Neetel Inside 文芸新都
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 夢も見ずに起きた。
 簡単にシャワーを浴びて、笹崎の部屋――正確には笹崎が寝ている部屋、面倒くさい、すべては誰かさんの持ち物なんだ、僕のものは存在しない――に行った。
 彼女はベッドの上で三角座りをしていた。僕はざっと自分のバッグをチェックした。財布の中身は生きている。あきれた。
「お前、あほだよな」
「あ?」
 笹崎が弱々しい返事をした。彼女の足が、死にかけた幼虫みたいにシーツの下で動いた。栄養をやらなきゃ。でも、何を食うんだっけ? 自分が何かを育てている場面を僕はうまく想像できない。コインロッカーで子供を育てようとして、おひさまの下でもやしを育てようとする。切り株を守る。とうもろこしの切り株を……。
「――僕が起きる前に起きて、財布の中身を全部ぶんどって、とっとと逃げてりゃよかったのにな。六万入ってる。ガキが一人で旅行するには十分だ。誰にも迷惑をかけない。八代さんと連絡を取り合っておけよ」
 あんたはさ、と、彼女は寝癖のついた髪をくしゃくしゃと掻いた。気のないショートカット。美容師が、途中で記憶を完全に失ってしまったとでも言うような髪型だった。
「……なんであたしをほっといて帰んなかったのさ。お金を払って」
 僕は肩をすくめた。
 お湯を沸かして、蒸しタオルを作ると、笹崎の髪を――僕基準で――『まとも』な状態にした。彼女は不機嫌そうに黙り込んでいる。彼女はシーツの上にあぐらをかいた。僕は椅子に座っている。
「朝飯は出ない。とっとと話を説明しろ」
「あ?」
「なんでこんなことになっているんだ? 八代さんはなんの関係がある?」
 彼女は黙ってシーツを爪で擦った。行きと帰りで音が違う。僕は口を開いた。カードを全部切る。
「……サカシタって誰のことだ?」
 彼女は突発的に立ち上がった。頭の上に載っていたタオルを僕に投げつける。僕は片手で受け止めた。笑いそうになった。違うぞ。僕は笑いそうになんかなっていない。違うな。僕は本当に笑いそうになったんだ。
「なんで知ってんの!?」
「なんでだろうな」
 彼女は僕を威嚇した。フーッ。猫を飼ったことは? 被ったことは? どうでもいいさ。くだらない話。僕は彼女の方を見た。怯えたような瞳。僕のせいじゃなくても。嫌な気分になる。何でだ? さあね。理由はないさ。全てのことに理由なんて無いんだ。理由の理由を探して。どこまでも素粒子を分解していって。小学校の生徒達。
 彼女はベッドの上でぐらぐらしながら僕を睨んでいたが、やがて座り込んだ。そして、諦めたように、一つだけため息を吐いた。
 僕はだんだんいらいらしてきた。駄目なんだ。やっぱりな。僕はシリアスに向いていない。なんでだろう。他人のシリアスを受け入れられないんだ。気まぐれなんだよ。制御出来ない部分。伸び縮みする男の下半身から、別のところに移ったんだ。このど頭にさ。
「あたしはさ……」
 彼女はささやき始めた。暖かい吐息でもって。僕の胸に頭をあずけてこようとした。僕は彼女の肩を掴んだ。彼女の体が途中で止まる。瞳が合った。熱病的な瞳だ。風邪と熱狂フィーヴァーは区別がつかない。彼女の瞳。狂人レイヴァーのような。何を彼女にやるギヴ・ハー? なにもないさ。それが救いだ。
「……あの人がさ、あたしにさ、何したと思う?」
「聞きたくないよ」
 彼女は黙って僕の手を触った。嫌な触り方だった。分かるだろうか?
 子供がしていい触り方じゃなかった。まず中指が手の甲に触れた。探針プローブのように。それから人差し指が手の方向を決めた。薬指と親指がそっと介助して、小指が大儀そうにやってきた。
 小さく手首がひねられて、僕の手が握りこまれた。独特の握り方。柔らかく握りこむ。ところどころ強くして。筋肉の蠢きが感ぜられる。
 嫌になっちまう。僕の手の中には何もないぜ。嫌なんだ。笛吹くんの声は安心できない。彼女が安心できなかったのは、僕の声だけじゃない。何も救わないのさ。それは。いくら巷の奴らが歌い上げたとしてもね。
「聞きたくないの?」
 僕はゆっくりと首を振った。そして「とっとと準備しろ」と呟いた。三白眼。ゆっくりと体を引き離した。甘い罠。違うことはわかっているさ。子供は助けを求める。どんな形の救いだとしても。罠じゃないことはわかっている。笹崎が嘘つきじゃないってことはわかっている。わかっていることと信じることの間には隔たりがある。大きな隔たりだ。世界中のすべての人々が埋めようとしている隔たりだ。僕もすべての人々のうちの一人にすぎない。
「……なんで?」
「チェックアウトが十時だからだ。時間がないんだ。僕は時間をかけるタイプでね」
 彼女は目を細めて、曖昧な表情を浮かべた。惚れている男なら恋慕だと思い込み、恨んでいる男なら軽蔑だと思い込む種類の笑顔だった。胃の底に、おがくずの塊が小さく固まって、こびりついているような気分になった。こんなタイプの笑顔が出来たからって何だよ。
 僕は書き物机に歩いて行って、昨日書いたメモをぐりぐりと塗りつぶした。手がひどく震えた。大きなため息を吐いた。
「ねえ、ごめん。でもマジもんの――」
「知ってるよ。てめえがいつでも本気で言ってんのなんて知ってんだよ」
 僕はそれだけ吐き捨てて、荷物のパッキングを始めた。彼女はそれを黙って見ている。彼女には替えの服がない。僕は考えた。

       

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