Neetel Inside 文芸新都
表紙

彼女の靴を履かせてくれ
マニュアルマッチョとオートマ乙女

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 人々が議事堂の前に行ってしまうと、あとに残ったのは、おそらくひどく蒙昧であろう老人たち(呆けた顔をして横断幕を持っている)と僕たちだけになった。何となく、姥捨て山の管理人にでもなったような気分がした。毎日、じゃがいもを四個ずつ配るのさ。市役所のお金を持ちだした償い。ハツ江さんが死んだ時は寒かったねえ、なんて、みんなで言い合っている。寒い日に死んだのはユキさんで、ハツ江さんが死んだのは八月下旬だったということを僕は知っている。でも、僕も愛想笑いを浮かべて、彼らの足を揉んでやるのだ。姥捨て山の日常とはそういうものだ。
 このなかなか愛すべき妄想に、僕はぶっ続けて五分間ふけった。健一さんは職人気質で、最初の頃は「じゃがいもなんぞ食ったら四肢が鈍る」と言って、僕に蒸かしたぐずぐずの芋をぶつける。でも、風邪を引いた時に看病してやったら、すっかり僕のことを信頼してくれるようになった。そんなことを考えていた。
 隣で、女の子がわざとらしくため息を吐いた。僕は姥捨て山の感動的なストーリーを一旦ストップさせた。あ、みなさん、すいません、ちょっと、僕があなた達のことを思い出すまで、しばらく動かないで。
 僕は隣に立っている女の子を眺めた。彼女も僕を疑わしげに眺めた。確かに。僕はおそらくさほど上品にも、さほど優れても見えないだろう。イケメンの俳優じゃなくてごめんな。でも君も清純派女優じゃないだろ? おあいこなのさ。でも、やっぱりちょっとだけごめんな。
 僕は気詰まりな空気を壊そうと努力した。
「――笛吹だ」
「さっき聞いた」
 僕はひとつ息を吸い込んで、彼女に人差し指を突きつけた。彼女の瞳が、僕の指先と僕の顔とを行き来した。
「ひとつ良いかな。僕は君じゃない。分かるよね。なぜなら、僕の頭を殴れば、痛いのは僕だ。だから、少なくとも、痛みを感じるって言う観点から言えば、僕と君は違う。さらに、痛みを感じたっていう記憶を考えてみれば、僕と君とは、同じ痛みを知っているわけがないということが分かるよね」
「何いってんの? あんた」
 彼女は眉間のシワを一層濃くして、僕の顔を覗き込んだ。まぶたのすぐ上に付いている眉毛がぐっと盛り上がった。左眉の上に、くっきりとしたしわが一筋、はっきりと寄った。なかなか形の良いしわだった。どこか宿命的なところを思わせた。時折、ピアス穴がピアスよりも似合う人がいるように、この子も、欠点がひどく印象的に見える子供だった。
「ここからは論理がちょっと飛躍するんだけど、この理屈をさ、他の記憶に当てはめてみれば、僕と君が、同じ記憶を持っているっていうのは、随分見込みが無いことのように思えるんだ。僕と君とはそもそも年齢が違う。初対面だ。同じ人に同じ場所で同じように頭をぶん殴られたこともない。お互い良かったね。ねえ、分かるかな。だから――」
「だから?」
「――てめえの名前をとっとと言えよ。俺がてめえに俺の名前を喋って、てめえがなんでてめえのすげえぶっ飛んだ名前を言わねえんだ?」
 彼女は僕のことをぐっと睨みつけた。僕は大げさに肩をすくめてみせた。太陽の光が差した。彼女の髪の毛が、まるで、緑色に光る太陽の繊維みたいにきらきらと光った。
「あたし、さっき言ったよ。あんたが聞いてなかっただけだよ。その――殴られたことを忘れちゃったってことでしょ」
 なかなか良い所を突くじゃないか。一点やろう。僕は首をひねって、彼女の薄っぺらい頬を眺めてみた。子供の頬を眺める度に、今朝、ひげを剃ったか気になってしまう。仕方ねえんだよな。
「思い出す」
 僕はそう答えて、壁に背を預けて必死に考えた。あのばあさんの娘であることは間違いない。そうすっと、あのおばさんの苗字であることは間違いない。「私、八代さんのお友達で……」その続きはなんだっけ? サカマキさん? 違うな。何だ? サカシタ。ううん、これはそれらしく思えるけど……。サカ、サカ。サカにこだわっても意味が無い。日本には下り坂と上り坂、どちらが多いでしょう? 相補性。ちゃんと考えろよ。知っているって。ちょっと懐かしい響きがあったはずだ。何か、とても懐かしい響きだ。でも、この女の子の名前だあ? 僕がとびっきり素敵な名前を考えてやれば良いんじゃないかな。名前。考えたことがあるか? うまくやってみるさ。ねえ、名前をつけたことがあるのか? 今までに一度でも?

       

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