婚姻墓場

あるところにアウディに乗ったデブがいました。まいあさ高速道路の高架をくぐり抜けて、職場にいそぐのです。

そんなデブと、やはりまいあさすれ違うものがおりました。頭から尻尾の先まで、真っ白な犬です。

「オッ、アウディに乗ったデブめ。今日も来たな」そう呟いた犬の前を、ドイツの高級Cセグメントカーが砂煙を上げて走り抜けていきます。ブオォ! 「クソッ! おれも金さえあれば四つ輪くらい転がしていらあ。屁でもねえぜ」犬はひがみを言いました。

「いいさ、おれにはこの脚があるとも」犬には四つ輪はありませんでしたが、そのアシはすばらしくしなやかで、犬がどこへ行くにも十分な用を成してくれるのでした。「なに、まに合っちゃあいるんだ」犬は自分に言い聞かせるように、また呟きました。 

デブのアウディは、犬とすれ違った場所からすぐ近くにあるコンビニに寄り道をするようです。実を言うとデブは出がけに手間取りましたので、アウディに乗車する前からずっと催していたのです。いよいよ我慢ならなかったと見えます。駐車場に車を滑り込ませると、転がり落ちるように車内から飛び出して、車のエンジンも止めないまま店内へと向かいました。

「しめた」といって駆け出したのは、一部始終をみていた犬です。犬はアウディの運転席に座りました。えいやと乗り込んでしまえばもう怖いものはありません。「オートマのパワステ付きなら、チョロQみたいなもんだ。アウディはピーキーだから、気を付けねえとな……」ようやくデブが用を足して店内から出てきたとき、自慢の真っ赤なCセグハッチバックは、影も形もありませんでした。「アッ! やられた」これをあとの祭りといいます。

うまいことアウディを手に入れた犬は、冒険の旅の途中だったこともあり、先を急ぎました。アウディは最初こそ新しい運転者を試すような挙動を見せましたが、犬の的確な調教の甲斐あって今では従順な態度をみせています。人馬一体となり荒野を行く犬を、ハタ目には優秀なジョッキーの駆るサラブレッドと見えるかもしれません。今やアウディに乗った犬と言っていいでしょう。「あそこに城があるな。今夜の宿に泊めさせてもらおう」そうはいっても所詮は畜生ですから、世界は自分の思い通りになると考えていますね。城の門番は、上役に話を通してくれましたが、彼らは思ったより頭がかたいようです。「泊めてやってもいいが、それには条件がある」

提示された条件とは、世間を牛耳るという悪い竜を懲らしめてくることでした。軽はずみな犬はふたつ返事で引き受けると、さっそくアウディに乗って、竜の住処に駆けつけました。少し走るとすぐに竜は見つかりました。竜は、小山ほどもある大きな図体を、節々を折りたたんで顎を地面に休ませていました。犬はアウディの運転席パワーウインドウを操作します。関係ゴム部品の経年劣化による膨張があり、窓ガラスの動きはよくありませんでした。犬は毒づきます。「ドイツ車め。輸出先の気象環境をもっと研究しろよな。エアコンもきかねえ」半端に開いた車窓から肘を出して、犬はそこから身を乗り出して言いました。「おい竜!」

「いかにも、ワシが竜のメシフロセンタクである」「どうも、あんたに苦情が来ているぜ」「畜生がこのワシに何を期待しているのか知らんが。竜はただ人々と共にあり、その行末を見届けるだけである。そういうものだ」「まあおれもあんたには敵わんと思ってるよ。そもそも人間の生活には不可分のものだ」「ものわかりはいいらしい」竜は長いひげのある口元を動かしてニヤリと笑いました。

鰐のような縦長の瞳、犬は自らの体長の倍はあるかという大きさの竜のめだまをじっと見据えて言いました。「だがおれが今晩の宿を得るため、少し協力してもらわなきゃならない」竜はため息まじりに答えます。「なにが望みだ。もっとも、聞いてやるかどうかは話が別だが」アウディは8速ATのNレンジでアクセルペダルのあおりを受け、唸り声をあげました。「あいにくおれは犬でね」

アウディ自慢のクワトロ技術が優れたトラクションを生み出すのです。犬は強烈な加速Gにより運転席シートに押し付けられました。車載された耐圧容器の、いかにも怪しげなバルブを開くと、ドボドボと音を立て、頭がくらくらするような臭いの液体が車内を浸してゆきます。……それはきわめて危険な、爆発性の強い化学薬液に違いありません。犬は自分の力だけでは竜にかなわないことを見込んでいました。かわりにアウディを竜に突っ込ませて、一発食らわせるつもりでいたのです。自分のお金で買った車であれば思いつきもしない作戦で。眼前に竜の目玉がみるみる迫っています。

運転席ドアを開けて車外に退避する前に、犬にはまだやることが残されていました。グローブボックスからフレアーを取り出して点火。勢いよく燃焼を始めたこいつが正面衝突の衝撃で助手席から転がり落ちることで、先ほどの爆発性の液体の着火源となるでしょう。おまけにラゲッジスペースには強力な火薬が満載されています。あとは野となれ山となれ。「くたばれ最愛の敵!」アウディが竜の角膜を突き破る! ドカン! 竜の断末魔! あたりにはもうもうと黒煙が立ち上りました。

きれいな竜の目玉を犬は思い出していました。正気に戻ると自分の体はすっかり砂に埋もれていました。がばと立ち上がると耳が全然聞こえませんでした。見当違いの電波を拾うテレビジョンみたいな音が耳の奥で鳴りやみません。頭はふらついて足がもつれ、再度犬は砂地に倒れこんでしまいました。ここで野犬にでも襲われたらひとたまりもないな、などと思いましたが、野犬の出る日暮れまではもう少し時間があるようです。

ほとぼりがさめたころ、竜の住処には跡形も残っていないようにみえました。竜の目玉が落ちていないか見渡しましたが、目玉はおろか、肉片の少しも見あたりません。爆発のあったらしい箇所はすすけて、地面は衝撃波によって放射状にならされていました。まるで掃除機でも使ったみたいにすっきりしていました。あたりには、爆発のなごりでしょう、きな臭い空気がまだ漂っていました。と、その中心地であろう場所に、なにかまだ残っているようです。がめつい犬はこう考えました。「金になるようなものが残されているかもしれない」しかしそこにうずくまっていたのは、ひらひらで豪奢なドレスをまとった、みるも可憐なお姫様だったのです。

犬はお姫様を城に連れて戻りました。そして姫君を窮地から救った英雄として担がれ、周囲に流されるまま結婚の運びとなりました。それからふたりは日々をくらしました。


オワリ