Neetel Inside ニートノベル
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 日曜の晴れた昼下がり。俺は喫茶店のテラス席で今日〆切の原稿を前に頭を抱えていた。一応完成してはいる。〆切は絶対だというから、必死の思いで書き上げたのだ。だが、出来栄えは散々だった。どんなに頑張っても作品にリアリティを込められない。担当編集にも以前言われたが、吹き込まれた息吹が、魂が全く感じられないのだ。
 横では母親が赤ん坊と戯れている。休日の微笑ましい一場面だ。赤ん坊は言葉を覚えたばかりらしく、しきりに指を指して物の名前を言っている。
「ワンワン! マーマ、ワンワン!」
「そうよー。ワンワンさんよー、かわいいねー」
「とと! とと!」
「そうだねー、あれお魚さんだねー」
 魚? 少し首をかしげたが、そこの公園にくじらの銅像があったことを思い出した。くじらは魚じゃないけど。
「ダイオンさん!」
「んー? そうねえ、ライオンさんにも見えるかなー?」
 流石に俺は吹き出した。ライオンが東京の街のど真ん中にいるはずはない。何かのアニメのキャラクターか、或いは猫にシャンプーハットでもついていたのかもしれない。その『ライオン』の正体を確かめようと顔を上げた瞬間だった。
 周りの空気を震わさんばかりに、猛獣の雄叫びが轟いた。
 東京の日曜午後の交差点。祭でも歩行者天国でもなんでもなく、普通に車の往来のあるそのど真ん中に、百獣の王は君臨していた。四方に油断なく、しかし威厳のあるしぐさで睨みを効かせる。道路を挟んだ反対側の公園では、巨大な小山のような軟体が、ビチビチと飛び跳ねているのが見えた。
 信号は青だというのに、先頭車両は動かない。いや、動けないのだ。車に乗って、ハンドルを握っていても、きっとあの威圧感からは逃れられないのだろう。誰もが動きを止め、言葉を失い、ライオンの一挙一動を見守っていた。ただ一人を除いては。
「ブーブー。ブーブー」
 赤ん坊の左手にはトミカが握られている。いや握られていたというべきか。トミカはもはやトミカと呼べるサイズではなくなっていた。それは赤ん坊の振り回す左手から飛び出ると、街路樹を薙ぎ倒しながら交差点へと突っ込んでいった。
 俺は反射的に赤ん坊に駆け寄った。あっけに取られている母親を押しのけると、赤ん坊の眼前に原稿をぶち撒ける。赤ん坊は原稿を眺めると、指差して口を開いた。さあ、頼むぞ。
「ちんぶんち!」
 俺の原稿は、みるみる灰色に染まっていった。

       

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