Neetel Inside ベータマガジン
表紙

ミシュガルド聖典~悦~
ハルドゥと食人族

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 ミシュガルド大陸発見から数年後、同大陸の大地を開拓する開拓団の中にその男ハルドゥ・アンロームはいた。彼は、不運なことに国家に捨てられ、取引相手の国にも裏切られ、挙句の果てに敵国に売り飛ばされたのだった。
表向きは死刑宣告となった彼だったが、甲皇国は終戦後公に発見されたミシュガルド大陸の開拓団の労働者として彼をミシュガルドへと送還した。
開拓団とは名ばかりで事実上は囚人奴隷の強制労働と同意義だった。
乾いた砂を幾度となく飲み込む沼を、来る日も来る日も埋め立てる労働……
人を苗床とし、繁殖を繰り返すボロールという名のカビが飛び交う中でマスクもせず、木々の伐採をさせられる労働……
無限の可能性を秘めた大陸ミシュガルド……そこは未知の生物、未知の病原菌が蔓延する地獄の暗黒世界でもある。
その暗黒世界を開拓することは、死ぬより恐ろしい地獄であった。
表向きは死刑とされた人々が、裏で開拓団として強制労働を強いられるのは珍しいことではなかった。


「はぁっ……はぁっ……」

ハルドゥはそんな日々の中、心を無にして働いていた。
彼は幸い、ボロールカビの飛び交う危険地域では働かされておらず、沼の埋め立て作業に従事していた。
腐った土の臭いが鼻を串刺しにし、腐った泥水を踏む足からはバイ菌が入り、
人々の足をじりじりと食べつくそうとしている。爪は水を吸い、本来の硬さを失い、泥に足を取られるだけで
剥がれ落ちるほど腐食していた。

「働けぇやぁ……豚共ぉ…」

甲皇国の軍人ウルフバード……ハルドゥの所属する開拓団の団長は名をそう言った。
ハルドゥはこの男の下で働くことの意味を本当に知った時、
心の底からなぜ、ボロールカビの飛び交う危険地域に配属されなかったのだろうかと思った。

ピエロのような格好をしたこの外道は、開拓団を任されたことに大変いらだちを覚えていた。
こんな未開の暗黒大陸に派遣されるなど、島流しに遭うようなものだ。
事実 奴の日頃の行いを見ていると、島流しに遭う理由が分かったような気がした。
彼はストレス解消に囚人奴隷たちを爆殺していたのだ。

「ひゃぁーっはっはっはっ!! 逃げ回れぇー!」
今日もウルフバードは囚人奴隷と、甲皇国兵士の脱走者を使った遊びを開いていた。
水で泥濘む沼に熊捕獲用のベアトラップを仕掛け、100m走をするよう強要した。
タイムは20秒以内。それまでに沼を渡りきれば、晴れて生きて帰れる。

「死んでたまるか……死んでたまるかよ……っ!!」

不運なことにハルドゥはそのランナァに選ばれてしまった。
だが、不幸中の幸いか……ハルドゥはなんとか渡りきることが出来た。
だが、それは彼の仲間の死と引換えだった。
仲間はロベルト・マンティスと言った。ロベルトは、あと一歩というところでベアトラップに足を取られた。
ロベルトは自分の後方を走っていたハルドゥを捕まえると、そのままハルドゥを岸まで投げ飛ばした。
投げ飛ばされたハルドゥが沼の方向を見て、ことに気づいたのも束の間、彼の目の前でロベルトは爆殺された。
正直、ロベルトとハルドゥはそこまで仲が良かったわけではない。正直、体力の無いハルドゥはロベルトの足を引っ張りがちで
よく連帯責任を負わされてロベルトも鞭打の罰を受けることが多かった。すまないと言う言葉も枯れ果てるほどの
迷惑をロベルトにかけてきた。いやむしろ、自分の代わりにロベルトがいたぶられていることで安堵していた
自分の醜さに罪悪感すら覚えないほどハルドゥの心は死に絶えていた。

ああ、ロベルトに掴まれた時、ハルドゥは報いが来たのだと悟った。
後悔はなかった。むしろ、こんな地獄から解放される瞬間がようやく来たのだと喜んでいたほどだった。
ロベルトは爆殺寸前にハルドゥを見つめただこう呟いた。

「生きてくれ」

その言葉と同時にロベルトの肉片がハルドゥの顔に飛び散り、
彼はただ唖然とした。後になって聞いた話だが、ロベルトには病弱な父親が居たらしい。
その父親は病弱ながらもロベルトを育て、ある日この世を去った。
ここからは推測になるが、ロベルトはハルドゥに病弱だった父親の面影を見たのかもしれない。

「……んだよっ……!!ちぎじょう”……っ!!」
肉片に塗れたハルドゥは、嗚咽し泣いた。
そこにはプライドなど何も無い……ひとりの人間として仲間の死を悲しむ男の姿があった。
まるで、息子を失ったような深い悲しみがハルドゥを襲った。
心などもう既に死んでいたはずなのに……深い悲しみはハルドゥの枯れた心を潤したのだった。


ハルドゥがウルフバードを殺そうと企むのは最早時間の問題だったと言えよう。
来る日も来る日も、ハルドゥはこの腐れ外道を道連れにしようと企んだ。
そして、ハルドゥは作業現場を視察するために傍を通りかかったウルフバードを鶴嘴で襲撃した。

「ぐわがっ!!」

ゼロ魔素を持っていたハルドゥは、実行の瞬間までウルフバードに殺気を悟られることはなかった。
もし天がハルドゥに慈悲を与えていたのならば、ここでウルフバードは頭をカチ割られ即死していたに違いない。
だが、理不尽なことに天はウルフバードに慈悲を与えた。
鶴嘴は、ウルフバードの右鎖骨をわずかに削っただけだった。
もし、ほんの少しウルフバードが来るタイミングが早ければ きっとハルドゥは一矢報いることが出来ただろう。
たとえ、ウルフバードを殺し、その後反逆者として処刑されようと悔いなど無かっただろう。
だが、ハルドゥはウルフバードを殺すことも出来ずそのままおさえつけられたのだった。

「このど畜生がァ――っ!! 死ねぇえええ!!
お前は人間じゃねェ――っっ!!」

数人がかりで押さえつけているにも関わらず、ハルドゥはまるで猛獣のように暴れ狂った。

「離せぇええーーっっ!! 離せぇーーっっ!!
おまえだけは……おまえはだけは殺す!!!!離せぇぇえええーーっ!!!!」

かつてハルドゥはここまで感情を顕にしたことなどない。
それは学者肌という職業柄か、果ては彼の温厚な性格たる所以か……
いずれにせよ、彼自身こういう怒りという感情は魂を酷使する愚かで哀しい行為だと
思っていたせいもあったのだろうか。だが、ハルドゥは怒り狂わずにはいられなかった。
もはや、帰る場所も無い。残してきた愛する娘に会うことなど叶わぬ夢だ。
ならば、せめて何か人として悔いの無い行動を起こして死にたい。
自分の枯れ果てた心を潤してくれた友人、その友人に散々迷惑をかけてきた償いもせずにどうして死ねようか。

その友人をこの男ウルフバードは虫けらのようにお遊びで殺したのだ。
絶対に許すことなど出来ない。

人としてここで怒らねば、一生 彼は人の心を失ってしまう。

それだけは人として許せなかった。

「このくそじじい……あのゲームの生き残りか……このくたばり損ないがぁ!!」
ハルドゥの顔めがけてウルフバードは軍靴の蹴りをお見舞いした。
蹴りは直撃を避けたものの、顎の先端をかすめ、ハルドゥの意識はそのまま途絶えた。

