腥風南北その1

 ユリウスは焦っていた。従者に蹴りを入れて、皇族専用車両を飛ばせるだけ飛ばした。
 南部とは、一時的な自然休戦中とはいえ、実際の国境沿いでは小競り合いが散発的に続いていた。そのどれもが、ただの点取りゲームのようなものであり、本格的な戦いではなかった。しかし、それはユリウスが来るまでのことだった。
 ユリウスは、野心に燃えていた――というより、むしろ自分の中の破壊衝動を発散させるために、戦場に赴いた節がある。その上、皇位継承者にふさわしい功績をアピールできる戦場は、まさにユリウスにとって格好の狩場だった。
 普通、近代戦の指揮官は前線に出て自分で戦う、ということは稀である。大抵は後方で指揮を執るのが一般的だ。
 しかしユリウスは直接戦うことを好んだ。例の破壊衝動のためであろうか。そのところは本人にもよく分かっていなかった。ただ単に若いからなのか、それとも彼の中の血がそうさせるのか、それとも彼の心がそうさせるのか。おそらく、現実はそれらすべてが入り混じったものだったのだろう。
 皇族であるユリウスは、軍隊内でもそれ相応の階級である。現場の下級兵士、士官たちからすれば鬱陶しい反面、逆に言えば彼らにとっても功績をアピールする機会でもある。
 ユリウスは自分にも部下にも容赦なかったが、それに耐えた者や、気に入った者は、身分や出自に関わらず取り上げて側に使えさせたりした。
 規模は小さいものの、ユリウスはそうやって実際の戦闘経験を積んでいった。
 その中で、負けたり勝ったりを繰り返したが、最後には敵の陣地を見事に落とすことについに成功。意外にも、エントヴァイエンの大敗北以来、初めて戦線を(ほんのわずかだが)押し出す形となった――はずなのに、落とした陣地を部下に任せて、ユリウスは甲国首都ユグドラシルへとひた走って行った。
 甲皇国枢密院からの緊急招集令――最後には教皇帝クノッヘンのサインがしてあった。見間違いようもない、父親独特の筆跡。あの大喝した声を、そのまま文字にして封印したかのような。
 ユグドラシルの高層建築群が見えてからも、ユリウスは陣地を後にしたことを悔やんだ。悔やんだが、ここまで来た以上、どうしようもない。
 エレベーターに乗り、会議室にまで足を運んだ。
 すでに会議は始まっていた。
 ユリウスは遅れたことを儀礼的に詫びた。もちろん、普段の彼なら無言で椅子に座りそうなものだが、この謝罪はいわば勝者の余裕のなせるわざだったのだろう。
「まあよい、まだ始まったばかりだからな」
 クノッヘンが、これまた儀礼的に応じた。会議の席には甲家、丙家だけでなく、乙家のジーン伯を筆頭に、主な貴族たちがことごとく集められていた。
 どうやら、クノッヘンはくだらない用事でユリウスを呼び戻したのではないらしい。
 ほぼすべて貴族連中を集めて緊急に合議する内容といえば――ユリウスに思いつくのは、後継者指名しか思いつかなかった。クノッヘンもそろそろいい年だし、正式に後継者を指名していなければならない。
「皆に集まってもらったのは、他でもない、重大な要件があるからだ。これには、我々甲皇国の国運がかかっていると言ってもよい」
 それは分かったから、早く続きを言え、ジジイ――心の中ではやりながら、ユリウスは思った。
「我々は人類の生存圏を巡って、果てしなき戦いを繰り広げてきた。それは聖典にもある通りだ。誰もが、そのために尽力してきたことだろう。だが、その戦いにもついに最終局面を迎えた」
 話が微妙に違っている。ユリウスの中には安堵と不安が入り混じって、奇妙な味のカクテルを作り上げていた。ユリウスの年齢、性格からいって、後継者に選ばれる可能性は低いから、むしろ後継者の話でなくて良かった。そういう意味での安堵。
 しかし、どうやらそれ以外で大きく政局が動きそうだという予感――しかもそれが自分の知らないところで起こり、今こうして降りかかろうとしている。それが大きな不安の種だった。
「骨大陸は代々、我々人類が正当に所有せる土地だ。かつてはエルフたちが支配していたが、我々が大量の銃弾と、さらに多大な血と骨によって、ようやく取り返した土地だ。亜国との条約で、エルフも認めたはずだった。しかしたちの悪いエルフと人類の裏切り者どもが結んで、南部を亜国の属国に仕立て上げた。南部の人類は、あろうことにエルフの流浪の王を担ぎ上げて、僭主とした!」
 この父親は同じようなことを、バカな国民に何度言ってきたのだろう。
「よって、我々は取り戻す必要がある。正当な南部の土地を、亜国と手を組んだ裏切り者どもからな」
 部屋の中は静まり返っていた。
 聴衆は内心、クノッヘンの言うことはもっともだが、なぜ今更それを言うのか、よく分からなかった。
 南部にも南部の事情がある。エントヴァイエンの敗北を見れば分かる通り、エルフ族の戦闘能力は近代兵器で武装した軍隊すら敗走させるほどなのだ。近代化の進んでいなかった過去において、亜国に近くその脅威にさらされやすい南部が、半ば亜国の属国化を選んだことは、安全保障の上で当然と言えた。ただ、一つ計算違いだったのは、甲国がロストテクノロジーを発掘して、近代化を急速に推し進めた結果、エルフたちの戦闘能力に拮抗する力を得てしまったことだろう。
「父上」とユリウスが切り出した。
「なんだ?」
「俺はここに参ずるまで、その裏切り者どもと戦っておりました」
「それで?」
