Neetel Inside 文芸新都
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「八代さん、ごめんね。あんなことを言うつもりじゃなかったんだ」と僕は左手で目を覆って呟いた。言うまでは本心のつもりだったんだが、言った瞬間、とんでもねえつくり話をぶちあげちまったって気分になった。僕はちょっとナーヴァスになってんだな。
 彼女の顔を見ると、マジで心配そうな顔してやがった。僕はちょっと泣きそうになった。彼女の眉間にはぎゅっと二本の皺が走っていた。自分のために、女の子が眉間にしわを作ってくれるって、とんでもなく嬉しいもんだぜ。
「大丈夫、良いって。笛吹くん、本当に大丈夫?」
「さあ。とにかく金曜日と土曜日に五時間ずつ夜勤したのが効いたね。これからは摂生するよ」
 小声でそう伝える。彼女は自分の眉間に人差し指を当てて、意識的に皺を取り除いた。僕はもう一度目を伏せた。
「国会前だっけ?」
「……そうだよ。ホントに大丈夫だよね?」
「うん、大丈夫。ちょっとテンパっちゃっただけなんだ。本気で。人混みって、なんて言うかな、ちょっと――」
「苦手?」
「――そうだね。苦手。いい言葉を知ってる。苦手なんだ」
 彼女は僕に板ガムを一枚くれた。弱いミント味のガムだった。僕はぼんやりと微笑んでみたりまた元の無表情に戻ったりした。彼女は僕がふざけているのだと勘違いして、僕の腕を小突いた。すまんね。僕は苦手なんだよ。急行に乗るのも、自分を表現するのも。
 メトロが何駅か動いて、溜池山王に停まった。僕と彼女は歩調を揃えて電車から降りた。彼女は僕の方をみて、軽く頷いた。僕はなんだかぐらぐらとした気分になった。僕の周りにはたくさんのおばさんやおじさんが立っている。みんなが完全にシラフで、完全にまともだった。僕はひどく間違った場所にいるような気がしてきた。僕はここにいちゃいけない。僕は今日もあのくそったれな狭いマンションで、あの完全にいかれちまったばあさんと口論して、時々土下座しとかなきゃいけなかったんだ。僕は……。
 彼女は僕の背中を、ぽん、と叩いて、「あのさ」と口を開いた。彼女は僕の右斜め上を見ながら話した。
「ねえ、笛吹くん、私もね、君が私の三毛猫を大切にしてくれるんなら、別に最大の素数を見つけてやってもいいとは思ってんのよ」
 随分チャーミングなことを言う娘だ。僕は口の端を歪めて、「何時間考えたセリフ?」となんとでもないふうに尋ねた。彼女はそれだけのことでひどく傷ついたような顔をした。
「ごめんよ。テンション上げてかなきゃね。僕も本番ではちゃんとやるよ。僕はそういうところをハズさない男なんだ。知ってるでしょ」
「そんなことあったっけ?」彼女は肩にかかった髪を、指にくるくると絡めて、ぱっと離した。抵抗力は変位の……僕は首を軽く振った。会話の糸がぷっつりと途切れた。
 エスカレーターに乗っていると、知らない間に上までたどり着く。これは結構すごいことだ(と、僕は勝手に思っている)。
「へえ、意外と人がいるもんだね。もっと小規模にやってると思ってた」
「みんなそう言うけど、実は違うって。こういうのって突発的にやるんじゃなくて、きちんと定期的にやるといいんだってさ……だって活動だしさ」
 彼女はつんとした唇をもう一段階尖らせてぼやいた。三十近い女がやるような、カクッとした濃い眉が臆病そうに歪んだ。僕はまあだいたいどういうことかわかってきた。
 例えば、今日のデモは本当なら渋谷あたりから合流するコースだってあったこととか、そっちのコースは大学生がたくさんいることとか、まともな女子大学生は、小中学校が同じだっただけの男を誘ったりしないこととか、そういうことだ。
 彼女の古臭い眉とどうしようもないスカートのことを僕は覚えていよう。きっとLINEの『友達』がひどく少ないだろう彼女のために。そんくらいはしてやらなきゃ。
 通りに出ると、彼女はスマートフォンを開いて、画面を覗き込んだ。僕は彼女のそばに立って影を作ってやった。彼女はありがとうもなんにも言わずに、「こっち」と呟いて歩き出した。通りはひどくひっそりとしている。小さな商店の店番をしていた老婆が僕たちのことをじっと見ている。
 遠くから何事か声が聞こえてきたが、はっきりとは聞き取れなかった。きっと、すべての人にとって都合のいい言葉なのだろう。
「あのさ」
 僕は口を開いた。
「こういうのって初めてなんだよ。それで、聞きたいんだけどさ」
「何?」
「君たちは『何とかを殺せ』なんて言わないよね、それだけ約束して欲しい。僕は……苦手なんだ」
 これは本心だ。誓うよ。僕は心のなかで呟いた。でもって誰に誓えばいいんだろうな? 僕はとりあえずその場しのぎのご本尊として何日か前に見た『エレナ』の瞳を思い出すことにした。これは随分『それらしく』思えた。きっと僕は何でもそれっぽく見るだろう。アディダスのロゴ、日輪、月輪、臨済宗には入れないな……。
 彼女は立ち止まって、僕の顔をじっくりと眺めた。それから、曖昧に笑った。東京の人は、みんなこんな笑い方をする。目を細めて、口角を上げて、前歯を二ミリだけ見せて、唇を軽く巻き上げて。やんなるよ。ほんとにさ。まるで嘘くさくって、その嘘くささもひっくるめて僕は喜んじまうんだ。ありがとうスパシーバ、僕なんかに微笑んでくれちゃってさ、って。
 彼女は優しく、誰かの真似をするみたいに口を開いた。
「約束するよ。私達、そういう人たちのことを正しくするために行くんだもん」
 『正しくする』。僕はひどく滅入ってきた。何もかもどうでも良くなってきた。帰って子犬の動画でも漁って、そのあとでとびっきり可愛いプッシーで致して寝ようとさえ思った。
 ねえ、君、僕が誰かを『正しく』出来たとしてさ、それは僕が誰かの右の頬をぶっ叩いて、「ちょっとそこをどけ」って言って、左の頬をぶっ叩くのと何か違うのかな。それだったら、僕はそんなことしたくないよ。ホントに。ね、どうせなら、何万円かもらって、ホモって思われるかもしれないけど、そいつの頬にキスしてやりたいもんだ。でも彼女のことを僕は信じることにした。
 誰かに『ブチ殺す』って言うのは、それ以上に気が滅入ってくることなんだ。

       

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