「この野郎ォ……今度こそぶち殺してやる……!」

ウルフバードが口に水を含み、噴水爆弾をハルドゥ目掛けて直撃させようとした時だった。

「ぅごが……!」

ウルフバードの口を片手で鷲掴みにする若者が居た。

「そのへんにしとけよ、おっさん。」

いつの間にウルフバードの口を掴んだのか周りのモノが気づく間もなく、若者はそこに居た。
ヘアバンドを頭に巻き、ボサボサの長髪を束ねた白髪に赤目の青年だった。
後に明らかになるが、その青年はヴィンセントと言った。

「な…なにをするがなも!!」

ヴィンセントの掴んだ指はウルフバードの顎関節の繋ぎ目を外し、
ウルフバードの下顎は老婆の乳房のように垂れ下がった。


「がもーーーーーーーーーーー!!!」
ウルフバァドは、顎を外され悶絶しながらもそのヴィンセントの手を咄嗟に爆破した。

「クッ…!!」
ヴィンセントは腕を爆破され、そのまま床に跪き兵士たちにおさえつけられた。

「かっ……きょのやろぉおお~~~~……」
ウルフバードは反撃のため、2人を爆殺しようとしたその時だった。
周囲の囚人奴隷たちが殺意の目をウルフバードたちに向けていた。

もし、このままハルドゥと このヴィンセントを殺せば
今にも囚人奴隷たちが襲いかかってきそうな殺伐とした空気が立ち込めていた。

「……きょ!!きょふはきょのひぇんにしてほいてはる!!」

外れた顎を無理やり戻しながらもウルフバードは負け惜しみを言うと、
ハルドゥとヴィンセントはそのまま懲罰小屋に閉じ込められ、
ろくに飯を与えられずに2日間放置された。
そして、ウルフバードの開拓団が新しく開梱する予定の
シュヴァルツヴァルド(黒い森)への偵察の日が訪れた。
ウルフバードは偵察がてら、衰弱した2人を森へと連行した。
ハルドゥと、青年はヴィンセントに丸裸にされ 大木に括りつけられた。
そして、身体に先ほど首を掻き切って殺したばかりの豚の血を塗りたくられた。
その姿はまるでかつての聖人アサドの磔に処せられた姿のようである。

「……てめぇらは爆殺してぶっ殺そうかと思ったが、じわじわと嬲り殺しにすることにしたぜ。
このシュヴァルツヴァルド(黒い森)には猛獣が腐るほど住んでる……
豚の血に引き寄せられて、お前らはお陀仏だ。食い殺される恐怖を味わうがいいぜ。
ひゃっはっはっはっはぁーっ!!!」

ウルフバードがそう言うのを待たず、ヴィンセントは笑いだした。

「死の恐怖を前にして狂いやがったか…囚人奴隷ごときが」

ウルフバードがヴィンセントの高笑いを虚仮にしようとするのに間髪入れずに
ヴィンセントは反論する。

「食い殺される恐怖だって……?それはこっちの台詞だ。バカめ。」

ウルフバードは負け犬の悪あがきともとれるヴィンセントの言葉に
思わず怒り狂いそうになり、アァ?!と吠えかかった。

「自分が餌場に誘い込まれたことに気付きもしねェとはな……
ここは食人族の縄張りだ。」

ヴィンセントが言い終えるのを待たず、あちこちで兵士たちや囚人奴隷たちの悲鳴が聞こえた。

「団長大変です…食人ぞ」
腕のちぎれた兵士が物陰から飛び出してきたのもつかの間、その兵士は後ろから頭の上半分を食いちぎられ
言葉を言い終えず即死した。

「なっ……なんだ!?こいつは!!!」
ウルフバードの目の飛び込んできたのは白髪に赤目の女の姿だった。
長髪をなびかせた女はパーカーを羽織っただけの半裸姿だった。というより、全裸にただ上着を羽織っただけで、
上着はボタンもチャックもせず、前開きで豊満な乳房の谷間が姿を見せていた。
下半身といえば、もう言うまでもない。おそらく何も身につけていない。
ただ残念なことに、その女は四足歩行でまるで狼のようにウルフバードを激しく睨みつけていたため
本来見えるハズの生命の神秘、夢と希望の狭間であるマ〇コを拝謁することは叶わなかった。
ただ嬉しいことだったのは乳房はまるで、実ったスイカのように垂れ下がっていることだった。
もし、状況が状況ならこの状況は男であれば天国の光景であったはずだったが、
その女の口に銜えられた脳みその欠片が、天国を地獄へと一瞬で変えた。

「はっはっはっ……ミランダ!遅ぇぞ……このアバズレがぁ!!」
嬉しそうにヴィンセントは豪快に笑いかける。


「ガルルォオオオ!!!!」
獣のような唸り声をあげたのも束の間、ミランダと呼ばれた女はウルフバードに向かって飛びかかった。

「くっ!!」
瞬時にウルフバードは近くの兵士を盾にする。

「あ」
断末魔の叫びをあげる暇もなく、兵士の腸が引きずり出される。

「うわぁぁああああああああぁぁあああああ!!」

兵士たちがライフルを手に、ミランダ目掛けて発砲したものの
当たるはずなどなく、無残にも兵士たちは頭を腕を腹をもぎ取られ生ゴミのような肉片をあたりに撒き散らす。

「じょ……冗談じゃあねぇ!!こんなところで食い殺されてたまるか!!」


ウルフバードは近くにあった水たまりを爆発させて霧に変え、その場から立ち去った。

「ガルゥッ!!」
ミランダは逃げるウルフバードを追いかけようと後ろ足をふんばろうと試みたが、
その刹那にヴィンセントは大声で彼女を嗜める。

「ミランダァ!!深追いすんなァ! それより、おまえが背中に背負ってる
俺の手はやく寄越せ!!」

ミランダは思わず、ヴィンセントの大声に驚きまるで子犬のように大人しくシュンとすると、
起き上がり後ろ足で立ち上がった。その姿は、まるで人間の女性のようだった。
その立ち姿には、兵士たちが待ち望んでいた光景……そう美しき生命の神秘である
マ〇コがフルオープンに顕となっていた。悲しいことに今や死体になってる兵士たちは、
残念ながらその光景を見ること叶わず、なんとも言えない無常な悲しみが兵士たちの死体の頭上に漂っていた。

ミランダは背中に背負っていた腕をそのままヴィンセントに向けて投げ渡した。

「良い子だなぁ……ミランダァ……実に良い子だ。」
数日前にウルフバードに爆破され、ちぎれた腕がヴィンセントの腕の傷口に食らいついた。
みるみる内に傷は治っていき、腕は数十秒で繋がった。

「ふぅううう~~~やっぱり両手が使えるのは便利だぜ。」

繋がった腕でヴィンセントはハルドゥと自分を縛る縄を引きちぎり、
倒れるハルドゥを両手で抱き抱えた。

「はぁはぁはぁはぁはぁっ!!」

ミランダはハルドゥを見ると、目を輝かせて飛び跳ねる。
股からは我慢汁が滴り落ち、まるで犬のヨダレのようである。そう、ミランダは発情していたのだった。

「おいおい…ミランダァ 股から我慢汁出してんじゃあねェぞ。
安心しろ。ようやく見つけた花婿だ。お兄ちゃんが責任持って里まで送り届けてやる。」

そう言いながらヴィンセントはミランダの頭を優しく撫でる。

「こうび する~」

ミランダは絞り出すような声で唸るように言う。
兄のヴィンセントと違い、喋ることに難があるようだ。

「クックックッ…ようやく見つけたぜ……
ジジイが抱いた人間族の女……その臭いと同じ臭いを持つおまえなら、
俺たちを絶滅から救ってくれる……」

そう…‥全ては計画通りだった。
兄のヴィンセントはウルフバード開拓団にゼロ魔素を持つ人間を探し求めていた。
というのも、彼の属する食人族は近年になって死産と奇形が相次ぎ、
今となっては子孫を残すことが出来ず、絶滅の危機に瀕していた。