 意外とそっけない反応に、ユリウスも少し戸惑った。
「このようなまどろっこしい会議など必要ありません。私に10万の軍勢でも指揮させてくだされば、すぐに裏切り者どもを蹴散らしてごらんにいれます」
 クノッヘンはなにも返さなかった。
 代わりでもないが、横にいたジーン伯が口を開いた。
「あなたは確かに若く強い。しかし、一人で戦おうと思ってはなりませんよ」
「一人ではない」
 そもそも、10万の軍勢をくれと言っているだろ、と心の中で反論した。
「一人のようなものですよ、10万のごときの軍勢など。それに、この甲皇国自体だってね。戦争を吹っ掛けまくった結果、国際社会から孤立しているのではありませんか?」
「SHWなら心配いらないですよ、ジーン伯。あいつらは亜国とは比べ物にならないくらい弱い、金にしか興味のない連中です」
「本当にそう思ってるの、ユリウス皇太子。彼らの海軍は強力です。実際、先日も手痛い攻撃を喰らいました」
「それなら心配及ばん」
 クノッヘンが言った。
「すでにSHWとは中立条約を結んでいる。つまり、我らの背後を脅かすものは、何もないとうわけだ」
 ジーン伯の機械化した目が、それでも驚きの色を映し出した。
「私は何も聞いておりませんが」
「秘密条約だからな。今日、みなにも知らせようと思っておったところだ。まあ、その様子だと秘密は十分に守られておったようだな」
 ガハハハ! と笑い声をあげた。
 大半の人間にとっては、笑いごとでは済まされない。これから、狂乱と狂炎の祭りを準備しなければならない。結果はどうあれ、最後は必ず大量の墓石で終わるに違いない祭りが。墓石に刻まれる名前はほぼ全てが人民の名前で、ここにいるような上級貴族の名前はないだろう。
「タンホイザー! 地図を!」
 皇太子のタンホイザーが、無言で歩み出て、丸められた地図を卓上に押し広げた。
「やつらは防衛要塞群を川べりにそって建築しておる。忌々しい防衛線だ。ジーン伯も予期していなかたことだ、奴らはもっと油断しておるだろう。全部蹴散らしてやるぞ、我が甲皇国の力を総結集してな!」


 ユグドラシル都市外延部、表通りにて――
 都市の中心部にそびえ立つ広壮な建物が、貧相な集合住宅の隙間から顔をのぞかせていた。今、あの塔の中の一つでクノッヘンが得意げに話しているなど、ここの低所得層の住民たちに知る由はなかった。
 甲国は“新人類国家”を標榜しているが、下層階級の住む場所ともなると、亜人の姿もチラホラ見受けられる。
 表通りのはずだが、そこは甲国の首都とは信じられないほど、うらびれて寂れた場所だった。埃っぽい空気に、どことなくじっとりとした腐臭が混じっている。おそらく、ゴミ溜めや下水の臭いが吹き溜まっているのだろう。
 どこにでもある、どこの都市にもある、典型的なスラム街、貧民街のたぐい。都市の影であり、恥部である場所。
 そんな通りに面して、黒いフードを目深にかぶったおそらく僧侶らしき者が、ただ黙って座っていた。体格から、かなり長身な男であることが分かる。
 ときどき通りがかった心優しい亜人が、わずかな銭を椀の中へ放り投げていた。人間が彼に寄付するとは考えにくい。なぜなら、彼の持っている聖鈴はアルフヘイムの精霊信仰を表す物だからだ。
「おいアンタ、ここ(甲国)じゃあ、精霊の力は効果ないぞ」
 一人の初老の男が声をかけた。ボロをまとった風貌から、同じく乞食と思われた。
「……同業者か? 忠告、感謝する」
 意外にも、その声は聖鈴と同じく涼やかであった。思ったより若いようだ。
「まあ、同業者ってわけでもないが、似たようなもんだな。俺は元軍人だったんだよ。今は退役して、傷痍軍人年金をもらっているが、何せけち臭い額なんでね。こうやって別の商売をしなけりゃならねえってわけさ」
 初老の男は、黒フードの横に腰を下ろした。元々人好きな性格なのだろう。話し込むつもりらしい。
「ところで、アンタの商売道具はなんだい?」
 黒フードは何も答えない。
「ああ、分からんかったか? ワシのはこれじゃよ」
 ベテラン乞食がボロの下から見せた足は、膝から下が木の義足になっていた。
 黒フードがそれでようやく理解したのか、フードを半ばはだけて顔を少しみせた。
 包帯が巻かれていた。恐らく皮膚病か何かだろう。乞食の見たところ、恐らくトレーネと同じ病――腐灰病のようだ。体が徐々に灰色に朽ち果ててゆく難病である。
「アンタも大変なんだな。ワシと違って、まだ若そうなのに」
「そうだ」
 フードは軽く答えただけだった。
「あまり語りたくないんだろう。それも分かるよ。この国じゃ障害者なんて亜人以下の差別を受けるからな。それも腐灰病なんて最悪だな」
 フード男は、それでも軽くうなずくだけだった。
 ボロの男も、しばらくは乞食業のコツを伝授してやろうとしたが、あまりに反応が薄い。やがて飽きたのか
「ワシもそろそろ稼ぎに行かないといけないから、失礼するよ。最後に言っといてやるが、本当に稼ぎたいなら聖灰教会のT字架を掲げときな。この国じゃ、そうするのがセオリーってもんよ。あと、何か悲しい身の上話の一つでも考えとくこったね。あと、こりゃ差別じゃねえけどよ、愛想悪いとどこ行っても損するぜ。じゃあな」
 と言い残して立ち去って行った。
 立ち去るベテラン乞食は表通りを行くと、そのまま別の角へと曲がって消えていった。
