Neetel Inside 文芸新都
表紙

彼女の靴を履かせてくれ
マニュアルマッチョとオートマ乙女

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 人々が議事堂の前に行ってしまうと、あとに残ったのは、おそらくひどく蒙昧であろう老人たち(呆けた顔をして横断幕を持っている)と僕たちだけになった。何となく、姥捨て山の管理人にでもなったような気分がした。毎日、じゃがいもを四個ずつ配るのさ。市役所のお金を持ちだした償い。ハツ江さんが死んだ時は寒かったねえ、なんて、みんなで言い合っている。寒い日に死んだのはユキさんで、ハツ江さんが死んだのは八月下旬だったということを僕は知っている。でも、僕も愛想笑いを浮かべて、彼らの足を揉んでやるのだ。姥捨て山の日常とはそういうものだ。
 このなかなか愛すべき妄想に、僕はぶっ続けて五分間ふけった。健一さんは職人気質で、最初の頃は「じゃがいもなんぞ食ったら四肢が鈍る」と言って、僕に蒸かしたぐずぐずの芋をぶつける。でも、風邪を引いた時に看病してやったら、すっかり僕のことを信頼してくれるようになった。そんなことを考えていた。
 隣で、女の子がわざとらしくため息を吐いた。僕は姥捨て山の感動的なストーリーを一旦ストップさせた。あ、みなさん、すいません、ちょっと、僕があなた達のことを思い出すまで、しばらく動かないで。
 僕は隣に立っている女の子を眺めた。彼女も僕を疑わしげに眺めた。確かに。僕はおそらくさほど上品にも、さほど優れても見えないだろう。イケメンの俳優じゃなくてごめんな。でも君も清純派女優じゃないだろ? おあいこなのさ。でも、やっぱりちょっとだけごめんな。
 僕は気詰まりな空気を壊そうと努力した。
「――笛吹だ」
「さっき聞いた」
 僕はひとつ息を吸い込んで、彼女に人差し指を突きつけた。彼女の瞳が、僕の指先と僕の顔とを行き来した。
「ひとつ良いかな。僕は君じゃない。分かるよね。なぜなら、僕の頭を殴れば、痛いのは僕だ。だから、少なくとも、痛みを感じるって言う観点から言えば、僕と君は違う。さらに、痛みを感じたっていう記憶を考えてみれば、僕と君とは、同じ痛みを知っているわけがないということが分かるよね」
「何いってんの? あんた」
 彼女は眉間のシワを一層濃くして、僕の顔を覗き込んだ。まぶたのすぐ上に付いている眉毛がぐっと盛り上がった。左眉の上に、くっきりとしたしわが一筋、はっきりと寄った。なかなか形の良いしわだった。どこか宿命的なところを思わせた。時折、ピアス穴がピアスよりも似合う人がいるように、この子も、欠点がひどく印象的に見える子供だった。
「ここからは論理がちょっと飛躍するんだけど、この理屈をさ、他の記憶に当てはめてみれば、僕と君が、同じ記憶を持っているっていうのは、随分見込みが無いことのように思えるんだ。僕と君とはそもそも年齢が違う。初対面だ。同じ人に同じ場所で同じように頭をぶん殴られたこともない。お互い良かったね。ねえ、分かるかな。だから――」
「だから?」
「――てめえの名前をとっとと言えよ。俺がてめえに俺の名前を喋って、てめえがなんでてめえのすげえぶっ飛んだ名前を言わねえんだ?」
 彼女は僕のことをぐっと睨みつけた。僕は大げさに肩をすくめてみせた。太陽の光が差した。彼女の髪の毛が、まるで、緑色に光る太陽の繊維みたいにきらきらと光った。
「あたし、さっき言ったよ。あんたが聞いてなかっただけだよ。その――殴られたことを忘れちゃったってことでしょ」
 なかなか良い所を突くじゃないか。一点やろう。僕は首をひねって、彼女の薄っぺらい頬を眺めてみた。子供の頬を眺める度に、今朝、ひげを剃ったか気になってしまう。仕方ねえんだよな。
「思い出す」
 僕はそう答えて、壁に背を預けて必死に考えた。あのばあさんの娘であることは間違いない。そうすっと、あのおばさんの苗字であることは間違いない。「私、八代さんのお友達で……」その続きはなんだっけ? サカマキさん? 違うな。何だ? サカシタ。ううん、これはそれらしく思えるけど……。サカ、サカ。サカにこだわっても意味が無い。日本には下り坂と上り坂、どちらが多いでしょう? 相補性。ちゃんと考えろよ。知っているって。ちょっと懐かしい響きがあったはずだ。何か、とても懐かしい響きだ。でも、この女の子の名前だあ? 僕がとびっきり素敵な名前を考えてやれば良いんじゃないかな。名前。考えたことがあるか? うまくやってみるさ。ねえ、名前をつけたことがあるのか? 今までに一度でも?

