おしゃけのみつぁい

 大学生になってから1年と半分が経過し、新しい生活だなんていえないほどひとり暮らしに慣れてしまった俺であったが、まさかここにきて風邪を引くことになるとは思いもしなかった。
 ベッドの上で仰向けになり、ぼんやりと天井を眺める。灰色の天井。外はだんだんと暗くなってきており、電気をつけなければそろそろ部屋の中も見えなくなりそうだった。けれど、電気をつけようという気になれない。すぐそこに見える、電気から伸びているヒモに手を伸ばし引っ張るか、どうにか立ち上がって枕元の上の方の壁にあるスイッチを入れさえすれば、この部屋は明るくなるのだ。しかしそれを俺はしない。手を伸ばすのも立ち上がるのも、面倒くさくなっているのである。
 風邪を引いたというようなことをtwitterで呟いてから、およそ4時間が経過している。本当であれば今日は、歩いて5分ほどで着くそこの大学に行き授業をふたつほど受けなければならなかったのだが、見事に風邪を引いた俺は今朝起きて絶望に包まれ、その計画を流すことにした。激しい喉の痛みと鼻づまりによって呼吸に困難を生じさせていた俺の体が、起き上がることを拒否したのである。マスクをして無理にでも行くという手もあったが、そもそもマスクが我が家にはなかった。ひとり暮らしを始めてから、風邪を引くというようなことがなく、自分の周りの人間たちも風邪を引いていなかったために、マスクを家に置いておくというような考えがすっかり頭から抜けていたのである。
 足元の方に目を移すと、物置きと化している机の上にテレビが置いてあり、夕方のニュース番組が放映されていた。ちょうど今天気予報の時間になり、おっさんがテレビ局の外で冷たそうな風に吹かれながら気温と湿度の解説をしている。
 朝10時頃に起きた俺は体の異常を悟りつつも、これが夢であるようにと祈ってもう一度布団の中に閉じこもった。体温は上がっていないので、頭がぽーっとするというようなことはなかったのである。すんなりと二度寝をかました俺が次に目を覚ますと、時刻は昼を少し過ぎて2時になっていた。日付が変わってから飲まず食わずであったため俺は空腹感に襲われ、なんとか一度ベッドから降りることができたのだが、冷蔵庫の中にあったペットボトルの水を一気に飲むことだけで力尽き、またベッドの上に寝転がる。ぼぅっとしたまま、twitterで風邪を引いたというような旨のツイートをしたあと、それに対するレスポンスなど気にすることもなく再び眠りに着いた。
 そして、4時間ほどの睡眠をとって、起きて、今のこの状況である。だいぶ喉の痛みは取れたのだが、なんとなく鼻づまりがひどくなったような気がした。試しに「あー」と声を出してみると、自分でもおかしな声になっていることが容易にわかる。えなりかずきのモノマネをしている人のモノマネをしたみたいな声になってしまっていた。要するにひどい声なのである。元がいい声であったとは思わないが、それにしてもひどい具合なのだ。今誰かと話をしても、おそらくはこちらの意図を汲み取ってくれるような人はいないであろう。「なにいってんだこいつ」と思われつつも、適当に「あぁ、うん、そうだね」といわれるのが目に見えている。
 まあ、今この状態の俺と話をするようなやつはいないのだけれども。なにせ俺は、今風邪のせいで家に引きこもっているのだ。大学まで出ればまだ誰かとの対話の機会はあっただろうけれども、ひとり暮らしの俺は家にいれば誰とも話をせずに済むのだから。これがひとり暮らしのいいところであろう。家が本当にひとりの場所となる。家族と暮らしていれば、ひとりになれる場所は家ではなく自分の部屋だけだ。実家ほど大きくないけれど、ここであればいつでもどこでも俺はひとりになれる。全てが自分の部屋であるといってもいい。それがさびしいと思うような人もいるのであろうが、少なくとも俺はそういったことを感じたことがなかった。親や家族が嫌いだったというわけではないが、ホームシックのような、ひとり暮らしをしたことによる寂しさのようなものを、俺はこれまでに感じたことがなかったのである。