 フード男はそれに一べつすら与えるわけでもなかったが、乞食が消えてからホッとしたかのようなため息を――深くついた。


 クノッヘンの種明かしを聞いても相変わらずユリウスの心の中には不安と希望が渦巻いていた。しかし、だんだんと不安の方が大きくなっていく。冷静に考えれば、このような大規模攻勢が行われるのであれば、ユリウスのやっていることなど手の平の上でのたうつ蟻に等しい。
 いや、むしろ大規模侵攻を前にして、敵に無用の用心を抱かせる結果になったかもしれぬ。
 しかし、ユリウスは不安を振り払った。今さらここで怖気づいても、無駄だ……
「それぞれに役割を言い渡す」
 クノッヘンが言ったことは以下の通りだった。
 ホロヴィズ名誉公爵(甲家の血筋ではないが、功績や皇帝との親密な関係から公爵を名乗ることが許されている場合の称号)……聖戦省・聖戦管理者。人員の動員、軍需物資の物流、戦略レベルでの作戦立案、クノッヘンに次ぐ、軍隊内の人事権。つまり、聖戦という音楽全体の指揮者。目的は南部の裏切り国家を殲滅すること。

 ジーン伯爵……貿易局局長。軍需物資のうち、自給できない必要な物を輸入すること。地味だが兵站のために重要な仕事である。

 ナファ……憲兵隊総監。裏切り者は殺してよいが、改心した者は殺してはいけない。しかし、軍隊ではしばしば軍紀が乱れる。それを取り締まる、地味だが重要な役割。

 ペリソン海軍総提督……海軍の活躍は、陸軍の運命も左右する。裏切り者を陸海の両方から攻め立て、改悛させよ。

 ゼット東方伯爵……空中戦艦の件では非常にすまないと思っている。しかし、この機会にそなたの科学力をいかんなく発揮してもよい。裏切り者に、文字通りの天罰を与えよ。そなたの体現する天罰とやら、我も楽しみにしておるぞ。

「前線総司令官――」
 クノッヘンの声にユリウスは思わず腰を上げかけた。できればここで指名されたい――それか、自分に好意的なやつが指名されればいい……と思ったが、そもそもユリウスに好意を抱く皇太子など滅多にいないことを思い出し、またしても絶望的な気分になった。
「タンホイザー!」
 ダメだ、もはやどうしようもない。よりにもよって、タンホイザーというのは最悪だった。
 タンホイザーはどうしてか知らないが、生まれながらにして喋ることができなかった。それをいいことに虐め抜いて来たのは、今さらどうにもならない。
 同時に、喋ることもできない弱者が自分の前にこうして立ちふさがってくることに、ユリウスは突如とした怒りが湧き上がって来た。怒りに任せて立ち上がると、叫んだ。
「こんなツンボが司令官だと?! ふざけるな!」
 またしても沈痛な沈黙。誰もが、こんな家庭内内輪揉めに関心なぞなかったし、役割を与えられた者は早くそれを実行しなければならない。
「どうやって前線に下知を出す? 喋れないのに!」
 ユリウスの疑問は、会議室の中の一同にとっても、内心では最もな疑問だった。
「問題ハ無イ、ゆりうす」
 タンホイザーが発したのは、人の声と電子音が混ざったような、いびつな音声だ。しかし、それは確かにタンホイザーの意志をこの世に発現したものだった。
「人工声帯ダ。マダコノ装置ニ慣レテ無イカラ、暫クハギコチナイト思ウガ、許セ」
 今度はユリウスが黙る番だった。


「おい、どれくらいだ?」
 先の黒いフードの乞食らしい男に、別の乞食男が近づいて来た。口調から、恐らく仲間だろう。
 黒フードは黙って椀を傾けて、中身を見せた。
 小さな銅貨が数枚、椀の中で寂しげな音を立てた。
「もう十分か。ならそろそろ行くぞ。しかしこの年になって、乞食僧のマネはさすがにきついな」
 傍でこの光景を見ているものがあれば、椀の中が数枚の銅貨でなぜ十分なのか、首をかしげるだろう。彼らの中では、椀を傾けるのが“撤収”の合図だった。
「結局最後は、くだらない家族喧嘩だったな」
 黒フードの若者がポツリと言った。
「ああ、甲国のロングラン上映のやつね」
「“ロングラン上映”とはなんだ?」
「亜国には映画なんてなかったか。まあ、いつもやってる演劇、って言えば分かるか?」
「大体了解した。とんだ猿芝居だったが。ところで、そちらの成果は?」
 中年の乞食僧は、自慢げに大きく膨らんだ袋を上衣の下から取り出した。
「T字架掲げて身の上話で、ガッポリだ。俺もこっちの方で才能があるとは思わなかった」
 黒フードの青年はフッと一瞬ほほ笑んだ。
「まさか、南部王国の大将軍が、乞食の才能があるとはな。ついでにクノッヘンに頼んで、和平でも恵んでもらったらどうだ?」
「最もだ。できたらそうしたい。俺は、あの爺さんとは身内の悪口大会で盛り上がれると思うんだよな。俺はバカ国王、クノッヘン爺さんはバカ息子の話。互いの身の上話に共感し合えるような気がするんだよなぁ。“バカな味方こそ、最も手ごわい敵だ”ってことを」
 黒フードの青年が立ち上がった。
「そろそろ行くか」
 それを合図に、緊張感のない撤退が始まった。もちろん乞食の移動に緊張感などあるはずもないから、それもまた自然な乞食に見せることに役立った。
 ズンズンと歩いていく二人。すでに貧民街を抜け出してはいるが、二人の行く手を遮るものはいない。黒フードからチラホラ見える包帯姿を見ると、大抵の人は道をあけてゆくからだ。道をあける人の中には、亜人もいた。どうやら腐灰病患者は、甲国で最も嫌われているらしい。だからこそ、その患者に変装することを選んだのだが。