     

 僕は何かに名前をつけたことがなかった。

     

「笹、笹崎、笹崎だ。笹崎、笹崎咲。思い出した。あってるだろ?」
 僕は十分間必死で考えてから、ついに彼女の名前を思い出した。彼女は口を思い切りひん曲げて、ひどく疑わしげな顔つきになった。
「あってんだろ?」
 そして、ゆっくりと、口の端の方から笑顔を作っていった。ブラウン管に走査線が走って、画像を切り替えるみたいに。
「マジで考えてたんだ?」
「当たり前だ。それとも何だ? 僕が脳内でテトリスでもやってたって思ってんのか? 良い発想だね。どっかの賞に応募してみたらどうだ? それとも僕がお話の筋を作ってやろうか? 二〇十五年、云々かんぬんってな。原稿用紙は買った? 万年筆は? 文豪には座卓が必要だよな? そろそろ質問がぶっ続けに二百個飛んできてブチ切れそうだろ? なら俺の質問にとっとと答えやがれ。笹崎咲であってんだろ?」
 彼女は口を抑えて、目をきゅっと細めると、「あってるよ」と、アホみたいに面白そうに笑った。はあ? ちょっとは感心しろよな。ガキってこれだから嫌いなんだ。
「よろしく、笹崎、咲」
 僕はこの名前が――はっきり言って――何も考えずにつけられたのだと思った。さささき、さき。最低の名前だ。いくら画数が良くっても。人間は画数だけで名前を喜んだりしない。名付けの責任。ねえ、これは君が名前をつけたんだ。君が名前を呼んで上げなさい。リンネ。心優しき博物学の祖。原罪を一身に背負ってさ。ぐるぐる転生して、もう一度現し世に戻って来給え。でも岩に名前をつけるのはどうかと思うんだよ。
「よろしく、笛吹……」
「笛吹でいい。気に入っているんだ。いい苗字だろう? 頭韻だ」
「あ?」
「あ、じゃねえ。チュッパチャップスだよ。ミッキーマウスだよ。頭韻だ。分かるよな。マニュアルの車に乗ってるムキムキの男、つまりマニュアルマッチョ、分かるよな」
「オートマなら?」
 僕は答えに窮した。オートマなら? これは難しい。遠くから歓声が聞こえてくる。威勢がいい。中学生の時に行った漁港を思い出した。当時の僕にはどうやってセリが行われているのか分からなかったし、今の僕にもどうやってデモのコールが行われているのか分からない。しかしそれらはうまく行っていたし、今もうまく行っている。やってられんぜ。勝手にしろってんだよ。あんたたちのために、叫び声を何種類も覚えるのなんて嫌だからな。あの、ジメジメした、隣に頭のおかしいばあさんが住んでいる……いや、アパートのことを考えるのはよそう。待ってたら誰かがご飯をついでくれると推測なんかしてさ(『よそう』だ)。
 しかし、僕も大学一年生の時は、馬鹿げた酒飲みの合図を覚えて馬鹿げて飲酒をし、アホみてえにゲロを吐き、ゲロを吐かれ、可愛い茶髪の女の子が僕のリュックにゲロをたっぷり吐いて(中身の教科書、しめて一万八千円なり)、それでもヨイヨイヨイとぶったまげたコールをしていたわけだ。全くやんなるぜ。
 そのまま僕は街路樹を撫でたり、近くに立っていた――まともじゃない――老人に話しかけたりして時間を潰した。笹崎の娘――古文調だな。そうやるか?――はすべきこともあらねば、道路の隅などにてあざりけり。
「大変なんですね。それにしても、何十年かに一回やらなきゃいけないって、大変ですよね。僕たちも、これから何十年後にやることになるかと思うと……」
「いやあ、お兄さんなら大丈夫だ、おれも、最近のガキにはほとほと愛想つかしてるんだけど、お兄さんみたいなのがいるとほっとするねえ」
 というところで、僕は承認欲求を満たしきり、笹崎のところに戻った。彼女は僕のことをぎろっと睨んで「あんた、最低だね」と呟いた。ざらざらした声。酒でもタバコでもやっているような声だ。
「何が?」
「あのおじいさんに嘘ついてた」
 僕は肩をすくめてみせた。今日だけで二百回はすくめただろう。これで痩せたら一本、本が書けそうだ。対照実験? 二重盲検法? 後にしてくれよ、そういう気詰まりな話はさ……。太陽がやたらに僕を照らして、なんとなく気恥ずかしくもなった。
「――乙女だ」
「あ?」
「オートマなら乙女だよ。オートマ乙女。『マニュアルマッチョとオートマ乙女』だ。どうだ?」
 彼女は一瞬あっけに取られたような顔をしたが、次には、呆れた、とでも言うように僕に背を向けた。どうぞご随意に。僕は全く関係ないからな。君がどこに行こうが、君のお母さんがウヨクかサヨクか(僕には区別がつけられない)に没入インダルジしようがしまいがな。勝手にするがいいさ。
