Neetel Inside 文芸新都
表紙

彼女の靴を履かせてくれ
僕たちはうまくいっているような気がしないか

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 ノックの音で目が覚めたってかうるせえよ! 頭おかしいのか? んなノックしくても分かるっつうの。どうせまたなんだかの気がどうとか。コンコンコン、ピンポンが鳴らされる。もう一度コンコン。やめてくれよ。僕が何をしたっていうんだ? ベッドから這い出て、洗面所で口をゆすいだ。どろっとした唾液が排水口に吸い込まれた。洗面所も洗わなきゃな。
 ドアは相変わらず叩かれている。僕は電子レンジの扉を開けて(学習済み)、ドアを開けた。
 ――子供がぽつんと佇んでいる。
 誰だよ、こいつ、と言おうとして、僕は口をつぐんだ。
 見覚えのある顔だ。僕はじっくりと彼女の顔を見た。細い髪はところどころほつれている。頬には白い引っかき傷のようなものが走っている。服装は今日会ったのと同じ。外は随分暗くなっている。額には薄っすらと汗が浮いている。
「笹崎咲」
 目の前の人間の名前を言ってみた。彼女はじっと僕のことを見つめている。視線を少しも動かさないで。
「……アンジェリーナ・ジョリー」
 彼女は動かない。この実験から、彼女はアンジェリーナ・ジョリーでないのと同程度に笹崎咲でないということが推測できる。僕は壁に手をついて、こつこつと壁紙を叩いた。彼女は僕の手を見て、また顔に視線を戻した。
「デリ嬢が若くなったもんだ」
「……何?」
 僕はわざとらしく大きなため息を吐いて、ドアをちゃんと開けた。彼女は後ろに下がった。小さなピンク色の靴だ。
 ここでいきなりドアをバタンと閉めて、鍵でもかけりゃいいんだよ。しめしめなんて笑って。しめえにはてめえでさえ部屋から出られなくなる。この子を締め出すということは、この子に締め出されるということでも(いや、ねえよ。相対主義者じみた狂気だ)。
 僕と彼女は二秒間睨み合った。僕は短く「入れよ」と呟いた。
「僕のドアを開けた姿勢がそんなに好きってんなら、勝手にそこにつっ立ってな」
 彼女は短く頷いて、僕の腕の下を通り抜けた。彼女は玄関でひどく脱ぎにくそうに靴を脱ぎ捨てて、部屋の中に入った。僕も後を追った。ワンケーの狭いアパートだが、(自分で言うのも何だが)掃除は行き届いている。なんてったって、人間、ノットエデュケイテッドでなんとか――めんどくせえな、ニート――になると、本気でやることがないのだ。掃除と料理くらいしかなくなる。特にインターネットで失敗した人間はそうだ。
「まあ、座れよ」
 彼女はデスクチェアに座った。僕の部屋にはそれしか椅子がない。僕はベッドに腰掛けた。そして、人生でこれ以上ないというくらいでかいため息を吐いてやった。
 つーかよく考えろよ、僕は今結構ぶっ飛んで追い詰められているぞ。ここで笹崎の母親が出てきて「あんらああぁあああ! これは一体どういうことでございましょおおおぉぉおねええ!」とほざきやがるとも分からん。僕は突然立ち上がって、彼女に「お前も立て!」と叫んだ。
「何、いきなり――」
「いやどう考えても頭おかしいってか悪いってかだいぶおかしいだろ、な、おい、立て、ちゃんと立て! オーケー! 人間は考える葦で葦はちゃんと立つもんだからな!」
 彼女は眉間にぎゅっとしわを寄せた。
「ほらほら、こっち、こっちだよー! はいはいはいはい、ここが僕のキッチンでーす、左手には電子レンジですね、とっとと歩け! そう、右、左、オーケー。んで持ってこれが僕の部屋のドアですね。ここから先は外、分かる? 外、アウトサイドね、でも出たからってアウトサイダーになるわけじゃないよ、だって僕が部屋ん中で取引してもインサイダー取引じゃないもんね。あれ? これだと論証できてないね? 部屋から出た人が全てアウトサイダーということを否定すんだもんね。だからインサイダーの人が全員内にいるわけじゃないことを言やあ――ほら、ドアノブ握れや!」