「ところで、集めた金はどうする?」
 乞食将軍がたずねた。
 黒フードは最初こそ思案していたが、やがて町の中の一角に孤児院を見つけると、そこを指さした。
「全額放り込んでおくといいだろう」
「ほう、太っ腹だねぇ」
「我々はこれからもっとたくさんの孤児を生産するのだからな。間違った使い方ではあるまい」
「俺たちに寄付してくれた人も、きっと本望だろうさ」
 将軍と名乗る乞食は皮肉な笑みを浮かべると、銭の詰まった袋をそれとない動作で孤児院の塀の中へ投げ入れた。
 二人はそのまま、町の雑踏をかき分けて進んでいった。


 タンホイザーは無期限の謹慎処分のはずだった。
 なぜなら、父親の愛人を寝取ったからだ。
 喋れないタンホイザーがどうやって愛人を口説いたのか、まさに神業と言えるが、そんなことはどうでもいい。クノッヘンからすれば、聾ごときに愛人を取られたということで、皇族のこれ以上ないスキャンダルとなった。
 愛人は追放処分となったが、その前に身ごもっていることが判明した。
 結局は、子供を産んでから追放された。つい最近のことだ。
 話はこれで誰もが終わったと思っていた……
 その子供は、おそらくタンホイザーともども皇籍を剥奪され、どこか適当な閑職でも与えられるのだろうと、思われていた。
 だが、その運命は渦中の赤ん坊によって変えられることになる。
 赤子がどちらの子供か話合われた時、最後に赤子とクノッヘンが直接会った。
 クノッヘンは、今までたくさんの女に公式・非公式含めたくさんの子供がいたが、地位の高いもの特有の習慣で、自分の子とはいえ、会うことは滅多にない。肉親としてある程度の情はあるものの、特に思い入れのあるものではなかった。それはクノッヘン自身にも原因があった。
 戦乱の世の中で辣腕をふるってきた鉄骨宰相である。子供が見てその気迫、オーラは威圧感しか与えなかった。しかもクノッヘンはたとえ相手が幼子と会うときでも、教皇帝として立ち会い、決してお爺ちゃんとして振る舞うこともなかった。会った子はみな怯えたし、赤子の場合はクノッヘンが近づくだけで泣き出す始末である。
 だが、この赤子だけは違った。
 クノッヘンが近づいても全く泣かないどころか、逆にほほ笑んで手を伸ばした。
 クノッヘンもほぼ無意識だったと思われるが、その誰の子か分からない赤子に腕を伸ばし、抱きしめた。
 赤子は、さらに腕を伸ばして、あろうことにクノッヘンの顎髭を掴んで引っ張った。甲国のどこを探しても、そんな勇者は見当たらないだろう。
「おうおう、そんなに気に入ったか」
 クノッヘンもこれには苦笑するしかない。
「きゃっきゃ!」
 赤子はまるでクノッヘンに返答するかのように、笑い声をあげた。
「うむ、ではワシが誰か分かるか?」
「あ~~ぎゃっ!」
「うむ、それでは分からん、ワシじゃよ、ワシ」
「あ~ぃ!」
 そんな赤子に分かるわけがない――誰もがそう思った時だった。
「じぃーーーじ!」
 皆が耳を疑った。タンホイザーですら。
「おう、聞いたか、皆のもの! こやつ、今言いよったわ! これ、もう一度言うてみい」
「じぃ~~じぃ!」
 確かに言った。もはや間違いないことだった。
 これ以降、この赤子はクノッヘンの孫として認知され、ミゲルと名付けられた。
「本人が言っておるのだから、これ以上確かなことはあるまい」
 クノッヘンは機嫌よくそう言い放ったという。
「ワシを見て怖気づくどころか、ひげを引っ張るとは、他の誰にもできまい。このような豪胆な素質ある孫がおれば、甲国の将来も安泰というものよ」
 むしろ思いのほか気に入ったようで、父親のタンホイザーもそれと共に罪を許され、皇太子として復帰することを許されたのだった。
 クノッヘンのこと、愛情だけで許したのではなく、打算もあった。皇族は戦争や政争で減っていたし、若い頃ならいざ知らず、年を取ってから女一人にこだわってかわいい孫と多少は使えそうな息子(この頃、人工声帯手術も成功し、タンホイザーは声を得ている)を失うことはバカらしく思えた。
 むろん、許されたと言ってもタンホイザーには件の女と絶対に会わないことという条件が付けられたが、条件と言える条件はそれくらいだった。タンホイザーにしても、もはや会えないということは覚悟していたし、会わない方がその女性のためであることくらいはよく分かっていた。
 この一見は、ギスギスした皇室の雰囲気を一時的にとはいえ一変させた。国全体も、戦乱の中にあって暗く落ち込んでいる中、赤子がクノッヘンの髭を引っ張るというのは、それだけで庶民にも受けた。この微笑ましい事件以降、髭を伸ばす“じいじ”が急増し、一つの文化的習慣にもなったくらいである。(じいじの髭を引っ張る赤子は、強く成長すると信じられた)
 ――ということはユリウスも当然知っていたが、内心では「くだらない些事」として顧みていなかった。赤子は無力だが、兄のタンホイザーは無力な赤子とは違う。そのことを完全に失念していたのは己のせいだが、それでも悔しさは抑えきれない。
 結局、あの会議でユリウスは親衛隊の副隊長として、首都の防衛と治安維持の任が言い渡された。
 南部奪回のための征服戦争で、これは完全に閑職への左遷を意味しているのは、痛すぎる程よく分かった。
(しかし、俺には何の落ち度もないではないか……戦争に負けたわけでもないのに!)
