Neetel Inside ニートノベル
表紙

日替わり小説
10/20〜

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「どうした、朝からご機嫌だな」
「そうなんだよ……フフフ、分かっちゃう?」
 俺はヒロと顔を見合わせた。冗談のつもりで言ったのに、こんな反応が返ってくるとは。
「相当なご機嫌っぷりだな。頭でも打ったか?」
「打ってないよぉ。もう冗談が上手なんだから」
 ノブはニヤニヤ笑っている。
「なあ、マジで何があったんだよ。教えてくれよ、俺たちの仲だろ?」
「えーでもな……」
「なんだよ、隠し事はなしにしようぜ? 友達じゃん」
 なんとか理由を聞き出そうとしたが、こういう時のノブはやはり用心深くて俺たちのことを微塵も信用してくれない。
「いや、やっぱ駄目。君らに言ったらさんざんっぱらからかわれたりおちょくられたりして台無しになるのが見えてるからね」
 この件はおしまいとばかりにノブは席を立った。俺たちはノブに見えないところで目線を合わせ、即座に行動を開始した。

 その日の放課後、ノブは校舎裏にある旧体育倉庫の前に立っていた。奴の前にいるのは何と女子生徒だ。タイの色からすると後輩だろうか。落ち着きなく身体を揺らしながらノブをちらちらと見ている。二人とも俺たちのことは気付いていない。後をつけたのはバレていないようだ。
「実は、先輩に前から言いたいことがあって」
「うんうん、何?」
「えっと……その……」
 女の子はもじもじしながら俯いて言い淀んでいる。ノブの声は優しかった。
「言えるまで待つからね。落ち着いて喋ってごらん」
「はい……実は……ずっと前から嫌いでした! 二度と姿見せないでください!」
 周囲が凍り付く音がした。女の子はキャーと叫びながら走り去っていく。擦れ違いざまに真っ赤になった顔がチラリと見えた。
 ノブはといえば、魂の抜けたような表情でぼんやりと突っ立っている。死んでいるのかもしれない。
「ノブ? 大丈夫かー生きてるかー」
「元気出せよ! 何、ちょっと言い方が刺激的だっただけで、明日から何か変わるわけでもないじゃん」
「うるせえ! つけてくんな! 死ね!」
「まあまあ怒るなって。ショックだったかもしれないけど、今日のとこはうちで飲んで忘れようぜ! 未成年だからノンアルコールだけど」
 泣き喚くノブを両脇から抱えて俺達は夕暮れの街へ繰り出していった。ちなみにヒロの実家はコンビニのフランチャイズである。

     

『さあ次の種目は、クラス別対抗障害物競走です! この競技ではクラス毎の代表が、特設のステージにて様々な障害を乗り越え、ゴールを目指します!』
 元気のよい会場アナウンスと共に学生たちが入場門よりグラウンド中央の選手控え位置に進んでいく。まだ中学生のようなあどけなさを残す1年生から、教師とさほど変わらない風格を漂わせている3年生まで、各クラスごとに1名、合計12人がトラックの中に並んで座る。
『今回の障害物競走のテーマは『アメ』です! アメに関する様々な障害が選手たちを待ち受けます!』
 障害物の準備が整うと、選手たちはぞろぞろとスタートラインに並んだ。それぞれに準備をしながら集中を高めている。秋空に号砲が響いて競走が始まった。
『さあ、始まりました! まず最初の障害は障害物競走ではお馴染のアメ食いです。選手は手を使えません。小麦粉の中にある飴を顔と口だけで探し当てます。また、ここで使われているアメは通常のアメではなく』
 応援席からワッと歓声が挙がった。一人の選手がアメを見つけて起き上がったのだ。その口にはものさしのように長い棒のようなものがぶら下がっている。
『早速最初のアメ発見者が現れた! 青のハチマキは3組です! ご覧いただいていますように、今回使われているアメは金太郎飴です! 七五三でしか食べられない筈の金太郎飴、高校生で食べられるとは縁起がいいですね! ただし重いのでくわえるのが大変……あっと落とした!』
 選手が慌ててもう一度拾いに行く間に後続の選手が次々追い抜いていく。
『さて次は陸上でも利用されている水場障害です。幅はかなりありますので、飛び越えるもよし、ざぶざぶと足を入れるもよし! ただし』
 一早く突入した選手が足をもつれさせて転び悲鳴を上げた。
『中の水は水飴です! ねばねばして走りにくいぞ! 気をつけろ!』

 様々な甘い障害を乗り越えて優勝を手にした選手の顔は様々なアメで汚れ、べたついており、不快感を隠せていなかった。
『では恒例の優勝コメントをいただきましょう。今のお気持ちをどうぞ!』
「もうアメはこりごりです」
『ありがとうございました! なお優勝しました3年2組には副賞として、アメ玉1年分が送られます! 改めまして優勝おめでとうございます!』

     

