Neetel Inside 文芸新都
表紙

走暗虫
僕について・彼女について

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 残念ながら、レイプを目撃してから一週間が経っても、事件にも僕の生活にも進歩はなく。その日の朝も、ただの惰性になった動きでテーブルについてチャンネルを握り、半開きの眼でニュースを眺めていた。すると、僕は以前までこういうお堅い番組を見ていなかったものだから、母さんはやたら感心して「あなたもそんな年頃になったのね」なんて言っている。
 ニュースはいつの間にか移り変わり、東京で起こった企業の不正から、埼玉で行われている田んぼアートに話題を転じた。記者の言葉によると、ついこの間、すべての稲刈りを終えたらしい。
 田んぼアートとは、色のついた作物を計画的に植えて、収穫の季節に遥か上空から見下ろす、と、巨大なイラストになっているものだと説明している。それまでの真面目くさったニュースから、いきなり平和な光景を見せられたものだから、落差がおもしろくて笑ってしまった。けれど、大胆に描かれた七福神の迫力はなかなかのもので、なるほど、農業が世間から注目を集めるにはよい手段なのかもしれないと思った。
 流れ作業のように処理されていくニュースの中で、それだけが印象に残っていた。


****


 朝のホームルームの時間。文化祭について、そろそろ企画くらいは決めようと藤崎さんが立ち上がった。今日はやめておこうよと止める僕を、彼女は引っ張って教卓に立ち、クラスで行う出し物を募る。
 しかし教室の空気は淀んで、発言しようとする者はいない。もとからイベントに特別熱心な気風を持つクラスではなかったし、今日の校長先生の話はいつにもまして長くて、皆疲れ切ってしまっていた。教室のあちこちには、机に伏して眠っている生徒も見受けられる。だからよしておけと言ったのに。
「あのー、隣の人とかと話し合ってもいいので、意見を考えてくださーい」
 藤崎さんが言って、教室に湧いてくるのはどれも、文化祭とは関係のない気怠い話し声ばかりだ。彼女は困ったように苦笑する。
「なー、文化祭ってかなり先だろ? まだいいんじゃね」
 やがて覇気のない男子から批判が挙がる。
「早く決めておいた方がいい企画になるよ」
 藤崎さんが反駁しても、男子は「うーん」と唸るばかりで気乗りはしないようだ。しびれを切らした彼女は、教卓から身を乗り出す。
「それじゃあ私から意見いい? 喫茶店!」
「ベタじゃね」
 今度は別のところから。
「もー、なら成田くんも意見出してよ」
 声の主と知り合いらしい藤崎さんはぷりぷりと怒っている。
 こういう会議は、駄目な日はとことん駄目なものだから、僕はいつお開きにしようかとタイミングを図っていた。けれど、そのとき頭にふと浮かんだことがあって、吟味する前に口からこぼしてしまった。
「旧校舎の方の校庭も使えるみたいなんだ」
 壇上で起こった聞きなれない音に、皆がこちらを見る。一斉に注目されて萎縮した僕の声は少し震えている。
「校庭にさ、絵を描いたらどうかな」
 僕は今朝のニュースを思い出しながら続けた。
「体育で使う色の着いた粉とかで。机や椅子を使って立体的にしてもいいし、巨大なアート作品みたいな。どうだろう、インパクトがあると思うんだけど」
 この意見には他の目論みもあって、文化祭前日までに作品を完成させてしまえば、当日はクラスの全員が、他クラスの出し物を見て回れる。若々しい情熱が足りていない僕らにはピッタリのやり方だろう。
 僕が言いきると、しばしの無音が迎える。そしてどこからか「あー……」と曖昧な呟きだけが聞こえて、それきり誰も話さない。藤崎さんはびっくりした顔で僕を見て、固まっている。誰も口には出さないけれど、静寂は拒絶の意思を雄弁に語っていた。
 僕は、自分にしては珍しく良い提案をしたとうぬぼれていたから、むっとしてしまう。さらに提案を重ねようと口を開きかけたところで、
「まあ、喫茶店でいいじゃね」
 と、誰かがつまらなそうに言った。そちらを見やると、椅子の真横に大きく脚を投げ出した男子が、机に肘をついて座っている。大村くんだ。
「ベタだけど、そこはメニューとかで工夫すればいいだろ」
 大村くんはわずかに赤みがかった髪を弄んで、長身の体を窮屈そうに身じろぎする。彼が意見すると、まるで何かが許されたみたいに、教室の空気が弛緩した。
「それもそうだな」「また別の日に話し合うのも面倒だし」「いいんじゃない」
 もう、話し合いの大勢は収束に向かっている。
「綾子ちゃんもそれがいいんでしょ?」
 教卓に近い席の女の子が言う。同意を求められた藤崎さんは僕をちらりと横目に見ると、
「う、うん」
 きまりが悪そうに答えた。
 僕は自分の意見を宙ぶらりんのままにされてしまって、口をつぐむ。そんな様子を大村くんは一重の鋭い目で一瞥して、ふいとそっぽを向いた。


