「笹、笹崎、笹崎だ。笹崎、笹崎咲。思い出した。あってるだろ?」
 僕は十分間必死で考えてから、ついに彼女の名前を思い出した。彼女は口を思い切りひん曲げて、ひどく疑わしげな顔つきになった。
「あってんだろ?」
 そして、ゆっくりと、口の端の方から笑顔を作っていった。ブラウン管に走査線が走って、画像を切り替えるみたいに。
「マジで考えてたんだ?」
「当たり前だ。それとも何だ? 僕が脳内でテトリスでもやってたって思ってんのか? 良い発想だね。どっかの賞に応募してみたらどうだ? それとも僕がお話の筋を作ってやろうか? 二〇十五年、云々かんぬんってな。原稿用紙は買った? 万年筆は? 文豪には座卓が必要だよな? そろそろ質問がぶっ続けに二百個飛んできてブチ切れそうだろ? なら俺の質問にとっとと答えやがれ。笹崎咲であってんだろ?」
 彼女は口を抑えて、目をきゅっと細めると、「あってるよ」と、アホみたいに面白そうに笑った。はあ? ちょっとは感心しろよな。ガキってこれだから嫌いなんだ。
「よろしく、笹崎、咲」
 僕はこの名前が――はっきり言って――何も考えずにつけられたのだと思った。さささき、さき。最低の名前だ。いくら画数が良くっても。人間は画数だけで名前を喜んだりしない。名付けの責任。ねえ、これは君が名前をつけたんだ。君が名前を呼んで上げなさい。リンネ。心優しき博物学の祖。原罪を一身に背負ってさ。ぐるぐる転生して、もう一度現し世に戻って来給え。でも岩に名前をつけるのはどうかと思うんだよ。
「よろしく、笛吹……」
「笛吹でいい。気に入っているんだ。いい苗字だろう? 頭韻だ」
「あ?」
「あ、じゃねえ。チュッパチャップスだよ。ミッキーマウスだよ。頭韻だ。分かるよな。マニュアルの車に乗ってるムキムキの男、つまりマニュアルマッチョ、分かるよな」
「オートマなら?」
 僕は答えに窮した。オートマなら? これは難しい。遠くから歓声が聞こえてくる。威勢がいい。中学生の時に行った漁港を思い出した。当時の僕にはどうやってセリが行われているのか分からなかったし、今の僕にもどうやってデモのコールが行われているのか分からない。しかしそれらはうまく行っていたし、今もうまく行っている。やってられんぜ。勝手にしろってんだよ。あんたたちのために、叫び声を何種類も覚えるのなんて嫌だからな。あの、ジメジメした、隣に頭のおかしいばあさんが住んでいる……いや、アパートのことを考えるのはよそう。待ってたら誰かがご飯をついでくれると推測なんかしてさ(『よそう』だ)。
 しかし、僕も大学一年生の時は、馬鹿げた酒飲みの合図を覚えて馬鹿げて飲酒をし、アホみてえにゲロを吐き、ゲロを吐かれ、可愛い茶髪の女の子が僕のリュックにゲロをたっぷり吐いて(中身の教科書、しめて一万八千円なり)、それでもヨイヨイヨイとぶったまげたコールをしていたわけだ。全くやんなるぜ。
 そのまま僕は街路樹を撫でたり、近くに立っていた――まともじゃない――老人に話しかけたりして時間を潰した。笹崎の娘――古文調だな。そうやるか?――はすべきこともあらねば、道路の隅などにてあざりけり。
「大変なんですね。それにしても、何十年かに一回やらなきゃいけないって、大変ですよね。僕たちも、これから何十年後にやることになるかと思うと……」
「いやあ、お兄さんなら大丈夫だ、おれも、最近のガキにはほとほと愛想つかしてるんだけど、お兄さんみたいなのがいるとほっとするねえ」
 というところで、僕は承認欲求を満たしきり、笹崎のところに戻った。彼女は僕のことをぎろっと睨んで「あんた、最低だね」と呟いた。ざらざらした声。酒でもタバコでもやっているような声だ。
「何が?」
「あのおじいさんに嘘ついてた」
 僕は肩をすくめてみせた。今日だけで二百回はすくめただろう。これで痩せたら一本、本が書けそうだ。対照実験? 二重盲検法? 後にしてくれよ、そういう気詰まりな話はさ……。太陽がやたらに僕を照らして、なんとなく気恥ずかしくもなった。
「――乙女だ」
「あ?」
「オートマなら乙女だよ。オートマ乙女。『マニュアルマッチョとオートマ乙女』だ。どうだ?」
 彼女は一瞬あっけに取られたような顔をしたが、次には、呆れた、とでも言うように僕に背を向けた。どうぞご随意に。僕は全く関係ないからな。君がどこに行こうが、君のお母さんがウヨクかサヨクか(僕には区別がつけられない)に没入インダルジしようがしまいがな。勝手にするがいいさ。
