Neetel Inside 文芸新都
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 大戸屋の料理はいつ食っても安定してうまい。うまくないならばそれは大戸屋の料理ではない。対偶の真偽は一致する。時折馬鹿げて聞こえたら……穴に向かって叫べばいいさ。王様の耳はパンの耳。葦で作られた笛を携えて。僕は愛想のいい店員にメニューを告げる。
「梅おろしチキンカツ定食、ご飯は少なめ、五穀米で」
「同じのを――」
「変えろ」僕は口走った。彼女は左上にあったヒレカツ定食を頼んだ。
 店員が帰ると、彼女は机の下で、僕のすねを全力で蹴ってきた。
「クソいてえな、コンクリ詰めにすんぞ。東京湾にお魚を呼び寄せる仕事に就かせてやろうか? 春休みの自由研究にでもしろや」
「あ?」
「何でもないよ、忘れてくれ。僕は時折いけないことを言っちゃうんだね」
「あんたさ」と、彼女は本日二億回目の『あんた』を繰り出した。
「ちょっと変わってるよね」
「みんな誰でもちょっとは変わってるもんさ。君の耳の形だってちょっと変わってる。そういうのって分かんねえのかな。それとも聞き取りテストが出来ねえのかな」
 彼女は黙りこんだ。僕は椅子に深く腰掛けて、彼女の顔を観察していた。「ささささきささき」と喋りかけてみた。完全に真顔でだ。彼女は不快感を露わにして、テーブルの箱から七味を取り出して、手のひらの中でくるくると回してから、僕のことを斜に眺めた。
 店内の音楽が馬鹿げた広告に変わった。はいはい、納税。禁煙。ドラッグはやめましょう。子供を大切に扱いましょう。近くに虐待されている子がいたら通報を。そのうち、僕たちが何日ごとに洗濯機を回すかまで指定しだすに決まっているさ。朝は六時半に起きて十二時に寝ましょう。そっちのほうが節電になりますからね……。ふざけるんじゃない、なら、どっぷり暗いぼろくそのくせえ部屋で、コーヒーでも淹れてギンギンに目ぇかっ開いてやるまでさ! 全てのことは自由で束縛されているのさ(我ながらバカバカしい警句だ)。
「あ?」
「君、自分の名前はちゃんと言えるよな?」
「さささき、さき」
すばらしいハラショー
 間。
 店員が料理を運んできた。僕は手早く「いただきます」と言って、味噌汁を胃に流し込んだ。なにせ朝ごはんを食べていなかったもんだから、これはすげえ効いた。胃の中に暖かい蛙が流れ込んできたような気分になった。まだ『海』も『見ず』天橋立ってか……。僕はどんどん自分に没入している。悪い癖さ。ごめんよ。僕だってさ、明日になりゃ自分の考えたことなんて全部忘れちまってさ。ニューロンのぴろぴろしたしっぽと、何ミリモーラーかのナトリウムとカルシウムが僕の全てさ。それを許してくれよ。君が許しを与える。
 料理は相変わらずうまかった。僕はすぐに食べ終わって、目の前の女の子がご飯を食べるのを見ていた。彼女の食べ方はお世辞にもうまいとは言えなかった。左手は、拳銃でも隠し持っているみたいにテーブルの下に潜っていたし、箸もなんだか握りこむみたいな持ち方をしている。ヒレカツの衣が器の周りに散らかっている。彼女がコップから水を飲むと、ふちには油のあとがくっきりと残った。
「あ?」
「なんでも」
「あのさ、一ついい?」彼女は口をこすって、頬杖をついて話し始めた。箸を一本つまんで、お茶碗に盛ってあるご飯をつつきながら。
「あたしさ、そういうふうに言われんの、大嫌いなんだ。『なんでも』? ムカつく、本気でムカつく。『なんでも』?」
「ああ。なんでもない。君には全てのモノに理由が付けられるってんならそれでもいいが、僕はそうじゃない。例えば、君は何回噛んだら飲み込もうと思う? それと同じだ。君を見ているのに理由はない。可愛い女の子がいたら見つめたくなるんだよ」
