崇められた男について

 築ウン十年の、だいぶ古いホテルに着いた。可もなく不可もなく利益もないタイプの宿泊施設だ。経営者ごと丸呑みにしてしまう。王は城を作り、城は王をしろしめす統治なさる。昔から言われてきたことだ。僕たちは中に入った。初老の男性が「笛吹さんですね」と声をかけた。僕は彼女の肩をちょっと叩いた。
「あ?」
「書く練習したらどうだ?」
 彼女は僕のことを嫌そうに見つめて、「分かったよ、くそあにき」と、わざと大きな声を出した。よく気が回るじゃないか。将来は女スパイか? ぴりっと毒のあるのを頼むぜ。
 チェックインは笹崎にやらせた。彼女は紙を二枚取って、向こうのテーブルに陣取って書き始めた。
「妹さんですか? しっかりしていますね」
「ありがとうございます。両親に似なくてよかったですよ」
 フロントの男性は、上品な顔を少し曇らせた。フロントマンというのはある一定の年齢を超えると、どんな職業よりうまく顔が曇らせるようになる。
「いえ、すいません。ちょっと、両親がひどく喧嘩しちゃいましねて。このままじゃちょっとまずいと思いまして」
 ああ、それは、と、彼は眼鏡を外して、手元においた。すべすべした手で、白髪交じりの髪をなでつけた。
「僕は別にいいんですが、妹が心配なんですよ――」
「――書けた――書けました」
 彼女が用紙を持って帰ってきた。
「字は間違えなかった? 妹さん?」
「あにき――お兄ちゃんの名前以外は、多分大丈夫」
 軽い冗談。三人ともちょっと笑った。じゃ、本人様がサインを。はいはい。これって誰が必要なのさ。まあいいよ。
 ところで、僕の名前は『笛吹 遥』だということになった。なかなかいい名前だ。ハルカ。囁くように呟くのがいい。『ル』のところで舌をうまく使って。
 鍵を受け取って、僕たちはエレベーターに乗った。がたん、と音を立ててドアが閉まる。何だか乱暴なエレベーターだ。外国のみすぼらしいおもちゃ箱を拡大してきたような乗り物だ。彼女はピーコートに手を突っ込んで、壁に背を預けた。
「おい」
「あ?」
「二度と、僕のことを、くそあにきとかなんとか言うな」
「はい」
「あと、僕の名前を勝手に作るな」
「はい」
「あと、書くなら学校の嫌いな子の名前にしろ」
「はい」
「『はい』はやめろ!」
 エレベーターが遅くなる。三階にたどり着いた。
 彼女は僕の方をちらっと見て、「あんがと……ありがとう……ありがとうございます」と言った。僕は肩をすくめて、自分の部屋に入った。『あんがと』で十分だ。
 シングル。狭い部屋だ。カーペットが敷かれた薄暗い部屋。まるで棺桶コフィン。油を入れたらコンフィ。地熱で調理。二百度に温めた油を棺に入れて、墓地でゆっくり煮込みましょう。中にしっかり火を通して。ペストの予防法。クリスピーに焼いてね。中に入った人が生きていた時のための電話線も用意して。
 簡単にシャワーを浴びて、備え付けのケトルでお茶を淹れた。こめかみがずきずきと痛んだ。誰かの膿を薄めたみたいな色のお茶を飲んだ。僕はひどい吐き気を感じてきた。
 一日でいろんなことが起きすぎた。
 何より、あの笹崎咲が結局何なのか分かっていないのは致命的だった。僕は小さな書き物机に腰掛けて、明日やるべきことをリストアップし始めた。もちろん全部が出来るわけじゃない。『机上の』だから仕方ない。社会主義が反例だ。机上の紙はざらざらしていたし、ボールペンは詰まり気味だった。
 二十二歳、絵空事を描くには歳を取り過ぎている。夢を見るのに遅すぎるなんてことはないさ。これを言った奴は、最後はどんなふうに死んだんだろう? 眠るように? 夢見るように?
 痴呆だろうな。虚ろな目で夢を見て。ゆっくりおやすみなさい、おじいちゃん。腕にはモルヒネの跡がくっきり。夢の夢を見て。動物園が嫌いなんだろう。あの動物を遠ざけてくれ。悪い夢を食べてくれる動物のことだ。茫漠なベッドに横たわって。幾ばくもないカネも使い果たして。昔のようにばくばくとメシも食えなくなって。バックれた借金取りが看取る。みんな黒と白の服を着ている。手を叩いたらベッドを回転させてくれ。蝋燭を交換する。全部枕の中での出来事。
 部屋はひどくひっそりとしている。幽霊が二人出てくるだろう。双子の女の子。赤いラム酒レッドラムを携えて。