Neetel Inside 文芸新都
表紙

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「好きです。付き合って下さい」
 夕陽に灼ける屋上。藤崎さんが口にした申し出は脈絡のない不意打ちのようであって、しかし、僕はそれを予感していたような気もする。昨日、ケチャップライスに格下げになった夕飯を食べながら内省を繰り返していた僕の心は、冷たく沈んだまま落ち着いていて、彼女の申し出にも、うろたえずに答えることができた。
「藤崎さんは演技が下手だね、これで二度目になるのに。どうかな、更なる上達を目指してテイクスリーといってみるかい」
 僕なりのウィットを利かせた返しだったのだけれど、彼女は微塵も笑おうとしない。
「嘘じゃない」
 何かを必死にかみ殺すように、彼女はうつむいて言う。
「嘘だよ」
「お願い、信じて」
 僕の腕にすがりつく彼女を、
「やめてよ、白々しい」
 物理的にも突き放した。寄る辺を失った彼女の腕は中空をさまよって、力なく垂れ下がる。
「昔はうっかり信じちゃったけどね。僕も少しは大人になったんだ」
 夕陽が僕の真後ろにある。いま、彼女の目には僕が黒い影に映っているのだろうか?


****


 あのときも今と同じように、何かの係で一緒になったのだと記憶している。それをきっかけに僕たちは知り合った。
 当時、僕に対するクラスメイトのいじめは一番過激な時期にさしかかっていて、無視とか陰口とかの間接的な行為だけでなく、物を隠すとか恥をかかせるとか、そういういやがらせに及ぶようになっていた。
 クラスでは、積極的ないじめに加担しない人のほうが多かったけれど、僕とまともに話してくれたのは三石くんと、あとは藤崎さんくらいだった。周りの目なんて無いものみたいに僕と親しくする三石くんと違って、藤崎さんは人前を極力避けて僕に話しかけた。僕はそのことについて、特に不快な思いはしていなかった。その違いはむしろ、三石くんの無神経さを表す例だ。それに、人目を避けて忍ぶやりとりは秘密めいて、僕を甘美な期待に導いた。根暗な少年が、口を利いてもらえるだけで女の子に恋をするなんてのはありふれた話で、僕も多分に漏れなかった。そういう常識を、彼女の友人らもよく承知していたのだと思う。
『好きです』
 かつて放課後の下駄箱で告白を聞いたとき、僕は藤崎さんに関するすべての不自然に解が与えられたと思った。ほとんど誰もが遠ざける自分のことを、友人に隠してまで懇意にする理由、彼女が僕に笑顔を向ける理由、彼女が僕に語りかける理由、そのすべてに。今にして思えば、死にたくなるような思い上がりだ。あのときの彼女は心中、事の面倒さと自身の罪悪感に苛まれて、申し出を断ってくれと繰り返し唱えていたに違いない。
 僕の返事を聞いて顔を上げた彼女は、それでも笑っていた。
 付き合い始めてからの藤崎さんは口数が少なくなって、僕はそれが照れくささの表れなのだと思っていた。しかし、交際から一週間もしないうちに、真相は彼女本人ではなく、その友人から告げられた。

