Neetel Inside 文芸新都
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 彼との『有意義な会話』が終了し、僕はひどい頭痛を感じながら、壁の前の、横断幕を持った貴婦人の横に座り込んだ。腫れた患部をぎゅっと押し付けたような頭痛だ。地面には牛丼屋の半券が落ちていた。どこの場所にも牛丼の半券はある。人類が滅んでも、きっとゴキブリと牛丼の半券は残っているだろう。
 八代さんが疲れた顔をして帰ってきた。朝の十時には向かない顔だ。早速、近くのご婦人方にとっつかまっている。僕は重い腰と頭を上げて、彼女の方に近づいていった。彼女たちは甲高い声で喋り合っている。家族がどうの、日曜がどうの、気温がどうの。「あれ、あんたの彼氏?」「違いますよ」「あらあら」「彼、初めてなんです」――これって、僕のことなのか。
「ねぇえ、今日はおひさまも出てていい天気ねえ」
「そうですね、最近、寒い日が続いていましたし……」
「あぁあ、八代さん、これからぁ、一緒に行きましょうかねえぇ?」
 天気を気にするとはね。僕は内心、感心しながら貴婦人の話を聞いていた。天気を気にするなんて、なかなか出来ることじゃない。服装こそあやしき身分に見をやつしたように見ゆれど、というやつだ。係り結び。覚えてないね。
 貴婦人はサングラスを掛けて、淡い色のダウンコートを着ていた。高くもなければ安くもない、ありきたりの、まあ叩かれない服だ。
「いえ、でも、笹崎さんも、お子さんが心配でしょうし……」
 彼女ははにかみながら答えた。そういうのってやめたほうがいいぜ。一定以上の年齢の女性ってのは、時折とんでもなく厚かましくなるものだから。ダウンコートの女性は、「いいわよお」と彼女の腕を叩く真似をした。
「咲なんてどうでもなるんだからさあ」
「いえ、でも……」
「そうだ、八代さん、あなたのボーイフレンドに任せてしまいましょ、さ、行きましょ」
「ちょっと、そんな、急に……」
 彼女は慌てて手を顔の前で振ったが、一度心を決めた婦人は折れない。八代さんは僕の方をちらっと見て、眉をぎゅっと寄せた。僕は肩をすくめた。サングラスの婦人が、甲高い声をもっと高くして僕に話しかけてきた。はっきり言えば、驚くほどヤギに似ていた。
「あなたが笛吹くん? 好青年ねえぇえ。私、八代ちゃんの知り合いなのよぉお。これからお昼ごろまで、ちょっとあっちの方に行ってくるからねえええ、子供任せてもいいかしらぁああ?」
 僕は語尾を二十秒伸ばして返事をしてやろうとさえ思ったが、やめた。初対面の人には行儀よく、だ。ただ、僕にはひとつ気がかりなことがあった。笹崎婦人の手を握っている子供なんてどこにもいない。《もしかしたら、ぶっ飛んだ精神病患者かも。一抱えもある石を渡されるのか?》と僕は考えた。
「――ええ、結構ですよ。僕の連絡先は八代さんからもらってください。まあ、その子供がここにいればの話ですけど」
「あら、どうも、どうも。やっぱり、ここに来るのはぁ気のいい青年ばっかりねええ。うちの子供はあすこにいるのよおぉ。ほら、あっち……」
 彼女は壁を指差した。
 灰色のピーコートを着た、髪の短い子供が、廃人のような目つきで立ちすくんでいる。医者を持ってきて瞳孔反射の検査をさせたら、まずもって間違いなく「この子は死んでいる」と判断するだろう。小学生か中学生。どちらかは分からないが、背はひどく低い。
「あの子ですよぉ、ちょっと無愛想だけど、いい子なのよおお。お昼までには戻りますからああねええ。待っててくださぁい」
 僕たちは壁際に近づいていった。子供は動かない。八代さんは僕の方を見て、「ごめんなさい」と呟いた。どうってこと無いさ。なんだか僕は随分疲れてしまっている。
「ほらぁ、こっち来なさい。今日はこのお兄さんとねえ、ちょっとぉ待っててねぇ」
「……誰?」
「これはねえ、笛吹さんって言っててねえ、凄くいい人なのよぉお。八代さんのお友達でねえ……」
 笹崎夫人の声は一オクターブ高くなった。娘に対してこういう言葉遣いをすることに慣れすぎている。
「……下の名前は?」
 子供の声はしゃがれていて、低かった。薄い唇が不機嫌そうに口の中に巻き込まれた。
「え?」
「笛吹、何?」
 婦人は一瞬戸惑ったような顔をしてから、「それはお兄ちゃんに聞いてみなさい」と早口で切り上げた。言い終わるのに一秒もかからなかっただろう。
「……ホントに知ってんの?」
 子供は目を細くして母親を睨んだ。喋り終わると、唇はまたさっきのように、ぴんと張り詰めた状態に戻った。婦人は、わずかに僕の方を見て、また子供に向き直る。彼女はひとつ息を吸って、すぼめた口から吐き出した。そして、嘲るような笑みを浮かべた。
「知っているに決まっているでしょお? あんたと違って、私はそういうことはきっちりしているのよぉお。馬鹿言ってないでおとなしくしてなさい、挨拶でもしたらどうなのぉおお?」
 間。子供は母親から僕に視線を動かした。
「よろしくお願いします。笹崎です」
「よろしく。笛吹って言う」
「じゃ、後はよろしくねえ笛吹くん、愛想の悪い子供だけどねえ、ごめんなさいねええ?」
 別に、と僕は答えた。通りの向こう側から聞こえてくる声が少し大きくなった。笹崎夫人は、八代さんの肩を掴むと、無理やり僕たちに背を向かせた。自分の子供に聞こえるように、彼女は話し始めた。
「ね、うちの子、ちょっと頭おかしいでしょぉ、ホント嫌なのよお、いつも理屈ばっかりこねてねええ」
「笹崎さん、子供って、みんなそんな――」
「やめてやめてやめてちょうだい、あんな馬鹿みたいな質問をする子、普通じゃないにきまっているでしょぉお、ホント、困るのよぉ、ホント頭悪くって……」
 僕は突然苛ついた。

       

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