「全員集まったようだな」
 玉座から立ち上がって首領が声をかけると、前に集まっていた幹部たちが一斉に目をむけた。
「今回全員に召集をかけたのは他でもない。諸君らの多くも知っているように、我々の手のうちににっくき魔法少女が落ちた」
「おおおお!!!」
「これまでの中でもっとも嬉しい知らせだ!!」
 首領の脇に後ろ手に縛られて転がされている魔法少女の姿を見て、一部の幹部から歓声が上がった。残った幹部たちも嬉しそうに顔を緩めている。
「静かに。話はまだ終わっていない」
 首領の声に幹部たちは喋るのをやめて再び真剣な顔に戻った。
「我らはこれを機に一気に畳みかける。そこで、この魔法少女を我らの仲間に引き入れ、新たなる幹部として計画の一端に加えたい。諸君の中に、何かよい知恵のある奴はいないか? どのようにこの魔法少女を仲間とするのがよいか」
「一般的なのは洗脳でしょう。機械にかければ一発です」
 参謀格の幹部がこともなげにそう言うと、「いや待て」と後ろの方から声が上がった。厚い外骨格を身につけた猛将と名高き幹部だ。
「洗脳では肝心な時に解けてしまう可能性がある。それに魔法少女は精神力も強い。機械ごときではうまくいかん」
「ほう、ではどうすればよいのですか?」
「人間共のクソさをこんこんと語って聞かせ、進んで仲間に入れて欲しいと言うまで教育するのだ」
「そんな古びた精神論、今時通用すると思いますか?」
「なんだと!」
「そうよ。あなた分かってない。女の心を動かすのは理想じゃない。愛よ」
 女の幹部が口を挟んだ。
「だから、幹部の誰かに恋をさせればいいわ。あなた、魔法少女にキスしなさい」
「俺が? 俺はこういう乳臭い女は嫌いなんだが」
「つべこべ言うな! 魔法少女と恋をする敵役は実直な猛将タイプと決まっているのよ!」
 女幹部の叫びを皮切りに幹部たちは口々に叫び出した。
「肉体的な改造が良い。肉体が精神を決定するのだ」
「洗脳は洗脳でも機械に頼らずオーソドクスな催眠術を使ってマインドコントロールすれば解けにくいはず」
「憑依させよう。今ある精神を抜き取って別な魔族の魂を入れれば」
「もうやめて!」
 性癖博覧会となった場に少女の悲鳴が響き渡った。
「なります。貴方たちの仲間になりますから、非人道的なことをするのはやめて……!!」
 魔法少女がそう言って泣き崩れるのを見て、首領は言った。
「何か分からんが、結果オーライだ。各自解散」

     

「女湯を覗くぞ!」
 風呂場に入るなり、先輩は高らかに宣言した。
「何をいきなり、無茶ですよ」
「ビビっては為すものも為せんぞ! 学生旅行では男は女湯を覗くものと決まっている!」
「そんなこと言ったって、あんな高い塀登れませんよ」
 僕の言葉を先輩は鼻で笑った。
「ふん、お前ら、何のために体育祭で身体を鍛えてきたと思っているんだ。見てろ」
 先輩は塀の真下で突然俯せになると、背中をピンと伸ばした。
「あの、先輩?」
「ほら、何やってる。お前らも早く並べ! ピラミッドの土台を作るぞ」
 先輩の言葉に僕らは顔を見合わせた。
「ピラミッドって、まさかあの組み体操の」
「そうだ! ピラミッドの段数を増やせばいずれ塀の高さを越える、つまり女湯が覗ける! 体育祭で鍛え上げた成果、今こそ見せるときだ!」
「おお、なるほど! この時の為のあの辛く苦しい練習だったんですね!」
 先輩の号令一下、僕らはいそいそと組体操を始めた。
「どうだー? 見えるかー?」
「うーん……立てば見えそう、です……」
 最上段からの報告に下は湧き上がった。
「よし、見えることを確認したら一回降りてこい」
「交代で上に登って見ようぜ」
「順番決めようぜ! じゃんけんでいいかな」
「あ! あ! ダメ、揺らさないで」
 最後の方の言葉は悲鳴に変わっていた。ドボン、という音と共に水飛沫が上がり、僕らは湯船に放り出された。

 組体操に失敗した僕らは再度作戦会議を開いた。
「やはりピラミッドでは駄目だな。土台となる人と上に登る人とが入れ替わるのに時間がかかりすぎる」
「しかし、他に高所を取る手段となると」
「これしかあるまい」
 でてきたのはやたらデカい棒だった。
「なんですか、その棒?」
「これは棒倒しの棒だ。お前ら棒倒しの要領でこの棒を立てろ。絶対に倒すなよ」
「え? 立てるって、まさか」
「そうだ。俺は攻め側の要領で、この棒の上に登る。そして覗く! 体育祭で鍛え上げた成果、今こそ見せるときだ!」
「おお、なるほど! この時の為のあの辛く苦しい練習だったんですね!」
 先輩の号令一下、僕らはいそいそと棒倒しを始めた。
「どうですか、先輩、見えますか」
「うーん、あとちょっと……もう少し高さが欲しい……もっとちゃんと立てろ、頑張れ!」
「そんな、これが限界……あっ」
 ずこっ、と誰かが足を滑らせたような音が聞こえた。ドボン、という音と共に水飛沫が上がり、僕らは湯船に放り出された。

     