――――――――

 校舎裏、呼び出された先に憮然とした表情で佇んでいた女の子は、侮蔑を隠さぬ口ぶりで言った。
「ねぇあんた、綾子と付き合ってるんでしょ」
「うん」
 僕は戸惑いつつも答える。藤崎さんの友人が知っているということは、彼女から交際のことを明かしたのだろう。
「あれ、嘘だから」
 嘘、嘘とはどういうことだろう。すぐには意味が掴めず、僕はきょとんとする。それを見て、彼女はさらに苛立ったようだ。
「綾子があんたみたいなのと本気で付き合うわけないでしょ」
「でも、僕らは実際付き合っているんだけど……」
「からかってやろうと思ったのよ。でもあんたが本気にするから。綾子、嫌がってるんだよ」
 まるで僕が極悪人みたいな言い方をする。どうやら話がかなりこじれているようだとわかった僕は、なんとか女の子を宥めようとする。
「僕の目からは嫌がっているようには見えなかったよ」
「それは、あんたの目が節穴だからよ。大体、付き合ってから手を繋いだこともないんでしょ。自分が嫌われているって気付いてもよさそうなもんよ」
 付き合い始めて数日のカップルに、それは言い過ぎじゃないだろうか。しかし、男女交際について僕はまったくの素人で、たぶん、目の前のあか抜けた女の子のほうが経験は豊富だろうから、弱気になってしまう。
「そうかなあ」
「そうなの」
 にべもない。
「とにかく今後一切、綾子に付きまとわないでよね」
 念押しする女の子に、それでも僕は退くわけにもいかない。僕らの付き合いは僕らにしかわからないのだ。他人にとやかく言われたくない。
「そもそも、それをどうして君が伝えるのさ。本人の口から聞かなくちゃ納得いかないよ、こっちとしては」
 強い反抗が返ってくるのは彼女にとって予想外だったようで、一瞬怯んだようになると、舌打ちをする。
「わかったわよ。じゃあ明日、またこの場所で。取り敢えず今日一日は綾子に会わないでよね」
 そう言って踵を返して去っていく。このときはまだ、藤崎さんが、本心から僕を好いて付き合ってくれていると、信じて疑わなかった。本人に確認を取りたいけれど仕方ない、彼女の友人にわかってもらうために、言に従おうと決めて家に帰った。


 次の日、同じように校舎裏に行くと、女の子がたくさんいた。その数は二桁に及ぶほど。一日でやけに増えたものだ、女の子の噂が早いというのは本当なんだなあ。僕は以前、三石くんが「女はミツバチみたいだ」と言っていたのを思い出してつい笑ってしまう。不可抗力の笑みは、藤崎さんを中心にして取り巻く女の子たちに、ひどい不評をくらった。僕がこの件について、真剣に取り合っていないと受け止められてしまったようだ。そんなことはないのに。
 藤崎さんをSPみたいに取り囲んでいた数人が、今度は僕の周りにたかって、その中の一人が切り出した。
「まずは私から、謝らせて」
 化粧で目の周りを黒くした女の子が頭を下げる。予想外の殊勝な態度に、僕は当惑した。
「私が今回の嘘告白をしようって持ちかけたの。最初は冗談のつもりだったんだけど、言い出しづらくなって、近藤には悪いことしたと思う」
 いきなり謝られて言葉を失う。告白が偽りだとしたら、僕はもう何も言えないのだ。
「そうなの?」
 先ほどからうつむいている藤崎さんに問いかける。けれど、彼女は黙ったままピクリともしない。
「話してくれなくちゃわからないよ」
 語気を強めると、彼女の隣にいた活発そうな娘が糾弾の声を上げる。
「やめなよ、綾子ちゃんが悪いんじゃないんだから」
「責めてるつもりはないよ」
「怒ってるじゃん」
 と、今度は全然別のところから。
「ただ、教えてほしいんだよ、本人の口から」
 僕がそう言うと静寂の後、藤崎さんのすすり泣く声が聞こえてきた。僕はこのとき初めて、彼女が泣いているところを見た。泣き声を上塗りするように、僕を責める罵倒がそこかしこから上がる。僕はうんざりして、すぐにでもこの場を去りたい衝動にかられたが、一つだけ確かめなくてはいけないことがあった。乱雑な音の中、わずかに顔を上げた藤崎さんの目を見て、まっすぐに声を出す。人だかりを抜けて、彼女に届くように。
「藤崎さん、僕に告白してくれたのは、嘘?」
 なるべく彼女を責めないように、傷つけないように、言ったつもりだった。
 そして――彼女は小さく頷いた。
「そっか、ごめん、辛かったよね」
 僕の言葉を聞くと、周りの女の子たちはもう責めてこなかった。切迫した空気に促されてか、再びぐずり始めた藤崎さんを彼女らは慰める。その光景を見て、自分はもはや無用だろうと自覚した僕は、その場をあとにした。

