Neetel Inside ニートノベル
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 その日も相変わらず眠れなかった俺は、安眠を手に入れるべく、いつもの儀式を執り行うことにした。

 溢れんばかりの光に照らし出されつつ、静寂の中に身を置く。視覚と聴覚、それに触覚を最大限に研ぎ澄まし、微かな大気の揺らめきを、僅かな温度の震えをも感じ取りに行く。実際にはそんなことは出来っこないが、蚊取の道はそれぐらいの極限の集中を必要とするのだ。
 一瞬の羽音は、まだ吸われていないことの証。羽音の方向へ目だけを動かす。焦るな、と自分に言い聞かせる。拙速は最大の敵。動きを止めたまま、決して見失わぬよう高速の動体を目線で追いかける。聴覚による捕捉を視覚に、視覚による捕捉を触覚に通じることで、一瞬の「勝ち確」を作り出せるかどうかが蚊取技術の真髄だ。
 標的はまだ動きを止めない。飛翔中に仕掛けることは可能だしそれで打ち漏らすとも思わないが、わざわざ勝率を下げに行くような必要もない。気配を殺し、意識を殺し、飛蚊の動きにだけ反応する機械となって、その身を、精神を蚊取に捧げていく。自分自身が、蚊取道の一部となっていく感覚に身を任せる。
 狙いの瞬間が来るのにはもうしばらくかかったが、ようやく標的はこちらの太腿に狙いを定めた。それこそがこちらの狙い。奴らが血の臭いに誘引される一瞬の隙。狩る者が見せる、狩られることへの警戒の低減。一瞬の判断と刹那の跳躍。自分の中にあるばね仕掛けがぐるり、と回転する感覚。
ーー秘 拳 、 [ピー] 本 ヌ ガ ー。
 遥か昔に習った必殺技の名を、心の中で叫ぶ。名前の由来は聞いたような気がするが、もう覚えちゃいない。[ピー]ってなにの伏せ字だっけ。そんな胡散臭い響きとは裏腹に、技は確かに標的を捉えていた。手の平と太腿に残るじんじんとした感触。赤い手形の中には黒いスジの浮いたシミがくっきりと残り、掌にはくしゃりと潰れた黒い身体がへばりついていた。

 ドタドタっという音を聞いて何事かと息子の部屋を開けると、彼は部屋の明かりを煌々と点けて、全裸でポーズを決めていた。左膝をついて右足を後ろに突き出し、左手を捻りながら前へ押し出すかのような珍妙な構えである。右手と頭はバランスを取るかのように右後方へ投げ出されている。
「何してんの?」
 無駄とは知りながら聞いてみたが、返ってきたのは枕と毛布、それに「出てけ、ババア!」という苦しまぎれの罵声だけだった。

       

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