 心の中にはわだかまりが残ったままだ。
(クソッ!)
 こういう時に若い男の取る行動と言えば、あまり選択肢はない。ズンズンと会議室から伸びた廊下を後に歩いていくユリウスだが、背後から声がした。
「ユリウス殿下、一緒にお話しできまいか」
 振り向くと、戦烏の頭蓋骨を模した仮面――ホロヴィズだった。
「残念ですが、忙しいゆえ公爵殿と話す時間はありません。どうかお引き取りを」
 仮にも名誉公爵であり、クノッヘンを長年支えてきた将には、傲慢なユリウスですら丁寧な口調でなければならなかった。
「声の震えが隠しきれておらんぞ。よほど悔しかったのか、それとも動揺しておるのか」
「私は忙しい故、失礼つかまつる」
「どこへ行くというのだ? 行きつけの高級娼館かね?」
「ホロヴィズ殿、冗談でも言っていいこと、悪いことがあるのでは?」
「ではどこへ?」
「私の部隊のいるところですよ。将官であるなら、当然でしょう」
「もうそこにそなたの居場所はない。先ほど聞いたであろう」
「俺の部下はどうなるのです……?」
「そんなものは忘れなされ。それよりも、これからのことに目を向けるべきだ」
 確かに、癪だがホロヴィズの言うとおりだった。選抜した部下や、立てた功績も、全てタンホイザーに引き継がれるのかと思うと、余計に癪だ。
「あなたは小鳥ではない。あの程度の局地戦の勝利に拘泥すべきではない。帝位を目指すなら、もっと高所大所からの戦略を立てなければ」
「御託は良いから、話とやらを聞かせてくれませんか。まさか、今の説教が話したいこととでも?」
「まずは場所を変えるとしようか、殿下」
 二人はそのまま皇族専用車両へ乗り込んだ。
 周囲の街の景色が、見る間に遠ざかっていく。
「今の会議の内容に不満があるのは、何も殿下だけではない。私にとっても大いに不満だった。それがどこか、分かるかな?」
 車内でホロヴィズがそう切り出した。
 ユリウスは考えてみたが、何が不満か思いつかなかった。聖戦管理者とは、本来皇帝が就任するものであり、戦争に限定すれば事実上クノッヘンと同じ権力を握っていると言える。それほどまでに、クノッヘンのホロヴィズへの信頼は厚い。
「よく見ると、補給と憲兵の長が乙家から出されている。確かに地味な仕事だが、この二つを握られるということは、好き勝手な動きは許さんと言うことだ」
 皇子のユリウスにとって、物資や金などいくらでも湧いて来るものだと思っていた。戦争といっても、ユリウスは未だ大軍を率いたことがない。前線でも、皇子待遇で不自由な思いはしていない。
 要するに、ユリウスは戦争と戦闘の区別がついていなかった。戦争とは戦闘組織を兵站し、指揮することであり、戦闘以外の部分も大いに含む。
「しかも、聞いたところによるとミゲルの乳母にタチアナが選ばれたそうだ。もちろん、このタチアナというのは乙家の出身、それもジーン伯の娘だ」
「甲家と乙家のつながりが、強くなる……」
「その通りだ。もしもタンホイザーがこの戦争で勝利すれば、後継者指名は確実であろう。そうなれば、自動的に次の皇位継承者はミゲルになる」
「俺は一生皇太子のままだな」
「確実にそうなる。丙家にとっても痛いことだ。丙家はマンシュタインによって、一族のほとんどを滅ぼされたか、追放された。それゆえ、未だに人材に乏しく、後継者も息子のメゼツくらいしかおらぬ」
 しかも、メゼツはまだ幼い少年でしかない。
「ワシも、最初の頃はよかった。何も守るもの持っておらぬ時は、復讐だけに邁進することができた。しかし、復讐を遂げ、国を復興し、家族を再建したところで、守るべきものができてしまった。ワシは、しばらくは死ねん」
 老人の妄執には、ユリウスにも鬼気迫るものがあった。
「しかし、どうするというのです? まさか乙家を皆殺しにするわけにもいきますまい」
「何としても、ワシの見込んだ皇太子を帝位につける。それ以外に、丙家の安泰はない」
「つまり、そこで俺に目をつけたというわけですか。あいにくだが、丙家の操り人形にはなりませんよ」
「操り人形にしたいところだが、それは現在のところ求めておらぬ。まだクノッヘン王朝は安定していない。不安定な時代に必要なのは、実力しかあるまい。むしろ、操り人形にならないだけの器量があると見込んでのことだ」
「どうせ他の皇太子にもそうやって声をかけているのでしょう?」
 動揺するかと思ったが、ホロヴィズは即答した。
「当たり前だ。だが、誰でもというわけではない。エントヴァイエンも声をかけたが、あいつは普通以下の知能しかなかった。しかし、ユリウス殿下は違うと踏んだ。小規模とはいえ、自ら戦って得た勝利を、父上は評価しなくても、ワシは評価する」
 褒められるのはけっこうなことだが、それだけでは足りない。
「聖戦管理者の権限でもって、俺を前線指揮官にしてくれませんか。何も総司令官でなくともいい。一部隊でもいい。評価するならそれくらい大丈夫でしょう」