「マジもんの、変質者」
「ありがとう! 交番の場所をチェックしときなチェケラ!」
 僕はなんだかいたたまれなくなって、トイレに行った。彼女がメシを食っているところを僕はきっと見てしまうし、彼女はそれを嫌がっている。そういう時ってさ、僕か彼女かのどっちかがトイレに篭るしか無いんだ。僕はたっぷり十分ぶっ続けて瞑想に更けると(世界の真理が五個見つかった)、手を洗って席に戻った。彼女はすでに食べ終わっていた。
「うまいだろ?」
「まあ」
 レジには江戸時代の蘭学者にそっくりの店員がいた。彼女は小さい尻の小さいポケットに手を入れて畳まれた二千円を取り出したが、僕はそれを押し戻した。
「いいかな、大人の、男の人はみんなプライドを持っている。チンケだがね」
「あ?」
「カッコつけたいんだね、僕は」
 彼女は諦めたようにお金をたたみ直して、ポケットにしまうと、僕をほっぽり出して出口に向かった。支払いを済ませると、すでに一時近かった。
 スマートフォンを確認すると、八代さんから連絡が来ていた。僕は短く返信を打って、待ち合わせ場所に笹先を連れて行った。デモはまだ続いているみたいだった。午後の部ってことかな。木の影の向きはゆっくりと変わっていく。僕はいつも物悲しい気分になる。なんで太陽は沈むのだろう。地球が回っているからだ。考察、終わり。
 八代さんは、笹崎夫人と一緒に――顔を赤くして、額にうっすらと汗をかいて――戻ってきた。僕たち二人は壁に背中を預けて立っている。ツーピースのロックバンドみたいに。
「――あらあらぁ、笛吹くん、ありがとうねえ!」
 僕は軽く頷いた。八代さんに形式的に微笑んでおいた。楽しかった? ええ、とっても――クソの中のクソだね、僕に言わせりゃ。彼女は眉尻を薬指で撫でた。
「笛吹くん、ありがとね。笹崎さんは帰るんだって、ありがとう」
 ああ、と僕は呟いて、咲の方を向いた。彼女は足元を見ていた。足元に、毒を吐く、生命力の強い蟻がいるとでも言うみたいに、ぐりぐりとスニーカーで地面を踏みつけた。それから、「あんさ」と呟いた。
「あんさ、あたし、はっきり言ってあんたにちょっとムカついてる。あんたが大戸屋でなんであたしにメシおごったかも分かんない、でもあんがと」
 僕は黙っている。彼女が僕にだけ聞こえるくらいの声で呟いた。低い声だ。
「マジになってくれてさ」
 そして彼女は小さくはにかんでからまた元通りの、ひどく不機嫌な表情で、母親のもとに歩いて行った。僕はそれ以上笹崎の方を見ずに、八代さんに近づいた。
「僕も帰るよ。ありがとう。今日は……楽しかったよ。いろんな人と話せたし」
「ホント? 良かった。これからも、予定が合えば誘うよ」
「うん、ありがとう」
 そして僕は国会前を後にした。銀座線に乗って渋谷まで、渋谷から……。もうやめよう。うんざりするだけだから。
 パルコに行ってスニーカーを買った。コンバースの一番安いやつ。中学生が背伸びして履くような靴だ。店員は愛想よく接待してくれた。僕は靴を買いすぎている。
 家に帰ってベッドに倒れ込んだ。体はもう動かない。けれど、意識はしつこく残っていた。いくら目を閉じても、サカシタさんの視線、笹崎母親の視線、八代さんの視線、何よりもあの笹崎咲の視線が浮かんできた。お前は……狂っているふりをしているだけさ。そうすれば傷つくことはないからな。やめろ、やめてくれ、僕を見るのはさ。
 意識がようやく薄れていく。長い昼間の短い午睡。喉の奥に夢の乾きを残すに違いないさ。

       

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