元々、食人族は彼らの始祖アンソニィから分かれた者たちである。
というのも、アンソニィの代で食人族は彼を残して死滅。
アンソニィは止む無く誘拐した人間族の女性を犯し、子供を作るしかなかった。
だが、それ以降 人間族との交尾はうまくいかず、止む無く食人族は6代に渡る近親交配を続けていた。
6代目であるヴィンセントとミランダの代でついに食人族の近親交配にも終焉を迎えた。
無論、ヴィンセントとミランダに肉体関係が無いはずがない。ミランダはヴィンセントの子を身籠り、出産した。
だが、その子供は死産と奇形だらけで生まれてすぐに死亡した。
その後、ミランダはヴィンセント以外の食人族の男たちを肉体関係を結んで出産を繰り返したが、結果は同じだった。
このままでは、ミランダは出産の負担で死に至ると危惧したヴィンセントは
ミランダに交尾を禁止した。だが、情欲の盛んなミランダは兄の制止をきかず、そのまま交尾を繰り返した。
ついには折檻を受けるほどまで叱られたが、それでもミランダは懲りず、ついに交尾した相手を証拠隠滅のために
食い殺すという暴挙にまで出た。
危うくミランダは同族殺しで処刑されそうになり、始祖のアンソニィに食い殺されそうになったが、
ヴィンセントは何とかして彼女を救うために、ついにその謎を掴む。
アンソニィが交わった人間族の女の白骨死体から漂っていた臭い……それはゼロ魔素と呼ばれるものであった。
無論、ヴィンセントはゼロ魔素という言葉を知る由もなかったが、
彼はその臭いを手がかりに人間社会に忍び込んだ。幸い、彼の母親が人間族の言葉を知っていたため、
彼は流暢に言葉を話すことが出来、見事ウルフバード開拓団に潜入することが出来た。

そして、念願のゼロ魔素を持つ人間族の男ハルドゥ・アンロームを探し出すことに成功したのである。

「……ハルドゥ。てめぇはガッツもある、いい雄だ。あの殺意……俺の妹の花婿に相応しい……。
ようこそ、我が家族へ。」

意識が朦朧とし、今や眠っているハルドゥにヴィンセントは微笑みかけるのだった。
ハルドゥの意識が覚めるのはこれから数日後……食人族の里にてである。

     

食人族の里に拉致されたハルドゥは意識混濁状態に陥っていた。
沼でふやけた爪からバイ菌が入り、左足が化膿していたのだ。
蜂窩織炎(ほうかしきえん)という病だ。患部を低い位置に下ろすと傷口をつねられたような激痛が走る。
症状はかなり深刻で、患部は右足の2倍は腫れあがり、色は赤から紫色へと変色しようとしていた。

「うぅ……うぅう……」

貴重なゼロ魔素を持つハルドゥを、ヴィンセントは小屋へと運ぶ。
木々を寄せ集めて出来ただけの家で、ある意味バラック小屋よりひどい。
だが、少なくとも開拓団の囚人奴隷として充てがわれていた寝床よりは数倍は恵まれた環境だった。
泥と砂で煤けたゴザの上に、藁とどこかで調達してきた布切れや干し草をかき集めて作った
馬小屋のような部屋にハルドゥは寝かされた。この部屋はミランダの子育て用の部屋だ。
まあ、どの道ミランダと交尾するのだから
別にハルドゥをここで寝かせても問題は無いと判断した。

「くぅ~ん……」
ミランダは苦しむハルドゥを気の毒そうに見つめた。
動物的本能からか、傷口を舐めようとしたが唾が染みたのか
ハルドゥはビクンと飛び上がり、悶絶する。

「うぅ……あぁっ……痛ェッ……痛ぇええッ!!」

仰向けに寝かされ意識が朦朧としながら、ハルドゥは必死に左足を上へ上へ突き上げようとしていた。
もはやリンパ腺はボロボロになっているだろう。血の巡りが悪くなると、痛みが増すために
ハルドゥは本能的に足を上に出来るようなものを無我夢中で探していた。

「やれやれ……足を下ろすと痛むのか? どれどれ、待ってろ。」

ヴィンセントは世話が焼けるとため息をつきながら、外にあった大きな石を持ってきた。
その石の上に幾層にも藁を重ねて足を乗せる。

「あ~……これは傷口が膿んでやがるな。マズイなこりゃぁ……
死なれちゃあ困る。」

そう言うと、ヴィンセントは自分の部屋に戻り酒瓶を手にとった。
開拓団時代、彼は兵士たちの目を盗んで酒をくすねてはよく部屋に戻って保管していた。
ヴィンセントはナイフに酒を塗りたくりつつ、ハルドゥの傷口にも酒を垂らして馴染ませると
傷口を切開した。傷口からは先ほどハルドゥを見て欲情したミランダの我慢汁のように
ネトネトとした膿が溢れ出す。

「けっけっけっ、まるでお前ェの我慢汁みてぇだなぁオイ」
「ガァル!!」

ヴィンセントに馬鹿にされたのを察知したのか、ミランダは顔を赤らめ不機嫌そうにヴィンセントに吠えかかる。
(我慢汁は黒兎人族およびディオゴ特有の十八番言葉のように書いていたのにごめんなさい。
どうやら、私が書くと出てしまうようで、使い分けるのが難しいようです。ごめんなさい)という天の声が聞こえたような気がしたのは気のせいだ。

傷口から乳搾りのように膿を搾り出し、やがて血だけしか出なくなったのを確認して
ヴィンセントはハルドゥの足に再度酒をかけ、火打石で火をつける。

「イ゛ェア゛ア゛アア!!!」

声にならぬ声をあげ、ハルドゥは飛び上がる。
消毒液もろくにない不衛生な状況である以上、大きな傷口からまたバイ菌が入れば
壊死の可能性もある。もはや火傷させてそのケロイドで傷を塞ぐしかなかった。
ハルドゥはそのまま泡を吹き、また深い意識の深淵へと沈んでいく。

「ったく世話を焼かせやがって…‥なんか薬になるようなモンは無ェのか……」

一向に良くなる気配のないハルドゥにさすがのヴィンセントも焦っていた。
もはや、昏睡に陥り手足は氷のように冷たくなり始めている。
見かねたミランダはそのまま外へと飛び出していってしまった。

「どうしたもんかねぇ……ハルドゥさん。」

「ヴィンセントぉ……ヴィンセントぉ……!」

掠れた声を出し、泥だらけになったミランダが何やら真っ黒な炭を咥えて帰ってきていた。

「おまえ……それって……」

ミランダが口を開けて離したその炭にはボロールカビが生えていた。ボロールカビは通常黒い色をしており、
ところどころワタのような白い子実体と真っ黒な菌糸のカーペットを寄生対象に張り巡らせることで有名だ。
だが、このボロールカビは緑色に変色し、ワタのような子実体は黄色に変色していた。

「ははは……こいつは驚いたぜ。よくやったな……ミランダ」
ヴィンセントは、ミランダの頭をわしわしと激しくも暖かく撫でる。
どうやら、この変色したボロールカビが今の危機的状況を打破するようだ。

「くぅ~~~……」
小刻みにかわいいお尻を振りながら、ミランダは子犬のように嬉しそうに喜んだ。

通常であれば、ボロールカビは生物の脳を侵し、その意識を乗っ取ってゾンビ化させる恐ろしい菌類である。
食人族の暮らすこの里はボロールカビの生息地シュヴァルツヴァルドのど真ん中にある。
食人族はカビの発生を恐れ、時折胞子が飛び交うエリアを焼き払っていた。
燃え盛る木々が炭と化し、ボロールカビは炎の業火から身を守るため感染力を失ってしまった。
その代償として、ボロールカビは強い殺菌作用を持ついわば天然の抗生物質へと突然変異を遂げたのである。