「もう、この子は……ワガママ言わないの!」
「いややいやや、もうおうち帰るー!」
 車内に少女の泣き声が響き渡る。帰宅ピークは過ぎたのか満員ではないが、それでも乗車率が100%を越えているだろう夕方の電車に乗る人は皆疲れた顔を浮かべていて、ある者は苛立ちを隠さず親子を睨みつけ、またある者は単に濁った目を親子に向けていた。
 と、一人の乗客が向かいの席を立つと、母親の前に立った。ややふくよかな中年の女性だ。
「お嬢ちゃん、どうしたん? 悲しいんか? おー、よしよし」
「す、すいません、ご迷惑をおかけして」
「ええのええの、母親一人で子供の面倒全部見るなんて不可能や。この子がゴキゲンになったら皆も嬉しいし、お互い様よ」
 女性は謝る母親までもなだめるようにしながらあの手この手で少女を懐柔していく。
「あんな、お昼ごはんでな、お母さんがな……」
「おお、そうかそうか、大変やったな、よしよし、おばちゃんが撫でたる。ほら、アメちゃん食べ」
 女性がバッグを探ると、中から小袋に入った苺みるくキャンディーが出てきた。少女の泣き腫らした赤い目がパッと輝き、すぐに伏せられた。
「でも、お母さんが人から貰ったものは食べちゃダメだって……」
「いやその! 違うんです! もうこの子は」
「ええねんええねん、最近は怖い事件多いもんな」
 女性はバッグから苺みるくをもう一つ取り出した。
「ほんなら、おかあちゃんに毒味してもらお。毒味しても問題なかったら、お嬢ちゃんが食べても問題ないもんな?」
「な、お母さん、ええやろ?」
「本当に、何から何まですいません」
「構へん構へん。おかあちゃんもアメちゃん用意しといた方がええで……あっアカン! 食べるの待って!」
「えっ?」
 女性は突然大声をあげて制止したが、母親は既に口の中に飴玉を放りこんでいた。
「ああ、しもた……渡すアメちゃん、間違えてたわ……」
「間違えたって、何が?」
 既に自分も舐め始めていた少女が尋ねる。もうすっかり涙は引っ込み、柔らかな笑顔すら溢れている。
「あれは子供用なんや、大人が舐めたらあかん」
「どう違うん?」
「ああなってまう」
「アメおいしい! おばちゃん、ありがとう!」
 女性が指差した先で、母親は締まりのない顔でにへにへと笑いながら舌足らずな御礼を叫んでいた。

     

「ねえ、ホントにこんなところに宿があるの?」
「こんなところだから安いんだよ。最近流行ってるから」
「でも、ちゃんとした旅館とかじゃないんでしょ? 何かあったら困る」
「大丈夫だよ。前に使ったこともあるけど、意外と清潔で過ごしやすいし、宿の人と顔を合わせなくていいからむしろ気楽に使えるし」
 男は気楽に言うとやおら郵便受けに近寄り、ガチャガチャやり始めた。
「ねえ、何してるの?」
「鍵だよ。ここが受け渡し場所に指定されてるから。ん、これ開かないな」
「もう……貸して」
 女は男を郵便受けの前からどかすと、あっさり扉を開けた。
「はい、鍵。全く、使ったことあるんじゃなかったの?」
「いや、一回使ったぐらいじゃ覚えられないだろ……。ていうか、お前はなんで開け方知ってるんだよ」
「え? あ、前に住んでた部屋がこんな感じの郵便受けだったから……何、悪い?」
 男は少し何か言いたそうに口を動かしたが、結局何も言わずに肩をすくめて女の後をついていった。

「あれ? 開かない」
 指定された部屋に鍵を差し込んだ男は首をかしげた。
「ほら、やっぱり何かあったじゃん。素直に普通のホテルにすれば良かったんだよ」
「うっさいな」
 貸し主は『渡す鍵を間違えたので、正しい鍵を渡しに行く』と連絡してきた。しかし、女はこれを聞いて眉間に皺をよせた。
「私、こんなところでずっと立ちんぼするのイヤ。そこの喫茶店で待ち合わせにしよ? いいでしょ?」
「いちいちワガママだな……そんなにこの建物イヤなの?」
「イヤ! 人に会うかもだし……何だったら今からでもホテルに変更したいぐらい」
 男は少し何か言いたそうに口を動かしたが、結局何も言わずに肩をすくめた。

 喫茶店で待つこと数分、ホストの男が喫茶店に現れた。
「いや、この度は大変ご迷惑をおかけして申し訳ありません。ところで、お連れ様はどちらに……?」
「え……あれ?」
 男が辺りを見渡した次の瞬間、入口のベルが鳴った。見れば女が走って出て行くところだった。
「「ヨーコ!」」
 二人が叫んだのは同時で、思わず顔を見合わせたのも同時だった。
「あれが、そちらのお連れさん?」
「そういうそちらは、どういう関係ですか?」
 訝って聞いた男に、ホストはピシャリと言った。
「父ですが」
「あっ……お義父さんでいらっしゃいましたか」
「『お義父さん』と呼ぶな」
 男は少し何か言いたそうに口を動かしたが、結局何も言わずに肩をすくめた。

     