 でも、少しは気の利いたタイトルじゃないだろうか。またタイトルか。僕はすっかり嫌な気分になった。題名。またこの話だ。次は何がいけないのだろう? 男がマッチョだから? オートマが乙女だから? じゃあ僕はどんな題をつけてやりゃ良いんだろう。僕が七十八歳六ヶ月の時から書き始める自省録に――『あるタニシの一生』なんて馬鹿げたタイトルじゃない――どんな題名をつけりゃ良いんだろう? 何が許されているんだろう? 使っていない言葉。作ってはいけないタイトル。ならば、使っていい言葉以外はいらないね? ――荘子のお言葉。拝受、拝受、それで僕ん所にくそったれのどえらい札が回ってくる。『おめでとうコングラチュレーションズ! 君はどんな言葉でも使っていいよ! ただし僕たちも、それなりのことはさせてもらうがね……』。
「あんたさ」
 突然、彼女がくるりとこちらを向き直った。左眉の上に、特徴的なしわが一本寄った。これのせいで彼女は致命的に不美人になっている。クラスでも「咲は、ちょっと……」と言われる種類のしわだ。眉尻から眉間に向かっている。僕は再び肩をすくめてみせた。この子が話しかけてくるたびやろうと思った。
「何だ?」
「あんた、子供だね」
「じゃ、君は大人だ。満足か? いくらでも言ってやるよ。頑張れよ。君が泣いて『あたしを大人っていうのをやめてくださいな、お願いですから、このどん底の、消毒液の匂いのする、ぼろくそのひでえ個室から出してくださいな……』って言うまでな」
「あんたさ、何いってんの?」
 何でもない、ごめんね、と僕は両手を広げてみせた。時計を見ると、もう十二時に近かった。彼女はずいと僕に近づいた。咄嗟に僕は距離を取る。何奴?
「ホントさ、あんた、なんて言うんだろう」
「笛吹だ。その賢い頭にちゃんと叩き込んでおけよ。自己紹介って苦手なんでね、それとも何だ? 好きな食べ物の話でもしよっか?」
「あんたさあ!」
 笹崎咲(次に話しかけるときは『さ』を二つ増やしてみよう)は語気を荒げた。僕はもう一歩分距離をとった。随分馬鹿げたやり方で取ってみた。両足を揃えて後ろにジャンプしてみただけさ。
 彼女は「ほんとやんなっちゃうよ」と言わんばかりに上体をぐんにゃりと折り曲げた。ロシアのボリショイ劇場に今から行っても十分通用する。風がぱったり止んで、東京にしては珍しく凪になった。
「――好きな食べ物の話はしないで。あたし、その話、嫌なんだ」
 なるほど、僕は頷いて、彼女の方に歩み寄った。咲は街路樹の保護材にもたれかかっていた。
「で、君、どうするつもり? 僕は今から大戸屋にでも行って飯をかっ食らうつもりだけどね。いやあ、すげえうまいぜ。食ったことある?」
「無い」
「マジでぶっ飛んじまうくらいうまいんだよ」
「あんたさ」
 彼女は僕のことを右下から見上げた。挑戦的な目つきだった。僕も負けじと『被挑戦的な』目つきをした。これは結構難しかったが、少なくとも努力はした。彼女はあどけない口を開いた。
「なんで素直に『ご飯に行こう』って言えないの?」
「知るかよ」
「あと、口調がガキっぽすぎ。あたし、中一だよ。中一にマジになってんの?」
 ああ、と僕は答えた。
「君だってマジな奴と話したほうが面白いだろ。とにかく僕は今、君がマジで話しててかなり嬉しいね。さっき言ったゴミ溜めみてえな個室に行ってやってもいいぜ。この部屋の話はまた十年後教えてやるよ」
「今、教えて」
「何だって?」
 僕は今ちょっとアレか? ハニートラップ的なアレか? おいおいおいおい、僕は少女性愛者だと思われているのか? 何なら僕の自慰歴を披露してやってもいいがね? ふざけやがって。ああやんなっちまう。何がやんなっちまうってさ、子供に怒鳴らなかったり、子供にまともに取り合ってるってだけで、なんだかロリロリなオンナノコが大好きなマジで馬鹿げてぶっ飛んだやつか、博愛精神にあふれ過ぎていて、毎日、鳩とセックスしないと眠りにつけないようなやつだと思われちまうってことなんだよな。そういうのって真面目にやめて欲しいんだよ。僕はただ隣のおばさんの『神経の紐』を触っちまった罪滅ぼしをしたいだけだ。うんざりすんねシックオブイット
 笹崎は喋り始めた。女の子というのは、喋ると決めたら必ず喋る。この少女もそうだった。
「あのね、あたしは、あたしの知らない言葉を使われると、ここらへんが痛むわけ(と彼女は、自分の耳の付け根あたりを指差した)。そういうのってすっごく……うそっこ言われてるみたいでさ、ムカつくんだ」
 僕は首を横に振った。
「そうかい。じゃあ言うがね。僕がさっき言ったのは、僕みたいな最低な男が、君みたいなか弱い少女に興奮するために入っていって、げんなりして帰っていく場所のことだよ。それ以上知りたいって気分になるかい?」
 彼女も首を振った。