Neetel Inside 文芸新都
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 国会議事堂前にはすでに何十人と人が集まっていた。聞けば、『毎日』来ているらしい。新聞のことか? 僕はつまらない質問をしようとして、やめた。街路樹はすっきりと刈り込みがなされている。足元のマンホールは、焦げ付いたコーヒーみたいな色をしている。僕たちのことを、近くの老人がぎろりと睨んで、また手元の新聞に目を落とした。
「すごいね」と僕は呟いた。
「すごいね」と彼女は返した。
「女流歌人が涙を流して喜びそうな返事をありがとう」
「は?」
「何でもないよ。ただ何となく言いたくなったんだ。ちょっと寒かったんだ。それだけさ」
 カミュかよ、僕は。僕はどことなく不機嫌になって、ガムを包みに吐き出すとポケットに仕舞った。リュックからペンを取り出して、ポケットに差し込んだ。
「こうすると、ガムを入れたまま洗濯しないで済む」
「ホント?」
「ああ。とにかく『ガムを入れて洗濯しちゃった、ブチ殺す、手始めに俺からだな』とはならない。ボールペンから漏れたインクのほうがおおごとになるからね」
 彼女は曖昧に笑った。
「ちょっとここで待っててね。大丈夫、心配いらないからね」
 彼女は僕を置き去りにしていった。朝の空気はぱりっとしていて、白っぽくなったアスファルトに『朝日』があたって、砂の粒の一つ一つが薄茶色の光を乱反射させた。
 しばらく「なんとか首相がなんとか!」とか「なんとか法案がなんとか!」とか「なんとかなんとか!」みたいな声に僕は耳を傾けていた(遠くの方に大学生らしき集団が見えた。僕は何も言わなかった)。初老の男が声を掛けてきた。
「どうも、あなたが笛吹くんですか、八代さんの知り合いです、サカシタと申します」
 八代さんは帰ってきていない。僕はなんだか騙されたような気分で、彼を握手とした。差し出された男の手は、綺麗に爪が切られている。僕はニッコリと微笑んで、「よろしくお願いします。サカシタさん」と答えた。鷲鼻の紳士だ。腹は少し出ていたが、ここにいる人の中ではずば抜けて綺麗な格好をしていた。
 グレーのスーツに、黒っぽい落ち着いたコートを着ている。こういう輩の多くがチョッキとか何とかを着やがって死ぬほどうぜえんだが、このおっさんはそんな頓痴気な真似をしてねえ。すげえ僕はいい気分になるぜ。最高。マジでな。坊主憎けりゃ袈裟まで。待てよ、そうすっとさ、もし仮にだぜ、僕が人間一般というものを憎んだとしたら……僕は何を着りゃあいいんだ? へっ、おいおいおいおい、やめろよ。お前、自分が憎むことをし続けているじゃねえか。それが一つ増えたところで何だよ? 今日はネクタイを締めました、憎い! 今日はマスクをつけました、憎い! 今日はこのむずむずするペールオレンジのぶよぶよしたぼろくそのひでえタンパク質を纏っています、憎い! 憎い! 憎い! 今日は……そういうこった! へ、へ、へ!
「戻ってきた」
「何がですか?」
「いえ、何でも。さっきまで不安だったんですけど、自信が」
 僕はくそみてえな答え方をした。これってかなり強制力があってな、相手が「初めは怖いでしょう」とかなんとか、馬鹿げたセリフを言い出す以外に方法がねえんだわ。そこをちょこっと録音しときゃ、何かやばい年齢のオンナノコたちが下の方を見せてくれる系のお店っぽくなっちまうもんだからたまんねえよ。へ! ああたまんねえよ。隣のおばさんがジトッとした目で僕を凝視している。あら、横断幕が隠れちゃってるのね。失礼、失礼。塗籠ん中で待っときゃ僕のプッシーが来てくれる、なんて時代は一日もなかったってのに、ずりいよな、首相様。
 考えてくれよ、『あんたがそのどえらい股ァ開いてくれたら、俺ァこのマザーファッカー法案をぶっ飛ばしてやんぜ』って首相様がお告げなさったらよ、ここにいる女の子は路上ででも全裸になるだろうさ。滅入ってくんねぇ。
「ええ、初めはみなさんそう言いますよ。本当に。でも、私達一人ひとりがちゃんと力を持っているんですから、心配いりませんよ。粘り強さが結果をもたらすのです。『忍耐は一種の正義である』ですからね」
 へへ、そうかな。僕は意地の悪い喜びを覚え始めた。《へ! さて、どう出るかねえ……?》僕はポケットからペンを取り出して、カチカチと二回クリックした。
「あの、すいません、サカシタさん、こういうことを初対面の人に聞くのはアレかなと思うのですが……」
「ええ、何でしょう? 私もできるだけ答えますよ」
「サカシタさん、奥さんはいますか? 子供は?」
 彼はちょっと怪訝そうに眉をひそめた。視界の隅を通り過ぎたタントに太陽の光がぱっと反射した。
「ええ、いますよ、それがどうしました」
「ねえ、奥さんにも一種の正義がありますよね。『結婚とは忍耐である』ですからね」
「それが、どうか、しましたか?」
