのサトゥロス族の捕虜は、雪の上に力なく沈んでいきました。
「次のやつらを並ばせろ!」
 ライバックが怒号を飛ばすと、哀れな捕虜たちが軽機関銃の前に引きずられてまいりました。機関銃手が、次弾装填の準備をしておりますと、どこからともなく声が聞こえてきました。最初は小さかったのですが、やがて大きくなってまいりました。さっき、ライバックに殴り倒された捕虜が、意識を取り戻していたのです。
 声はますます大きくなっていきましたが、何を言っているのか、中身は具体的には分かりませんでした。しかし、声の調子からそれが一種のお経であることは何となく分かります。
 やがて、そのお経に他の捕虜たちも唱和し始めました。読経はだんだんと大きくなっていき、山々を木魂しました。
 ライバックは銃を取り出し、さっきの捕虜の頭に突き付けました。
「何やってんだ、ぶち殺すぞ」
「あははっはは!」あの捕虜は、またしても高笑いしました。
「これから殺そうとするものに、“殺す”と脅して何の効果があるのかね? 君もおかしなことをいうねえ」
 ライバックの兵士たちも、だんだん不安な表情になっていきました。ライバックはその様子にイライラして言いました。
「いいからとっとと撃て!」
 ライバックが引き金を引くのと、軽機関銃が火を噴くのが、同時でした。
 それっきり、お経は止みました。そして他の捕虜たちは、救われたような表情で、従容として死についたことを、私は強調して言っておきたいのです。
 甲国では亜人というのは純粋人間より下に見られているようですが、私には彼らの中にこそ、真の人間らしさがあったと、そう思います。彼らに、せめてもの同情くらいはあってもいいと信じております。
 どれだけの血をぶちまけたところで、人間は神にもなれないし、ましてや青い空を赤く染めることすら、できはしないのです……


 翌朝になると、早速ヴァイデン様は軍事行動を開始しました。
 関所の前に立ち上るピラミッドを見上げて、ヴァイデン様はライバックに声をかけました。
「たった一晩で仕上げるとは、やるようになったな。初めて会った時は、銃の使い方も満足に知らなかった子供だったのに」
「私も、あれからずい分しごかれましたから」
ライバックの目の下には、クマができておりました。徹夜でこの忌まわしいピラミッドを仕上げたからでしょう。ピラミッドは、関所に寄りかかるようにしてそびえたっておりました。
 幸い、ピラミッドにはすでに雪が積もっていたので、その下にあるものまでは見えませんでした。この下に哀れな亜人たちが眠っているのか信じられないくらいです。一歩一歩、そのピラミッドを踏みしめて登っていきました。
 そうやって、何とか凍りついた関所を抜けることができたのであります。

 
それはもう、徹底的な破壊っぷりでございました。
 最初に持てるだけのロケット砲を撃ちこんで無理矢理突破口を開いた後、兵士が雪崩れ込みました。外にはひらひらと、灰のような雪片が舞っていたのを思い出します……じきに、本当の灰がゴルゴダ山脈に降り注ぎました。サトゥロス族の一千年の歴史における重要な文化物、それが全て破壊され、最後に炎に包まれた時です。恐らく、ヴァイデン様は兵士にここまでついてきた褒美として、最後に略奪を許したようでございます。
 雪と灰が混じりあい、全てを白く染めていきました。ウルフェルトにも雪は降りますが、それは今までに見てきたどんな雪よりも、冷たく儚く感じられました……


