Neetel Inside 文芸新都
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「笛吹さん?」
「はい、笛吹ですが」
 笹崎は当然奥に引っ込んでいる。老婆は肩に掛けたショールを大儀そうに持ち上げて、ずれを直した。それからほぅっとひとつ息を吐いた。首に下げられている眼鏡が小さく揺れた。
「あのね、あなたのお隣さんいるじゃない?」
「ええ。います。知っています」
 間。
「あのね、あの人、あたしの……知人なの。とても近い」
 とても近い、と僕はオウム返しに言った。とても近い知人。遠くで何かの鳥が、つぽつぽつぽと鳴いた。僕たちに時の存在を知らせるために鳴いたようにも思われた。
「それで、さっき、何があったか、だいたい聞いたの、分かる?」
 僕は黙っていた。年老いた人間がよくやるような、頬の肉を全部持ち上げる笑い方を彼女はした。彼女は待つつもりだろう。僕が分かるまで。彼女は待ち続けてここまで年老いたのだし、六十を超えてからは手習いくらいしか出来ないのだ。
 ばあさんの姿を思い浮かべた。ばあさんの年齢を推測した。それに二十五を足した。それから、目の前の老婆を眺めた。なるほど。
「分かりますよ」
 彼女は微笑みを絶やさずに、「ごめんなさいね」と呟いた。
「私も、こういうこと、いいたくないの。でも、迷惑でしょう? 一ヶ月、それを目処に……お願いできるかしら。もちろん、家賃はそれなりにさせていただくわ。ごめんなさいね……」
 間。
 僕は老婆の目をじっくりと眺めた。黄色いシミが浮かんだ瞳だ。まつげはすっかり薄くなっている。彼女の瞳がふるふると動いて、やがて疲れたようにふせられた。
「……笛吹さん、本当にごめんなさいね。私も……こういうことはしたくないのよ。でも、分かるでしょう? 出来るだけのことはしてあげたいの。笛吹さんを追い払ってあの子がよくなるなんて、私は思っていないわ、でも――」
「やらずにはいられない」
 その通り、と老婆は短く答えた。精神病の娘を持って、ぼろぼろの食料品店を経営して。そしてずっとここで待っている。何を? 分からない。この老婆は何を待っているんだろう?この老婆は何を持っているんだろう? 何を侍らせているのだろう?
「本当に、すぐにとは言わないの。でも、できるだけ早めに、ね。引っ越しも手伝うわ。お父さんも、ごめんなさい、って。本当に」
 彼女はそう言って、僕の手をそっと握った。それから、僕の手に小さく畳まれたお札を押し付けると、またカン、カン、カンと、階段を降りていった。後には沈黙が残った。
 僕は家も失うわけだ。半ば混乱した頭で部屋に戻った。笹崎が、物珍しそうに僕の本棚を眺めている。
「あんた、本――」
「てめえ、そこに直れよ」
 笹崎は怯えたように僕を見つめて、ゆっくりと――視線を切らさないで――椅子に座った。僕は立ったままで話し始めた。
「てめえ、何だ?」
「……笹崎、咲」
「ありがとう。質問は続くぞ、てめえ、ここに来た理由は何だ?」
 彼女は答えなかった。黙って、クリーム色のタートルネックの首元をいじくっている。整理しよう。しなくてもいいさ。ガキが転がり込んできた。蹴りだすキッカウ。僕はこのぼろくそのアパートを出る。このガキがついてくることはなくなる。それでおしまいだ。僕のこれからの人生? 次にどこでバイトするか? そんなん知らないよ。常に最善の決定をしなさい。合成の誤謬。だからどうしたってんだ? 袋小路。どん詰まり。どん底。これ以上逃げ場はないよ。ミランダ警告。僕には何を呼ぶ権利が? まあいいさ。テッペンからケツまで。
「……なんでも」
 彼女は細い声で答えた。
「なんでも?」
 僕は突然手近なハンガーを取り上げて、床に叩きつけた。か弱い音がした。彼女がびくっと震えた。ふざけてんじゃねえぞ。
「『なんでも』? てめえが一番嫌いな言葉だぜ? ふざけてんじゃねえぞ? 何だ? あのいかれたばあさんが来たってだけでてめえがここにいていい理由になるってのか? ああ? 『ひさしを貸して』ってやつか? 答えろ、てめえなんでこんなどえらいどん底のどん詰まりに来やがった?」
 彼女は膝の上で拳を握り固めた。はあ? ざけんじゃねえぞ。なんでって僕がガキのお守りしなきゃいけないんだ? 彼女はもう一度呟いた。
「なんでも」
「なんでも? じゃあてめえがここにいるってのの贖いとしてさ、てめえのプッシーがどうの、って俺が言ったらどうするつもりなんだ? 俺がクソみてえな変態でさ、どうしようもねえクズだったらどうすんだ? 今からコンドーム買ってくるよってなっても、てめえはここにいんのか? てめえが何歳だか知ったこっちゃねえが、俺が十二歳のガキの首を絞めている時にしか興奮しねえような最低の――」
「――ちょっと黙ってよ!」
 間。
 突然、全てがくすんだセピア色がかって、次には白っぽく歪んだ。そしてまたいつものように戻った。底冷えのする寒さと、ひどい沈黙を残して。燃え盛る炎に、誰かがとんでもない量の水をかけたみたいに、僕たちの間にはどうにもならない静けさが立ち込めた。
 彼女はうわ言のように繰り返した。
「聴かないでよ……ちょっと黙ってよ……」
 二度言うなよ。彼女は両手で顔を覆って、細く泣き出した。僕はテーブルからマグカップを取って、ざっと洗った。僕たちはうまくいっているような気がしないか? 付加疑問文。誘導尋問だ。あなたは死にたがっているじゃありませんか。死神が名刺を差し出す。どうも……。
 スマートフォンが鳴った。
 着信。表示:『八代 チュー子』。どうしたってんだ? 止まらせてくれ。気の利いた一節が出てくるまで――そんな時間はないのだ。全ては動き出した。違う。速度が上がっただけさ。

       

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