 ふとスマートフォンを確認してみると、俺個人に宛ててのメッセージがひとつ届いていた。俺の数少ない友人のひとりである男から、「元気になれるものを持っていくぜ!」という文字が送られてきていたのである。時間は午後の4時ごろ。2時間ほど放ってしまっていたようだ。まあ、あまり俺は気にしないし、向こうも気にしてないと思うが。
 俺は寝転んだまま、スマホを上に持って文字を打つ。「なんだそれは」という無機質な言葉を送ると、しばらくしてすぐに既読がついた。かなり暇だったのだろう。既読がついたきりなかなか返信がなかったので、俺も諦めてスマホをおいて、再び眠りに着こうとした。昼ごろ起きたときに感じていた空腹感は、今はもうどうでもよくなってしまったようである。瞼を閉じて、さらにぎゅっと目を閉じて、眉の下あたりがぴくりとした時、チャイムがなった。
 よい子は帰りましょうのチャイムではない。もう暑苦しくなくなってきたこの時期、そのチャイムは午後5時になるようになったのである。俺の部屋に響くドアチャイム。誰かが訪問してきた証拠だ。
 俺の住んでいるこの場所には、大きく分けてドアがふたつある。ひとつは、それぞれの住人の部屋の前に。そしてもうひとつは、この建物に。建物のドアは内側からは開けられるけれど、オートロック式になっているため居住者以外は中に入ることが難しくなっている。用のある相手――つまりは知り合いの居住者に内側から開けてもらうとか、たまたま誰かが開けたときにさりげなく侵入するしかない。
 さて、そんな状況の中俺の部屋のチャイムがなったということは、来訪者はここに住んでいる者であることが容易に想像できる。オートロックのドアの鍵を開けなければ、この建物に入ること自体が不可能に等しいのだから。住民共通のドアの鍵。そして、俺が持っている俺の部屋の鍵。後者はさすがに所持していないからか、訪問者は部屋のチャイムを鳴らしてきたのだろう。
 俺にメッセージを寄越してきた男は俺の隣の部屋に住んでいる。ということは、このチャイムの主はほぼ間違いなくそいつであった。
 ベッドから体を起こし、一度伸びをする。両腕の付け根がしびれたように感じた。ずっと寝転んでいたから、当然といえば当然である。顔をしかめて伸びをすると立ちくらみに襲われたが、ベッドに手を置いて、それが収まるのを待った。外でドアをノックする音がする。そんなに急かすな。お前を待たせているのは俺だが、俺だって立ちくらみが去るのを待ってるのだ。
 頭がはっきりしてきてから、俺は玄関に向かって歩き始めた。廊下が冷たい。けれど、それがいい具合に目を覚まさせる材料となってくれた。歩くたびに、ぼうっとしていた頭が少しずつ覚醒していく。ドアの向こうを覗き込むと、予想通り見覚えのある男がそこに立っていた。ちょうど、ドンドンとまたノックされたので、俺はそれに対して言葉で返す。
「入ってまーす」
「当たり前だ、さっさと開けろ」
 ドアを開けて、これからお邪魔する気があるとは思えないほど乱暴な返事を返したその男の姿を直接目にする。重量のあるものを詰めたせいか少し形の歪んでいるリュックサックを片手に提げて、もう片方の手を彼の顔の横辺りにあげて挨拶をしてきた。
「よう」
「どうした」
「風邪って聞いたからな」
 顔の半分だけ歪めるという妙な笑い方をしたその男を家の中にいれる。お邪魔しますと、鼻唄を歌うかのような感覚で呟いたのが後ろから聞こえた。脱いだ靴を丁寧に置き直して、俺の家の中へどんどん入ってくる。
「強盗でもしに来たか」
「ここに金目のものなんてないだろうよ」
 男はどっかりと俺のベッドの上に座り込み、床に置いたリュックサックの中身をあさりだした。俺は蛇口をひねって、ポッドに水道水を入れながら、彼に質問する。
「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「牛乳」
「帰れ」
「ひどいなぁ、せっかくお前のためになりそうなものを買ってきたのに」