 でも、少しは気の利いたタイトルじゃないだろうか。またタイトルか。僕はすっかり嫌な気分になった。題名。またこの話だ。次は何がいけないのだろう? 男がマッチョだから? オートマが乙女だから? じゃあ僕はどんな題をつけてやりゃ良いんだろう。僕が七十八歳六ヶ月の時から書き始める自省録に――『あるタニシの一生』なんて馬鹿げたタイトルじゃない――どんな題名をつけりゃ良いんだろう? 何が許されているんだろう? 使っていない言葉。作ってはいけないタイトル。ならば、使っていい言葉以外はいらないね? ――荘子のお言葉。拝受、拝受、それで僕ん所にくそったれのどえらい札が回ってくる。『おめでとうコングラチュレーションズ! 君はどんな言葉でも使っていいよ! ただし僕たちも、それなりのことはさせてもらうがね……』。
「あんたさ」
 突然、彼女がくるりとこちらを向き直った。左眉の上に、特徴的なしわが一本寄った。これのせいで彼女は致命的に不美人になっている。クラスでも「咲は、ちょっと……」と言われる種類のしわだ。眉尻から眉間に向かっている。僕は再び肩をすくめてみせた。この子が話しかけてくるたびやろうと思った。
「何だ?」
「あんた、子供だね」
「じゃ、君は大人だ。満足か? いくらでも言ってやるよ。頑張れよ。君が泣いて『あたしを大人っていうのをやめてくださいな、お願いですから、このどん底の、消毒液の匂いのする、ぼろくそのひでえ個室から出してくださいな……』って言うまでな」
「あんたさ、何いってんの?」
 何でもない、ごめんね、と僕は両手を広げてみせた。時計を見ると、もう十二時に近かった。彼女はずいと僕に近づいた。咄嗟に僕は距離を取る。何奴?
「ホントさ、あんた、なんて言うんだろう」
「笛吹だ。その賢い頭にちゃんと叩き込んでおけよ。自己紹介って苦手なんでね、それとも何だ? 好きな食べ物の話でもしよっか?」
「あんたさあ!」
 笹崎咲(次に話しかけるときは『さ』を二つ増やしてみよう)は語気を荒げた。僕はもう一歩分距離をとった。随分馬鹿げたやり方で取ってみた。両足を揃えて後ろにジャンプしてみただけさ。
 彼女は「ほんとやんなっちゃうよ」と言わんばかりに上体をぐんにゃりと折り曲げた。ロシアのボリショイ劇場に今から行っても十分通用する。風がぱったり止んで、東京にしては珍しく凪になった。
「――好きな食べ物の話はしないで。あたし、その話、嫌なんだ」
 なるほど、僕は頷いて、彼女の方に歩み寄った。咲は街路樹の保護材にもたれかかっていた。
「で、君、どうするつもり? 僕は今から大戸屋にでも行って飯をかっ食らうつもりだけどね。いやあ、すげえうまいぜ。食ったことある?」
「無い」
「マジでぶっ飛んじまうくらいうまいんだよ」
「あんたさ」
 彼女は僕のことを右下から見上げた。挑戦的な目つきだった。僕も負けじと『被挑戦的な』目つきをした。これは結構難しかったが、少なくとも努力はした。彼女はあどけない口を開いた。
「なんで素直に『ご飯に行こう』って言えないの?」
「知るかよ」
「あと、口調がガキっぽすぎ。あたし、中一だよ。中一にマジになってんの?」
 ああ、と僕は答えた。
「君だってマジな奴と話したほうが面白いだろ。とにかく僕は今、君がマジで話しててかなり嬉しいね。さっき言ったゴミ溜めみてえな個室に行ってやってもいいぜ。この部屋の話はまた十年後教えてやるよ」
「今、教えて」
「何だって?」
 僕は今ちょっとアレか? ハニートラップ的なアレか? おいおいおいおい、僕は少女性愛者だと思われているのか? 何なら僕の自慰歴を披露してやってもいいがね? ふざけやがって。ああやんなっちまう。何がやんなっちまうってさ、子供に怒鳴らなかったり、子供にまともに取り合ってるってだけで、なんだかロリロリなオンナノコが大好きなマジで馬鹿げてぶっ飛んだやつか、博愛精神にあふれ過ぎていて、毎日、鳩とセックスしないと眠りにつけないようなやつだと思われちまうってことなんだよな。そういうのって真面目にやめて欲しいんだよ。僕はただ隣のおばさんの『神経の紐』を触っちまった罪滅ぼしをしたいだけだ。うんざりすんねシックオブイット
 笹崎は喋り始めた。女の子というのは、喋ると決めたら必ず喋る。この少女もそうだった。
「あのね、あたしは、あたしの知らない言葉を使われると、ここらへんが痛むわけ(と彼女は、自分の耳の付け根あたりを指差した)。そういうのってすっごく……うそっこ言われてるみたいでさ、ムカつくんだ」
 僕は首を横に振った。
「そうかい。じゃあ言うがね。僕がさっき言ったのは、僕みたいな最低な男が、君みたいなか弱い少女に興奮するために入っていって、げんなりして帰っていく場所のことだよ。それ以上知りたいって気分になるかい?」
 彼女も首を振った。