 しかし、帰ってきた答えはそっけなかった。
「それはできない」
「どうして?! 聖戦管理者でしょう、どうにでもできるはずだ!」
 思わず語気が上がった。
「聖戦管理者と言えども、皇帝陛下が直接決めた人事にまで口は出せん。それができるなら、憲兵総監くらいはすげ替えておるわ。
 そして殿下と皇帝は親子。親が子をしつけるという家庭内の出来事に口をはさむほど、ワシは図々しくはなれん」
 ユリウスはしばらくその言葉を噛みしめ考えていたが、やがてすぐに一つの結論に達した。
「下ろせ」
「これまた、どういうことかな? ワシでは組むのに不足だと?」
「当たり前だ。この戦争は最後のチャンスだ。これを逃せば、いつまたやって来るか分からぬ。しかし、俺は首都で留守番ときた!」
「まずは、その留守番をお勤めなさるのが肝要ではあるまいか」
「なんだと……?!」
「殿下はまだ若い。おとなしく留守番をキッチリ勤め上げなされ。幸い、父上に監視されているなら、それを逆手に取ればよい。逆にアピールできるチャンスだと考えるのだ」
「バカにするのもいい加減にしろ! どこの誰が、征服戦争で留守番して功績を上げたというのだ! もういい、おい、運転手、車を止めろ!」
 ユリウスが前の座席を蹴飛ばしながら言った。なんなら、止まらなくてもそのままドアから飛び降りるかのような勢いだ。
 運転手も、殿下皇太子の命令とあれば仕方ない。蹴られながらも、速やかに、かつ慣性を最小限にした上品な止まり方をした。
「ごめんつかまつる」
 降りようとするユリウスに、手袋が投げつけられた。
「言っても聞かぬなら、仕方ないか」
「ホロヴィズ公……これがどういうことかお分かりか……?」
 手袋を投げつける――決闘の申し込みである。
「十分わかっておるよ。さて、決闘を受けるかね、それとも尻尾を巻いて逃げるかな? 私は逃げた方が賢明だと忠告しておこう」
 バカにしやがって、と思うと同時に、そこまで引き留めたいなら、この際だ、ついて行ってやろう、という気にもなったのだった。
「すまんが、お客人はまだ乗っていくようだ」
 ホロヴィズの声を聞いて老運転手が帽子を下げると、滑りだすように車は動き出した――今度は止まらずに、目的地まで。


 二人の乞食僧らしき男たちは、国境線の近くまで鉄道で移動した。国境を超える鉄道は貨物用ならともかく、人間が移動するのは検問が厳しいため断念した。万が一、トラブルになった場合にも、鉄道内だと密室で対処しづらい。
 結局は、徒歩で国境を超えることになった。乞食僧なら、それが一番自然だろうという判断だった。
 国境入りするときも、徒歩で入った。
「止まれ」
 国境の検問所に近づくと、止まっているのに甲国兵がそう言いながら銃を向けてきた。
 中年の乞食僧が、入国許可省を見せた。
「一応、ちゃんとしたやつだな」
 兵士の一人が、鋭い眼光で睨みながら言った。やけにピリピリした空気を、二人の乞食僧は感じていた。
「用件は?」
「入って来たときに話したよ。その許可証にも書いてあるだろ」
 中年乞食僧の方がそう答えた。若い方、黒フードの方は、終始無言である。
「北部の“全人類種”の救済と救援のため、だよ」
 兵士がフッと嘲笑した。
「ぜひ、俺たちも助けてやってくれないですかねぇ」
「はい、もちろんですとも……しかし、しがない乞食僧じゃ、これが限界でして……」
 入って来たときと同じ手法――賄賂を文字通り袖の下から取り出すと、そっと甲国兵に渡した。
「しけてやがるな」
「我々にはせいぜいこれが限界でして……なにとぞ、ご容赦いただけますよう……」
 金ならいくらでもあるが、乞食僧があまりに大金を出せばかえって怪しまれる。しかし、少なすぎると賄賂として通用しない。このあたりの微妙なバランスを取りつつ、リアリティを演出、最後は情に訴えかけるという、常套手段である。
「こいつは腐灰病でしてね、可哀想に、こんないい奴が不治の病で苦しみながら死ななきゃならないなんて、神様は最低のクソッタレだよー―
 さらに続く言葉の嵐に、兵士の忍耐はすぐに尽きた。
「もう通っていいぞ。俺たちは神ほどクソッタレでも意地悪でもないからな。ま、どこの神もそんなもんさ」
 貰うものをもらっているのだから通すのは当然だ、と内心思ったが、そんなことはおくびにも出さずに、
「ありがとう、君に神のご加護がありますように」
 と媚びた口調で言った。
 これで、二人はようやく南部に戻ることができた。あちこちに点在する、砲撃跡が生々しい。早く手に入れた情報を国王に伝えなければならない。
 甲皇国とSHWが、裏で手を取り合っていた――
 このことを知れば、いくらバカ王のフェデリコでも、新たな宮殿の建設のために貴重な資金、労力を費やすべきでないことくらいは悟るであろう。
 中年僧がそんなことを思案しながら、思わず早くなる歩を進めていると、ジープが現れた。
 ――甲国の軍用車がなぜここに?