 蛇口をひねって閉じるのと同時に、俺が男の方を振り返ると、彼の指には小さなビンが摘まれていた。高さは10センチほどで、中には真っ白い粒がじゃらじゃらと音を立てて詰め込まれている。
「風邪薬か」
「そうそう」
 そういえば、twitterで「風邪薬ねぇや」みたいなことも呟いたような気がした。こいつはそれを見て俺にメッセージを送ったのだろう。
「何を企んでる?」
「いやだなぁ。人からの善意を、企みだなんて」
 男は右手の風邪薬を軽く振った。
「15歳以上は1回3錠だってよ」
 飲むのはもちろんお湯か水で。男はそう付け足す。
 俺は溜め息をひとつついて、熱湯を作り終えた音を発したポッドを手にとり、ふたつのカップにお湯を注ぐ。もわりとした蒸気がカップの水面から上がってきて、俺の顔面を包み込む。サウナにいきたくなった。
 俺は湯を冷ますべく台所にカップをふたつ置いて、ベッドに近づく。男の手からビンを受け取ると、やつはまた顔の半分だけで笑った。フタを回して、中をのぞく。よくわからない空の袋のようなものを指でつまんで取り出す。くしゃくしゃに丸めたまま突っ込まれたそれを、俺はそのままゴミ箱に投げる。ビンを傾けて、左掌に3粒、風邪薬を転がせた。俺はそれを口の中に放り込み、置いてあるカップのひとつを手に取る。少し冷ましたおかげで飲みやすくなったそのお湯で薬をごくりと飲み込む。喉の奥の方を錠剤が落ちていくのを感じた。俺は残ったお湯に用はなくなったので、カップを傾けて中の湯を排水溝へ捨てる。風邪薬のビンとカップを同じ場所において、余ったもうひとつのカップを男に差し出す。
「どうぞ」
「お湯じゃねぇか」
 男は眉をひそめるだけで、ベッドからどくこともしなければカップをとることもしなかった。
「どいてくれ、俺は寝る」
「なんですと!」
「配達ご苦労。薬を飲んだらあとは寝るだけだ。どけ」
「ひどいなぁ」
 男は立ち上がり、リュックを持って冷蔵庫の前あたりに座り込んだ。あぐらを組んで、つけっぱなしのテレビを見ている。
「まあ、せっかく来たんだから、ゆっくりしていってよ、ぐらい言ってくれたっていいじゃない?」
「あ?」
「まあ、言われなくてもゆっくりするんですけどね!」
 男は冷蔵庫の前においてあるちゃぶ台の上にあるリモコンを手にとって、チャンネルを変え始めた。完全にテレビを観に来た人である。俺は、お湯の入ったカップをちゃぶ台の上に置いておいた。
「テレビくらい家で観ろ」
「だから観てるじゃん、家で」
「お前の家で、だよ、馬鹿野郎」
 言いながら俺は、左側を向いてベッドに寝転んだ。本当であれば右側を向いて眠る方が落ち着くのだが、右を向くとテレビとそれを観ている男がいるので、反対側を向いているわけである。
「おやすみー」
「うっせぇハゲ」
 目を瞑ってからの記憶はほとんどない。かなり速く寝つけたようである。

 目が覚めるとさっきよりも幾分か騒がしかった。枕元のスマホをみる。時刻は夜の8時ごろである。2時間弱、眠っていたことになるのか。
 右側に転がってみると、男がまだ座っているのが見えた。この時間だからテレビ番組も騒がしいものが多いのだろう。などと考えていたのに、男の手元を見て俺は少し驚いた。
「おい」
 俺は目を細めながら男の方へと声をかけた。いつの間にか、やつは部屋の電気をつけていたようである。まぶしくて、なかなか目を開けない。
「あら、起きたのね」
 男は顔の向きを変えることなく、指をガチャガチャと動かしながら俺に返事をした。
「なんだそれは」
「なにって?」
「お前の手元と目の前にあるものだよ」
「ゲームだけど」
 あろうことか男は、俺が眠っている間、人の家でテレビゲームをしていたのである。
「おい、こら」
「だから、なによ」
「それ誰のだ」
「俺のだけど」
「ゲームくらい家でやれ」
「だからやってるじゃん、家で」
「お前の家で、だよ、馬鹿野郎」
 この男は、隣の家からゲーム機本体を持ち込んできて、絶賛療養中の俺の部屋でそれを起動させているのであった。見た感じ、シミュレーションゲームである。なおのことひとりでやれという感じだ。