炭にへばりついたボロールカビを切り取り、沸かしたお湯と酒に混ぜて
ペースト状にすると、ヴィンセントはハルドゥにそれを食べさせる。
朦朧としながらも、モグモグとハルドゥはカビを咀嚼すると流暢に飲み込んだ。

「おまえ……起きてたらブッ殺すぞ……」
意識が朦朧としている割に、やけに流暢な動作にヴィンセントも演技ではないかと
疑い、一度ハルドゥの頬を叩くも、一切の反応無くハルドゥは沈黙したまま眠っていた。

その後、ヴィンセントはカビのペーストをハルドゥの傷口にも擦り込み、
布切れを巻き、暫く放置した。


「これで治ってくりゃあいいが……」

そんなヴィンセントの心配を他所に
うなされるようにうめき声をあげていたハルドゥの声は次第に収まり、
やがて沈静化を迎える。

「ったく……新婚早々、世話をかけさせやがる花婿だなぁ?
ミランダ。」

そう言いながら、ヴィンセントは寝入るハルドゥの頭を優しく撫でる。
それは家族としての優しさからだったのか。
それとも……





ハルドゥは寝ているのか起きているのかよくわからない状態に陥っていた。
ただ、身体は鉛のように重たい。時折、下界から襲いかかる激しい痛みで何度か意識が飛んだり覚めたりを繰り返している。
そんな中でハルドゥはなんだか夢を見ていたような気がしていた。
足でまといの自分を助け、自分の代わりに爆死したロベルトが出てきたような気がした。

「ロベルト………すまなかった……」
意識が朦朧としながらも、ハルドゥはロベルトの夢を見ていた。
体力の無さが理由で倒れた自分を何とかして引き起こし、ロベルトが助けてくれたこと……
喉が渇き、死にかけていた自分にさり気なく水を渡してくれたこと……毎度毎度ではなかった。
言葉を交わしたことも正直あまり無い。元々、ロベルトが無口だったこともあったことも手伝ってしまったのかもしれない。
ただ、元気な囚人奴隷同士が交わしていたロベルトの父親のことについての話はチラチラと耳にしていた。
無論、そのことを本人に尋ねたりはしていない。人には触れてはならない大事なものがあるのだから。

ただ、もしもロベルトが彼の父親を自分に重ねて助けてくれたのだとしたら、自分は彼を息子のように思わねばならない気がした。
もし、そうでなければ何のためにロベルトは生きてくれと自分に願ったのだ?
命を投げ出してまで、どうして生きることを託したのだ?

「ぅうっ……ぅうっ……」
ハルドゥは混沌とした意識の中、泣いていた。
自分は何もかも失ったと想っていた……だが、まだ残っていた。
人としての心が残っていたのだと、ようやく思い出すことが出来たのだ。


やがてロベルトの姿はいつの間にか消え、そこに居たのは見覚えのある少女の姿だった。
自分と同じ銀髪の髪をした、何処か見覚えのある少女だった。

「うぇっ……ぇっ……とと様ぁ……っ とと様ぁ……っ」

その言葉でハルドゥは思い出した。
そして、ロベルトがなぜ、自分に生きろと託したのかようやく分かったような気がした。
ロベルトを失い、ハルドゥに父親としてまるで息子を失ったかのような悲しみを抱いた。
その悲しみが、ハルドゥの父性愛を取り戻してくれたのだ。

自分のことで精一杯すぎて気付かなかった愛する家族への気持ち……
失ったと諦めてしまった一人娘ハレリアへの愛情をようやく取り戻すことが出来たのだった・
自分の不甲斐なさ故に残してきてしまった愛する一人娘ハレリア……
死刑宣告を受け、軍事法廷から退廷させられる自分の背中を彼女は涙ながらに見送っていた。

(……俺はまだ父親として諦めてはならないのだ。)
ロベルトが自分を父親として見てくれたとしたのなら、自分は父親としての責任を果たさねばならない。
自己満足と言われようと、俺に父親としての魂を取り戻させてくれたロベルトへのせめてもの手向けになると思った。
故郷に残してきたハレリアと会うために、なんとしても生き延びてみせる。
その気力がハルドゥの口をうごかし、ヴィンセントから与えられたカビのペーストを摂取するに至ったのだった。

     

ハルドゥがボロールカビを摂取して数日後・・・
彼は意識を取り戻した。最初に見た光景は束ねた丸太で作られた天井だった。丸太は幾層にも連なり、その丸太の合間には乾いた藁や葉っぱや、布きれや板が挟まっている。見たところ、寄せ集めた材料で作られた小屋かどこかだろう。
ハルドゥは何かが身体に乗っているのを感じた。
布団か何かか? だが、その割にそれは重くまるで石のような重量感を感じさせている。

「??」
それを退かそうと手をやると、何やら何かしらの肌触りを感じた。この感触にハルドゥは覚えがあった。そう、かつて愛した女とベッドを共にした時のあの感触だ。
「え?なに?」
答えを理解する前に首を起こしたハルドゥの目に飛び込んできたのは、人らしきものの髪の毛だった。
「え?え?え?」
思わず肘で上体を持ち上げると裸の女(ミランダ)が自分に溢れんばかりのおっぱいを押し付けてすやすやと眠っているではないか。
「うわわゎああああああぁああああぁあ!!!!!」
ハルドゥは叫んだ、理解が及ばずただ叫んだ。
まさかまさかの肉布団に彼の思考は完全に停止した。
「おい!!うッせぇぞ!!」
隣の部屋で寝ていたヴィンセントがたまらず飛び起きる。
「わわわゎああああーッ!!」
部屋の入口を覗き込むなり、真っ先にヴィンセントの目の前にいたのはミランダだった。
目の前で両足の間にお尻をつけたままペタンと座り、動揺したのか口元に人さし指と親指を当て、目線の先にいるらしきハルドゥを見つめていた。
「おォいッツ!!ミィラァンダァアッ!!」
「ひぅ!!」
ヴィンセントは罵声のような怒鳴り声でミランダの名を呼びあげながら、ミランダに歩み寄る。
「こンのッ!!メスイヌがァッ!!また性懲りもなくやらかしやがッツたのかァア!!ゴゥオラァア!!」
もはや、獣というより鬼か悪魔か分からない程の恐ろしい声を張り上げ、鬼の形相で迫ってくる兄のヴィンセントに、ミランダはたまらず脅えて腰を抜かした。ミランダは粗相をした時はいつもヴィンセントに何発も頭を叩かれている、特に男と寝た後は特にそうだ。ヴィンセントがそうしてミランダを叱りつけるのは理由があった。元々、ミランダは情欲を抑えきれず、兄を含めた何十人とファックを繰り返し、その度に死産や奇形児出産を繰り返している。このままでは、母体への負担も大きく最悪子供の出来ない身体になりかねない。だが、それでもミランダは情欲を抑えきれずファックを止められなかった。ヴィンセントは遂に暴力をもつてミランダを叱りつけるようになる。ヴィンセントからの暴力を恐れたミランダは証拠を隠滅するために、ファックした相手を喰い殺すようになる。
「貴重な花婿を食いやがったのかァア~ゴラァアァ!!」
拳を握り締めながら闘牛のような威圧感と剣幕で近付いてくるヴィンセントに、ミランダは首を何度も横に振る。兄の言葉はところどころ、理解できなかったりはするが今回ばかりはミランダも兄の意図を察した。今回ばかりはちがうと必死に訴えかけ、それから身を守るため咄嗟に頭を庇いながら、精一杯誤解を解こうと必死にハルドゥに向けて指を差す。
「う!! う~~~!!」
叩かれるのがよっぽど嫌なのだろう・・・ミランダはハルドゥを差す指の生えている腕を何度も振り回す。ヴィンセントがその指差す方向を見るとそこには頭を抱え、壁に何度も身体をぶつける全裸のハルドゥが居た。
「ァアッ!!ァアあぁあーッ!!」
ハルドゥは状況が全く飲み込めず、頭を抱え錯乱していた。それはそうだ。ウルフバードの暗殺に失敗し、喚き散らしたことははっきり覚えている。それ以降は、懲罰小屋に入れられ全身に樹液を塗りたくられ虫に集られるわ、日差しに当てられ一日中寝転がっていたわ、無理矢理水を飲まされるわでひたすら拷問されっ放しで何が何だか覚えていない。感触として分かるのはいつの間にか何者かに抱きかかえられ、ひたすらうなされながら看病されていたことぐらいだ。それが目を覚ましていきなり裸の女におっぱいを押し付けられているのだ。意味不明にも程がある。
まさか自分はこの女と寝てしまったのか。
正直言ってこの女が肉布団になってくれていたせいか、かなり気持ちよかったのは事実だ。結構、何度か動いたような覚えがある。まさか、自分はこの女と肉体関係を結んでしまったのか!?
だとしたら、天国の妻にどうして詫びよう?
いいや、もしこのことが娘のハレリアに知れたら私は一生軽蔑されるだろう。なんとしても、それだけは・・・!!それだけは!!
ヴィンセントはハルドゥを抱きしめようと引き起こす。