     

 僕は口をつぐみたい。舌を切られた小さな鳥のように。

     

 大戸屋の料理はいつ食っても安定してうまい。うまくないならばそれは大戸屋の料理ではない。対偶の真偽は一致する。時折馬鹿げて聞こえたら……穴に向かって叫べばいいさ。王様の耳はパンの耳。葦で作られた笛を携えて。僕は愛想のいい店員にメニューを告げる。
「梅おろしチキンカツ定食、ご飯は少なめ、五穀米で」
「同じのを――」
「変えろ」僕は口走った。彼女は左上にあったヒレカツ定食を頼んだ。
 店員が帰ると、彼女は机の下で、僕のすねを全力で蹴ってきた。
「クソいてえな、コンクリ詰めにすんぞ。東京湾にお魚を呼び寄せる仕事に就かせてやろうか? 春休みの自由研究にでもしろや」
「あ?」
「何でもないよ、忘れてくれ。僕は時折いけないことを言っちゃうんだね」
「あんたさ」と、彼女は本日二億回目の『あんた』を繰り出した。
「ちょっと変わってるよね」
「みんな誰でもちょっとは変わってるもんさ。君の耳の形だってちょっと変わってる。そういうのって分かんねえのかな。それとも聞き取りテストが出来ねえのかな」
 彼女は黙りこんだ。僕は椅子に深く腰掛けて、彼女の顔を観察していた。「ささささきささき」と喋りかけてみた。完全に真顔でだ。彼女は不快感を露わにして、テーブルの箱から七味を取り出して、手のひらの中でくるくると回してから、僕のことを斜に眺めた。
 店内の音楽が馬鹿げた広告に変わった。はいはい、納税。禁煙。ドラッグはやめましょう。子供を大切に扱いましょう。近くに虐待されている子がいたら通報を。そのうち、僕たちが何日ごとに洗濯機を回すかまで指定しだすに決まっているさ。朝は六時半に起きて十二時に寝ましょう。そっちのほうが節電になりますからね……。ふざけるんじゃない、なら、どっぷり暗いぼろくそのくせえ部屋で、コーヒーでも淹れてギンギンに目ぇかっ開いてやるまでさ! 全てのことは自由で束縛されているのさ(我ながらバカバカしい警句だ)。
「あ?」
「君、自分の名前はちゃんと言えるよな?」
「さささき、さき」
すばらしいハラショー
 間。
 店員が料理を運んできた。僕は手早く「いただきます」と言って、味噌汁を胃に流し込んだ。なにせ朝ごはんを食べていなかったもんだから、これはすげえ効いた。胃の中に暖かい蛙が流れ込んできたような気分になった。まだ『海』も『見ず』天橋立ってか……。僕はどんどん自分に没入している。悪い癖さ。ごめんよ。僕だってさ、明日になりゃ自分の考えたことなんて全部忘れちまってさ。ニューロンのぴろぴろしたしっぽと、何ミリモーラーかのナトリウムとカルシウムが僕の全てさ。それを許してくれよ。君が許しを与える。
 料理は相変わらずうまかった。僕はすぐに食べ終わって、目の前の女の子がご飯を食べるのを見ていた。彼女の食べ方はお世辞にもうまいとは言えなかった。左手は、拳銃でも隠し持っているみたいにテーブルの下に潜っていたし、箸もなんだか握りこむみたいな持ち方をしている。ヒレカツの衣が器の周りに散らかっている。彼女がコップから水を飲むと、ふちには油のあとがくっきりと残った。
「あ?」
「なんでも」
「あのさ、一ついい?」彼女は口をこすって、頬杖をついて話し始めた。箸を一本つまんで、お茶碗に盛ってあるご飯をつつきながら。
「あたしさ、そういうふうに言われんの、大嫌いなんだ。『なんでも』? ムカつく、本気でムカつく。『なんでも』?」
「ああ。なんでもない。君には全てのモノに理由が付けられるってんならそれでもいいが、僕はそうじゃない。例えば、君は何回噛んだら飲み込もうと思う? それと同じだ。君を見ているのに理由はない。可愛い女の子がいたら見つめたくなるんだよ」