 体を起こす。腹は空いていないが、喉が渇いた。男はとりあえず無視して、俺は冷蔵庫へと足を運ぶ。中を開けて、ペットボトル入りの水を探すが、別のものが目に入った。
「なんだこれは」
「ん?これはシミュレーションゲームといって」
「ゲームの話じゃねぇ」
 男が振り返ったので、俺はさっきこいつが風邪薬のビンに対してそうしたように、冷蔵庫で冷えていた缶を掴んでふらふらと揺すった。
「ああ、風邪薬と一緒に買っておいた」
「人の家で酒を冷やすんじゃねぇ」
「あら、成人してなかったっけ?」
「してる」
「じゃあいいじゃん」
「そういう問題ではない!」
 喉の痛みはかなりなくなっていたが、鼻づまりはひどいままだ。声を少し強めに出したつもりだったが、妙に間抜けな声に聞こえた。
「いやん、ずいぶんひどい鼻声やね」
「ああ」
「ま、風邪薬飲んだあとだから症状が重くなるんだろうな。その分速く治るだろうから安心しろ」
「そうじゃなくて、酒」
「あ、俺グレープの方ね」
 冷蔵庫が、開けっ放しになっていますよという警告音を鳴らす。俺の手には、ぶどう味の缶チューハイ。冷蔵庫の中には、レモンの缶チューハイがもうひとつ。レモンを取り出してバタンと冷蔵庫を閉める。やつが飲むであろうグレープの方はちゃぶ台において、俺はレモンの方に指をかけた。ぷしっと音がして、炭酸がはじける音がする。俺はそこに口をつけて、少し多めにごくごくと飲む。
「あらあら、寝起きにそんなに飲んで大丈夫なのかしら」
「うるせぇ」
「いやん、怖いわ」
 テレビは机の上にあり、ゲーム機は床の上で繋がれている。顔はかなり高いところを向いているので、ずいぶんとやりづらそうだった。
「どうせやるならイスに座ってやればいい」
「いや、人の家のイスに勝手に座るのはちょっと抵抗があってね」
「ゲームはいいのか」
「ゲームはいいの」
 俺は立ち上がり、缶チューハイを持ちながらベッドの上にあぐらを組む。さすがに何も食べてないのは問題だよな。なにか作るか、面倒だ。
 さりげなく、ちゃぶ台の上にあるカップの中から糸が伸びているのに気付く。覗いてみると、カップの中の液体はほんのりと赤みを帯びていた。
「紅茶か」
「おいしくいただいてます」
「勝手にやりやがったなこの野郎」
「だって寝てたし」
 この男は寝ている間に、ゲーム機を勝手に繋ぎ、紅茶まで飲んでいたようだ。
「別にいいじゃない」
「お前がいうな」
「急に訪ねてくる恋人がいるわけでもあるまい」
「お前がいうな」
 たしかに、紅茶なんて家においてあってもなかなか飲まないけれども。
「ひとり暮らしってのは、色々もったいないよなぁ」
「ん?」
「俺もかわいい彼女が欲しかったぜ」
 俺たちふたりは絶賛独り身である。俺はあまり恋愛に興味がないがこいつはわりと興味があるようで、いつも彼女がいないことを嘆いていた。
「どうすれば彼女できますかね」
「俺に聞くな」
「酒、飲むのね」
 俺が缶チューハイを開けている姿を見て、男が言う。
「飲まないもんかと」
「誰も飲まないなんていってない」
「だって、飲み会とか参加しないじゃない」
「面倒だからな」
「はぁ」
「酒ってのは、ひとりで飲むもんだ」
 こいつの言うとおり、俺は酒の席というものにいくことがない。大学生は何かにつけて吹く数人で酒を飲みたがるものだが、俺にはその気持ちが理解できなかった。
「まあ、俺も参加しないんだけどねぇ」
「あ?」
「面倒くさくて」
 騒がしいのが好きなこの男のことだから、飲み会等は積極的に参加しているのだろうと思っていたので、その言葉はかなり衝撃的だった。
 男はコントローラーを床において、ゲーム機の電源を落とす。コントローラーをゲーム機に乗せて、彼はケーブルをつなげたままゲーム機を持ち上げて机の上に乗せた。そしてイスを引くと、どっかりとそれに座って、リュックの中をあさりだす。結局座るのか。
「酒ってのは」
「ん?」
「酒ってのは、人の家で飲むものだ」
「違うと思う」