――――――――

 非常に情けなくてあっけなかったけれど、それが僕の初めての失恋だった。
 以降、僕の学校生活が劇的に変わるということはなかった。元々付き合っていたときから、年頃の男女らしいことをしていたわけでもないし、その点では別段落ち込むこともない。むしろこの一件以来、どういう心境の変化か、女の子たちの僕に対する風当たりは多少緩いものになったのだから、悪いことばかりでもなかった。ただ一つ残念だったことがあるとすれば、学校で僕を人間扱いしてくれる貴重な友人を、一人失ったということだ。


****


 僕の体に遮られた夕焼けの影の中で、藤崎さんは彫像のように固まったまま動かない。
 もし昨日、僕が彼女にひどい言葉を浴びせずに、彼女が今日、僕に告白をしなかったならば、外見上はそれらしい友人関係を築く事ができただろうか。その可能性に思いを馳せる。悪くはない想像だった。けれど、もう引き返すことはできない。
 僕は一歩踏み出して語りかける。
「ねぇ、藤崎さん。藤崎さんはさ、僕に嘘の告白をしたことを後悔しているんだろう」
 声を聞いて、一瞬びくりと肩をふるわせた彼女は、まだ地面を見つめている。
「僕に同情してる。いいや、違うかな。君は、自分が他人を傷付けたっていう事実を受け入れたくないだけだ。君は潔癖なのかな。自分が善良な人間でなきゃ気が済まないんだ」
 辛辣に言ってやるのに、藤崎さんは反論する気配もない。相手が弱っているのを見て、僕の喉に引っかかっていた感情が吐き出される。
「それで、僕ともう一度仲良くなって、全部なあなあにしてしまいたいんだ。でもさ、そんな理由で男と付き合うのは間違っていると思わない? なにより、君は耐えられるのかな。君と付き合うとなったら、僕はキスをしようって言うし、セックスもしたいよ。好きでもない男とそんなことはしない方がいいよ」
「でも、でも……私は」
 消え入りそうな声。
 僕はこれ以上彼女を追い詰めるのに気が咎めたけれど、これではまだ中途半端だ。ここまで言ってしまった以上、彼女との関係は完全に精算してしまわねばならない。
「僕はね、別に、君が特別酷い人間だなんて思ってないよ。周りの奴らを見てごらん、僕をいじめてた人たちは皆、今はもうなかったことみたいに知らんぷりだ。それでいて家族や友人には、僕にしたようなこととは正反対の、親切だとか思いやりだとかを発揮して、自分の善良さを誇っているはずさ。腹立たしいけれど、それはおかしくなんかない、普通のことなんだよ。君も見習ったらいい」
 そして僕は、最後の望みを告げる。
「けど、もし君が他の人たちみたいに割りきれなくて、僕に対する責任を感じてくれるのなら、それは君一人で抱えてほしいんだ」
 藤崎さんはついと面を上げて、怖れを帯びた表情で僕を見つめる。
「僕を巻き込まないでほしい。できることなら君が一生、罪を抱えたまま生きてほしい。その方が僕は報われる感じがするよ。…………そうだなあ、例えばさ、君が将来、家庭を持って、主婦になって、子どもができて、幸せに暮らして――」
 そのとき、脳裏にぴったりの情景が浮かんだ。
「機嫌よく掃除機をかけているときとかにさ、学生時代の僕のことを思いだして、ちょっと憂鬱な気分になってくれたら、嬉しいな。あとはそうだな、欲を言えば、君が親戚や友人に看取られてベッドで死ぬ直前に、『ああ、そういえばあいつに悪いことしたなあ』なんて思い返してくれたら最高だね。うん、それでいいよ。僕は、それがいい」
 しばらく経って、僕がこれ以上何も言わないとわかった藤崎さんは、押し殺すような声を出した。
「……わかった」
 声は震えているけれど、泣き出すことはない。中学生のときよりも、彼女は強くなったのだろうか。
「ごめんね、いままで」
 最後に付け加えられた謝罪。僕はこの言葉を受け取るのにひどく抵抗があって、とてもできそうにない。
「そう」
 答えにならない答えでかわして、彼女の元を離れる。
 さっさと退散してしまおうと屋上の扉を押すのに、鉄扉は僕が想像していたより数倍も重たかった。