「ごめんね近藤くん、あいつ無神経で」
 ホームルームの後、藤崎さんが大村くんのことで謝ってくる。
「気にしてないよ」
 僕は答えた。
 大村くんと藤崎さんは小学校以前からの幼馴染だと、伝え聞いたことがある。藤崎さんは、危ういところのある大村くんを気にかけているようで、彼について話しているのをたまに耳にする。品行方正な彼女が乱暴に口にする『あいつ』という響きには、ただの友人という以上の親しみが感じ取れる。
 突然、それは心のどこからやってきたのか、彼女をからかってやろうという意地悪な気持ちが芽生えた。
「藤崎さんて大村くんと仲がいいよね」
「へ、そうかな。親が知り合いだからかな」
「付き合ってるの?」
 問うと、藤崎さんは顔を赤く染めた。
「ええ~、ないよ、ないない」
 両手をブンブンと振って否定する。打てば響くとはこういうことだろうか。期待通りの反応を返す彼女を見て、僕はさらに調子に乗る。
「大村くんの方はまんざらでもなさそうだけどなあ。彼、藤崎さんには特別に優しいじゃない」
「ないない、ないって絶対っ」
 先ほどよりも大げさに後ずさりまでして、一生懸命に否定する。それで加虐心を十分に満足させた僕は、彼女に背を向けて歩きだす。別れ際、捨て台詞を残しておいた。
「次に大村くんと話すときは、僕みたいな根暗にも優しくするよう言っておいてよ」
「あはは、わかった、言っとく」
 彼女は他愛のない冗談として捉えたようだった。