 そう思う間に、ジープは二人の前に停車し、兵士が降りてきた。
 三人とも、酷薄そうな笑いを浮かべている。その様子は兵士というより、獲物を見つけた質の悪いチンピラでしかない。
「よぉ、おっさん、二人でピクニックか?」
 おそらくこの三人の中でリーダー格らしき男が話しかけてきた。国境地帯の戦場で、髪をピッチリ整えてる余裕っぷり。おそらく士官学校出の、苦労知らずのエリートだろう。どこにでもいる、軍内の寄生虫の一人だ。
「ああ、そうだよ。それより、どうしてあんたらは甲国兵の恰好をしてピクニックしてるんだね?」
 三人は互いの顔を見ると、腰を折って爆笑した。それから、急にリーダー格の嫌味野郎が繰り出したパンチは、中年僧の腹部に吸い込まれていった。突然の衝撃に、思わず膝をつく。
「甲国兵だからだよ。お前、ここの陣地が最近落とされたのを知らないのか? ピクニックに来るくせによ」
 背の高い、若い方の乞食僧が動こうとしたが、それを中年僧は手で制した。ここでトラブルを起こすのはまずい。すでに、他の二人の甲国兵も、こちらへ銃口を向けている。
「お前らを見てると、吐き気がする。乞食みてえな下民が、北部にまで来やがって」
「我々には、全ての人類種を平等に救うという務めがありまして……」
 嫌味野郎がまたしても腹部を殴った。
「あいにく、北部じゃそうでもなくてな。ただ、アンタも同じ人間のようだし、見逃してやってもいいぜ。どうせ物乞いしてきたんだろ、北部のものは北部の俺がちゃんと受け取っておいてやるよ。そっちの方が寄付した甲斐もあるってもんだ」
「でもね、さっきの検問所でもう渡してしまったんですよ……」
「なんだと?」
 嫌味野郎が胸倉をつかんで持ち上げた。
「俺たちには、救いの手はないってことかな?」
「いや、もう本当に許してくださいよ、これじゃあ、帰りの電車賃もなくなっちまう……」
 思いっきり張り倒された。他の二人は、その様子を眺めながら嘲笑を浮かべている。上官だけオモチャで遊んでずるい、というような目だった。
 今度は蹴りが飛んできた。さすがに、中年僧も音を上げた。
「わかった、分かりました! 暴力はやめましょう! 暴力は!」
 部下が聞いたらきっと爆笑するに違いないだろうな、と内心思った。
「僧侶を殴っても、何にもいいことないぞ! ほら、金が欲しいんだろ? もうわずかだが、やるよ、ほら!」
 ぼろ衣の下から小袋を取り出して、甲国兵たちへ向かって放り投げた。
 嫌味野郎がその袋を取り上げ、重さを手のひらで計る。
「心配するな、俺たちがお前らの国へ攻め込むのに役に立ったんだから、もっと嬉しそうにしろよ」
「……私らは、そろそろ行かせてもらいますよ……」
「ああ、行けよ、お前はな」
 嫌な予感がした。
「ただし、お前は別だ」
 矛先が長身の黒フードに向いた。
「ちょっと待ってくださいよ、そいつの分も払えってことですかい?!」
「そうじゃない、ただ、そいつの包帯が気に食わない」
「そりゃあ、あんまありですぜ。包帯が無かったら、“醜い面しやがって”って言うくせに」
「まあ、そうだが」
 嫌味野郎は少し考えてから続けた。
「この陣地を落とした直後に、怪しいやつが二人やってきた。もしかしたら腐灰病患者のフリをした偵察かもしれん、と警戒するのは当然だろう」
 嫌味野郎は、ただ単に嫌味な奴ではなかった。うまく軍隊内で自分の利益と仕事を両立させているようだ。
「何も難しいことはないだろう。ただ包帯をとって、醜い面を一目見せるだけでいいんだから。確認すればお前も通してやるよ。ほら、早くしろ。こっちは他にも仕事があって忙しいんだよ、ピクニックしてる余裕なんてねえんだよ」
「……」
 黒フードの若者は、ただ黙っていた。許可を求めているようだ。
 こうなったら仕方ない。強行突破する以外にあるまい。
 背の高い乞食僧は、フードを落とすと包帯をするすると解いた。
 包帯の下から現れたのは、美貌の青年だった。血か炎のような赤髪が、包帯の間からなびいている。だが、何より甲国兵たちを驚愕させたのは、赤髪の隙間から伸びた長い耳――エルフ族の象徴だった。
「動k――