****


 それから数日間、藤崎さんから僕に話しかけることはなかった。教室内でたまに目が合うときには、彼女の方から苦しそうに目をそらす。なにもそこまで露骨に避けなくても、僕としては、自然に関係をフェードアウトしてくれればよかったのだが。けれどまあ、僕が彼女にしたなじりを思えば、自然さを求めるのは贅沢というものだろう。
 ともかく、そんなわけで平穏な孤独を取り戻した僕は、一つ思うところがあって、放課後の三石くんを捕まえて話をした。
「三石くん」
「おお、岬、お前さ」
 声をかけられてこちらに気付いた彼は、僕が口を開くまもなく先手を取る。
「綾子ちゃんとなんかあったのか?」
「なにさ、藪から棒に」
「いや、二人とも様子がおかしいからさ。最近、全然話してるとこ見かけないし」
「別に、なにもないよ」
「ふーん」
 彼に屋上でのことを話すのは面倒なのでごまかしておく。やはりこういう詮索は避けられないのだな。原因の、少なくとも八割くらいは、藤崎さんのあからさまな態度にあるだろうから、彼女を恨めしく思った。けれど考えてみれば、親しい友人といえば三石くんくらいしかいない僕に比べて、彼女は交友関係が広いから、言い訳しなくちゃいけない面倒もひとしおだろう。そう思うと多少は溜飲が下がる。
「で、何の用だよ」
 また一人で考え込んでいる僕を起こして、三石くんが言う。
「話しかけてきたのは岬だろう」
「ああ、そうだった。この前のサークルの話なんだけど、入ってみようかなと思って」
 僕はもったいぶらずに言った。
「おお!? まじかよ」三石くんは途端に目を輝かせる。「どうしたんだよ、どういう心境の変化だ?」
「いいや、大したことじゃないんだけど、僕も知り合いを増やした方がいいのかと」
 本当に大した理由ではないのだ。それどころか明確なものですらない。ただ、藤崎さんとのことに決着が付いて、中学から続いていた僕の苦々しい経験にもケリがついたのだと、なんとなくそう思いたかった。これまでの退屈な生き方ではなく、なにか新しいものに触れてみたい。
「そうかそうか、まあ訳はなんでもいいや。とにかく入ってくれるなら俺は満足だよ。今日、さっそく会長に話してみるよ。近いうちにメンバーと顔合わせしよう」
「う、うん」
 みる間に話が具体的になっていって、急に不安が頭をもたげる。顔も知らない年上の人たちと仲良くなんてできるだろうか。
「大丈夫だって、前も言ったろ? 俺の紹介なんだから堂々としてればいいさ」
 頼りない様子を見て、三石くんは僕の背中をたたく。
「よーし、そんじゃ報告しとくかあ」
 俄然元気になった彼は、携帯を持ってその場を離れていく。僕は唐突に頭をかすめた疑問を投げて、彼を止めた。
「三石くん、そういえば、サークルの名前はなんていうの?」
「『遊覧会』だよ。いかにも、おちゃらけた名前だろう」
「ゆうらんかい、ゆうらんかい」
 僕は漢字を想像しながら、確かめるようにその名を呟く。自分が新しくそのメンバーに加わる。実感はまだ湧いてこなかった。

       

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