 その日様々な業務メールや広告メールに紛れて届いたのは、時代遅れ甚だしいスパムメールであった。
 得体の知れない怪しげな差出人アドレスに聞き覚えのない英名の差出人、本文は意味を為さないアルファベットの羅列だし、唯一意味の通るタイトルは「Trick or Treat?」と気取っている。大方ハロウィンの一斉送信なので言いたくなったのだろう。それにしたって今時画像もhtmlもなしの平文テキストでスパムとは……よく迷惑メールフィルタに引っ掛からなかったと逆に感心してしまった。即座にゴミ箱にドラッグ・アンド・ドロップ。
「さて、今日はこの辺にして寝ますか」
 パソコンの電源を切ろうとした時、異変に気付いた。マウスが動かない。キーボードからのショートカット操作も受け付けてくれないようだ。CPUファンが激しく回り始めたところから見るとフリーズだろう。
「おいおい勘弁してくれ」
 まだ保存が終わってない書類がいくつかあるんだが? とPCに向かって訴えかけても後の祭りである。泣く泣く電源ボタンを長押しして強制終了。電源を再投入して出てきた表示に思わず舌打ちして顔を顰めた。
「あ〜〜まずいなーこれ、まずいよー」
 何もソフトを起動していない筈なのにポップアップしたウィンドウは鮮やかなオレンジのカラーリングで、真ん中に大きく『Under Tricking...Please Wait a Moment!!』と書かれている。ウィンドウからのフォーカスは外せず、操作は一切受け付けてくれない。ウィンドウの下の方に小さく書いてある注意書きを要約すると、こういう具合だ。
『お菓子をくれたら今やってるいたずらはすぐに中止されます! 元に戻したい人は今すぐ下記HPから我々にお菓子を送ってください!』
 試しにリンクをクリックしてみると、Amazonのウィッシュリストに飛ばされた。リストには古今東西の様々なお菓子が並んでいる。中から一つ(蒲焼さん太郎)カートに入れて決済すると、ウィンドウは閉じ、普通に操作出来るようになった。お菓子はあれだけでいいらしい。
「なるほどね」
 最近のランサムウェアは凝ってるな。ハロウィンを模してくるとは。でも、あれだけの技術力があるなら普通に金を振り込ませた方がいいんじゃなかろうか。
 ピーンポーン。インターホンに息子が応答する声が聞こえる。
「どちら様ですか?」
「Amazonウィッシュリスト様からお届け物です」

     

 その男の纏う空気は明らかに異様だった。一歩足を踏み出すたびに周りの通行人たちが彼の方へ振り返り、目を驚いたように瞠ってから慌ててそばから離れる。結果として彼の前からは人が引き潮のようにどんどん人が引いていき、彼は無人の道であるかのように新宿の雑踏を平然と歩いていた。
 もし注意深く彼を観察していれば、その肩の上に小さな蜘蛛のような形の機械が乗っていることに気付いたかもしれない。いや、気付いているからこそ、誰もが男を避けて歩くのだ。それが男には我慢ならない。
「ちょっと、何あの人……」
「やめとけって。ほら、肩に乗ってるだろ? アレ」
 一組のカップルがヒソヒソ声で会話しながら彼の横を通り抜けようとした。
「おい! てめえら、ジロジロ見たりコソコソ話してたりすんじゃねーぞ!」
「す、すいません」
「うるさい! お前には言ってない!」
 男はまた怒鳴ったが、その目はカップルではなく、自分の肩に向けられていた。
「あの……」
「うるせえ! これ以上何か言ったらムシって叩き壊すぞ!」
 周囲には早くも野次馬たちが集っている。そこに突如として電子音声のような声が鳴り響いた。
「ピー。当該行為は遵守事項に違反しています。ただちに行為を停止するよう警告します」
「俺はまだ何もしちゃいねえだろうが! 悪いのは勝手に俺が何かすると思い込んで爪弾きにしてるコイツらの方だ! 違うのかよ!」
「お気持ちは理解しますが、その事実が行為を正当化する論理は存在しません。ただちに非推奨行為をやめ、通常の保護観察プログラムに復帰してください」
「黙れ! 機械に人間の気持ちが分かってたまるか!」
「ピピー。今の発言はレベル5の暴言に相当。保護観察官への報告対象となります。ただちに発言の取り消しを推奨します。取り消さない場合……」
「うるさい、うるさいうるさい! なんだこんなもの!」
 男は肩の上の機械を掴んで投げ捨てた。地面に叩きつけられた機械は、ひっくり返った状態のまま大音量で警告を呼ばわり続けている。
「ピピー。今の行為は一般遵守事項の1に違反しています。ピピー。今の……」
「違反でもなんでも構うものか! こうなったら万引でもなんでもして、無理やりにでもムショに帰ってやろうじゃあないの!」
 男は一通りわめき散らすと、血走った目を群集に向けた。
「まずはお前らからだ!」
 男が吠えると同時に悲鳴が上がり、辺りはパニック状態となった。

     