「あんた、マジで、何――」
「ああ? 論理学の話してんだよ、昨日聞いたニュースで、どこそこの弁護士がスタバでインサイダー取引してたんだってさ、はい、これでオッケーだ。ああ? 詳しくはしらねえよ、何か株の、おばあさんとかおじいさんとかネズミとかが抜く――」
「あのさあ!」
 笹崎の手はドアノブを掴んでいたが、回せないらしく、都合、僕は笹崎をドアに押し付ける格好になっている。子供の時やったゲームみたいだ。スリー・ディーのやつ。キャラクターをゴリゴリ壁に押し付けられるやつ。くすりともできない。麻薬でもキメキメだったらクスリとするどころじゃなくぶっ飛んでる。完璧にストーンド。合成麻薬。二千十五年、清涼飲料水の名前が『キケンビバレッジ』に変わってたりしてな。黄色いお馬さんのマーク。株は? レバレッジ――こりゃ為替。ほら追及の手だ、かわせ! 僕はそのまま韻をぶっ続けて七個捻出し、粘土の塊をぶつけるみたいにべちゃべちゃ喋りまくった。笹崎は体を捻って僕の方を向き直ると、二の腕を掴んできた。強い力だった。
「ほんとにさ、あんたって……」
 なんだか漠然とした気分になった。彼女は目尻を拭った。とっちらけた気分で彼女から手を離した。彼女はドアに背をぴったりとつけて、玄関にずるずるとしゃがみこんだ。膝を抱え込んだ。玄関には合計六足の靴がある。五足が僕ので、一足が彼女のだ。
 間。
 彼女は手元の靴を片方だけ拾い上げて――僕の方を見て――ぽいと投げ出した。僕は肩をすくめた。
「なんでこんな靴あんの?」
「靴を買うからだ」
「分かった」
 分かった。これには参っちまうね。僕は彼女の前にしゃがみこんだ。僕は捨てられた靴を取り上げて、さっきの場所に戻した。
「どうやってここが?」
「あんたがトイレに行っている間、手帳、見た」
 僕は彼女の茶色く汚れたつま先を見た。彼女はそれに気がついて、恥ずかしそうに足先を蠢かせた。僕は本日二億回目のため息を吐いた。おもむろに立ち上がる。
「立てよ。牛乳飲む?」
 彼女はこっくりとうなずいて、ゆっくりと起き上がった。改めて部屋にはいる時、彼女が「ごめんなさい」と口走った。彼女はさっきと同じように椅子に座った。
 冷蔵庫から牛乳をついで、電子レンジで温めた。できるだけ綺麗なスプーンを突っ込んで渡してやった。彼女は手のひらでマグカップを包み込むように持った。
 気まずい沈黙が広がった。彼女は口の端を拭って、もう一度「ごめんなさい」と呟いた。僕はますますもって嫌な気分になってきた。
 なんでって十二だか三だかのガキが「ごめんなさい」とかなんとかほざかなきゃいけないんだ? どんなに福祉が充実しようとも、どんなに貿易黒字が出ようとも、どんなに物資が行き渡ろうと、十二歳の子供が「ごめんなさい」と言わなければならない国家がこの世に存在していい理由はない。その子が「ごめんなさい」と口走った時にその国の元首は即座に反省すべきだし、その子の両親は深く反省するべきだ。しかし何より痛ましいのは、誰もが、そして僕自身が、こんな表現は単なる気休めで、ただ硬い壁を殴っているだけだと気がついていることだった。世界も国家も東京都も北区もインサイダー取引もなんとかも、僕のことなんか知りもしないで回っていくことだった。僕より洗練されたロジックで。僕より賢い人々の手によって。
 僕は口を開いた。
「――二度と『ごめんなさい』って言うな」
「あ?」
「『ごめんなさい』って言うな。『ごめん』か『すまんね』にしろ。生後三ヶ月のガキが『ごめんなさい』って言う時ほど嫌な気分になる時はねえんだよ」
 彼女はこっくりと頷いた。そして――。
 ドアがガンガンガンガンガンと叩かれ、ベルがピンピンピンピンピンポーンと鳴らされ、ノブがガチャガチャと回った。そして声が響いた。
「笛吹さん!」

       

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