 それから、しばらくは占領統治に入りました。ヴァイデン様は一刻も早く戻りたかったのでしょうが、しばらくは我慢して耐えておられました。というのも、甲国からの伝書があり、占領したばかりのこの地に、なんとクノッヘン皇帝自身が来られるということでした。
 しかし甲国からはずいぶんと離れているし、どうやってくるのか? ウルフェルト領を迂回してくるにしても、伝書の日時には到底間に合いそうにありません。
 もちろん、皇帝来訪までの短い期間に、できる限りの治安維持を心がけねばなりません。やるべきことは無数にありました。特に、治安維持はかなりの難題になっておりました。聖地をすべて灰にしたことが、ここにきて痛手となりました。サトゥロス族も、黙ってはおりませんでした。またしてもゲリラ運動が活発化しており、できるだけ早期に取り締まる必要があります。しかし、このような応酬を繰り返すうちに泥沼化するという危険性がありました。一刻も早く本国に帰りたい――何もヴァイデン様だけではありません。一般兵も、私もそうでした。まだ荒野の気候の方がマシだと思える日が来るとは、思いもよりませんでした。
 しかし、その思惑とは別に、いくら取り締まってもキリがありません。何せ向こうは高地の環境に適応した亜人なのです。さらに地元なので、地形にも詳しい。山の複雑な地形が味方して、まるで見えない敵と戦っているようでした。
 そうこうしているうちにも、約束の期日は迫って参りました。とりあえず、指定された場所を確保し、その日だけは厳重な体制で出迎えに望むことになりました。
 そしてその会場に至る主要幹線道路にも、警備が置かれることになりました。
 そのうち、それはやって来ました。
 突然、広場が影に覆われました。空中戦艦ですよ。この時はまだ、試作品だったようですが。ゼット伯の空中サーカスも、無駄ではなかったようですな。
 轟音を響かせながら、空中戦艦は淑女のように地面に降り立ちました。ハッチが開くと、そこから親衛隊、続いてホロヴィズ、ゼット伯、そして最後に儀仗兵が紅の絨毯を敷いてから、クノッヘンが大儀そうに降りて参りました。
 ゼット伯が、ピョンピョンと嬉しそうに飛び回っておりました。彼にとって、今日は今まで学んできた魔科学の集大成でもあり、勉学が報われた瞬間でもあります。
 しかし、クノッヘン皇帝の周りを飛び交う彼は、遠目で見るとまるでサーカスの猿のように見えましたな。それだけはしゃいでいたのも仕方ないことでしょう。
 この演出は我々を驚かせましたが、それ以上にゲリラの方にも影響を与えました。というのも、サトゥロスの宗教では、神は“天空の船”に乗ってやってくるからです。
 彼等にとっての本当の“神”が舞い降りたのですから、それからは抵抗運動もすっかり止んで、それどころか中には甲国を神国と信じて、甲国の亜人軍団である“黒羊軍団”に入隊する者も、少なくなかったとか。
 まあ、それは後の話ですな。その時は、我々はただあっけに取られて、空中戦艦を眺めておりました。あれは鉄の船というより、もはや鉄の城といった方がいいでしょう。皇帝を神と崇めることはありませんでしたが、しかし私もこのような鉄の城を上空に浮かべる偉業を成し遂げた魔科学の進歩には、驚くよりほかありません。しかも、それをもたらしたのは、この常人の半分くらいしか身長のないゼット伯なのですから。
 ゼット伯は、我々をすぐに空中戦艦の中へ案内してくれました。
 血管のように張り巡らされた管が、いたるところに張り巡らされておりました。なんでも、これはまだ試作機ということでした。「カルヴァリー領を手に入れたら、本格的にそこの資源を動員して20割増しクールな戦艦にする予定なんだ」とゼット伯は子供のように言っておりました。
「まずは、魔法をもっと大々的に取り入れエンジンの高出力化を図ろうと思うんだよ。というのも、今の魔科学は科学偏重で魔法を軽視している。これじゃあ魔科学とは言えないよね――
 放っておけば、いつまでもゼット伯の魔科学講座は続きそうでした。
 そこで、私がゼット伯のお相手をつかまつりました。その間、皇帝とヴァイデン様がようやく話をすることができたのです。なんでも、皇帝もすでにメルセデス様のご逝去を知っておられるようでした。
「ただただ、ワシも悲しいばかりだ……お前も辛いだろう。早く帰ってちゃんとした葬儀をあげてやれ」
「いえ、それでは、ここの指揮をするものがいなくなります」
 ヴァイデン様は気丈に振る舞われていましたが、明らかに早く帰りたがっているのが分かりました。
「ワシの息子の一人であるエントヴァイエンに任せよう。そなたの部下たちはしばらく我らの指揮下に一時的に入ってもらうことになるが、徐々に本国兵と交代させていくつもりだ」
 その後は領土仕置きなどですな。しかし、このようななんのインフラもない、しかも高原にある開発困難な領土など、戦略的価値意外に値打ちなどありませぬ。とはいえ、ただ引き下がっては、ここまで遠征したのは骨折り損になってしまいます。
 ヴァイデン様は、最後の仕上げとして、皇帝とそこの条件で交渉しました。一見すると互いに気を使っているように見えて、実は駆け引きがなされていました。
 とにかく、そこで決まったことといたしましては、まず今回の戦費の半分をすぐに甲国の国庫から補償してもらうこと。人的損失など考えれば、これでもこちらがかなり譲歩した方でしょう。
 付随して、この面倒な土地の統治も甲国が行うことになりました。さらに、もし有用な資源が出たときは、その開発権を優先的に与えられることも決められました。
 次にSHWとの通商権を独自にもらうこと。甲国は戦時下の統制経済で、貿易も統制がなされておりました。各地方の勝手な取引を許さないことで、甲国が貿易という金の卵を産む鶏を独占していたのですが、それをウルフェルト家にだけは特別に一部とはいえ、認めようということでした。
 そして最後は、カルヴァリー領を手にしたときに、その豊富な資源を優先的に回してもらうことも。ゼット伯には少々耳の痛い話でございましたが、肝心のゼット伯はウンウン頷く私に気を取られて、完全に聞き逃しておりました。
とらぬ狸の何とやらですが、このまま順調にいけば、甲国の大陸統一は確実なものに見えました。もちろん、そのためにウルフェルト家は多大な犠牲を払って貢献してきたのは言うまでもありません。それゆえの、ツケの約束でございました。
 さて、これだけの条件がまとまると、ヴァイデン様も皇帝陛下も、簡単な分かれの挨拶を交わして、会合は終わりとなりました。それぞれに、やるべきことが山積しておりました。皇帝陛下は占領軍の再編成。そしてヴァイデン様は領土への帰還。
 死者にしろ生者にしろ、荒野にはヴァイデン様を待っている人間がたくさんいました。
「え、もう行っちゃうのかい? これから魔科学の本格的な講義に入るところだったのに」
 ゼット伯の名残惜しそうな顔を振り払い、私は足早に立ち去るヴァイデン様を追いかけました。