ヴィンセントは錯乱するハルドゥの顔を両手で包み込み、目を見つめて語りかける。
「落ち着けよ、もう大丈夫だ。怖くねぇから、な?」
ミランダを宥める時のように、ヴィンセントはハルドゥの頭を優しく撫でる。
「なんなんだ!? 一体どうなッてんだ・・・!」
「落ち着けよ、もう大丈夫だ。何も怖がるこたァねぇ。ここは安全だ。」
「誰だ?! 誰だ!!」
「俺はヴィンセントだ、ウルフバード開拓団で一緒だった・・・!」
落ち着くハルドゥはヴィンセントを見つめ、
必死に記憶を探っていた。
「ヴィンセント・・・」
「アンタ、ウルフバードの野郎のド頭かち割ろうとしてたろ? アンタがドジった後、奴の顎握り潰した奴だ 覚えてないか?」
ハルドゥは思い出した。このヴィンセントという青年を。ウルフバードを殺そうとした時に一緒になって奴につかみかかってくれたヘアバンドの青年が、そこには居た。
「君は・・・あの時の」
「思い出してくれたか?」
ロベルトを目の前で助けられず、仲間を殺してしまった罪悪感で押しつぶされそうだったハルドゥはウルフバードを殺そうとして叶わなかったことを悔やんでいた。あろうことか、ヴィンセントというこの青年の身を案じていた。安堵し、喜びと感動のあまり、滝のように涙が流れる。
「よかった・・・うぅ・・・ うぅう・・・」

ヴィンセントはハルドゥを抱きしめるとひとまずため息をつく。

     

ハルドゥがヴィンセントの元に連れてこられて1ヶ月が過ぎた。
蜂窩織炎による腫れは徐々に引いていった。急激な膨張によって
余った足の皮はまるでお好み焼きに群がる鰹ぶしのように剥がれ落ちていった。

「うわぁ~……我ながらキモイなぁ~……」

ヴィンセントに足を包む布切れを交換してもらいながら、ハルドゥはゲンナリした様子で呟く。自分の足の無残な有様はサブイボが立つほどの気持ち悪さだ。

「我慢しろってーの……足切り落とさずに済んだだけマシだろぉーが」

「でもさぁー……ヴィンセント……実際、こんな気持ち悪い足が
自分の左足だと考えると……ぅぇ」

「気分悪くなるのに見るなっつーの……ったくよォ」

自分の足を見ようと首を起こそうとするハルドゥの目にタオルを起き、
目隠しするとヴィンセントはハルドゥの左足をハンモック状に吊るしたタオルに乗せる。

「小便とクソ以外大人しく寝てろ、ったく痺れが取れてねェのに動き回りやがって…」

「分かってるが……ここ、臭うんだよなぁ~…」

「るッせェぞぉオォッ!!悪いかコラァあアァ゛!!」

「うぅ~~……そんなに怒らなくても……」

介護してもらっておいて悪いとは思ったが、お世辞にもここは綺麗だとは言えない。
如何にもたまたま有った馬小屋に、どっかの開拓団から盗んできた毛布なり天幕なりを
寄せ集めて作った鳥の巣のような家だ。時折、ネズミやアリが這い回っているのを何度か見かけて
ショタちんぽのように萎えてしまいそうだ。

(とは言え、少なくとも開拓団にいた時よりかはずーっとマシだがな。)

そう言って天井を見つめるハルドゥの顔をまたしてもあの肉布団女が
覗き込んできた。

「くうぅぅ~~……??」

肉布団女の名前はミランダといい、ヴィンセントの妹であることをここ数日間でハルドゥは知った。
なんでも知的障害を患っており、それ以来 獣のような動きしか出来ないと
ヴィンセントからは説明された。

「……心配してくれてるのかい? おいで。」

ハルドゥも最初の内はミランダを肉布団女と呼び追い払おうとするほど邪険にしてしまっていたが、
病状が快方に向かうにつれて本来の温厚な性格を取り戻しつつあった。
それにミランダがなぜ、肉布団をするに至ったか事情をヴィンセントから聞かされては
怒ったり追い払う気になどなれなかった。ミランダはハルドゥを気遣い身体を温めてやろうとしていただけらしい。
さすがのミランダも病人にファックしようとするほど、飢えてはいなかった。
病弱のオスから子種をとったところで、丈夫な子供など生まれそうにないのは
ミランダ自身の動物的本能で分かっていたからだ。

ただ、新妻気分の彼女からすれば新夫(ただし、一方的)のハルドゥと愛し合えないのは
寂しいし辛い。寂しそうにハルドゥを見つめて座り込む姿に、さすがのハルドゥも
ミランダが自分に懐いていることに気づいたようだ。

「おいで、撫でてあげる。」
そう言いながら、ミランダの髪をハルドゥは優しく撫でてやった。

「くぅぅ……きゅぅうぃぃいい……っ」

嬉しそうに目を閉じ、やがてうとうととうたた寝するその姿はまるで
犬か、文鳥さんのように可愛らしい。ミランダはそのまま寝入ってしまった。

「……こうしていると可愛いのになぁ……」
すやすやと眠るミランダを見つめながら、ハルドゥは故郷に残してきた
娘ハレリアの寝顔を思い出していた。なかなか寝付かないハレリアの頭をよく撫でては
こうして寝かしつけたものだ。

「ぅっ……ぅう……っ」
ふと目に涙が滲む。ハレリアと過ごした日々が走馬灯のように蘇る。
正直……もうハレリアの顔が思い出せなくなっていた。

人はたとえ遠く長く離れていても 愛する者の顔を忘れることなどないと言う。

それは詭弁だ。

遠く長く離れていればこそ、人は愛する者の顔を忘れようとするのだ。
それは 心が痛むからだ。
愛する者の顔を思い浮かべるたび、人は
会えない辛さ、傍にいない虚しさ、温もりのない冷たさを思い知らされる。
愛する者のいない土地で たとえ孤独でも人が生きていけるのはそのためだろう。
だが、哀しいかな……時折、人はどうしても愛する者の顔を思い浮かべてしまうのだ。

「許してくれ……ハレリア……」







ミランダの欲求不満はピィクに達していた。もうここ一ヶ月男に喰われていない。
兄はなにやら我慢しろとか何とか言っていたようだが、いつまで待てばいいのか。
その間、ミランダは部屋の隅でハルドゥが寝入るのを確認して自慰に耽っていた。