 更衣室のカーテンが開くと中には目をそむけたくなるような造形が鎮座していた。胸部、腹部を問わず限界まで引き伸ばされた元生地。あしらわれた刺繍やレースなどの装飾は本来服の艶やかさを際だたせるアクセントのはずだが、中から押し出され糸がほつれ、まるでクリスマスツリーにぶら下がる飾りのようになっている。どうコメントしようか迷っていると肉の塊が口を開いた。
「どう? 似合うかしら?」
「わあ、とってもお似合いですよー!」
 私は必死に両手を叩いて褒めちぎると、目の前の失敗した福笑いのような顔が相好を崩した。
「そう? 私としてはちょっと派手過ぎるかなーとも思ったんだけど……」
 言いながらちらちらこっちを見るな、うっとおしい。大体その服がどうしても着てみたいと言ったのはお前だろう。と、思ってはいてもそんなことはおくびにも出せない。見た目は特撮に出てきそうな怪人だったとしても、この店にとっては大事な太客である。たかだか1店員のぞんざいな接客で気分を害されてはたまらない。
「確かに使いどころは多少選ぶかもしれません。ご希望でしたらより落ちついた色合いのものもご用意出来ますがどうしますか?」
「あらーそうなの? じゃあそっちの方も試してみようかしらー」
「かしこまりました」
 バックヤードから持ってきた服をカーテン越しに渡す。しばらく待つと、更衣室のカーテンが再び開いた。
「どうかしら」
「いや、素晴らしいです! めちゃくちゃ似合ってますよ!」
 全力で口を極めて褒めていた私は、その異様な状態に気付かなかった。
「うーん、私も気に入ってるんだけど、ただちょっとキツい感じもするのよね。ちょっとこれ着たまま歩いて感触確かめてみてもいいかしら?」
「構いませんよ、店内でしたらお好きに歩いていただいて……」
 私は続く言葉を失った。
 彼女は服を着ていなかった。さっきの明らかに似合っていないうちの売り物どころか、何一つ身につけていない、すっぽんぽんのぶよぶよ悪魔がそこにいた。
「お客様!? 急に脱がれてどうされたんですか!」
「は? 脱いでないわよ? 何、似合ってないの?」
「脱いでるじゃないですか! 逆に似合ってると言えますけど!」
「うるさいわねさっきから。もういいわ、これ着てそのまま帰るから。レジ用意して」
 彼女はそう言うと全裸で売り場に向かって歩き始めた。
「お客様!? お待ち、せめて服は着てください! お客様ー!」

     

 娘は両頬を膨らませて真面目な顔して黙り込んでいる。
「どういうこと?」
「どういうって、なにが?」
「とぼけないで。ちゃんと説明しなさい」
「分からないよ。何がどうしたっていうの?」
 やれやれ。まずは状況を整理しよう。一言で説明すれば、『帰ってきたらパンの耳が消失していた』。うん、何のことか分からないな。もっと前から遡らないと。
 発端は娘が半ドン授業から帰ってきたところからだ。
「あ、サンドイッチだ」
「うん。今日のお昼にしようと思って」
「なるほど」
 娘はそう言うとまな板の上の大量のパンの耳をじっと眺めて、ポツリと呟いた。
「もったいないね」
「……そうだね」
 普段はサンドイッチ専用のパンを使うことが多いので、パンの耳のことは計算外だった。
「何か考えておくから、あんたは着替えてきなさい」
「はーい」
 クックパッドで『パンの耳』で検索すると、思った以上に色々なレシビがヒットした。中でもシナモンパウダーをまぶしておやつに食べるものがおいしそうに感じた。お昼の買い物のついでにシナモンパウダーを買ってくることにした。
「お母さん、ちょっと買い物行ってくるから。サンドイッチ勝手に食べちゃ駄目よ!」
「はいはい」
 そうして買い物から帰ってきたら、パンの耳が消失していたというわけだ。

「別に怒らないからちゃんと言いなさい。食べたんでしょう? パンの耳」
「食べてないよ」
「嘘おっしゃい。じゃあその膨らんだ頬はなに?」
「これは、その、汗ですよ、汗」
「何が汗だ! ふざけてないでさっさと白状しろ!」
「あっ、あっ、駄目、お母さん、やめて!」
 娘の手を払いのけて頬を両手で挟み込むと、娘の口からどろどろになった……プチトマトとレタスの残骸が出てきた。私は驚きのあまりのけぞって固まった。娘は涙目で溢れたものを口に詰めなおしている。
「だからやめてって……」
「あんた、それ、なに?」
「サンドイッチ。勝手に食べてごめんなさい! お腹すいて我慢出来なかったの!」
「いや、それはあんたの分も用意しておいたから……ってあたしの分!」
 そうだ。パンの耳に気を取られて忘れていたが、サンドイッチも跡形もなくなっていたんだった。
「あんた全部食べたの? 耳まで?」
「いや、耳は冷蔵庫に閉まっといたよ」
「じゃあそっち先に食べなさいよ! あたしの分だと分かっておいて食うな!」

     

「あー、駄目だ。もう限界!」
 私はペンを投げ捨てた。コーヒーテーブルの上をシャープペンシルが硬質な音を立てながら跳ねて転がっていく。音に気付いた弟が顔を上げた。
「どこ行くの?」
「コ・ン・ビ・ニ! バカのせいで切れたシュークリーム分を補給に行かなくちゃ」
「明日でいいじゃん」
「駄目! 今すぐ必要! 絶対に!」
「あー分かりました分かりました。じゃあついでに僕の分も、なんて」
「あんた自分の立場分かってんの?」
 昼間勝手に私の分を食ったのはこいつなんだが。恨みを込めて肩越しに弟を睨みつけると、弟はちょっとこっちを向いてにやっと笑った。
「いや、立ってる者は姉でも使えって」
「黙れ。氏ね」
私はあらん限りの力でもってドアを閉めた。

 最寄りのコンビニで定番のシュークリームを手に入れた私はほっと一息ついた。ストック用の分は明日行き付けのスーパーで買うだろうからここでは買わない、高いし。
「あとはあいつへの罰ゲームだな」
 私の燃料となっているシュークリームに無断で手を出すばかりか、在庫を切らして放っておくなんて身内とはいえ許しがたい犯行だ。店内を物色すること数分、パーティー用セールの棚にいいものを発見した。
「ロシアンシュークリームか……よし、これに決めた」
 当たらないとつまらないが、少し中身を見て当たりだけ渡せばよかろう。私は二つをカゴに入れてレジに向かった。