「マジもんの、変質者」
「ありがとう! 交番の場所をチェックしときなチェケラ!」
 僕はなんだかいたたまれなくなって、トイレに行った。彼女がメシを食っているところを僕はきっと見てしまうし、彼女はそれを嫌がっている。そういう時ってさ、僕か彼女かのどっちかがトイレに篭るしか無いんだ。僕はたっぷり十分ぶっ続けて瞑想に更けると(世界の真理が五個見つかった)、手を洗って席に戻った。彼女はすでに食べ終わっていた。
「うまいだろ?」
「まあ」
 レジには江戸時代の蘭学者にそっくりの店員がいた。彼女は小さい尻の小さいポケットに手を入れて畳まれた二千円を取り出したが、僕はそれを押し戻した。
「いいかな、大人の、男の人はみんなプライドを持っている。チンケだがね」
「あ?」
「カッコつけたいんだね、僕は」
 彼女は諦めたようにお金をたたみ直して、ポケットにしまうと、僕をほっぽり出して出口に向かった。支払いを済ませると、すでに一時近かった。
 スマートフォンを確認すると、八代さんから連絡が来ていた。僕は短く返信を打って、待ち合わせ場所に笹先を連れて行った。デモはまだ続いているみたいだった。午後の部ってことかな。木の影の向きはゆっくりと変わっていく。僕はいつも物悲しい気分になる。なんで太陽は沈むのだろう。地球が回っているからだ。考察、終わり。
 八代さんは、笹崎夫人と一緒に――顔を赤くして、額にうっすらと汗をかいて――戻ってきた。僕たち二人は壁に背中を預けて立っている。ツーピースのロックバンドみたいに。
「――あらあらぁ、笛吹くん、ありがとうねえ!」
 僕は軽く頷いた。八代さんに形式的に微笑んでおいた。楽しかった? ええ、とっても――クソの中のクソだね、僕に言わせりゃ。彼女は眉尻を薬指で撫でた。
「笛吹くん、ありがとね。笹崎さんは帰るんだって、ありがとう」
 ああ、と僕は呟いて、咲の方を向いた。彼女は足元を見ていた。足元に、毒を吐く、生命力の強い蟻がいるとでも言うみたいに、ぐりぐりとスニーカーで地面を踏みつけた。それから、「あんさ」と呟いた。
「あんさ、あたし、はっきり言ってあんたにちょっとムカついてる。あんたが大戸屋でなんであたしにメシおごったかも分かんない、でもあんがと」
 僕は黙っている。彼女が僕にだけ聞こえるくらいの声で呟いた。低い声だ。
「マジになってくれてさ」
 そして彼女は小さくはにかんでからまた元通りの、ひどく不機嫌な表情で、母親のもとに歩いて行った。僕はそれ以上笹崎の方を見ずに、八代さんに近づいた。
「僕も帰るよ。ありがとう。今日は……楽しかったよ。いろんな人と話せたし」
「ホント? 良かった。これからも、予定が合えば誘うよ」
「うん、ありがとう」
 そして僕は国会前を後にした。銀座線に乗って渋谷まで、渋谷から……。もうやめよう。うんざりするだけだから。
 パルコに行ってスニーカーを買った。コンバースの一番安いやつ。中学生が背伸びして履くような靴だ。店員は愛想よく接待してくれた。僕は靴を買いすぎている。
 家に帰ってベッドに倒れ込んだ。体はもう動かない。けれど、意識はしつこく残っていた。いくら目を閉じても、サカシタさんの視線、笹崎母親の視線、八代さんの視線、何よりもあの笹崎咲の視線が浮かんできた。お前は……狂っているふりをしているだけさ。そうすれば傷つくことはないからな。やめろ、やめてくれ、僕を見るのはさ。
 意識がようやく薄れていく。長い昼間の短い午睡。喉の奥に夢の乾きを残すに違いないさ。