「はぁ……っ はぁっ………ぁぅ…っ!!!」
クリトリスを弄り、じわじわと勃起させようと焦らしに焦らし、
そして股間が濡れるのをその手に感じ、中指を生命の神秘のクレバスへと突っ込む。
……そう、手マンだ。

ミランダはもう我慢汁の限界だった。
目の前にゼロ魔素を持つ魅力的なオスが居るというのに、いつまで我慢すればいいのか。
もういくら一人で性処理をしても満たされなかった。

「はぁ~~~~っ……はぁ~~~~~~っ……」

ついにその夜、ハルドゥは唇を奪われてしまう。

「んぅごぉ……ぉおああ!!」

舌を絡め、締め上げるようなディープキスをしてくるミランダの
背中を指で掴み、必死に振りほどこうともがくハルドゥ。

「ぷはっあ!! や……め!!!」
ミランダの頬を両手で包み、必死にどかそうともがく。
おそらく、これはミランダの求愛行動らしきものだというのは分かった。
だが、ハルドゥは受け入れるわけにはいかなかった。
自分には愛した妻が居る。その妻に捧げたこの身体を他の女に捧げるつもりはなかった。

ハルドゥは咄嗟にミランダの舌を噛んでいた。

「っ!!!」
突然襲いかかった痛みで思わずミランダは舌を引っ込めた。
その隙にハルドゥは口に手をあてがい、ミランダから顔を背ける。
だが、視線を感じ、ハルドゥは思わずミランダの目を見つめてしまった。


「……はぁっ……はぁ……っ」
ミランダは口から一筋の血を流しながら、ハルドゥを縋り付くように見つめていた。
闇夜に照らされ、哀しく赤く光るルビーのような瞳からは大粒の涙が流れていた。

「くぅぅうう……ぅうう~~~……」
棄てられた子犬のように救いを求めるかのような目をするミランダに、ハルドゥは何も抵抗することが出来なかった。
ミランダとしてはただの求愛行動を取っていただけの筈だった、それがこんな形で拒否されることになるなんて。
ミランダに人としての心が残っているとすれば、それは乙女心なのだろうか。
愛しているのに受け入れてもらえないこの哀しみを、どうしてこのオス…いや、この男は分かってくれないのだろうか。
それが堪らなくミランダは辛かった。

ミランダのその心中など察することが出来ず、ハルドゥの目に彼の娘ハレリアの顔が
思い浮かぶ。まるで、どうして自分を置いて出て行ってしまったのかと責め立てるかのような
その娘の目がミランダを通じて思い起こされてしまった。

ハルドゥが呆然とするその隙に、ミランダは強引にハルドゥの唇を奪う。
「ごあはっ…!!!!」

必死になってもがいて気付く余地もなかったが、思わず吸い込んだ空気でハルドゥはハッと我に返る。
ミランダの口から臭う凄まじい人外臭だ。口から脳みそを串刺しにするかのように
入り込んでくる血と肉の臭い。彼女の吐息を吸い込んだ瞬間、ハルドゥの脳裏に「死」という文字が目に浮かぶ。

「ごはぁ!!げほぁ!!」

涙・鼻水・よだれが止めどなく温泉のように溢れてくる。
体が拒否反応を起こし、必死になってその臭いを追い出そうとしてしまうほどの穢れた臭いだ。
この臭はそうだ……あの臭いに似ている。
幼い頃、ハルドゥの暮らしていた街で悪臭騒動があった。
その臭いの根源を調べてみると、数キロ先のスラム街のとある肉屋からの臭いだった。
管理の行き届いていない閉店寸前の肉屋があった。
肉は蠅の大群がたかり、ネズミやゴキブリが床中を歩き回り、売っている肉の
殆どにびっしりと蛆虫がたかっていた。ろくに腸内洗浄もせずに解体された内臓からは糞尿の鼻を付く臭いがした。



………そうだ、これは死の臭いだ。動物が動物であることを放棄し、
ゴミとしての朽ち果てることを選び、最後の悪あがきに周囲に撒き散らすあの臭いだ。
「ごはっ!!ぅげ……!!」
苦しさのあまり、ハルドゥは思わず口に何か蠢くものを感じ、
慌ててそれを吐き出す。

「げぁ……っ!!ぉあっ!!」

ミランダを何とか押しのけ、ハルドゥは口元に手をあてがい吐き出された物を見つめた。

「ぁ? あっ…!!」

そこにあったのは黒く蠢く黒い幼虫だった。
そいつはハルドゥの掌で苦しそうに身体をよじり、息も絶え絶えになっていた。

ハルドゥはあまりの光景に気を失った。
意識を失って気を失ったハルドゥの表情に思わずミランダも唖然とした。
突如としてあの彼女が心より恐れる罵声と暴力が襲いかかる。

「何やってやがんだァア!!このバカ女がぁぁアあ!!!」
ヴィンセントはミランダの髪を鷲掴みにすると、そのまま後ろに投げ飛ばし壁に叩きつける。

「ぎゃぁう!!」
「ミランダァア!!て゛めェ どけゴラァあァ!!」

ミランダの鳩尾に蹴りが入り、彼女は激しい鈍痛のあまりその場に蹲る。
「か……は……あぅ!!」

ミランダは白目を剥き、苦しそうに震えだした。その痛がりようにヴィンセントはなにやら違和感を感じ、
周囲を見渡す。ハルドゥの手のひらを見つめると、そこには黒い幼虫が今にも死に絶えそうになっていた。

「この馬鹿!!てめェ!!何吐いてやがンだ!!馬鹿野郎!!」

青ざめた顔でヴィンセントは、黒い幼虫を拾い上げるととっさにミランダの口の中に、
それを放り込む。幼虫を飲み込み、ミランダの顔色に血の気が戻っていく。

「はぁ……っ はぁ……っ」

「てめぇ……俺を置き去りにするつもりだったのかァあ!どうしてだ!!!!!」

先ほどミランダが飲み込んだ黒い幼虫は、食人族の肉体を構成する重要なコアの一部である。
食人族が頭を銃弾で撃ち抜かれようと、かすり傷程度で済んでいるのはこの幼虫の分泌液によるものだ。
その幼虫を吐き出せば、身体が禁断症状を起こし最悪死に至る。


ミランダは自身を抱き抱えるヴィンセントを見つめながら、悲しそうに泣いていた。
「……フラレたってわけか。そうか。」

ヴィンセントはミランダを優しく抱きしめる。
ミランダも久々のヴィンセントの優しさに思わず、唸りながら襟首を掴み
嗚咽して泣いた。獣のミランダの人間らしい乙女の涙だった。

ハルドゥに拒絶され、ミランダは失恋の悲しみのあまり自害しようとした。
ならば、せめて愛する者に自身の幼虫を分け与え、食人族にしてから死のうと思った。
それが自分の心を拒絶したこの男への復讐になると思ったのだ。



「心配するな……大丈夫だ。兄ちゃんに任せとけ。必ずお前を幸せにしてやる…
…だから、頼むから……もう二度とこんなことしないでくれよ……ミランダ」

ハルドゥを食人族にし、ミランダと愛の契を結ばせることこそが
ヴィンセントにとっての生きる意味だ。
そのために、ミランダを絶対に死なせはしない。
改めて心に誓うヴィンセントだった。

     

 なんだかひどい悪夢を見ていたような気がする。
夢の中で俺はあの美しいミランダという少女に襲われ、貞操を奪われようとしていた
俺が愛した女は……俺の身体も心も捧げた女は……天国の妻ただ一人だけだ。
だからこそ、俺はハレリアを心の底から愛している。
ミランダの好意に答えることは出来なかった。彼女はひどく悲しみ、
激しい抱擁のすえ、何かを俺の口に送り込もうとした。
咄嗟にその何かを吐き出し、俺は掌でその正体を確かめる……そこには
黒く蠢く幼虫がこちらを見つめていた――そこで夢は終わった。



ヴィンセントとミランダの家で療養という形で居候しておそらく数ヶ月は経っただろう。
この数ヶ月間で歩き回れるようになった俺は、彼らの家の清掃に明け暮れていた。
2人としてはこれが普通なのかもしれないが、いずれにせよ良い機会だ。
助けてもらったお礼も兼ねて家を綺麗にするのは仁義に反してはいないだろう。


こうして過ごす内に、よくヴィンセントと話をすることが多くなった。
久しぶりの話し相手で嬉しかったのだろうか……ヴィンセントは俺に
自分とその妹ミランダの生い立ちについて話してくれた。
2人は50年前、甲皇国がこのミシュガルドに極秘に派遣していた開拓団の子孫らしい。
開拓団はこの近辺に村々を作り、一時期は自炊出来るほどの生活を築けていたそうだ。
ところが、原生生物の襲撃に遭い2人は両親と祖父母を失った。
それ以来、この開拓団の村の一つだった空家でひっそりと暮らしていたそうだ。
ヴィンセントいわく、当時赤ん坊だったミランダが無事でここまで育ったのは奇跡とのこと。
だが、言葉は子供だった自分では教えきれず、ミランダは野生の獣たちと遊ぶことが多くなり、そのまま成長してしまったとのことだ。
俺よりも20は年下に見えるヴィンセントの言葉が、人生の先輩にかけられる言葉のように
重くも頼りがいに満ちたように感じるのはきっとその波乱万丈な人生の賜物だろう。


ヴィンセントの話に耳を傾けながらの清掃は楽しかった。時間と自分の病気を忘れるほどに。
だが、清掃中に気が抜けると蜂窩織炎を患った足が疼き立てなくなることがしばしばあった。
蜂窩織炎の左足は今でもむくみ、時折 正座を終えた直後の痺れの2倍ほどの痺れに苛まれる。
だが、左足を鼠径動脈(股の付け根)より上に上げれば少しは収まった。
痺れや大男に傷口をつねり上げられたような激痛からして皮膚だけの病気じゃあないことは確かだ。
医学者ではないが、ハルドゥもそういう類の話は耳にしたことがあったから
これが血液の病であることは察しが付いていた。
鰹節のように踊り狂っていた皮膚はすっかり剥がれ落ち、今では新しい皮に覆われた足になっている。
だが、左足は右足と比べると1.5倍は膨れている。試しに足を反り返って中足骨を浮き出させようとすると
違いは一目瞭然だ。右足がくっきり浮き出るのに対し、左足はまったくと言っていいほど出ない。
高熱や腫れは引いたとはいえ、依然として足を下にすれば少しばかり痺れや痛みが襲ってくる。
山場は超えたとは言え、再発しないとは言い切れなかった。ボロールカビの変異体を取り続ける必要はある。

「あんまり無理するなよ、掃除しなきゃ死ぬわけじゃねぇーんだし」
「いやいやいや、いくらなんでも汚すぎるだろ!!ここで寝てたら再発するわ!!」

他人の家に居候しておいてなんて言い草だとは思ったが、ネズミやアリが這い回るこの衛生状況は如何なものかと思う。
ただでさえ、病気で抵抗力が弱まっているのだから少しでも綺麗な環境で療養した方が良いに越したことはない。
まずは、ミランダの部屋のリフォームだ。一応彼女の部屋は自分の療養スペースでもあったし最優先だった。
部屋の床に敷き詰めた藁を撤去し、顕になった部屋の床の掃き掃除をした後に
もう一度殺菌した藁を敷き詰めることにした。
獣のような性格をしているミランダとはいえ、仮にもレディの部屋を不衛生にしたままでは
超幸福労働男子の名が泣くというものだ。

「きゅぅるぅうう……」

ミランダは自分の部屋(縄張り)を荒らされると勘違いし、俺に吠えかかっていたが、
ヴィンセントから説明を受けると座り込んだまま、傍観するようになった。
ミランダは最低限の道具を使う以外は基本四足歩行であった。だが、座り込む時は人間の女の子らしくアヒル座りをしていた。

「……それにしても」
目のやり場に困る。なにせ、ミランダは基本、全裸で歩き回っているのだから。
当初は通るたびに目を背ける俺に、彼女も気を遣ったのかどこからか調達してきた
パァカァを羽織るようになった。だが、嬉し……残念なことに前を留めるチャックが壊れているせいで
チラチラと胸の谷間が見えてしまっている。

(くそ……下手な裸よりエロくて困るぞ……これは)

四足歩行をすればたわわに実った夢と希望の2つの果実がぶら下がり、揺れるのを目の当たりにしてしまう。
正直、愛した女以外の女のおっぱいに心を動かされるのは 男として許されないはずだが、
哀しいことに股間はその度にテントを張ってしまっている。

(くそ……だらしない腐れチ〇コめ……!断じて俺は……!!)

男というのは哀しい生き物だ。作業を終え、疲れるとどうも疲れマラで股間がキャンプ支度をおっぱじめるから困る。
学者であろうが、マッチョであろうが、下半身事情は大概同じだ。

「げ」

俺が股間を抑えて、必死に足を組んだり股を閉じたりとモジモジしているのを
見るとミランダは嬉しそうな顔をこちらに向けてくる。
ミランダはどうも俺に気があるようだ。なにせ、俺が勃起している素振りを見せると
胸を押し付けてきたり、お尻をむけてきたりとやたらとアピィルしてくる。
相変わらず下半身は下着もつけていない。
もう、彼女の後ろ姿を見るのが苦痛でならなかった。
恥ずかしさのあまりヴィンセントにせめてパンツだけでも身に付けるように言ったが、
下着だけはつけるのを嫌がって無理とのことだ。なんでも、一度パンツをつけたまま
排泄をしてひどく気持ち悪い思いをしたことがトラウマになってしまったようで、
下着をつけようとすると暴れて手がつけられなくなるらしい。

何はともあれ、いずれにせよ下着を身につけていないお尻を向けてくることは
オスに対する挑発、いうなれば発情行為にほかならない。

「くるるぅうう~~~……」

微笑みながらミランダは俺に挑発の眼差しを向けてくる。
世の中にはとんだ物好きが居るものだ。
中身は獣だとはいえ、見た目はこれほどの美人の女性にここまでセックスアピィルをされて
正直言って悪い気はしないが、疑問は拭いきれない。
四捨五入すれば俺はもう50だぞ。いったい、このジジイもどきの俺の何が魅力なんだ?

ヴィンセントはその光景を見て笑っているし、
ミランダが俺に求愛行動をしてくるのを見ると茶化すほどだった。





正直、この誘いに乗ってしまいたい。


どの道、一人娘のハレリアには親子の縁を切られていてもおかしくない。
ならば、ここで新しく人生をやり直すためにも
このミランダの好意に応じるのも悪くはない。
彼女の兄のヴィンセントは、俺とミランダがくっつくのを歓迎しているようでさえある。












何を考えているんだ。我慢汁が溜まったからと言って、こんな馬鹿げたことを考えてはいけない。
俺は鋼の学者魂で、ミランダへの情欲を断ち切る。早速、股間のテントの撤収を完了すると
立ち上がりリフォームに移る。


ミランダとヴィンセントには悪いが、俺には帰りたい故郷がある。
だが、世話になった以上は何らかの恩返しはすべきだ。超幸福労働男子の魂が泣く。
せめて、リフォームはしてもいいだろう。性欲を断ち切ろうと張り切りすぎたせいか、
早速身体は悲鳴をあげた。


「っつつ…………………ってて……」
俺は思わず足を椅子の上に乗せて、その場に仰向けになって寝転がる。
正座をしていきなり立ち上がって痺れた時の2~3倍の痺れが左足を襲う。