「おかえり」
「ただいま。……何あんた」
 帰ってくるなり弟は口を開けてこちらに顔をつきだした状態で固まっている。
「どうせなんか買ってきてくれたんでしょ? ほら」
「どこまでも厚かましい奴だな……お望み通り買ってきてやったよ、プチシューだけど」
「やり。ちょーだい」
「分かった分かった。早く頭外してよこせ」
「ほーい」
 弟は顎の下に手を入れると、捻るようにして頭部を外した。私はそれを受けとると、ロシアンシュークリーム(当たり)の容器の中に弟の頭を突っ込む。
「あまー……うまー……からっ! えっちょっ何これ、出して出して出して! 頭辛、痛い! 何これ何これ! うわー」
 ざまーみろ。絶叫する頭部と悶え苦しむ胴体とを放置して、私は自分の頭部を外し、シュークリーム装置の中に浸した。染み込むシュークリーム分。はぁ〜、至福。

     

 ワイワイ言いながら酒屋のメニューを覗く女子会の面々。何か見つけたのか、一人がメニューを指しながら言った。
「見て、ホッピーだよホッピー」
「ホッピーって何?」
「知らないの? うーん、ノンアルコールビールで焼酎を割って飲むみたいな感じ」
「えー、焼酎あたしきらーい」
「分かるー。芋とか絶対無理、頭痛くなるもん」
「うん、なんかさ、工場で作るから良くないお酒が多いとか聞いたよ? 悪酔いするんじゃないの?」
「やだー! わたしたちお持ち帰りされちゃうー」
 3人が『キャー』とわざとらしい悲鳴を上げる。ホッピーを勧めていた女は軽く鼻を鳴らした。
「はいはい、言ってなさい。私が一人で飲むから。すいませーん……」
 まもなくおかわりが届く。注文した1人がビンからホッピーを注ぐと、3人は興味深そうに泡立つ液体を眺めた。
「すげー。確かに本物のビールみたいだ」
「匂いも一緒だー」
「味は?」
「そんなに気になるなら飲んでみれば?」
 ホッピー女がグラスを渡そうとすると、3人は慌てて首を振った。
「いやいやいや、それはいいわ」
「悪酔いしたくない」
「だからしないってそんなもん。ほらちょっとだけちょっとだけ」
「ああ、駄目、やめて、近付けないで、口に当てないで、匂いが……ああ悪酔いしちゃうぅ!」
「チャプチャプ、僕は悪酔いするホッピーじゃないよ!」
 どこからか聞こえた甲高い声に、ふざけていた4人の動きがピタリと止んだ。
「あんた、今なんか言った?」
「いや、何も……そっちこそなんか言わなかった?」
「私も何も……」
「私も何も言ってないよ!」
「え、じゃあさっきの声なに?」
 気不味い沈黙。それを破るかのように再びあの甲高い声がした。
「僕だよ僕、目の前にあるホッピーだよ! ホッピーはビールじゃないからカロリーも少ないし、アルコール量も調節可能だからむしろ悪酔いしにくいんだ! さあ飲んで!」
 女たち4人は顔を見合わせ、それから1人がやおら机の下に片手を突っ込んだ。ほどなくしてまた甲高い声がした。
「アデデデデ、痛い痛い、やめてやめてやめて……」
 女は無言で腕を引っ張り上げる。手の中には、耳を吊り下げられた男の姿があった。
「何してんの?」
「ホッピーのアフレコを……」
「そうじゃないでしょ? 何してんの?」
「……女子会に……潜入してました……」
「何か言い訳は?」
「ありましぇん……しゅいましぇん……」
 甲高い声にさっきまでの元気はなかった。

     

「えー皆さま、本日はお集まり頂きましてありがとうございます。皆様ご存知のこととは思いますが、まずは状況の再確認をさせていただきます。お手元の資料をご覧ください」
 参加者が一斉に書類をめくる音がした。
「ラジオ体操は老若男女の健康を増進することを目的として戦前の頃より制定され、以来ラジオ番組のみならずテープ再生や出張授業などを通して広く国民に愛されてきました。しかしながら……」
「御託は結構。我々はラジオ体操参加者減少を解決する画期的手法が出来たと聞いたからここに来たんだ。はやくしてくれ」
 参加者の一人がイライラしながら書類で机をぱたぱたと叩く。
「そうですね。では早速本題に入りましょう。チャバシラ委員、お願いできますか」
「分かりました。では皆さん、2つ目の資料をご覧ください」
 座長が呼びかけると、参加者の一人が立ち上がった。
「実は調査の結果、体操に大衆が参加する理由として、体操に関する原始的な快楽が重要であることが分かってきました。そこで我が研究室で開発したのが、このラジオ内臓型ヒューマノイドロボットです。ロボットがお手本を実演し、音楽を流します」
 博士が示したのは、子供のおもちゃのような小型のロボットだった。
「音源が流せるのにラジオ機能もあるのですか?」
 眼鏡の男性が質問すると、委員はにやりと笑った。
「ラジオ機能は受信も可能ですが、メインは送信機能です。私の研究室で、人間の脳波に酷似した特殊な電波を発する機構を開発しました。これにより、このロボットの周囲5km以内の人間に原始的な体操に対する欲求を植えつけます」
「つまり……?」
「これがそばにいると、体操したくてしたくてたまらなくなるということですよ。ほら、したくなってきたでしょう? 我慢しなくていいんですよ、ホラ」
 博士がロボットの背中のボタンを押すと、ロボットがラジオ体操第一の音楽を流しはじめた。
『背伸びの運動からー、はい!』
「なんだこれは……我慢出来ん!」
「身体の抑えが効かん……勝手に動いてしまう!」
 先ほどまで難しい顔をしていた委員たちが立ち上がり、次々に音楽に合わせて腕を振り始めた。
「そうだ、もっと踊れ……もっと、もっとだ! アハハハハハ……」
 数時間後、かけつけた耳栓をした警察の部隊が目にしたものは、疲労困憊しながらジャンプをしている沢山のお偉いさんたちと、狂ったように笑っている一人の学者の姿だった。