「へへ、なんでもワットエヴァー。ただ、ちょっと気になったんですよ。こっちに正義の一種があって、こっちに正義の一種がある。それから先のことはあんまり考えたくないんですけど、そういう状況を想像するのって、僕、結構好きなんですよ。だからここに来たんですけどね」
 初老の紳士は眉根にシワを寄せた。僕は一瞬にしてやる気を失った。僕は取り返しの付かないことをしてしまった。彼は言葉を探している。僕にはそれが分かったし、彼くらいの歳の男に、そんなことをさせるべきではないのだ。人間には言葉を探す時期と、探した言葉を、次の娘達にちょっとずつ伝承していく時期がある。彼は後半に入っているのだ。
 遠くで雲が音もなく動き、太陽を覆い隠した。影がぼやけた。すべてのものの境界が少しほころんだような気がした。
 僕は慌てて訂正した。
「いや、すいません、最近、ちょっと、その、生活がうまく行っていなくて。本当に。八代さんに誘われた時も、ちょっと困っていて」
「はあ、そうなんですか」
 彼はちょっと警戒をゆるめた。僕はもっと自分のことを傷つけたくなった。彼がそうしていると思い込んだ。彼の言葉は僕の言葉になった。彼の思想は僕の思想になった。彼の考えていることは僕の考えていることになった。僕は喋り出した。
 ああ、偉大なものは全ての口を支配せり。あまねくものの口から偉大な言葉は紡がれり。すべてのものが、あの巨大な柱の周りを周遊しながら生み出されたものであるがゆえに。拝受すべし。神聖な御言葉を……。
「すいません、ごめんなさい。実は、実は、僕、大学から、その……追い出されてしまったんです。当然の罰なんです。僕が全部悪くって、それで、いま、全然、その、本気で全然、自分に自信が持てないんです。そういう時って――わかりますよね――誰かれ構わず、突っかかったり、傷つけたくなっちゃうんです。本当にすいません。こんなことを言うつもりじゃないんです……」
 彼のシワが完璧に薄れた。僕は信じられないくらい、いい気分になった。オランダ人に経験させてやりたいくらいの気持ちよさだった。全てがごく僅かな間だけ自明だった。すべてのものに調和が満たされていた。僕が曖昧に笑った瞬間、そんなアホみてえな幻想は全部ぶっ飛んじまったんだけどな。
 遠くをちらっと見た。八代さんがどっかにいたような気がしたが、彼女の姿を見分けることは出来なかった。まるで、小説のページをパラパラとめくっている時に目に飛び込んでくる気の利いた一節みたいに。
 そのまま彼とくだらない世間話をした。僕は当たり障りなく現政権を批判しておいた。
 これは別に卑劣なことじゃない、と僕は信じている。愛想笑い。処世術。ほら、口角をくいっと上げて――いいよ。自分の中にもう一人飼っとけ。ぬいぐるみ人形。血を流すぬいぐるみ人形。彼のへその緒――それは前頭葉をつなぐケーブル。ちょっとばかし悲しいだけさ。すぐ慣れるよ。
「でも、いいですね。こういう会に参加すると、世界のために行動しているという気分になれます。やっぱり僕も平和好きな人間ですから。ひとつの声は小さいですがね」
「笛吹さん、結構、結構なことですよ。あなたはよく物事を見ているようですね。本当に。あなたを……した大学は、実にひどい。本当に」
「それも良かったかもしれません」
「良かった?」
「ええ。その、こういう集会の存在を知らないまま終わってしまう、ということは……今考えるとですね、ちょっと、怖いとまで思えるんですよ」
 彼は満足したようにうなずいた。やんなっちゃうな。こういうのってさ。僕のぬいぐるみがひどく傷つけられる。右手の紐が切れちゃったあ。左手があるじゃない。左が動かなくなっちゃったら、みんなどっかに行く。ひとりぼっち。僕の三毛猫と一緒に。『落ち葉に埋もれた空き箱』もなくってさ。ぼろくその、悲しい歌ばっかり残ってさ。
「いや、あなたのような孤独な元学生が立ち上がるというのは、本当に、実に結構なことですからね!」
 僕の理解者。僕の僭称者。僕の庇護者。僕の精神の万能薬パナシア
 ――くそくらえ。
 僕を薬漬けにするつもりだろう? ええっと、患者名は笛吹。病状は不明。いや、しかし、様子だけは見ておこう。意識と性器を切っておけ。先生、ロボトミーは? やってみようか。チューブで僕と、僕の大切な――大切な――『それ』をヤク中にする気だろう? 僕は未だに僕にしがみついてやがる。このおっさんの思想より僕が高級だって、んなこたあまるっきり馬鹿げてんぜ。そんでこのおっさんにとっては、僕の思想より、彼の思想が優れてるとかなんとか逃げようとしてやがるぜ。相対主義の始まり。くそったれ! こんちは、ここが相対主義者の最終列すか? ちょいと失礼……どうせ誰にも大義が無いんだから……。

       

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