「あーぁ、言わんこっちゃない。今詰めてやるからだろ。」

そう言いながら、一緒に部屋の片付けを手伝っていた
ヴィンセントは綺麗になったスペースにゴザを敷き、俺を運ぶ。

「痺れがとれたら再開……」
俺の言葉をフル無視しながら、ヴィンセントは手際よく俺の足を天井からハンモック状に吊り下げたタオルに
乗せると、そのまま俺の上半身を寝かしつける。

「アホか、何回こういう絡みしてんだっつーの。痺れがひどくなってるじゃねーか。
今日はこれでお開きだ。 いつもの茶を飲んだらさっさと寝てろ。」

「うう……あれマズイからいやなんだよなぁ……」
動けなくなると、ヴィンセントはボロールカビをお茶に煎じて飲ませてくれた。
当分は、このお茶のお世話になっている。最初、成分を聞いた時はギョッとしたが。

「ふぅ~……」
間違っても射精したわけではない。勘違いするな。

「ほらよ、だいぶ楽になったろ?」

「ああ……だったらまだ作業はでき」

「諦め悪いぞ ボケが。黙って寝ろや。」
無理やり起き上がろうとする俺を半ば叩きつける勢いで、ヴィンセントは寝かしつける。

「集中してねぇとミランダでフル勃起しちまうからだろ?
分かってンだぜ、それぐらい。」
ヴィンセントに茶化され、ムキになった俺は起き上がろうとする。

「おいおい、そう怒るなって……悪かったよ。もうからかったりしねぇからよ。」

ヴィンセントの言葉に正直、俺はかなり不機嫌になっていた。
生理中の女性は苛立ちやすいと聞くが、溜まってる男性もそれに匹敵するぐらい苛立ちやすい。
妻への一途な想いを支えに、我慢汁でパンツを破きかねないばかりの下半身を必死に抑え込んでいるのだ。
正直、何度ミランダをオカズに抜いてやろうかと考えたか分からない。いや、出来ることなら犯してやりたいと何度思ったことか。
我慢汁が溢れて、金玉が破裂しそうになって悶絶しつつも、必死に理性で抑え込んでいる苦しみを
男なのにどうして理解してくれないのか腹立たしかった。

「……」
俺は怒りが臨界点を突破しそうになるのを堪えて、そのまま後頭部を叩きつけるかのように寝転がる。
それを察したのか、ヴィンセントはミランダを追い払うかのように目配せする。
ミランダはいつものように怒られるのを察してか、そのまま外へと飛び出していってしまった。

「そう怒るなよ、悪かったって……ハルドゥ。アンタが嫁さんを愛しているのは分かってる。
アンタの理性には敬意を表するよ……だが、やけくそになってあんまり無理されちゃ困るんだ。
腫れた上に痺れるってこたぁ血液の病気だ。
血液の病気は、舐めてかかるとポックリ逝っちまわねぇとも限らねェんだ。わかるな?」



そう言うと、俺はもはや抵抗する気など起きず、渋々床に就く。
ヴィンセントいわく、似たような症状の奴隷仲間が居たようで一度こういう類の病気になると、
後遺症は二度と治らないと告げた。これから先、再発の可能性はある。
いわば、足に爆弾を抱えたような状態になってしまったらしい。分かってはいたが、少しショックではある。


「……まあ、そう落ち込むなよ。人間誰しも持病はあるもんだ。」
ヴィンセントはタバコを更かしながら、俺を励ます。

「……自分がなってないからそう言えるんだろ、無いにこしたことはない。」
からかわれたことで俺の沸点が低くなっていたのか、
イライラが再燃し、俺はまたも不貞腐れながら返した。
ヴィンセントはまいったなと言いたげな表情をしつつも、申し訳なさそうに言葉を紡ぐ。

「そりゃあ、そうだが 持病がある奴は無理が出来ねぇ。
だから、それだけ自分の身体を自然と理解してくる。つまりはだ、用心深くて長生きしやすいってことだ。
健康だからっつって無茶をする奴はいつか身体ぶっ壊す。
それで済みゃあいいが、それで即死亡になったら堪らねぇだろ?」

なんとか機嫌を直して欲しいと暗に匂わせながら、必死にフォローしてくれるヴィンセントに
怒る気もとっくに失せ、むしろ自身の大人気なさに俺は罪悪感を感じ始めていた。

俺より2~30は年下だろうというのに、達観しているのは波乱万丈の人生を送ってきたからか。
正直、俺はこれまでここまでどん底だったことはなかった。
言うほどの金持ちではないが、あまり苦労はせずに定職に就くこともできたし、
好きな女と出会い、結婚し、我が子を持つことも出来た。両親も孫の顔を見て、安心して旅立っていった。
だからこそ、俺は人生を甘く優しいものだと勘違いしていた。
そのザマがこれだ。情け容赦のない現実に打ちのめされ、何度死にかけたか。
こうして生きているのはもはや奇跡と言える。
ヴィンセントといえばどうだ。幼い頃に身寄りを原生生物に殺され、たった一人残された妹を育て上げるために
必死で生きてきた。開拓団から盗みを働き、なんとか見つからないように
息を潜めて暮らしている。だからこそ、人生に容赦せずに生きてこられた。

「……人生に慈悲なんてないのかもしれないな。」

吊り下げられた足を見ながら、気が付くと俺はそう口走っていた。
堰が壊れた運河のように、俺の言葉はもう止まらなかった。

「……人生は本当は情け容赦などないんだ……恵まれてる人間は気づいていないだけだ。
自分の恵まれた人生が、大勢の人々の不幸の上にかかった一本の綱の上にあるってことを。
俺はその綱渡りに失敗した……大概の人間はたとえ綱から落ちそうになっても、掴むことが出来る。
あるいは嫌な予感がしたら、用心して備える……綱の上に立つのが苦手な奴は、しがみつきながら進んでいったりするし、
いずれにせよ絶対に落ちたりはしない…… 俺が綱から落ちたのは……きっと、何処かで魔が差したのかもしれないな。
ほんの一瞬の油断だったのか……いや、俺は最初から自分の人生を舐めてかかっていたのかもしれない。
何とかなるだろうって考えて真剣に人生ってやつを考えちゃあいなかった。 
その報いがこれだ……だから、俺は綱から落ちてどうしようもないところまで沈んでしまった。」

自分でも驚いていた。自分の人生を冷静にここまで流暢に分析し、語ったことには
内心感心すらしていた。それと同時に何故だろうか。この目から流れる涙は。
後悔からか? それとも悔しいからか?

俺はただ呆然とした宙を見つめた。
その時のヴィンセントがどういう顔をしていたのかは分からない。
俺の視界外に居たヴィンセントは暫しの沈黙の後、口を開いた。

「……お前の言う綱ってやつから落ちたら、そこでお仕舞いかどうかは
後は神のみぞ知るってやつだ。生きるか死ぬかは運次第だしな……俺が思うに、
本当に人生に情け容赦がないなら、生きるか死ぬか 
運すら与えられないと思うがね。」

返す言葉がなかった。俺は腕を目に当て、視界を遮る。
やり場を失った涙が閉じた目から溢れ、俺の腕を濡らす。


「……それで生きてたら 今度は不幸な人生を味わうチャンスだ。
不幸にはスリルが付き物だ。スリルのある人生も悪くは無い。 
人生の本当の味を知るのはこれからだ。」

ヴィンセントの言葉に俺は救われた気がした。不幸に落とされた自分を何処かで哀れむ自分が居た。
もう生きてることすら、辛くて苦しくて
不幸だから生きてちゃいけないと勝手に決めつけていた自分に苦しんでいた。
でも、そうじゃないんだと否定して欲しかった。

俺は嗚咽したまま、寝入るのだった。

       

表紙

参加者一同 PASS:vip 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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