     

 男が顔を幹から離して一息つくと、周りを取り囲んでいた人々が駆け寄ってきた。
「先生どうでしょうか、助かるんでしょうか」
「お願いします先生、なんとかしてやってくれませんか」
「まあまあ皆さん落ちついて、まだ『診察』の途中ですから」
 男は苦笑しながら群がる人々をなだめると、『患者』を見上げた。
 樹齢130年と言われる大銀杏の大木は、まだ秋も入口だと言うのにほとんど葉をつけず、まるで真冬のごとき風体だ。依頼主が言うには雌株だということだが当然実などついていようはずもなく、足元にも特有の臭いを放つ白い汚れは見当たらない。傍目には、枯れ木のように見える。
 男は群集の中に混じる依頼主を呼んだ。
「ここ一年を通して、この木の様子を教えていただきたいのですが」
「様子ですか。去年は多くの銀杏が実りして豊作でした。殻の中も充実しており、色も綺麗な翡翠色、味もいつも通り美味であったと記憶しています」
「そうですか。春先からはどうでしたか?」
「異変を感じたのは春頃です。例年は5月頃には緑の葉で覆われるのですが、今年は6月になっても枝が見えるほどしか発芽しませんでした。それも夏の間に茶色く変色して枯れてしまい、今となってはこれぽちしか残っていません」
「ふむ、だとすると妙ですな」
 男は首を捻った。
「大変申し上げにくいのですが、この木、既に枯れていますよ」
「……え?」
「それもこの春だの夏だの最近のことではなく、もっとずっと昔にですね。専門じゃないので少し分かりかねますが、30年40年ぐらいは前なんじゃないでしょうか?」
 男の言葉に、依頼主の顔色が変わった。
「そんな、毎年この木の紅葉を見てますし、銀杏だって食べてるんですよ。私がウソを言っているとでも言うのですか」
「そうは言ってませんが、しかし事実としてこの木は死んでいますよ。何か勘違いでもなされているのではないですかね」
「勘違い? 震災も戦争も生き残ってきたこの神樹を間違えたりすることなどあるはずがありません! 大体地元では精霊が守ってくれていると言い伝えられているのですよ。それを30年も前に枯れていたなどと」
「それだ」
 男はポンと手を打った。
「精霊のお蔭なんですね」
「え? なにがですか」
「毎年の紅葉や収穫が、ですよ。さっきから不思議だったんですよね。枝の上で辛そうに咳こむ子供がいるのが」

     

「次は、玉手町2丁目、玉手町2丁目、お降りの方は、ブザーを押してください」
 電子音声のアナウンスの声にハッと我に返った。心地良い振動についつい居眠りしてしまっていたらしい。危うく乗り過ごすところだった。降りようと思い壁というより窓枠と言う方が正しそうな側面に手を延ばした。
 延ばした手は何にも触れることなく空振った。
「あれ? ここにボタンがあるはず……」
 キョロキョロと辺りを見渡した俺は愕然とした。ない。押すべきボタンがどこにも。
 もう一度落ち着いて車内を確認する。降車ボタンを除けばいつも通りのバスの光景である。買い物帰りと思しきおばちゃん連れや子供連れの母親が2、3組。帰宅途中の学生児童が4、5人。地元の祭だのバスカードのお知らせだのがベタベタと貼りつけられた天井や掲示板。車内前方の行先と運賃を表示する電光掲示板、玉手町2丁目の文字だけがまばゆいが、それすらも正直言えば田舎くさい。
「玉手町2丁目!!」
 そうだ、こんな風に感慨に浸ってる場合じゃない。俺は走行中なのも気にせず席を飛び出した。前方、運転手の席の真横まで駆け寄ると叫んだ。
「すいません! 降ります!!」
 返答なし。ちらりと窓の外を見る。まずい、もうすぐ停留所だ。運転中の人間に触れるのは御法度だろうが止むを得まい。俺は意を決して運転手の背中に手を伸ばした。くにゃり、と手応えのない反応が掌に伝わる。同時に運転手は、ぱさり、と乾いた音を立ててハンドルの上に倒れ込んだ。その顔には目がない。鼻も口も。
「の、のっぺらぼうだー!!」
 俺は叫びながら反射的に後ろを振り返った。まるで助けを求めるかのように。しかし、そこに俺が頼れるような人はいなかった。否、そこに人はいなかったのである。車内にいる人たちの顔、そこにも目や鼻や口はなかった。彼らは奇怪な行動を取った筈の俺に注目するでもなく、ただ、同じ場所で静止しているだけだった。
 バスが止まり、ドアが開いた。
 俺が外に出ると、ラップトップ片手にメガネの技術者然としたおっさんが声を掛けてきた。
「いつも悪いねー。ホントは僕が乗れればいいんだけど、データ取りがあるし……」
「いや、別にいいよ。暇潰しにもなるしね」
「そっか。今日は何してたの?」
「ホラーごっこ」
「え?」
「冗談だよ」
 俺はそう言うと、顔を見せないように彼に背を向けた。危ない危ない。趣味をバラすのは危険だからな。

