Neetel Inside 文芸新都
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「今すぐ、その部屋から出て。できるだけ遠くに行って。行き先は私に言わないで」
 八代さんの声。僕は聞き返した。
「その部屋から出てって言ってんの。できるだけ遠くに行ってって言ってんの。行き先はどこでもいい。とにかく遠くまで逃げて」
「アフリカはどう?」
「馬鹿言ってないで!」
「ごめん。それで、僕一人が――」
「馬鹿、咲ちゃんも一緒に」
「はあ? この子も?」
「そう、咲ちゃんも連れてって、早く! できるだけ早く! 遠くに!」
「――いや、そうじゃない、僕がいいたいのはさ、八代さん?」
「何!」
「なんで君は、この子が来ていることを知っている?」
「ねえ……聞かないでくれる。理由は聞かないで。終わったらちゃんと説明する。今は急いで。とにかく、少なくともその部屋から出て。今すぐ!」
「ちょっと、いや、八代さん、あんた、ちょっと、チュー子! ――おい!」
 電話が切れた。僕は笹崎のことを観察した。みすぼらしいジーンズを履いている。ユニクロで三年前買って、毎日履いてきたとでも言うようなジーンズだ。
 僕は深い溜息をついて、彼女の前に立った。笹崎は手をゆっくりとどけて、僕をの方を見上げた。
「手伝え」
「……あ?」
「冷蔵庫にメシが残ってるんだ。早く食えよ」
 彼女は立ち上がって、冷蔵庫の中のものをレンジに入れた。
 僕はノースフェイスのバッグを押入れから出した。ベッド下の収納から着替えを取り出した。財布は? 手帳は? 髭剃りを忘れるなよ。カード類をまとめて。一冊本を持っていけ。何がいいかな……。
 十分で準備を済ませると、彼女も冷蔵庫の中の物をほとんど温め終わったようだった。煮物やら豆やら肉やらがデスクに並べられている。
 僕は箸を二膳出して、彼女に一膳渡した。
「その大根の煮物、先、食え。それ、皿にして」
「うん」
 僕は黙って食い始めた。咲は何だか怯えたようにためらっていたが、やがて、少しずつだが、食事に手を付け始めた。
 きんぴらごぼう、人参のグロッセ、柔らかく煮た厚揚げ、キャベツのつけもの。大豆のトマト煮。煮豚。冷しゃぶ。牛乳も添えて。まるで母親だな。そうだよ。まるで母親なんだ。でも母親じゃなかったんだ。僕の母さんは死んじまったんだから。
 彼女の方をちらっと見た。彼女は申し訳無さそうに頭を下げた。彼女の取り皿の豆が減っていない。
「豆が嫌いなのか? 子供だな?」
「……あんたは好きなの?」
 食欲がない、というように、彼女は箸を弄くった。僕は豚バラの煮込みを食べてから答えた。
「ああ。仮に親が豆に殺されても豆が好きだね」
 彼女は黙った。それから「復讐ってやつ?」と尋ねた。
「じゃあ訂正。仮に親が豆に命を助けられていても、豆が好きだね」
 十分でメシを食い終わって、その後五分で最後の準備をした。ガスの元栓を止めて、ゴミをかき集めて袋に入れた。電気機器のコンセントは(冷蔵庫以外)抜いた。僕は短く頷いて、ポケットに入っていたガムの包を部屋に投げ込んだ。
「とっとと行くぞ。ちゃんと説明しろ。歩け、歩け、歩くぞ……」
 彼女はとことことついてきた。僕は自分のマフラーを彼女にやった。寒そうにしているガキを見るのは嫌な気分がするもんだ。
 街灯がぽつぽつと灯った通りを歩き出した。遠くから車の騒音が聞こえてくるだけで、ひっそりとしていた。一月の寒い夜。
 僕は近くのビジネスホテルに電話をかけた。愛想の悪いフロントマンが対応した。二人で。シングルを二つ。ダブルじゃなくて。そう、そうです。夜のチェックインで。一泊です。ええ。はい。番号ですか。はい。笛吹です。すいません。僕は電話を切った。彼女の方を見た。
「ちょっと歩くぞ。一キロちょっとだ。余裕だな。僕は少なくとも余裕だ」
 あのさ、と彼女が口を開いた。彼女の顔は暗くてよくわからなかった。月が夜空に埋め込められている。雲がするすると横切っている。
「……マジもんの話、あんたって何なの?」
「さあな」
「ねえ、一つだけしていいかな。どうしてもやりたいってわけじゃないんだけど」
やれよカム・オン
「なんであんたはさ、あたしのためにこんなことしてんの? なんであんたはさ、あたしを締め出したり、あたしにひどいことをしようとしないの?」
「どっちに答えて欲しいんだ? 質問は一つだけだ」
 彼女は足を止めた。街灯の下で。ゴミ捨て場が白い蛍光灯に照らされている。冷たい空気の中を蛾が飛んでいった。彼女の息が白く光った。
「なんであんたは、あたしのために汗をかいてんの?」
 僕はしばらく考えて、口を開いた。
「君のためじゃない。みんな汗みどろだ。生まれた時には母親の体温で、棺桶でも炎で汗みどろだ。僕は汗なんてかきたくないさ。ただね、僕は暇なんだよ。暇なだけさ。分かるかい?」
「全然」
「あるところに男がいる。そいつは仕事もそこそこうまく行っている。三重県の田舎にある市役所で働いてんだ。結婚して三人も子供がいる。でも、そいつは突然上司をぶち殺しちまうんだよ。トイレの便器の蓋の上に上司の生首を据えて、花なんか活けちまうんだ。それも、全部、ただ暇だったってだけの理由でね。人間、暇なら何でも出来るもんさ。ほんとに言ってんだよ。汗だってかこうと思うし、どんなに下劣なことでもやってみせるんだ。それが人間ってもんじゃないかな。僕はそう思うね。
 分かったらとっとと歩けよ。チェックインが遅いと睨まれるんだ。こいつはぶっ飛んだ猟奇魔じゃないかとか、なんとか」
 彼女は僕のことを疑り深そうな目で眺めてから歩き始めた。メスのチョウチンアンコウの発光体のように、街灯が僕たちを順繰りに誘った。駐車場の車のランプカバーが、昆虫の翅のように、暗闇でちらちらと瞬いた。
 歩きながら考えた。僕はなんでこいつのために汗をかいてやがる? 助けたら一発ヤラせてくれる? はっ。ガキだぜ。婆さんみたいな声の、拒食症みたいな体のさ。
 ねえ、僕はなんでこんなことをしているんだ? 僕を動かしているのって何なのさ。僕のやることはどこから生まれてくるのかな。僕の……ここにあるべきものはなんなんだ。上司を殺す部下。父親を殺したオイディプス。息子を丸呑みにしたウラヌス。ライオンに人肉を与えたユリウス。みんなきっと悪い人間じゃない。ここに何かが無いんだ。この頭の奥の、くるみほどに小さな部分にさ。細部に宿りしもの。僕の体を支配せしもの。
 答えが見つかる前に、ホテルに着いた。

       

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