 ようやく辺境の高地から引き揚げたヴァイデン様ですが、メルセデス様の逝去以上に悲しい出来事が待ち受けておりました。
「俺はこんなことは聞いてなかったぞ」
「生まれた後に判明しまして、お伝えする暇がございませんでした……」
 ヴァイデン様の骨狼も引き下がる程の詰問に対して、世話係の老婆はそれだけ何とか答えました。
「時間がないわけがない。生まれてから何年も経っているんだぞ……」
「いつまでも歩かないので、もしやと思って医者に見せたところ、つい先日、足が不自由であることが判明したのです……ど、どうか……」
 そこで老婆は骨狼の毒でも注入されたかのように、体が硬直してしまいましたが、なんとか
「お許しを……」
 それだけの言葉をひねり出すことに成功しました。
 ヴァイデン様は、ただ歯を食いしばって沈黙しておりましたが、明らかに憤怒が内面からフツフツと湧き上がっているのが、私にはわかりました。
 ですが、いつもは賢明なるヴァイデン様は決して怒りに我を忘れるなどということはなかったのですが、あの遠征から帰って来てからは、完全に人が変わったようでした。
 ですから、突然銃を取り出して乳母の額に狙いを定めたときは私も驚きました。
 私は咄嗟の動きで銃を取り押さえましたが、もしそれがコンマ数秒遅れておれば、弾は狼の剥製の代わりに乳母の頭蓋骨を打ち抜いていたでしょう……
 しばらくは怒り来るヴァイデン様をなんとか抑えながら、乳母に早く人を呼んでくるように私は言いました。
 ヴァイデン様は、しばらく私を罵りましたが、それは突然に咳き込んで中断されました。あまりに激しい咳。そして続く吐血……長年の軍務、そして今回の高山地帯という過酷な環境での遠征……ヴァイデン様の健康が崩れたのは、この時からでございます。


 当然ながら、軍務などはもってのほか。すぐに命に別状ある容体ではなかったのは不幸中の幸いですが、軍人としての命はすでにこの時終わっていたのです。
 ついでに、私の役目も終わりました。代わりに、次男のブランデン様の教育係を命じられました。教育係というと、信用あるように思えますが、これは完全に左遷でした。ヴァイデン様は完全に長男のザクソン様を寵愛されており、足の不自由な次男のブランデン様など、実際はどうでも良かったのではありますまいか。そして、私にもすでに愛想が尽きていたのでしょう。
 しかし、私にとっては少しホッとしました。というのも、私もヴァイデン様についていけなくなりつつありました。それに小さな車いすに座っているブランデン様は、それは可愛らしく、私は自分の子供のように感じたのですよ……
(そこで昔を思い出したのか、ジェイガン氏、涙ぐんで沈黙する。時間もかなり遅くなっていたので、私はいったんここでインタビューを打ち切ることにした。)