     

 ノックをしたが返事がない。聞こえていないのかな? 母さんが最近耳が遠くなったみたいだとぼやいていたけど。私はもう一度叩きながら中に向かって呼びかけた。
「おばあちゃん? 入るよー」
 反応なし。そのまま返事を待たずにドアを開けると、こたつの中で丸まっていた背中がビクリと震えて、しわくちゃの顔がこちらを向いた。
「なんだ、ゆうちゃんかい。ノックぐらいおしよ」
「ごめんごめん、ついうっかり」
 おばあちゃんはニコニコ笑いながら隣の座布団をポンポンと叩く。私は頭を掻く仕草をしながらへらへらと笑って、促されるままにこたつに潜り込んだ。
「ゆうちゃんにね、これをあげようと思って呼んだの」
 おばあちゃんはそういうと、脇に置いてあった菓子折りの缶箱を取り出した。缶のメッキは大部分が剥げて錆びついている。おばあちゃんは箱をこたつの上に乗せ、ゆっくりとした手付きで蓋を開けた。
 中には細々とした小物がいくつか入っていた。おばあちゃんはその中から、白い封筒を取り出した。年代物たちの中にあって、その封筒だけはびっくりするぐらい日焼けしておらず、まるでつい昨日文房具屋で買ってきたみたいに見えた。
「これ、大学合格祝いに」
「え、いいよ、そんな大事そうなもの」
「そんな、大事なものなんかじゃないわよ。これはね、へそくりよ、へそくり」
「へそ……?」
 出てきた場所に対してその言葉が予想外だったので、私は一瞬固まってしまった。
「私の父さん、あなたのひいお爺ちゃんはね、私が女学校に上がるのに反対だったの。学費を払ってやらんと言うのね。それで私、喧嘩になって家を追い出されて。そしたら、向かいのおばさんがね、『これじゃ足りんだろうけど、少しでも足しに』といってこれをくれたの。私の分まで、女学校で勉強しておいでって。結局そのあと父さんが折れて学費は払ってもらえたから、使いどころがなくなってしまったのね」
 だから、大学に行くゆうちゃんに、私の分まで、これを使って勉強して欲しいの。そうおばあちゃんは言って私の手に封筒を押し込んだ。私はただびっくりして、封筒を握りしめることしかできなかった。
 部屋から出ると、私は廊下に立って封筒の中身を見た。中には『壱』の文字が書かれたお札が数枚。一万円だ! 私は喜んでお札を掴んで引き出した。
 ヒゲモジャのおっさんの肖像の横には、『壱圓』の文字がしっかりと書かれていた。

     

「全く、これだから最近の母親というのはダメなのよ! 私は3人育てたけれど、旅先で子供を泣かして迷惑をかけたことなんて一度もありませんでしたよ!」
「申し訳ありません……本当に申し訳ありません……」
 機内に女性の小言が響き渡るたびに、負けじと赤ん坊が泣き声を張り上げる。母親は顔だけ女性に向けながら我が子を両手でかき抱き、左右に揺すったり声をかけたりしてなだめていた。だが哀しいかな、赤ん坊は泣き止むこともなく、女性の怒りは益々ヒートアップしていく。
「申し訳ありませんじゃないのよ。乗るなら泣かせない、出来ないなら乗らない。そこんところを徹底してもらないと! 赤ちゃんだって可哀想でしょう? こんな飛行機なんかで外に引きずり回して、疲れてむずがるに決まってるじゃないのよ!」
「はい……本当に……すいません……はい……」
 母親は助けを求めるかのように一瞬だけ周囲を見やった。しかし、誰もが気まずそうに目を伏せたり、目の前のスクリーンに興味深い観察対象を見つけたりして視線を逸らす。こんな関わり合いになりたくないのだ。哀れ母親は、女性の気の済むまでサンドバッグにされる運命にあった。
「だいたいね、謝るのなら私だけじゃないでしょ! はっきり言って、この辺りにいる人たち、全員が貴方たちに迷惑してるんだからね! お客さんだけじゃない! 乗務員さんだって困ってるのよ! ほら、貴方も何か言ってやんなさいよ」
「へ? 何がですか?」
 通路を挟んで親子と反対側に座っていた男性は、びっくりした様子でゲーム中のスクリーンから目を上げた。
「ほら、ゲームの邪魔だって、はっきり言ってやりなさいよ。そうしないとこの人たち分からないから」
「あ? あーそうっすね。確かに煩くてクソ邪魔でしたわ」
「でしょう? ホント、子供は飛行機乗らないで欲しいわよね、全く」
「そうっすねー。特に赤の他人に向かって下らないことでガミガミ怒り続ける子供とか、ホント勘弁して欲しいっすわー」
「そうよねー……え?」
 女性の顔から笑顔が消えた。
「いくらナリが大人でも精神的にガキだったら大人しくしてて欲しいですよねー。ねえ皆さん?」
 機内には赤ん坊のぐずる声以外は聞こえてこない。しかし誰の耳にも、機内全体が深く頷く音が聞こえてくるかのようであった。

       

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Neetsha