Neetel Inside ニートノベル
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 5歳のころ、甲皇国の帝都マンシュタインにおいて、メゼツは内気な少年時代をすごしていた。母親と死別したばかりだというのに、父ホロヴィズはメゼツを次期丙家当主に相応しい軍人にすべく英才教育をほどこす。生まれつきだった左利きも、矯正させられている。他人との違いをホロヴィズは極端に嫌悪した。個性とはすなわち亜人の特徴であると。
 ある暖かい日、メゼツは別荘の庭に出て絵を描いていた。遊びではなく父から与えられた課題である。当然右手だけで描かなくてはならない。ただでさえ持ち慣れない筆で、白の絵の具にほんの少し黒を混ぜる。パレットの上に生成された淡い灰色を筆に馴染ませて、キャンバスの上のほうから塗り付ける。うまく左手が動かず、乾ききらない絵の具が垂れて、灰色のしずくが涙のように滴り落ちた。
 ひどくおどろおどろしくなってしまった絵を整えようと、メゼツはつい左手に筆を持ち代える。
 悪いことほどすぐばれるもので、不正はすぐに発覚した。
 得体のしれない視線を背中に感じ、ゆっくりと振り返ると、鳥の頭蓋のマスクが目の前にある。
 メゼツは生まれてこのかた父の素顔を見たことがなかったが、今この眼孔の奥で目を血走らせて怒っていることは見なくても分かった。
 ホロヴィズは無言でキャンバスを引き裂き、まっさらな予備のキャンバスを突き付ける。
 メゼツもただ黙って右手に筆を持ち、やり直し始めた。
 ホロヴィズが仕事のために立ち去った後も、まだどこかで見られている気がする。メゼツは落ち着きなくチラチラと後を確認すると、今度はきれいな女性と目が合った。
 病的なほどに透明感のある肌、ブロンドの髪、日よけのためか長いローブをまとっている。磁器のような顔には小さなヒビが入っていた。後に顔の左半分に及んだ体を腐らせる病は、この時は小さな傷跡にすぎない。
「何を描いているの?」
 メゼツを気にして話しかけてきたのはホロヴィズの後妻のトレーネだった。
 ホロヴィズは実母の死から立ち直れずにいたメゼツのために、敵対する乙家から後妻を迎えた。しかしホロヴィズの配慮を子供のメゼツが分かるはずもなく、ショックを隠しきれない。新しく母を名乗る女性が現れても、どうしてもトレーネを母と呼ぶことはできなかった。
 
「トレーネさん。ぼく、お庭の絵がうまく描けないんだ。ぼくは右手がうまく使えないから」
「左手を使ってもいいのよ」
「えぇー!? でも右手を使わないとお父さんが怒っちゃうよ」
「どうして? 左手も右手も両方使えるようになればいいじゃない」
「そんなの無理だよ、できないよー」
「今はできなくても、メゼツお兄ちゃんにはできるわ。将来の自分自身を信じてあげて」
 トレーネはそっとメゼツの手をとると、みずからの膨らみ始めていたお腹に押し当てた。暖かい。手のひらに音が伝わってくる。鼓動だろうか、笑い声だろうか。妹も応援してくれている。
 自分を信じることにためらいはあったが、トレーネさんのいうことには不思議な説得力がある。メゼツは左手に筆を握り、空の色を灰色に塗った。
 調子付いて、今度こそと右手にもう一本筆を持つ。二刀流だ。右手の筆に明るい緑の絵の具をつけて、庭に自生するパトの木の新緑を描く。
 せっかくうまくいっていたのに、右手は垂れてきた絵の具で汚れる。
 まだだ。構わずに描き続けたが、こんどは右手の筆を落としてしまった。
 まだまだ。メゼツは緑色に汚れた右手を使ってパトの木の葉を描き始める。
「右手上手に使えるじゃない。筆なんてなくても」
 この人に褒められると、どうしてこんなにうれしいのだろう。もっと褒めて欲しくって、今度は灰色の空を銀色に塗りつぶした。
「皇国の空は灰色だけど、空がいつも同じ色だったらつまらないわ。銀色の空、とってもきれいね」

       

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