「喫茶店?」
 昼休み、三石くんに文化祭の話を振ると、とぼけた返事が返ってきた。
「へぇ、ベタだなあ」
 まるで他人事みたいにのたまう。
「話聞いてなかったの?」
「寝てたよ」
 僕がついさっきまで、社会的な敗北を噛みしめていたというのに暢気なものだ。恨みがましく睨まれているのに気付くと、彼は得心がいったように僕を指さした。
「誰の提案だ?」
「藤崎さん……」僕は口ごもる。「……と大村くん」
「ふはは」
 三石くんはおかしそうに吹き出した。
「そりゃあ、岬としてはおもしろくないわけだ」
 汚点を見透かされた僕は、意地になって反論しなくてはならない。
「そんなことないよ。どうしてさ」
「どうしてってなあ……だって大村には上履きの借りがあるじゃないか、お前」
 僕は溝に捨てられて、泥まみれになった中学時代の上履きを思い出す。不快な記憶だ。
「容赦なく人の傷口をえぐるなあ」
 僕の不愉快など気に介さず、三石くんはけらけらと声を上げる。
「今思うとあれもベタだったよなあ。俺が大村を止めてなければきっと、机に花瓶とか置かれてたぞ」
 さも、お目にかかれなくて残念だという声色。
「やられた本人としては笑い話じゃないんだけどね……それと、君がいじめから僕を助け出したなんて、恩着せがましいことは言わないでよ。僕は頼んでもいないんだから」
「わかってるさ、大村たちを止めたのは俺が勝手にやったことだ。正義感に突き動かされたわけでもないしな」
 中学の頃、僕はいじめられていた。といっても、殴るとか蹴るとかの暴力があったわけではなく、お金をとられたわけでもないけれど。僕を軽く扱ってもいいという雰囲気が学年全体にあって、きまぐれに無視をされたり、たまに私物を隠されたり、その程度だ。そんなとき、大村くんを含む男子に直談判をしていじめをやめさせたのが、三石くんだった。
 はじめ、彼はそのことは言わずに僕に近づいてきて、自然と友達になっていた。あとから人づてに三石くんのやったことを聞いて、本人に問い詰めたら、「言うのを忘れていた。最初からバラしておけば恩を売れたのに」と笑った。彼は本当に忘れていただけみたいで、僕は彼のそういう、率直で嘘のないところに好感を持った。もう少し遠慮をしてほしいと思うこともあるけれど。
「単に運が悪かったんだよ、岬はさ」
 三石くんは急に落ち着いたトーンになる。
「中学でのいじめなんてどこにでもあることだし、もう昔のことだ。大村たちを許してやれなんて言わないけど、いつまでも引きずってたっていいことないぜ?」
「だから気にしてないって言ってるのに」
 僕は口をとがらせる。
「そうだったな。悪かった」
 三石くんはちょっと黙ってから、声を明るくした。
「そういえば、考えてくれたか例の件」
「例の件?」
「K大のサークルの件だよ、前に言ったろ」
「またその話? この前断ったじゃない」
「そこをなんとかさ。たぶん岬が考えているような面倒くさい活動じゃないよ」
 ぐいぐい押してくる。こうなった彼はちょっとやそっとじゃ退かないだろう。うっとうしい。
「うーん、そういわれてもね。そもそも、何をするサークルなの?」
 質問すると、僕が興味を持って食いついたと見たようで、ニヤリと笑う。失敗したなと思った。
「散歩」
「は?」
 あまりに短い回答に、僕は面食らった。
「散歩するサークルだよ。予定の空いてるメンバーを集めて街に繰り出したり、あとは自然公園とか、夏は海にも行くんだ」
「それってただの友達グループじゃないの」
 疑問を呈する。生憎、友達グループには詳しくないけれど。
「散歩サークルって言っても千差万別さ。ガチなところは、翌日脚がパンパンになるまで歩いたりもするらしいぞ」
「ガチな散歩サークルって……」
 なんだかチグハグな響きだ。
「って言っても、うちのサークルは岬の言う通り、ただの友達グループみたいなもんだけどな。非公認だし」
「公認、非公認なんてのがあるんだ」
「ああそうさ、非公認のところは大体――」
「待った」
 三石くんが得意げな顔で説明に入る前に、僕はストップをかけた。
 流されてはいけない。そもそも僕はサークルに入るつもりなんてこれっぽちもないのだから。だったら、喋らせるだけ無駄ってものだろう。
「もう結構だよ。どうせ僕みたいなのが入ったってうまくいかないよ」
「俺が紹介するんだから悪いようにはされないさ。もしつまらなかったらすぐに抜けても構わないから」
 彼は放言し、ここが最後の機会とばかりに、追い打ちをかける。
「学校の人間関係は居心地が悪いんだろう? だったらいい機会じゃないか」
 再び痛いところを突かれて、僕は逃げ口上を持ち出すことにする。
「……もう少し考えさせてよ」
 煮え切らない返事に彼はしかし、満足そうに頷いた。
「ああ、時間をかけて悩んだらいいさ」
 そこで予鈴が鳴って、三石くんは自分の席に帰っていった。

       

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