 男はゲームソフトの入れ替えを行い、グレープハイの缶を開ける。飲みながら男は、コントローラーをもうひとつ繋いで、ベッドの上にいる俺の方に放り投げた。
「飲みながら格闘ゲームってのはどうだい?」
「酔っ払いそうだな」
「いいんだよそれで」
 テレビがメニュー画面を映し出す。スマブラだ。
「風邪引いたときは熱出した方がいい」
「あ?」
「たぶんね」
「適当だな」
「適当だよ」

 スマブラなのに一騎打ちってのもどうなんだろうと思いつつ、結局熱心にスマブラを始めてから1時間が経過していた。
「そうそう。来週レポート提出だったな」
「ん」
「もう終わってる感じ?」
「ああ」
 俺はテレビ画面から目を離さないようにしながら返事をする。
「机の上にUSBが置いてあるだろ。もうデータはつくってある」
「参考にさせてよ」
「断る」
「ケチー」
「レポートっていうか本の要約だろ。簡単にできるさ」
「だからだよ」
「あ?」
「お前と内容を被らせないためにも、さっさとレポートのデータを僕に貸すのです」
「断る」
「ケチー」
 俺のリンクがやつのカービィを吹き飛ばして、勝敗が決した。
「ひどいわぁ」
「なにがだ?」
「吹き飛ばすわ、データは参考にさせてくれないわ、買ってきた風邪薬にもチューハイにもお礼も言わないわ」
「お礼を言って欲しいのか?」
「いんや、別に」
 男はコントローラーを置くと、ぷちりとゲーム機の電源を落とし、ケーブルを抜き、片づけだす。
「そろそろ帰るかねぇ」
「おつかれさん」
「さっさと治せよ」
「そりゃどうも」
 ゲーム機一式をリュックに詰め込んで、男はイスから立ち上がった。
「次はよろしく」
「次?」
「おう」
 ベッドに寝転ぶ俺を軽く見下ろしながら男は言う。
「お前はひとり暮らしで風邪引いてもさびしくないだろうが、間違いなく俺がそんなことになったら寂しさで死ぬ」
「はぁ」
「というわけで、もし俺が風邪でくたばったら同じことよろしく!」
「俺はゲーム持ってないぞ」
「飲みに来るだけでいいよ」
 男が玄関まで歩き出したので、俺も鍵を閉めるべく起き上がる。
「せっかくお隣さんなんだ。適当なタイミングでふたりで飲もうぜ」
「飲み会は嫌いなんじゃなかったのか」
「大人数で飲むのが嫌なだけだよ」
 男は靴を履く。
「お兄さん、お酒は嫌いかい?」
「嫌いだなんていってない」
「じゃあなんで家にお酒置いてないのよ」
「金がないからだ」
「じゃあ、あれだ」
「ん?」
「俺は酒を飲みたい。お前も酒は嫌いじゃない。お前は酒に金を使いたくない。なら俺は、一緒に飲むことを条件に、お前の好きな酒を買ってこよう」
「なるほどね」
 利害が一致したわけだ。
「いいだろう」
 俺は肯定する。
「飲みたくなったら連絡するさ」
「隣だからな」
「そうだな」
「ほいでは」
 男は振り返らず玄関を出て行った。俺はその後ろ姿を追うことなく、普通に鍵を閉める。
 さて、腹が減った。どうしたものか。面倒だけれど、これから何かを作らなきゃならない。風邪っぽい症状はさっきよりも軽くなっている。鼻声ではあるが、鼻が詰まっているような感覚はない。
 もしさっきの約束をするためだけに我が家を訪れたのであれば、なんて暇なやつだろう。そんなことを思いつつ、俺はイスに座った。本棚から、レシピ本を取り出す。短い時間でつくれそうなものを、ページをめくりながら探す。
 そこで俺はふと、机の上を見てあることに気付く。本を閉じて、玄関へ向かう。靴を履き部屋を出て、隣の部屋の前に来る。チャイムをならす。
「ういー」
 男の声がした。ドアが開き、中からさっきの男が出てくる。
「どうしたんだい?」
 わざとらしい声で返してきた。俺は言い返す。
「てめぇUSB盗んだだろ」
「知りません」
 ガチャン。ドアがしまった。俺はドアを叩く。
「おいこら!貸さないっていっただろ!」
「いいじゃないのケチー」
「開けろ!開けやがれ!そうだ、もう一戦だ!俺にスマブラで勝ったら貸してやる!」
「結構です」
「お前がいうな!」
 時刻は夜の10時になろうとしていた。静かな廊下に、俺と隣人の声がやたらと反響している。