 さきほどから銃を構えていた甲国兵が言いかけたが、最後まで言い終わることはなかった。エルフの青年は、目にもとまらぬ速さでの銃を持つ手と、喉元を掴んだ。エルフが掴んだ瞬間、その不幸な甲国兵は発火した。エルフの青年と同じ色をした炎は、あっという間に甲国兵の体を嘗め尽くし、サラサラと灰が舞った。その光景は、命を燃料にした花火のようであり、残りの人間はみな、一瞬我を忘れて見入っていたようである。
「何をやっている! 早くこいつを撃ち殺せ!」
 嫌味野郎が狼狽してそういったが、そんなことを言う暇があるなら、自分の銃を使うべきだろう。
 その隙に、中年僧の恰好をしていた男は、もう一人の甲国兵の顔に地面の土を投げつけた。
 すでに仲間が目の前で生きたまま火葬されたのだ。エルフの脅威にばかり目が向いてしまっていた上、恐怖で凝り固まった体はそう簡単に反応できず、まともに目つぶしを喰らってしまう。
「ひぃいいいい!!」
 嫌味野郎はそれを見て取ったのか、真っ先にジープへ走って行く。目つぶしされた兵士は、早々に銃を捨ててあらぬ方向へ走り出した。
 逃走こそ闘争の本質である。このまま陣地へ逃げ返すことを許せば、追手が差し向けられるだろう。いくらエルフ族内でも最強とはいえ、今は武器も甲冑もない中、近代兵器で武装した兵士たちを相手にしながら無事に逃げ延びることができるだろうか? しかも一人は戦闘力など皆無の中年オヤジなのだ。最近は夕方になると疲れ目が酷く、腰も痛い、そんな一般人に過ぎないのに。
 すでに、エルフの青年は、捨てられた銃を拾い上げていた。それをたどたどしく握ると、ジープで逃げた方に向かって引き金を引いた――が不発。
「撃鉄を上げろ!」
「撃鉄とはなんだ?」
「もういい、かせ!」
「それには及ばんよ」
 そういうと、エルフの青年は銃を握り直して思いっきりジープへ向かって投げた。エルフの単純だが怪力で投げられた銃は、ジープのタイヤに命中し、走行能力を奪った。
 嫌味野郎は、何が起こったか咄嗟のことで分からない。
 その間に、エルフの青年が呪文を唱えて地面をなでた。すると、地面から黒い炎が吹き上がり、その黒炎は地面を疾走していった。疾走していったところだけ、地面が少しえぐれたような跡が残る。
 これは炎の魔術の中でも、特に上位の魔術だった。マナを直接物質に流し込むことで、いかなる物質も発火させうる魔法。魔力さえあれば、城壁であろうと戦車であろうと、燃やし尽くしてしまう。
 今回はその炎に指向性を持たせて疾走させた。黒い禍つ火は、ジープの燃料タンクに到達、爆発。嫌味野郎は嫌味を言う暇もなく、天国へ旅立って逝った。
 あと一人、目つぶしされた甲国兵だが、ジープを処理している間にもそれなりに遠くへ逃げ去っていた。もう目つぶしも効き目が切れた頃だろう。
「今から追いつけるか?」
「その必要はない」
 中年僧にも、すぐにその言葉の意味が分かった。
 逃げていた兵士は、虚空から突然現れた刃によって首筋を両断された。宙に舞った首が回転しながら落ちるまでの数瞬、主人を失った体はそれでも前へと走り続けていた。首が地面にドサッと落ちると同時に、体も糸が切れた人形のように地面に倒れた。
「ようこそ、お迎えにあがりました」
 突如虚空から現れた、もう一人のエルフ。病的なまでに白い肌はアルビノかと思えたが、そうではないようだ。鋭い目つきで赤髪のエルフに礼をした。
「今の、アンタがやったのか?」
 中年僧がきいた。
「ええ、そうですが」
 当たり前のことをきくな、という口調だった。
「よくやった、ゼルドラ・モノケイロス。しかし、迎えなど頼んだ覚えはないが」
「あのバカ王からの催促ですよ。それに、出発してから時間がたちすぎている、というのもありましたし。一応、様子くらいは見ておこうと思いまして」
 さすがにバカでも、敵国の情勢は気になるらしい。
「すぐに報告に戻る。厄介なことになりそうだ」
 赤髪のエルフの言葉を中年僧が継いだ。
「早くここを立ち去ったほうがいい。今はいいが、その内死体を見つけて大騒ぎになるだろう」
「護衛は?」ゼルドラが尋ねた。
「俺がいれば不要だろう。それより、ゼルドラは先に戻ってフェデリコ王を安心させてやれ。もうすぐエイリークとブリュッハー将軍が戻ってくるとな」
「了解」
 ゼルドラは姿がかき消えたかと思うと、土煙だけ残して消え去った。
「さて、ピクニックの続きといこうか」
 赤髪のエルフは、フッと笑うとフードをかぶり直した。