     

 誰かを見捨てる夢を見た。

     

 僕が通っていた小学校には小さな農地があった。
 そこは三つに区切られていて、小学一から三年生までが、それぞれ何か野菜を作っていた。さつまいも、とうもろこし、そしてヘチマ。毎年同じ作物だ。春が終わる頃に撒いて、夏に世話をして、夏の終わりから秋に収穫する。他の多くの場所と同じような筋書きだ。
 夏休みになると、その『農園』の当番が組まれた。出席番号の若い子から始まって、おしりまで。毎日、九時くらいに学校に来て、水やり、草むしり。簡単な仕事だ。僕にももちろんその仕事は回ってきた。
 二年生、とうもろこしの学年。僕の当番の日。ラジオ体操を済ませて、セミが鳴き始めた頃に、僕は学校に向かった。すでに太陽は半分くらいのぼっていて、ランニングの首筋をじりじりと焼いた。眼が乾く暑さだった。自分の呼吸だけが妙に大きく聞こえる。
 『農園』は草いきれでむっとしていて、蚊が耳元をぷうんと飛んだ。僕は慌てて首筋をばちんと叩いたが、残ったのはぴりぴりとした、いくらこすっても治らない痛がゆさだけだった。
 とうもろこしの背丈は随分伸びていて、もう僕の伸長を越していた。筋のピンと通った葉っぱがみっしり重なっていて、『農園』のとうもろこし畑は、ちょっとした密林みたいだった。映画で見た。お父さんが難しい顔をして見ていた映画のシーンだ。
 僕は適当に水を撒いた。水は湿気の多い空に広がって、ぱたぱたと葉っぱに掛かった。ぼつぼつ、ぱたぱた、ざあっざあっ……水を撒くのは楽しかった。蟻が葉っぱの上にとまって、大きなしずくと一緒に落ちていった。
 僕はその蟻を手に取ろうとかがみこんだ。蟻はとうもろこし畑の奥に転がったみたいだった。僕は畑の中に入っていった。四つん這いで、膝小僧が土で汚れるのも気にしない。土の匂い。草の匂い。風がどこからか吹いて、細い筋になって僕の頬をかすめた。がしゃらしゃら、と頭上で草が音を立てた。
 僕は蟻に手を伸ばそうとして――横にあったとうもろこしを折った。
 とうもろこしの幹はいとも簡単に折れた。ぼくっ、という鈍い音。にちぃ、にりにり、と、幹の繊維が剥かれていった。
 僕は慌てて幹を支えた。とうもろこしの幹を継ぎ直そうとした。僕には出来るはず。積み木と同じはずだから。
 しかし、とうもろこしは何度やっても元通りにはならなかった。立て直すほどに、幹の折れた断面は土で汚れていった。白と黄緑の幹。土で汚れて。ぐずぐず。夏場だから、腐っちゃう。
 誰のだろう。誰のを折ったんだろう。嫌だ。僕ののはず。僕のを僕が折ったんだ。そうじゃなきゃ、そうじゃなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。水はやったし、草もむしったし。
 嘘を吐いちゃえ。誰もわからないはず。とうもろこしを折ったのは僕じゃありません。僕じゃないんです。僕が水をやった時は普段通りでした。僕は何もやってません。違うと思います。
 誰だよ、折ったの、最低だな。ホントに。しかも黙ってるなんてさ。卑怯だよね。
 ――水谷じゃね? マジで? あいつが? そう思った。
 誰かのうわさ話。僕の苗字はない。良かった……。
 水谷くん。
 水谷くん……。

     

 僕は……。

       

表紙

一階堂 洋 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha